すべては疑いから始まる

 <教える>と<育てる>についていろいろなことがいわれ、かつ考えられています。ぼくもあれこれと思案投げ首でした。簡単にいうと、学校というところは「教える」(生徒にとっては「教えられる」ですが)一方の場所ですね。だれが教えて、だれが教えられるかは自明、だと信じられている。その教える一方の場所(教室)において、きわめて異様な事態が生じていることに気づいているひとは大変少ないようです。教える、教えられるという関係だけ(ではないけど)でなりたつ教育という機能が一人ひとりの個人の成長の危機をもたらしているということ、そのことに気づかないことこそ、今日の「教育の危機」のポイントじゃないですか。

 上のような危機感をぼくが感じたのはすでに二十年も前のことだったと思う。だから、今時の子どもたちの大半はその「危機こそが日常だ」という状況下で学校生活を送っていることになる。「戦時」こそが日々是好日なんて狂気の沙汰です。不思議を不思議と感じない。奇妙を奇妙と自覚できないままにです。その危機がいかなる姿や形をとって顕現するかは人それぞれであり、ケース・バイ・ケースで、じつに個性的です。今では懐かしくさえある「ニート」であったり、いまなお社会の問題となり続けている「引きこもり」であったり、あるいは心身状態の不全であったり。年齢もまちまちで、早い人は10歳未満で、遅い人は30歳を越えてから。この現実に今昔の感なし。

 要するに、教えられつづける(受身)ということは、かぎりなく考えること(能動)をしなくなるという意味です。考えることができないということでもあります。人間からとても大事な機能を奪い去る愚行だとぼくは唱え続けてきました。これはホントににつらいことです。どうしていいのかわからないのですから。判断する力が育っていないからです。教えられたから「正しい」のであり、習ったから「常識」なのだという具合に、人生の大事のことごとくが学校でやり取りされる「情報」に依存してしまったのです。なぜ人のものを盗ってはいけないの(?)お母さんや先生にに教えられたから」というのは正解じゃろうか。

 学校は教えるところだと、ほとんどの人は信じて疑いません。子どもはもちろん親だって。教師でもそう信じ込んでいるんじゃないですか。実際にそのとおりで、学校は教えられるために通う、教えるために通う場所になっている。なにごとかについて自分勝手に得心したり、疑ったりすることは禁物だというわけです。教えられるのだから、その心は素直がいちばん、それがとうぜんのこととして被教育者に要求されます。教師の授けるあれこれを疑うことは断じて許されない(ホントはそうじゃないのだが)。教師が教える内容は、だれが決めたんですか。せんせいですか(?)

 でも教えられるばかりだと、いったいどんなことになってしまうか。あまり自覚しないことでしょうが、たいへんな弊害が生みだされるんですね。「教えてください先生」「これはなんというんですか(?」」こういう具合に質問されると、先生ならずとも、いい子だ、感心な子だとばかり、ていねいに教えてあげることになります。「優等生」の萌芽ですな。ぼくは学校や教師嫌いだったから、「教えてくれ」などといったことはまずない。みんな我流、自己流でした。今に至るまでそれは変わらない。その良し悪しは言いませんよ。「教えない」教師は非難されるし、山のように宿題を出す教師は(尊敬されるかどうかは疑問ですが)、親たちからは歓迎されるでしょう。まるで親たちの教師のようです。「教える」ことで、何が行われるのですか。何が行われないのかな。

 教えるに対して「育てる」あるいは「育つ」というはたらき。学校という場所、あるいは教師にとって、この「育てる」「育つ」という側面はは苦手中の苦手、そもそも学校は「育てる」ために作られたのではないのですから。あまりにも時間がかかりすぎるし、個人差がありすぎるから。「誰もがわかる授業」の効率は能率の悪いこと、どなたのご存じでしょう。まるで速さを争う競技だね、教育は。早食いや大食いがどれだけ醜悪か、ぼくには見るに堪えない。教室は「早食い(早おぼえ)」競技の会場ですか。

 キュウリやトマトの苗を植え、さてその苗に対して、ああしろこうしろと「教える」ことはまったく無意味、おのずから伸びるのを邪魔しないで「育てる」ことしか、人間にはできない。だって、子どもはキュウリやトマトじゃないんですよという声が聞こえてきますが、はたしてキュウリやトマト以下なんですか、以上なんですか。いいや、キュウリ、トマトなんだよと、口には出さないがそう思っている人はたくさんいる。野菜でも果物でも、形や大きさ、重量によって選別され等級をつけられるSとMとかのレッテルを張られます。1等級だの3等級だの。変なの、それって。

 また、かなり前から促成栽培だの抑制栽培だのが行われてきました。学校も全く同じシステムを採用しているんじゃないですか。特進クラス、普通コース、あかんたれ組などというクラス分けは今も昔も変わらない。ぼくはつねに「あかんたれ組」でした。実に気楽でしたな。競争相手はいないし、宿題も出なかったように思う。もちろん、序列化もなければ、そのためのテストもなかった。だからいまなおぼくは「あかんたれ」から抜け出せていない。学校はあらゆる意味で怖い場所だ。行かなきゃよかったとつくづく思うけど、学校によってダメ人間されてたまるかという気持ちが育ったんだから、以ってよしとするのかな。

