少なくなった「大人の先生」

 学校と私:少なくなった「大人の先生」=住職・無着成恭さん

 山形師範学校にはいわば“緊急避難”で入学したわけで、実家が禅寺だから僧侶になるつもりでした。小学校のころから毎朝5~6時に起きたら読経や掃除、仏事の手伝いの日々。東京の駒沢大学に進学する予定でしたが、東京大空襲でそれどころではなく、実家から通える師範学校へ行くことになりました。

 入学した年の夏に終戦。戦後の混乱は戦中の混乱よりひどい「大混乱」で、食糧難や物資不足で大変でした。特に本が無くて困りました。毎日本屋をはしごしていい本が入荷していないか見ていました。2軒ほどなじみの本屋ができて、いい本が入ったら米1升とこっそり交換してくれたのを思い出します。山形市内を流れる須川の堤防が決壊した時には、授業を休んで補修工事の土運びを2週間して本を買うお金をためたこともあります。学校の1学年下に小説家の藤沢周平さんがいましたが、彼もいつも本を読んでいる学生でしたね。

 師範学校時代に思い出すのは、戦争直後の墨塗り教科書と米国の教育使節団の報告書でした。師範学校の学生でしたが、近くの小学校で戦前の教科書に墨で塗る様子をつぶさに見ました。「ああ、先生が自分で教えたことに墨を塗らせるような教育だったのか。自分が習ったことがうそだったのか。何がうそだったのだろう。教育というのは恐ろしいな」と思いました。その経験が原点になり、マニュアル的な「国家による教育」ではなく、人間の本質にある好奇心を育てる「人間の教育」が大切だと痛感しています。

 今は子どもの立場に立って自分を見ることができる「大人の先生」が少ないのが気になります。私が山元中学校の教師だったころ「学校のイチョウやモミジの木があるが、紅葉でイチョウは黄色く色づくのに、なぜモミジは赤くなるのか」と聞く生徒がいましたが、そこで「授業に関係ない」と言ってはいけません。「いいところに気づいた。一緒に考えよう」と話すべきです。答えは色素が変動する影響のためですが、今こそ生徒の疑問や考えを抑え込まない教育が必要です。<聞き手・船木敬太>

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今井正監督で原作の映画化が。

 ■人物略歴 ◇むちゃく・せいきょう=1927年山形県出身。48年山形師範学校卒業。山形県山元中学校の教師時代に文集「山びこ学校」がベストセラーに。56年、駒沢大学卒業。03年から大分県国東市の泉福寺住職。(毎日新聞・06/12/04)

 久しぶりに無着さんのお話が出ていました。いろいろな意味で、日本の教育、とくに学校教育にとっては大切な方だとぼくはおもってきました。戦後の「民主主義の教育」を心底から実践しようとした、「本物の教育」を生み出そうとしたという点では傑出した教師だったといえます。無着さんが実践されようとした教育はいつでもぼくたちの目の前に立ちはだかっています。教育という名でどんなことを行おうとするのか、それをいつでも教えてくれているように、です。

 ぼくにとってはいろいろな意味で、変な言い方ですが、懐かしい人です。「山びこ学校」出版に際してのエピソードを、その本の出版に携わった人から伺ったことがあります。

 いまでは学校教育は壊滅状態にあるといっても過言ではないでしょう。なぜそのような事態にいたったのか、たくさんの原因や理由がありそうにおもわれるし、いや、じつに単純な事から今日に至る事態がうみだされたともいえそうです。その意味では無著さんは「教育逃亡者」でした。若い時のエネルギーは「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったが、そのさなかに、「勢いを殺がれた」「撃ち落された」。それほどにこの島の学校を動かす「暴力的な奔流」の激しさに音を上げざるをえなかったのだ。奔流は勢いを緩める濁流のごとくに流れています。教師も生徒もその奔流に「呑み込まれて」いるほかないのです。でも、ここからの反転をこそ、ぼくたちは静かに試みようとするのです。権力が使う暴力に怯むわけにはいかないのです。「人間の本質にある好奇心を育てる」本物の「教育」に大きな期待と希望をいだいて、一歩ずつ前に進みたい。

