秋風に揺れるコスモス 高根沢で次々開花 栃木県高根沢町宝積寺の鬼怒グリーンパークで、五分咲きとなったコスモスの花が秋風に揺れ、訪れる人たちを楽しませている。/ コスモスは広さ約2.2ヘクタールの花畑にあり、今後、4種類120万本が順次開花していく。同パーク管理事務所は「10月下旬まで楽しめそうです」としている。/ 大田原市加治屋、主婦木村雅子(きむらまさこ)さん(55)は「すてきな場所で、毎年来て楽しんでいます。一眼レフカメラは使い始めて2回目です。うまく撮れるといいのですが」と話した。(下野新聞・2022/09/30)
(右上の写真は、コスモスを撮ろうとしたのか、あるいは女性を撮るつもりだったのか。どうもピントは女性にあっているようにも見えます。カメラマンは「女性がコスモス」、あるいは「コスモスは女性」と見えたんでしょうね)
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彼岸花(曼珠沙華)が今を盛りと咲き競っています。田んぼの畦道や農道の脇に、それこそ、まるで火炎(かえん)のような赤紅色の花があちらに数十本、こちらにも数十本といった具合に、あるいは邪(よこしま)は許さないぞ、というような激しさをうちに秘めて、秋色の景色にひときわ特異な印象を刻んでいる。彼岸花が好きかと問われれば、にわかには答えられません。好き嫌いを越えて、目に迫ってくるのですから。彼岸花は別名、「曼珠沙華 (まんじゅしゃげ) 。死人花 (しびとばな) 。捨て子花。石蒜 (せきさん) 。天蓋花 (てんがいばな) 。幽霊花。かみそりばな」(デジタル大辞泉)とも呼ばれています。この花については、すでにどこかで触れましたが、「まんじゅしゃけ」とも) (サンスクリット語のmañjūṣaka の音訳) 仏教語です。根に毒を含むというので、野ネズミやモグラを寄せつけないために「畦(あぜ)道」などに植えたと言われます。「死人花」などと称されるのも、この「毒性」と無関係ではないでしょう。お棺に添える花としても知られていますので、なにか「彼岸(あの世)」と深く因縁のある花として、ぼくにも強烈な印象があります。
それと肩を並べるという風情・情緒は微塵もないのが、同じ季節を彩っているコスモス(和名は秋桜・あきざくら)です。秋桜(コスモス)はいいですね。でも、何千何万と咲き誇るのを見るのは、余り好きではありません。なんでもそうで、これでもかというように、どんなに美しいものでもたくさん並べられると、ぼくは辟易としてしまう。いかにも食傷の気味がしてきます。野道を歩いていて、遠くからかすかに、背の高い茎・幹と花が見えてくる、その瞬間がいい。よく歩く道は「彼岸花」一色ですから、その脇に秋桜は居つかないのでしょう、並んで咲いているのを見たことがありません。また付近の散歩道にも秋桜畑なるものが見当たらない。車を走らせて二十キロも行けば、それなりの群生秋桜(コスモス)が見られます。広大な敷地一面に花は満開ですが、そんな景色は、どちらかというと苦手で、ほとんど興味がない。逃げ出したくなる。遠くから眺めるのがせいぜいです。思いがけず、行き当たりに数本が所々に咲いているというのが、ぼくには好ましく見えるのです。例えば、「コスモスはどこにありても風少し」(細見綾子)という雰囲気ですね。
● 曼珠沙華= (「まんじゅしゃけ」とも) (mañjūṣaka の音訳) 仏語。赤色(一説に、白色)で柔らかな天界の花。これを見るものはおのずからにして悪業を離れるという。四華の一つ、紅蓮華にあたる。日本では、彼岸花(ひがんばな)をさす。《季・秋》 (精選版日本国語大辞典)
● し‐け【四華/四▽花】1仏の説法などの際、瑞兆として天から降るという4種の蓮の花。白蓮華・大白蓮華・紅蓮華・大紅蓮華の称。四種の花。2葬送で、棺の四方に立てる白色の蓮華。また、その造花。(デジタル大辞泉)
● コスモス:こんな植物です=コスモスの仲間はメキシコを中心に約20の野生種が知られています。その中でもコスモス・ビピンナツス〔Cosmos bipinnatus〕とその園芸品種を指して「コスモス」と呼ぶのが一般的です(以下、本種をコスモスと呼びます)。/ コスモスは春~初夏にタネをまいて夏~秋に花を楽しむ春まき一年草として扱います。野生種はメキシコの高原が故郷、夜が長くなると花芽を作る「短日植物」で秋以降に花を咲かせます。和名のアキザクラが示すとおりです。/ 園芸品種には一定の気温があれば日長に関係なく開花する早咲き系があります。早咲き系は春早めにまくと初夏には開花します。また、早咲き系に対して従来通り秋に咲く系統を遅咲き系と呼ぶこともあります。ちなみに、主力で広く普及しているのは早咲き系の品種です。 /野生種は草丈2~3mになりますが、園芸品種は矮性種で40cm、高性種で1.5mほどです。葉は細かく枝分かれして羽状になります。花径は大輪種で10cmを超します。色は白、ピンク、赤、黄色などがあります。白地に紅色の縁取りが入るピコティ咲きなど可愛らしいものもあります。一重のほか、花びらの付け根に小さな花びらが付くコラレット咲きや花びらが筒状になるユニークな品種もあります。