 こんな埒のない問題をあれこれ考え続けて数十年。今だに答えなんて出ない。でもそれがぼくの哲学(というほどのもんじゃないが)です。求め続ける行為・意識・過程こそが哲学なんだな。自問自答を中断しない姿勢。多くの学校の価値観とは正反対だね。

 「私の組の生徒」

   一、劣生がいない

 私は劣生がいない教室、劣生などいなくなるような教育、ということをいつも念願しているものであり、また事実劣生などというものはいないものであり、またいなくなるものであるということを信じているものであるが、そういう私の考え方の基調をなすものは「知能優秀者のみがけっして人間価値の大なるものではない」ということである。問題は子どもの生活に対する態度にあるのであって、現在の生活対象、生活環境に対して、いかに真剣にして誠実なる努力をなしつつあるかどうかによって、人間の価値は測定され決定されなければならない。(略)

   二、競争を認めない

 よく私が競争を認めないというと、大反対する人がいる。それでは進歩がなくなるという。子どもが怠けてしまうという。けれどもそれはまちがいではないかと私は思う。競争させなければ進歩がないような子ども、怠けてしまう子どもをつくること、そのことがまちがっているのではないかと私は思っている。そういう、競争を利用し競争によってのみ効果をあげようとする教育は、他人をおしのけ自分だけ偉くなろう、成績をよくしようとする、きわめて利己的な、功名心とか敵愾心とか競争心とかのみを持った子供をつくってしまう教育である。そしてその半面には、自己の力をあきらめ、いじけてしまうようなこどもを大ぜいつくる教育である。(略)

   三、自己完成

 私は朝の会礼などのとき、「右へならえ」などと号令をかけたこともないし、またかけようとしたこともない。けれども長い間には、子どもはいつの間にかけっこうよく並ぶようになる。それは、私は「前へならえ」と号令をかけるかわりに、それ以上の努力をつくして、教室のなかで、また他人の見ないところで、学級全体の子どもの自己完成力、すなわち子どもの心を育てているからである。子どもが自分の心でほんとうに前へならおう、自分たち全体の心でほんとうによく整頓しよう、とする心を育てきたえるからである。ささやかであってもその努力は、いつかはだんだん現れて、号令をかけられなくも、いつでもどこでも、並ぶべきときに自分たちの手でしっかり並ぶ、という子どもになってくるのである。(略)

   四、心を育てる

 私は、子どもの心をしっかりと育てれば、自然と子どもの行動はよくなる、指導者が真剣に専心に念々子どもの心に着目し、すぐれた人生観とかゆたかな情操とか、また正しい判断力とか意志力とかいうものを、力強く子どもの心のなかに植えつけてやれば、末梢的な子どもの行動を口うるさく訓練しなくとも、子どもの行動は、子ども自身の意志で自然と訂正され、りっぱになっていくものである、ということを深く信じているものであり、この心の育て方、心の訓練の仕方こそ、われわれ教育者が最も苦心すべき指導技術であり、教育技術でなければならないと考えているものである。(略)(斉藤喜博『教室愛』昭和十六年)

 「四つの誓い」なんて、ちあきなおみさんのようですね。彼女の「矢切の渡し」は素晴らしい。「歌は経験だ」という見本じゃないですか。ある男性歌手(お地蔵さんのような風貌)がどうしてこれを歌ったのかよくわからないほどに、なおみさんの歌唱力をふくめた歌う条件は十分に過ぎるとぼくはいつも聴きながら涙が出ます。ぼくはこれを耳にしたとき、矢切はしっていましたが、「わたし」は「私」だと思いこんでいました。それで意味がよく通じなかったので、石本美由起(作詞)さんともあろう詩人がと訝りました。作曲は船村徹さん。「サブちゃん」の兄貴分。お二人とも亡くなられた。ここでyou tube なら歌うところですが、羽目は外さない。悪しからず、です。

 この『教室愛』は斎藤さんが三十歳の時に出版されました。彼は昭和五(一九三〇)年に十九歳で教師になりました。まさしく「戦時」体制のさなかでした。そのような時代に、群馬の片田舎、利根川べりの小さな小学校で戦い抜こうと苦闘していた人がいたのです。「四つの誓」ともいうべき不可能事を彼は終生にわたって実現しようとしたんですね。教育というものがもっとも危険にさらされる時代にありながら、斉藤喜博にとっては身命を賭してもあまりある仕事であったとうことになります。今日から見れば、まるで奇跡だと思われます。教育というものの力が信じられていた時代でもあったんです。そこに身命を賭した(大袈裟ではなく)教師がいたというのです。信られない話(「騙り)ではない)。余話ですが、斎藤さんは「アララギ」の土屋文明さんに私事。たくさんの闘いの短歌(科の場合は啖呵かな)を残されています。いずれは紹介を。

 ぼくは斎藤さんからも計り知れない恩義というか教えをうけた。じつに「薫陶」をうけたというのがふさわしいと今でも考えています。もちろん、批判精神は失わないで、でした。どんな人にも欠点や弱点はあるのがあたりまえじゃん。いまでは、こんな教師は「絶滅」しました。どこをどう探しても発見不能になったと思います。