 そのためにも、いったい学校とはなんだろうか? いつでもこんな疑問を持ち続ける必要があります。生徒の疑問を抑えないためにも、みずから「疑問論難止むことなし」という姿勢を貫きたいですね。

(左上は、無著さんが戦後の一時期、勤務した「明星学園」です。現在もそこで、ぼくの友人が「悪戦苦闘」(なかなかの善戦ですよ)しています。

https://www.news-postseven.com/archives/20160212_383376.html

https://futoko.publishers.fm/article/14606/

 教師っていってもなんでもないのさ

 生徒の反抗は、個々の教員の授業スタイルや教科内容にたいしてというよりむしろ、学校というもののたたずまいや教育関係の枠組みにたいして向けられている。経験的に体得された全体としての階級文化に照らしてそれらが相対化されるところに、生徒の反抗の真因があるのだ。そして、授業のスタイルや具体的な学習内容に工夫をこらすことはできても、学校の構成や教員ー生徒の規範的な教育関係を変えることはきわめて困難である。それでも個々の教員は、現存の学校秩序を与件としながら、居心地の悪い教室で不本意な授業をつづける以外にないし、そういう日々の実践から長期的は展望をつむぎ出すほかない。(略)

 今、教育の「危機」がやかましく論じられている。論争の渦中にあるのは進歩主義教育の基本的な考え方でありその適格性である。議論のトーンは高くなる一方だが―そして、実際に教壇に立っている教員たちの声が事実上かき消されていること、生徒たちの声に至ってはまったく耳に入ってこないこと、その点がいかにも気になるけど―実情から見れば、それは徹頭徹尾イデオロギー的な争いである。真の論点は、学校教育という場で生起する階級対立にあり、労働力の再生産過程にあり、総じて文化と社会の再生産過程にあるはずだ。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房。ちくま学芸文庫版もあります)

 Learning to LabourーHow working class get working jobsというタイトルで本書をウイリス(社会学者)が出版したのは1977年のことでした。「学校への反抗・労働への順応」といえば、いかにもイギリスの話だということになりそうですが、わたしたちの社会においても同じような問題が発生していたにちがいないのです。そして現在も、それとは同根ではあっても、別種の学校とのたたいが行われているのだといいたい、それはけっしてだれの目にもはっきり映っているとは思えないのですが。「学校の種別化」というのはどういう問題から生じたのか。教育における「格差」でしょうか。それとも、人によって在学する学校というものが社会的(階級的)に決定されているとでもいうのかしら。

 「反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、『権威=当局』(オーソリティ)に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾(てきがい)心である」(同上)

 (何人かの生徒の対教師への「敵愾心」をこもごもに述べています)

ジョウイ …教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。それでも、言いなりになるってのはシャクじゃないか。なんていうかな、権威ずくってのはムカツクね。

エディ 教師だからっていうだけで、教師は自分たちのほうがえらいし、力もあるんだって思ってるのだ。でもほんとうはさ、教師っていってもなんでもないのさ。ただのふつうの人間じゃないかよ、なあ。

ビル 教師って、よほど何でもできると思ってるんだ。そりゃ、おれたちよりはできもよくて、えらいかもしれないけどさ、やつらはそれよりももっとえらいって思ってるんだぜ、そんなことないのにさ。

スパンクシー ファースト・ネイムで教師を呼びつけにできたらどんなにいいだろう。やつら、まるで神さまきどりだもんな。

ピート 神さまならよほどましだよ。

 「反学校的」な男子生徒は自称〈野郎ども〉(the lads)と名乗っている。彼らの悪態はとどまるところをしらない。(彼らに対する、筆者のウイリスのインタビュー)これだけあけすけに、言いたい放題に口にだして言うのは「健全」なんでしょうか。反対に、表向きはいい子ぶっていて、実際はえげつないほどに学校や教師を軽蔑している子がいるとするなら、それに対してどういえばいいんですかね。〈野郎ども〉は優等生にむかっては〈耳穴っこ〉(ear’olesーear holes)とさげすんで呼ぶのです。

ビル 教師に接する態度ってものを連中はやかましくいうだろう。生徒のおれたちに接する態度ってものもあるはずだよ。

ジョウイ 人生、ちょっぴりおもしろくしようと思うんなら、教師がしてくれたことになにかお返しをしてやることだよ。

 学校とはなんだろうか?