▼名前の由来=コスモスは英語で「宇宙」の意味ですが、植物でいうコスモスはギリシア語の「kosmos」に由来し「美しい」という意味です。美しい花の姿に由来します。種小名のビピンナツスは「2回羽状の」の意で羽状の細かい葉姿にちなみます。 ▼来歴=ヨーロッパへは17世紀末~18世紀初頭にスペイン人神父によりもたらされました。日本へは江戸時代末、文久年間に伝わりました。広く普及したきっかけは明治前期、イタリアから東京の美術学校に赴任してきたラグーザによって持ち込まれたタネによると言われています。(「ヤサシイエンゲイ」:http://www.yasashi.info/ko_00002.htm)
草花に思いを寄せるのは、現実逃避とも見られそうですが、そうではありません。時に草花に肩入れするのは、一種の精神の体操、あるいは深呼吸ですね。こんな不便な山中にいても、そこは浮世、ここも浮世、それと縁切りはできないのです。世間で問題になった事件、世界の騒動の種などは、否応なしに拙宅にも飛び込んできます。若い頃は、人並みに「政治行動」といえばいいのか、デモにもでかけたし、アジ演説もした。たったひとりで新宿あたりをプラカードを持って歩いたこともある。気休めだったかもしれないが、これもまた、ぼくの深呼吸の方法でもあったのです。この二十年近く、驚くべき頽廃や堕落が政治・経済を筆頭に、あらゆる分野で生じています。これはこの島だけの現象ではなく、洋の東西を問わず、大きな「海練(うねり)」のなかにぼくたちも取り込まれているのでしょう。しかし、この社会の独自の「悪性宿痾」が隠し仰せなくなった部分も小さくないのです。

しばしば、「戦前に似てきた」「昭和初期の、嫌な時勢にそっくりだ」と、ぼくたちの先輩たちは、いまから三十年ほど前に言っていました。ぼくはまだ、四十代だったから、「なにを旧くさい経験を持ち出して」などと批判の目を向けていたと思う。しかし、戦争体験のないぼくのような世代でも、この二十年ほどの政治状況を見ていると、あるいはとんでもない方向をたどっているという実感を強くしてきました。隣国である韓国、北朝鮮、あるいは中国に、無理矢理に敵対せんばかりの虚勢が、いつのまにか「軍事大国」張りの防衛費を獲得するまでになっているのです。数年内に十兆円という。それだけの軍事費をどうするのか、まず第一にはアメリカの時代遅れ[(旧式)の武器を購入する、それも「言い値」で。第二に、自衛のための防衛力ではなく、敵基地を攻撃するための攻撃力をつけるために、と言うのです。「敵はどこ?」、と問えば、きっと中国や北朝鮮だというのでしょう。いま盛んに「台湾有事」をやかましく言い、必ずこの社会も戦争に巻き込まれるというのでしょう。アメリカが中国に挑む、ならば「集団的自衛権」だと、まるで夢にも及ばぬ、荒唐無稽です。白昼夢を見ていたんですね、権力者集団は。いやもっと明確にうと、防衛力や軍事力の増強を主張している連中には「仮想敵」も「現実敵」もいないのです。要するに、己たちの陣地を強化拡大知るための「図上演習」を噛ましているだけのことでしょう、ぼくにはそう見える。
「歴史を学ぶ」というのは受験のためではないんですよ。歴史を学ばないものは、「過去という鏡」を持たないから、とんでもない間違いをする。過去に犯した間違いが記憶されていないから、いつだって初陣(初体験)のつもりでしょう。この十年は、特のこの印象が強くなるばかりでした。「無恥と無知」という二枚看板が、世間を席捲したんですから。怖いもの知らず、それも束の間、ご本人は誰よりも早く「彼岸」に逝かれた。
韓国はけしからん、中国を制裁しなければ、北朝鮮は生意気だと、どの口をもって言えるのでしょうか。その「世界知らず」(「世間知らず」にあらず)ぶりに遭遇して、こんな辺鄙な山中にいて、一人「切歯扼腕」、悔しさに思わず「歯ぎしり」をし「腕を強く押さえる」ほどに怒りがこみ上げてきます。(ぼくは「義歯」ですけれども、歯ぎしりはできます)「統一教会」というカルト集団は、政権中枢にはいりこみ、まるで吸血鬼のごとくに権力中枢の血液を吸い付けてきたのが、戦後のある時期からこれまでの数十年でした。今回の銃撃事件で、ようやくその「闇」に光が入り込んだということでした。