 教育をいかに見るかは人それぞれですけど、反吐をはきたくなるほどに学校教育は堕落し退廃しているからこそ、という一種の変革への祈願というものもわたしにはあります、いやありました。(何事においても、「すべて然り」ということはあり得ない。現状を安易に受け入れないで精進されているたくさんの教師たちの存在を否定はしない)教育を考え教職というものの価値や望ましい姿を自ら(教師になっている人、教師になろうとしている人、あるいは親を含めて、現今の学校教育に関心を持つ人、もとろんここには子どもも入る)のうちに作り上げようとして、自ら意欲し、自らを高めようとしなければ、教育はいつまでたっても試験や成績や受験などといった情けない袋小路に閉じこめられているにちがいないんですね。哲学(覚悟)の問題としても「優劣の彼方」をめざすことからはじめたいぜよ。

 美しい魂は悪い子供が… 

 「私は放校されたり、落第したり、中学を卒業したのは二十の年であつた。十八のとき父が死んで、残されたのは借金だけといふことが分かつて、私達は長屋へ住むやうになつた。お前みたいな学業嫌ひな奴が大学などへ入学しても仕方なからう、といふ周囲の説で、尤も別に大学へ入学するなといふ命令ではなかつたけれども、尤もな話であるから、私は働くことにした。小学校の代用教員になつたのである」

 坂口安吾(1906-1955)が1947年に書いた「風と光と二十の私」の書き出しの一部です。「代用教員」とは免許状をもたない無資格教員のことで、身分も期間も不安定な臨時雇いの教師でした。以下は一端(いっぱし)の不良少年が小学教師になる図です。代用教員にはなかなかの人材がいました。石川啄木などは代表格でした。(このテーマについても稿を改めて書きたいね)

 「私は生来放縦で、人の命令に服すといふことが性格的にできない。私は幼稚園の時からサボることを覚えたもので、中学の頃は出席日数の半分はサボつた。教科書などは学校の机の中へ入れたまゝ手ぶらで通学して休んでいたので…田舎の中学を追ひだされて、東京の不良少年の集まる中学へ入学して、そこでも私が欠席の筆頭であつたが…」などと「望ましい中学生」像からは大きく逸脱していた。「凡そ学校の規律に服すことのできない不良少年が小学校の代用教員になるといふのは変な話だが、然し、少年多感の頃は又それなりに夢と抱負はあつて、第一、そのころの方が今の私よりも大人であつた。私は今では世間並みの挨拶すらろくにできない人間になつたが、その頃は節度もあり、たしなみもあり、父兄などともつたいぶつて教育家然としてゐたものだ」

 彼の人間観察はたしかなもので、それは「堕落論」や「白痴」、さらには「日本文化私観」などでつとに証明されています。

 「本当に可愛いゝ子供は悪い子の中にゐる。子供はみんな可愛いゝものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもってゐるので、あたゝかい思ひや郷愁を持つてゐる。かういふ子供に無理に頭の痛くなる勉強を強ひることはないので、その温かい心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるやうな性格を育てゝやる方がいゝ。私はさういふ主義で、彼らが仮名を書けないことは意にしなかつた」

 「小学校の先生には道徳観の奇怪な顛倒がある。つまり教育者といふものは人の師たるもので人の批難を受けないやう自戒の生活をしてゐるが、世間一般の人間はさうではなく、したい放題の悪行に耽つてゐるときめてしまつて、だから俺達だつてこれぐらゐはよからうと悪いことをやる。…俺のやるのは大したことではないと思ひこんでゐるのだが、実は世間の人にはとてもやれないやうな悪どい事をやるのである」(いまではこんな教師像が通用するのかどうか、時代は頓に悪化するといったら非難されるかな)

 「自主的に思ひ又行ふのでなく他を顧みて思ひ行ふことがすでにいけないのだが、他を顧みるのが妄想的なので、なほひどい。先生達が人間世界を悪く汚く解釈妄想しすぎてゐたので、私は驚いたものであつた」(この指摘は当たっていると思う。教師の典型が抱く人間論世界観ですね)

 今に変わらぬ「教師像」が活写されているようです。教師は聖職者だということがそもそもインチキであって、そんなきれい事でつとまる仕事ではないというところから出発しなければ、たちまちのうちに息が詰まって倒れることは請け合います。文科省はけっして推薦しないでしょうが、安吾のような偽らない教師がいてもかまわないというより、いてくれなくては困るとぼくは思う。子どもたちがみる大人が型通りの教師だけというのは、けっして褒められたことじゃありません。ここでは触れないが、生徒との交わりですこしばかり真似のできないような経験を安吾先生が書いています。ぜひとも「風と光と…」を読んでください。

 以下は、安吾の一側面です。「私はその頃太陽といふものに生命を感じてゐた」「雨の日は雨の一粒々々の中にも、嵐の日は狂ひ叫ぶその音の中にも私はなつかしい命をみつめることができた」「私と自然との間から次第に距離が失はれ、私の感官は自然の感触とその生命によつて充たされてゐる」(彼は東洋大学のインド哲学科かを出ていたと記憶しています)

 「教師然」とするとはどのようなことでしょうね。手本・模範・師範・見本その他。いずれも息をしていないような、つまるところ「生命力」にかけたような雰囲気が想像されます。「四角四面は豆腐屋の…」みたいな堅苦しい上に、なんか情味にかけるような印象があります。わざわざそんな「像」に自分を当てはめる必要なんかないんじゃありませんか。いうまでもありませんが、現実の教師たちには多彩な表情や個性を有している「典型」がおられるのをぼくは疑わないのです。そのうえでなお言いたい。不良教師よ、出でよ。そんな呼びかけをしたいのですが、採用試験には馴染まないよね。でも、優良佳作ばかりじゃ、優等生に向かない子どもたちが困るでしょ。(「教師よ、堕ちろ!」)