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与(くみ)しつつ競い合うことが求められているのだから」(ウイリス)

 「だれだって、やればできるのだ」だって。ホントかね。学校はどの地域でも、どの国においても似たりよったりで、まず同じような顔をしているんだ。学校はなくならない、そして行かなくてはならないものなら、それとの付き合い方を十分に学ばなければならない。「野郎ども」のような反抗心むき出しの行動や態度もありえますが、そこはもう少しかしこくつきあいたいものです。ぼくが願うのは、学校の餌食にならないことです。あまりにも近づきすぎたり、反対に全く学校と交わりを持たないのも、どうでしょう。ぼくは早い段階から、学校や教師に不信・不審の念を隠さなかった。「優等生」にはなる気がなかったし(なれなかったのではないさ)、劣等生に甘んじるものどうかね、という中途半端な姿勢を貫いていた(結果からみれば)とも言えそうです。(「権威ずくってのはムカツクね」、ホントに)

 山登りの効用について

 授業によっていろいろな経験を子どもたちはすることができます。その中核は「学ぶ」ということですが、それ以上に仲間や教師の性格やものの見方を確認する機会にもなるでしょう。そのような交わりを通じて、自分の性格や自分に足りないところを知ることもできます。その意味では、授業と、それが実践される教室には多くの可能性がある。

 授業の可能性とは子どもの可能性といいかえられます。ひとりとして同じものをもたない子ども、そのような子どもに教師がていねいにむかいあえば、教室の雰囲気はおのずからむつまじいものとなるはずです。長い間、このような教室の風景を夢見てきたと、ぼくは白状します。見果てぬ夢、そういう以外になさそうな、まるで夢そのものです。

 なにかを学ぶというのは、つまるところ自分を発見することです。今まで気づかなかった自分をさまざまな機会において知ることだとおもう。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと、つよくいってみたい。どんな失敗しても、かならずとりかえしがつくことを経験する場、それが教室です。そのような貴重な経験を重ねるための練習が授業なのだといいたい。

 それはまた、ある物事について自分流にかんがえ、自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための訓練です。紋切り型の物言いや、みんないっしょといった「かたまりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を鍛える機会です。いうならば、この自分にも精神の自由があるということを自分で経験するのが教室でおこなわれる授業であり、その可能性を開くのが教師の仕事ではないのかとおもうのです。

 勉強 ー この言葉にはどこかかたくるしい、おさえつけられるような気味がありますね―、それはあたかも山登りに似ていると、ぼくはかんがえています。自分の足で、自分の足だけで確実に頂上を目ざさなければ、一歩も前に進まない。どんなに高い山に登ったところで、世の中の利益にはならないし、とりたてて他人から評価されることもなさそうです。だからこそ、山登りはいいのだと経験から学びました。

 誉められるため、自慢するために山に登る人がいるとはおもえません。年齢・学歴・性別・職業・国籍などは一切不問です。自分から登ろうとする人にしか喜びも苦しみも与えられない。自分から、というところが大切ではないですか。勉強、学習といってもいいでしょう、それは自分の足で、自分の意欲で登ろうとする山登りとそっくりだとぼくはおもいます。

 もうひとつ、山登りにはいいところがあります。山はいつでもそこにあるということです。自分が挑戦する相手はけっして動かない。登ろうとしていってみたら、その山がなかったということはないのです。だから、それに対して心構えをするばかりなんですね。去年はあったけれども、今年は消えてなくなっていたらどうでしょうか。せっかくその気になっていたのに、なんだということになるでしょう。(当節の環境破壊のすごさをみれば、あながちそんなことはぜったいにありえないとはいえなさそうですが)ピアノも一つの「山」ですね。「算数」もてこでも動かない「山」、そこに自力で登る、あるいはだれかに導かれて登る。 