カルト集団との癒着(関係)を一切断つと、表向きは言いふらしていますが、それはまず不可能でしょう。あまりにも深く「絆(腐れ縁)」が結ばれているからです。まるで「血縁関係」を断つほどの、ありえない話です。もしそれが実現されたら、権力政党は瓦解するかもしれない、それほどの危機でした。しかし、その危機状況認識はほとんど真面目に受け取られてはおらず、「虚言」を繰り返して当座を凌げば、「すべて良し」とする風潮さえあります。一政権党が壊れるだけならまだしも、この社会の脆弱なところは、「寄らば大樹の陰」、「親方日の丸」という古色蒼然とした体質の表現は、「大樹」も「親方」も元気であればこそですが、今はむしろ驚くばかりにひ弱なもので、「D group」(広告会社を名乗る)「NTV group」(新聞テレビ会社を名乗る)に頼り切っている(支配されている)のが実情です。汚染された五輪、コロナ禍の悪質な「中抜き」泥棒・詐欺行為も、すべては、このような官と合体した「民間」が主導しています。つまらない話ですが、「国葬儀」を万端取り仕切ったのは「NTV」の子会社です。詳しくは言いたくない(虫唾が走っています)ので、このくらいにしておきます。
政権党のある議員が故元総理を「国賊」といった。ために当該党は「除名だ」「処分だ」と騒ぎ出しています。どうしてか、「図星だったから」です。よく「火(屁)の元、騒ぐ」といいます。すでに議員を辞めた「元法務大臣」「元副総理」は統一教会の顧問弁護士をしていました。現副総理(前財務大臣)は「教団」とは長い付き合いをしています。あるいは前総理(国葬で「弔辞」を読んだ)も、深い交際のある方ですよ。だから、個々の議員のあれこれの問題などではなく、党全体がひょっとして、エキスを吸収されていたと言ってもいいのでしょう。巣食われていたのです。「党は無関係」と早い段階で幹事長が叫んでいたのが印象的です。本体が侵されていた。
この「教会」には、既成の「新宗教」(創価学会や生長の家、あるいは立正佼成会などを経た(除名や退会した)多くの信者がいましたから、「政治と宗教」などという問題はお手の物でした。いずれ書く機会があるかもしれませんが、そのような宗教猛者(もさ)たちにとって、一票欲しさに狂っている政治家など「赤子の手をひねる」ほどの容易さで「篭絡」できたのです。それが恐らくもう半世紀も続いていたと言ってもいいでしょう。この国は、落ちるところまで落ちているのです。その破滅的状況は、致命的と言うべきなのかもしれません。
と、ここまで駄文を綴ってきて、深呼吸の必要を感じたという次第。それがコスモスであり、彼岸花だったのです。現役俳人の中でもぼくが好む鷹羽さんの一句。それに木村享史(きょうし)さんの一句も。
・情なき世となりぬ秋ざくら(鷹羽狩行) ・透きとほる日ざしの中の秋ざくら(木村享史)
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(タイトルの俳句について)
《 秋桜好きと書かないラブレター 小枝恵美子 パッと読むと、「なあんだ」という句。よくある少女の感傷を詠んだにすぎない。でも、パッパッパッと三度ほど読むと、なかなかにしぶとい句だとわかる。キーは「秋桜」。つまり、コスモスをわざわざ「秋桜」と言い換えているわけで、この言い換えが「好きと書かない」につながっている。婉曲に婉曲にと、秘術(?!)をつくしている少女の知恵が、コスモスと書かずに「秋桜」としたところに反映されている。ラブレターは、自己美化のメディアだ。とにかく、自分を立派に見せなければならない。それも、できるかぎり婉曲にだ。さりげなく、だ。そのためには、なるべく難しそうな言葉を選んで「さりげない」ふうに書く。「秋桜」も、その一つ。で、後年、その浅知恵に赤面することになる。掲句で、実は作者が赤面していることに、賢明なる読者は既にお気づきだろう。以下は、コスモスの異名「秋桜」についての柴田宵曲の意見(『俳諧博物誌』岩波文庫)。「シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。(中略)如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。(中略)秋桜の名が広く行われないのは、畢竟コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない」。さんざんである。同感である。》『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)(「増殖する俳句歳時記))*秋桜=あきざくら 「コスモス」の異称として使われていますが、それほど周知されているとは思われません。(注記 山埜)
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