 「育つ」と「育てられる」

 ギリシャの哲学者だったプラトン(BC427-BC347)が書いた対話編のなかに『メノン』と題された一編があり、そのはじめの部分に奇妙な話がでています。それを材料に「ものを学ぶ」というのはどのようなことかを考えたい。メノンは貴族階級に属しており、ソクラテス(BC470-BC399)の友人。彼の家にはたくさんの「召使い」がいた。そのうちの一人(10歳くらい)を呼び、ソクラテスは次のような問題を出した。ギリシャ語はできるが、一度も学校にいったことのない子どもだった。わざとそんな子どもを選んだのです。「一辺の長さが2プウス(センチ)の正方形があるとしよう。その2倍の面積をもつ正方形はどのようにして作ることができるか」

 その子はいとも簡単に「それはこうだ」と即答した。しかし、彼の答えはまちがっていた。考え直してふたたび答えたが、それもまちがいだと指摘されました。その結果、彼は途方に暮れてしまったのです。ソクラテスはまったく「教えないで」「質問する」ばかりでした。ひたすら子どもはその問に答えるよう求められ、ついに「どうにも答えられない」というところに追いつめられたのです。はじめは知っていたつもりだったが、問いつめられて、わけがわからなくなったのです。

 今度は紀元前の古い人ではなく、現代の音楽家の話を紹介しましょう。カナダ生まれのピアニストの経験談です。「若者はいかにして音楽に対する個性的なアプローチを身につけることができるか、それは教えられるものなのか」と質問されて、ピアニストは答えました。

《わかりません。本当にわからない。…自分にできるのはただ、誰かにテープ係になってもらって学生の演奏を録音し、それを聴き直させて、こういうのです。「オーケー、満足かい?自分の演奏の速度、全体の感じやなんかはうまくいったと思う?」…でも本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られるのだろうと思います。ですから教師にできる最良のことは、それをそっとしておいてやることでしょう。ただいくつかの質問を投げかけて、自分の演奏には疑問の余地があるのだということ、そしてその解答は自分で見つけねばならないということを自覚させるのです》《教師にできるのは質問することなのです。…教師が自分のものと言える唯一の役割はまさにこれなのです。教える立場というのはそれ以上のものではありません》(グレン・グールド)(1932-82)

(ぼくは心底、グールドに惹きつけられたし、今でもそうです。倦(う)まず弛(たゆ)まず半世紀に及んで聴き続けています。彼の演奏は類例を見ない独自のものでした。バッハがこんな風に弾かれるんだという驚愕、あるいは戦慄を多くの音楽関係者や愛好家が経験したはずです。ぼくは二十歳過ぎたころ、彼のいくつかのバッハ演奏を聴いて素人なりに驚かされた。平均律やパルティータ、あるいはイギリス組曲、フランス組曲などなど、次々に発売されるレコードを心待ちにして聴きしびれたものでした。レコード一枚が2000円の時代です。いわゆる「クラシック」にほとんど関心を持っていなかったぼくは、グールドに巡り合って以来、他の何よりも音学好きになったといえます。ここは演奏論や音楽論を述べる場ではないので、駄弁はやめますが、彼が死して約四十年。彼ほどに音楽を面白く楽しく、そして興味をもたせて愛好家をひきつけた音楽家は出なかったとぼくは言ってみたい。その彼の教育論(?)ですから、見逃すわけにはいきません。さらに機会を設けて論じてみたいと考えています)

 話を戻します。ソクラテスは「教えないで、質問する」だけだった。グールドは「教師の最良の仕事は質問することだ」といいました。どんな人でも「自分にとって」いちばんの教師は自分自身です。だから、「自問・自答」なんです。自問と自答のくりかえしから、ぼくたちは考える力を伸ばし、また問う力をそだてられるのです。問いを作り答えを見つける、それが考える働きが本来的に行うことです。誰かに聞かれて(問われて)、自分が答えるというのは、自問の練習台です。

 いつも「自問し、自答する」ことが「自分をそだてる」には欠かせない態度だといえないかと思う。「そだつ」ためには「そだてる」がなければならない。だれかに質問されて(自分で自分に質問し)、それによって自分のなかのなにかが「そだつ」、それは「そだてられる」ともいえるでしょう。教える側からではなく、「そだてる」側から教育問題をとらえたい。「教育」の核心部はそこに存すると考えるからです。訓練や調教なら、外からの力によって無理にでも相手を習慣づける。この二つの働きはまったく似て非なものです。

 言い方を変えれば、だれかに「教えられる」というのは、その人から何かを「与えられる」ことでもあるでしょ。じゃあ、与えられるばかりだと、いったいどんなことが起こるのか、という問題ですね。与えられるのが当然と思われてきます。「くれなきゃいやだ」「もっといいものをください」与えられることに文句を言うようになります。学校教育でよく見る光景ではありませんか。「教えられる」に文句を言う。

 次はグールドよりも一世代前に活躍した音楽家の教育論です。もう一人の音楽家、ナタン・ミルシュタイン(ヴァイオリニスト)(1903-92)の例を出します。

《先生っていうのは、そんなに役に立たないと思うな。今の若い人は、先生のところへ行けば何かを教えてもらえる、などと考えている。違うんだよ!誰も教えることなんてできないんだ。教わろうったって無理なんだ。先生はたしかに上手に弾けるだろう。しかし、それは彼自身の方法で上手に弾けるんだ。それをいくらそっくり真似たって、同じ音など出せっこないよ》