 授業もそれと同じで、それに対してこころを準備するのです。学ぶというのはなにかに挑戦するという雰囲気があります。じゅうぶんに気持ちを集中させてかからないと、そこから得られるものはなにもないということになりがちです。その反対に、注意力が足りなければつまづく、転ぶ、場合によっては落伍するということにもなりかねない。いかにも山登りに似ていませんか。

 ぼくは勉強もこうあって欲しいとねがっています。人に認められよう、世間から認められたいいう(その実、そんなことは滅多にないし、たいしたことではない)あさましい動機から始められる勉強のなんと多いことか。勉強しているのか、人に誉められようとしているのか、ご当人にも分からないのじゃないですか。まことに厭な話です。自分の足で山に登るように、自分の頭と身体で物事を考えること。それが人間の自由ということだといえるでしょう。

 教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえぼくにはおもわれます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまいます。

 〈勉強〉という語は、先にも触れたように、ちょっと堅苦しい感じがつきまといます。むりじいされるような気がしますね。店でものを買うときに、「もう少し勉強してよ」ということがありますが、それは値段をまけてくれませんかという意味で使われます。店に対して無理してくれという気味があります。かりにお店の人が「勉強するよ」といえば、利益を度外視してサービスするということでしょう。それほどに、勉強というのはする方もさせられる方も、大なり小なり無理がありそうです。

 それに比べて、学ぶ(学習)というのは、相手がどうであるというよりは、自分の意志で学ぶのだという気分がこめられているようにおもわれます。たんに言葉づかいの問題ではなさそうで、「勉強する」と「学習する」ではそこにはっきりしたニュアンスのちがいがあるようです。だから「勉強」という言葉を教室から追放したらどうかと提案してみたい気がします。教師も子どももずいぶん勝手がちがうことになるんじゃありませんか。わたしたちは必要以上に言葉にとらわれているようです。

 もっとすすめたいのは「プレイ(play)」という語です。Play Station とまちがえられそうですが、「遊ぶ」というのです。それから学ぶことはたくさんありますし、「遊ぶ」のいいところはかならず「自分の心身を用いておこなう」という点です。ピアノを弾くとはピアノに関する本を読むのではなく、自分でじっさいに弾くことを指します。「国語」でも「算数」でも自分でやるからこそ、それが学んだ事柄以上に「経験」となって身につくのではないでしょうか。「経験する」は「遊ぶ」ですよ。

 「遊興」などというとまるで忌み嫌われそうですが、「遊戯」は「遊化」と同じで、ゆけ(ゆげ)と読ませていました。「 仏語。心にまかせて自由自在に振る舞うこと。遊化 (ゆけ) 」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくが言いたいのはこの部分です。自由に自在にふるまうときに、ぼくたちは意志的(情念からの解放状態)であるはずです。遊び心、それは余裕であり、ゆとりですね。鉢巻をしてこぶしを握って「勉強」するなんて。少し意味は異なりそうですが、ぼくは「遊学」などという言葉をここで使いたい気がするのです。

 「遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆるがるれ」(「梁塵秘抄」)はいくつもの異説におおわれていますが、率直に「子ども」の本性を讃えたものとぼくは読む。

 「要するに、信念からいっても経験からいっても、わたしは、もしわれわれが単純に賢明に生きるならば、この地上でわが身をすごすことは、苦しみではなくて楽しみであると信じるのである。より単純な民族がそれによってくらしを立てていた仕事がより複雑な文化をもつ民族にとっても今なお娯楽としてのこっているように」(ソロー)

 問答無用は論外と知るべし

 《授業での問答の時には、教師がよく知っていること、答えをしっかり胸に持っていること、それを子どもに聞くということが、ほとんどだと思います。鑑賞などで危ない時はあるようですが。教師はよく「ほかに」「ほかに」と言いますが、その教師自身は、ほかに何を考えているのかしらと思うことがよくあります。