《だから私は、こう思うんだ。教師の役目とは、生徒の心を開いて、生徒自身が進歩していくことを助けることだと。その意味で先生は、教えてあげることなんて出来ないとハッキリ告げるべきだと思うね。生徒は、自分の力でやり遂げなくちゃならないんです》(ミルシュタイン)

 ものを学ぶというのは自分をそだてるということです。そだてるためには、そだてられなければならない。これは教育の根っこの問題です。だれかによって「そだてられる」というのではなく、自分で自分を「そだてる」です。それは次のような意味ではないですか。大切なものを自分で「発見する」、自分の足りないところをみずからが「気づく」、そこに「そだつ」「そだてる」ということの秘密がありそうですね。

 別の言葉でいえば、どこかしらで「達成感」というものが自覚されるということですね。「自分はまだ足りない」っていう自覚、「自分にはこの部分が欠けてるな」という感覚です。おそらく、達成感というのは「欠けている」「足りない」という感覚の裏側にひそんでいる。不足感から達成感から、そこから充足感へ、この王道をゆっくりと歩きたいね。

 グールドはいつでも自身が自分の教師だった。「オーケー、満足かい?」といつも自問していた。教育について強い関心をいだいていたといわれるグールドの「教えの方法」、言いかえれば「学びの方法」は、おおいにわたしたちに刺激を与えてくれる。かれは教師になる希望を実現しないうちに亡くなった。かれはカナダトロントだったかの出身、もしウィーンだったらかれは存在できなかったと思われます。音楽にかぎらず、すべからく伝統」というものはこわいですね。

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね」(鶴見俊輔)

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保する」というのは、別の表現を使えば「わたしは自由である」ということじゃないですか。疑うというのは「ぼくは自由である」という意味です。疑う自由、あるいは自由に疑う。与えられたものを鵜呑みにするのではなく、それを疑ってみる。自分の頭で疑って見る。それをしなければ、自分がないというようなものです。自分が認めているものまで(ものこそ)疑う。それが「自由」ということ。考える、疑う、あるいは迷う、それが「ぼくは考える」ということの表れではないですか。

 与えられたものを飲み下す、丸飲みする。まるで鵜飼の鵜です。「これしかない」としがみつく、そのとたんに、ぼくたちは(考える)自由を失ってしまう。そこで止まってしまう。つまり、固まる。「これこそが正しい」と思いこんじゃう。そこで思考停止。自由の消失、放棄です。それはどこにもある罠だし、それにひっかかる人は後をたたない。下手な考え休むに似たり、それもまずい。自問するのはやさしいことじゃありません。でも自問する、自答する。あくなき挑戦だな。

 自分が信じているものさえも疑う。いや、信じているものほどはげしく疑うことができる。「それ(疑う権利)を手放してしまったら、人間はそこからつぶれていく」というのは、「そだつ」「そだてる」ことをやめてしまうという意味です。安易に受け入れることで、その先を考えようとしなくなるからです。自分にとって(自分が)「信じているもの」ってなんですか。

 「本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られる」「誰も教えることなんてできないんだ」という言葉をもう一度思い出してください。自分で「気づく」ということは、ホントに大事です。自覚症状がなければ、どんな名医でも、いかなる診断も下すことはできない。(「そんな弾き方じゃダメだ」といわない音楽教師はいい教師)

 子どもはトランクではない

 教育における自由と訓練との対立は、その用語の意味するところを分析して感ずるような深いものではありません。生徒の心は成長しつつある有機体です。けっしてなじみのない観念を無慈悲にも詰めこまれるような箱ではないのですし、順序正しい知識の修得は、発達する知性にとっては自然な栄養源なのです。従って訓練は、自由な選択からごく自然になされるものでなければなりませんし、自由によって訓練の結果豊富な可能性をうるようになるのが、理想的な教育目標だといえるはずなのです。この二つの原理、自由と訓練とは対立概念ではなしに形成されつつある個性の特性として、あちこちに揺れる自然な心と呼応するように、子供の生活の中に適応され調整されていかなければならないのです。このような発達過程がもつ自然な揺れに自由と訓練とをうまく合致させていくことが、わたくしが別の所で述べた「教育のリズム」の意味なのです。(ホワイトヘッド『教育論』久保田信之訳、法政大学出版局、1972年」)

(*Alfred North Whitehead (1861-1947) イギリスの数学者・哲学者。記号論理学の完成者。また、実在論的な基礎の上に、有機体の哲学と呼ばれる独自の形而上学を展開した。著「科学と近代世界」「過程と実在」など。また、ラッセルとの共著に「数学原理」がある)(大辞林)

 閑話休題としましょうか。「閑話」と少しも変わりがなさそうですね。

 他の人とは少しばかり趣(毛色)がことなるかもしれませんが、とても興味のある「教育原理」「教育哲学」を展開している人としてぼくはホワイトヘッドを読んできました。今から見ても(読んでも)古くなっていないどころか、今こそもっとまじめに受け取られてもいい思想であり、教育論だと思うのです。ぼくが読んだのは『過程と実在』ほかいくつか。ぼくにはとても難解でした。

 「自由と訓練」とはいかにも英国風ですが、彼の語るところに耳を傾けてみましょう。古代の諸学派では哲学者たちは「英知」(Wisdom)を授けることに情熱をもっていたが、現代の大学教育(ですらそうなっているのだから、それ以下の諸学校の状況は言うまでもなさそうです)では教科目を教えるだけという卑しい目的に転落・堕落してしまったといいます。(彼はケンブリッジ大学やハーバード大学をはじめいくつかの大学で教壇にたった)

 「わたくしが力説したいことは、知識はたしかに、教育の主要目的ですが、もう一つの、これは莫然としていますが知識より偉大なるもので、その重要性において他に匹敵するものがないほどの、もう一つの要素があるのだということです。古代人はこれを英知とよんできました。知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」(同上)

 英知とはなにか。彼に言わせれば、それは知識をコントロール(応用)し、いい結果をもたらすための選択肢を示し、「われわれの身近な経験に価値付けをしてくれる」ものであって、その「英知」こそ、本質的な自由だというのです。「知識の修得」という訓練と、そこから始まる「英知」にいたる道こそが自由によって敷かれているのです。

   だからこそ、と彼は力説します。「教育は、トランクのなかに品物をただ詰めるようなものでない点忘れてはなりません。トランクに品物をただ詰めるという比喩とはまったく異なるものです。教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動です。わたくしの意味するところに最も近い比喩をあげれば、生きている有機体による食物の消化のようなものです。適当な条件さえ整えば、口に合う食物が健康に最もよいのだということはご存知なはずです。トランクのなかに長靴を入れるという場合は、再び取り出すときまでそのままそこに入っているでしょう。しかし子どもに腐った食物を与えたら事態は大変なことになってしまうのです」(同上)

 子どもはトランク(入れ物・コンテナ)であり、教師の話す・伝達する言葉(知識じゃないでしょ)は長靴だ、腐った食物だというような教育(授業)が白昼堂々と蔓延・横行しています。まことに手に負えない事態とはこのことです。「英知」に向かう気づかいなど一切ない、たんなる細切れの情報や言葉の断片を授けることが教育の別名になっている事態に、さてどう向きあえるのか。

 そんなむごい授業が進むに応じて「この長靴は歯ごたえがある」だの、「このハイヒールは乙な味だね」などと洒落にもならないことをいう(いやな)子どもが現れる始末です。要するに、教師に迎合するんですね。子どもをそのようにそそのかすんですよ。世間では「学校優等生」の大量生産企業(別名「進学校」という)がのさばっているんじゃないですか。子どもにとっては、自分を教師に無条件であわせるのがもっとも大切であるとされます。子どもをして、そのように仕向ける大人の責任は看過できないし、許せないと思います。ぼくの体験からしてもそういえます。

 「知識の裏付けなしに賢くなることはできませんが、英知を欠いたままで知識を修得することはいとやすいことなのです」

 ここで、はるかな昔の人間であるホワイトヘッドをことさらに引用したのは、「教育はいうまでもなく完全にそれを受けとる側の選択を前提とする活動」だという、彼の指摘をまともにうけとめたいと思ったからです。ぼくはいつでも教育(授業)をそのように受け止めてきました。指摘通りの活動ができたかどうかはまことに疑わしいのですが。そのような指摘が時代や社会を超えていまなお妥当すると思われるのは、教育というものが「完全に受け取る側の選択を前提とする活動」なんかではないものとして、「教える(与える・授ける)」側の都合ばかりが斟酌されるものになっているという不信の念がぼくにあるからです。それはまた多くの方の実際の経験ではなかったでしょうか。(彼の講演がなされたのは1923(大正12)年のことでした。「めだかの学校」の草創期ですね)(筆名『ぼくは「トランク」も「トランプ」も嫌いだ』) 

 すずめの学校は家の中

 閑話はまだ終わりません。というか、悲しいかな、終わりが見えないのです。さて、「すずめの学校」です。そんな学校があったのか、あるのかしら。

 チイチイパッパ チイパッパ / 雀の学校の先生は / むちを振り振り チイパッパ

 生徒の雀は輪になって / お口をそろえて チイパッパ

 まだまだいけない チイパッパ / も一度一緒に チイパッパ / チイチイパッパ チイパッパ

 作曲は清水桂(かつら)(1898-1951)さんです。東京深川生まれ。関東大震災後、埼玉県和光市に居住。作曲は弘田竜太郎氏(1892-1952)。『靴が鳴る』、『叱られて』などで知られる童謡作家。清水さんは幼少期に母親と生別。武家の家にはそぐわないという理由で離縁されたらしい。その後父は再婚。多くの弟や妹がいた。ぼくの記憶では九人で、桂さんは長男、一番下の弟(異母弟)とは相当に年が離れていた(一回りか)。ぼくの記憶をよみがえらせる部分(細胞)が毀損してしまった。資料を調べればいいのですが、曖昧な記憶に頼るのがぼくには快感です。(この馬鹿者!)(ずいぶん昔、日本の唱歌や童謡についてそれなりに調べたことがありました。まことに面白いというか、日本の学校教育の歴史の重要な部分(それも核心部分)を学校(文部省)唱歌が占めているのではないかと邪推したのですが、その通りでした。 

 「言葉が旗」になり、「歌が旗」になるといいます。ばらばらの集団を一つにまとめるために歌(号令や合図のようなもの)が欠かせなかった。明治初期に伴奏がないと軍人は「行進」できなかったとされます。だから。唱歌導入でその望みどおりになったようです。国歌・校歌・社歌?などを思い浮かべてください。この旗のもとに人々(駒)を集めたし集まったんですね。「欲しがりません、勝つまでは」「一億火の玉」(ああ、怖ー)いまでもありませんか。「六甲おろし」か?

 下らない事例です。二十年の昔になりますか、ある出版社の経営者(社長さん)に誘われて東京両国の国技館に相撲見物に出かけました。相撲にはあまり興味がなかったが、升席とやらに案内され、そこで卑しい根性丸出しで、相撲そっちのけの「酒盛り」を始めました。気づいたら、千秋楽(それすら知らなかった)の取り組みがすべて終わっていた。だれ?優勝したのは?多分貴乃花とかいう横綱でしたか。やがて場内アナウンスで「脱帽願います」「ご起立願います」「ご唱和を願います」とかなんとか。ぼくらは坐ったまま好きな酒(今は一滴も飲みません)の盃をかさねていた。しばらくしたら、いやな雰囲気ときつい視線を感じ、それと同時に「非国民」だか「国賊」だかという言葉で罵られた。驚いたね。「君が代」を歌わず酒を飲んでいるトンデモナイやからだというわけ。そのときぼくは「何言いやがる」と啖呵をきったどうかはどうでもいいこと。歌が旗になりますというほんの一例です。

(学校教育と唱歌に関しては、もうすでにいろいろな方が書かれていますから詳細はそちらに譲ります。じつに面白いというか、信じられないエピソードに溢れているのですが。その時のぼくのメモはいまもあるはずです。今はやりの「改ざん」「墨ぬり」その他手段を尽くして、唱歌を悪用しました。「蛍の光」は領土拡張の伴奏、「汽車」には兵隊さんが乗車していた、栗の実煮てます囲炉裏端という「里の秋」家のお父さんは戦地で戦っている。その他もろもろです。「少国民諸君」と叱咤され激励された時代がありました。「それがどうした」と、いまならいわれそうですね。(「別にー」とでも言っておこうか)文書改ざん、成績偽造、証拠隠滅等々の破廉恥行為は「美しい国」の麗しき伝統・順風美俗でしたね。情けないというか、ああ無常、ああ無情だね。

 桂さんはそのような家庭環境にある長兄として、幼い兄弟姉妹の面倒を見たり、暮らしの足しになるような稼ぎを求められたのは当然でした。ほどなくして、神田だったかにあった雑誌の出版社に勤務。(後年、この会社は日本橋「丸善」で、こんにちは「丸善雄松堂」と看板がかかっています。二つの会社にはそれぞれにぼくはいささかの因縁がありますが、ここでは触れない。その一部になります。「丸善」の創業者だった早矢仕有的は「ハヤシライス」を作ったといわれる人。英国留学中の漱石と関係します。というか漱石のノイローゼを助けたとか。同時期に「味の素」創業の池田菊苗がいます。グルタミンの化学者。彼も漱石を救った人)

 清水さんの同僚には『浜千鳥』の作詞者の鹿島鳴秋氏や後年の作家山手樹一郎氏がおられた。そのかたわらで詩作に励み、雑誌の投稿していました。「すずめの学校」は1922(大正11)年が初出。作曲は弘田龍太郎氏。彼は「浜千鳥」の作曲も手がけました。高知出身。歌詞をよく見るとすずめの学校の先生は「むちを振り」、生徒のすずめは「お口をそろえて」「チイパッパ」とある。時代はどうだったか。祖国は日清・日露の両戦争に「勝鬨(かちどき)をあげ」いよいよさかんに他地域に乗り出そうと意気盛んな時期に当たっていた。それに歩調だか口調だかをあわせるがごとく、「すずめの学校」は帝国主義や軍国主義を謳歌したとされる向きもあるが、ぼくはそういう風にはとらない。すずめがねえ、といいたい。

 この時期はたしかに日本国家の拡張期、産業革命期に当たっていた。一等国とか二等国と内外にむけて喧しい雄叫びを列島民の多くが挙げていました。清水さんにはこの歌のほかに「靴が鳴る」(大正8年)、「叱られて」(大正9)、「緑のそよ風」(昭和23年)などがある。これはぼくのあて推量ですから、まちがっているかもしれない。彼は戦争応援や軍国主義の片棒だか先棒を担いだのではなかろう。担げ(が)なかったと思いたい。片棒・先棒を担いだり突き刺したりした著名人は五万といる。それで「文化勲章」に「輝いた人」はじつにおおくいます。そのための勲章だね。

 幼児期に生母と別れ、やがて継母に育てられるが、二人のつながりは強くはなかった。長兄として幼い弟妹の面倒(炊事・洗濯・掃除などなど)を見ざるを得なかった。お腹をすかした幼子たちに食事をあてがうことは日常であったと思います。生母への思慕はかぎりなく深かったと思う。

 自らが先生役になって、「チイチイパッパ チイパッパ」と声を上げて、なだめたりすかしたりしたのではなかったか。この掛け声は「父(ちーち)・母(はーは)」だったとどなたかが言われていましたが、ぼくは賛成します。どこだったか、かなり昔の記憶だからはずれているか、あるいはもうやめているかもしれませんが、東武東上線の「和光」駅(と思う)には「叱られて」のメロディが流れていたような気がします。(後で確認します)この曲も彼の生い立ちから生まれた、まあ「自伝」だと考えていい。彼自身の生活記録が「歌詞」の原型になったとぼくはみています。なつかしい、心がなごむ、けどどこか物悲しい、そんな雰囲気をいつも清水さんの曲から受けます。

 とすると、「すずめの学校」はめだかとちがっていたのかなという疑問がわいてきます。それは軍事教練や戦争を連想させる歌だったというが、そうではなさそうです。これは人それぞれの感受性の問題でしょうから、ぼくはこのように感じた(い)というだけでいいと思う。ところで、このところすずめが少なくなったという声が聞こえてきます。まさか絶滅危惧種になってはいないと思うが、どん欲な人間のことだから、すずめの行く末が心配です。(たかがすずめだし、童謡だよ。難しく考えるな、と「叱られて」しまいそう)これも相当に昔の話です。友人に誘われ、台東区の上野(恩賜=天皇陛下からいただいたという意味。)公園内にある「スズメや」だったか、すずめの焼き鳥を出す店に行ったことがあります。少しは食べようとした気がしますが、あまり気が乗らなかった。舌切り雀を連想したのかどうか。今はないかも?

 清水さんは18歳で職に就き、親がわりになって、弟妹の世話に明け暮れ、家計を盛り立てた。そのうえで、詩作し、歌を作り自らの成長(宿願)をも果たそうとした。あえて言いたいのは、この時期、つまり日露戦争直後の時代、清水さんは幼児から小中学校生(今でいえば)までの家族の面倒を見ながら、社会に出ていたのです。(当時は尋常小学校、高等小学校と称されていました)国民の大半は尋常小学校卒(形式卒が多かった)でした。だから、清水桂先生は幼い弟妹のために「ホームスクール」を営んでいた、その家庭学校の主題曲が「すずめの学校」だったというわけです。

 このような「ホームスクール」はこの列島に限らず、人間の集団が存在しているところでは、あらゆる時代、あらゆる場所であたりまえに営まれていたにちがいない。家族のつながりは今日の時代に生きる私たちの想像をはるかにこえて強いものだったと考えていいでしょう。比較するのも変ですが、ホルトたちよりよほど早い時代に、「家庭教育」(home school)は機能していた。子育てこそは、親や家族の絶好の教育機会だった。学校に「子どもの教育」を任せきりにしたのは、はっきりした時代背景や営業目的があったと思われます。学校に子どもたちを預けるには明確な理由がありました。家庭や親の側のというより、「日本という新興国家」の側に、でした。

 清水桂さんは敗戦後の1951年、わずか53歳で永眠されました。とても酒好きな方で、「飲めないなら、生きていても…」と言っていたそうです。お墓は文京区本駒込の吉祥寺。その昔、学生時代に本郷にしばらくいましたので、散歩の折に彼のお墓に数回お参り?したことがあります。清水さんはぼくにはいかにも懐かしい人です。おだやかで静かな人だったように、ぼくには思われます。(根拠はありませんが)「ちち はは」がぼくの記憶の中でいつまでも共鳴しているようです。(「すずめの学校」の項はここまで。さて、ようやく閑話休題となりますか)

 追加 以下の文章はあるところで話した際のメモ書きです。もう十五年ほども前のことです。参考になるかならぬか。蛇足として転載します。上の文章の中でたくさんの「弟妹」としましたが、ぼくの記憶違いで「下には七人の侍、いや弟たち」がいました。訂正です。

ところで、清水かつらです。彼は深川で生まれ、四歳の時に生母は離縁されました。十二歳で継母が家に入り、商業学校を経て英語学校に入るのですが、そこを中退します。そして、大正五年、当時神田にあった出版社に勤めます。そこで鹿島鳴秋や山手樹一郎らと出会います。鳴秋は「浜千鳥」「金魚のひるね」の作詞家となります。山手は作家です。

 この時期、鈴木三重吉が「赤い鳥」(大正7年)を創刊します。いわゆる教育におけるロマン主義の時代でした。かつらは大正八年に「靴が鳴る」、九年には「叱られて」を、十一年には「雀の学校」を、作詞します。(これに曲をつけたのが高知県は安芸出身の弘田龍太郎でした。弘田は「「鯉のぼり」「浜千鳥」「春よ来い」など実にたくさんの童謡を作曲した人です。) 

 かつらが二十四歳の時に八男が生まれたのですが(一月)、その直後(三月)に父は死亡します。その年の九月には関東大震災が起こりました。家も財産もすべてを失います。そして継母の実家のあった埼玉県の新倉村に越し、さらにその後白子村(現、和光市白子)に転居し、亡くなるまでを当地で暮らしました。戦後にも活躍し、「みどりのそよ風」(昭和二十三年)を書きましたが、二十六年に五十三歳で亡くなりました。(「みどりのそよ風」の曲は草川信で、彼には、このほかに「夕焼小焼」「揺籠の歌」「どこかで春が」などがあります。)

 「雀の学校」の詩が作られたとき、かつらは二十四歳。彼の下には七人の弟たちがいました。父の死後、家計は彼の肩にのしかかり、弟たちにとっては「父親代わり」というよりは「父」そのものだったのではないかとおもわれます。かつらの作った詞・詩をよく読んでみます。くりかえし読んでみるのです。そこには観念的な子ども観は少しもみられない。「子どもは宝」だというのが清水かつらの信念であったといわれています。(2020/2/16)