 こういう場合は、教師自身に発言してもらったほうがよほどよい、と思うことがあります。「ほかに」「ほかに」と、よほど子どもに期待しているのかな、思うときもあります。私はもっと教師がほんとうに聞きたいこと、聞かないと困ること、それを子どもに聞く機会をもたないと、ほんとうの問答の力がつかないし、問答の必要感もでてこないと思います。自分がよく知っていることを相手に聞くということは、普通の生活では無礼なことですから、しません。ですから、ほんとうに聞こうという、そこなのです。それは、教師が何も知らなくて、分からなくて聞いているということとは、まったく別なことです》(大村はま『日本の教師に伝えたいこと』筑摩書房刊。1995年)

夜間中学「こんばんは」2003年/日本/16mm/カラー/92分

 必要に迫られた場面でなければ、たしかな「問答」(ダイアローグ)というものはなりたたないといわれる。「生きた人間が生きた人間に聞いて、生きた人間が生きたことばを使って答える、そういうことでしょう、問答というのは」ともいわれます。

 「何と読みますか」 「そう、よろしい」

  これは問答なのか。聞かないよりはましだろうが、それでなにが行われたのか。答え合わせをする、検査する、確かめる、そのために聞く、そんな問答まがいが世に氾濫しているというのが大村さんの慨嘆でした。

 ところが学校には、よくひとつの学校型の優等生がいて、教師が何か聞いたら、とにかく返事をするのがいいんだと思い込んでいます。何はともあれ、なんでもいいから、とにかく早く答えたほうがいいんだ。いや、そうしなければいけない、というふうに考えているようです。そういう子がぱっと手を挙げて感想を言います。そうすると、教師 はそれを聞いて、「ほかに」 とか言って、(私はこの「ほかに」ということばが大嫌いです。だれかが答えた答えのほかにと言って、さっき答えた人はちっともねぎらわれないことが多いのです)「ほかに」「ほかに」とやっているうちに、とにかく答えることがいいんだ、考えることよりも答えることが大事だと心得る、そんなふうにならされていくわけです。

 答えられたときだけ褒められて、黙っているとよくない。子どもは教師に喜んで欲しい。これはもう当然のことですから、何か言おうとします。私は、これはこわいことではないかと思います。ほんとうに自分の気持ちが表せることばでなくとも、とにかく適当に言えるというのは、こわいことではないでしょうか。

 「ほんとうに言おうと思っていないことでも、適当に人に言えるということは、とても寂しいことのような気がします」(同上)

 大村さんは「問答本来のもの」といわれました。本来の問答、それは対話ということを指すでしょう。対話というのは、文字どおりに一対一の話し合い。

  「聞き手のいない一対一の世界」、これこそが対話の生まれる場だというのです。

 教室にはたくさんの子どもたちがいる。だれかひとりに質問して答えさせるのは、いかにも一対一の対話のようにみえる。しかし、多くの子どもたちがそれを聞いているだけなのだから、よく言えば問答ではあろうけれども、対話ではないのです。大村さんの言われることはまことにその通りで、いかにも誰もができそうに思いがち。ところがどっこい、そんなにかんたんにいきますかいな。「教えよう」「教えられたい」、そんな甘えた姿勢が教室をいじけたものにし、愉快でないものにしているんですね。話す―聞く、これを破り、これを越えたところから対話の手がかりが顔を見せるのです。「おしゃべり病」の教師と「聞き耳病」の生徒のなれ合いをすっぱりと断捨離することです。

 この問題は教室の中だけでは終わらない。家庭や企業など、少なくとも人が人に話しかけることからしか何事も始まらない「社会」においては必須の課題となっているのです。

 社会と学校について

 アメリカは「建国」からまだ三百年たっていません。(1775-83年、独立戦争。76年独立宣言。同年に、トマス・ペイン(Thomas Paine:1737-1809)は「コモンセンス」を著す)何かというと「アメリカ一点張り・一辺倒」であった時代は戦後すぐの時ならいざ知らず、いまははるかに昔の歴史の一齣になったと、ぼくなどは考えたりしますが、決してそうじゃない人たちもいます、かなりたくさん。「なんてたってアメリカ」「アメリカ第一」(島に住んでいながら)というのです。じっさいにはこの島は米国の「第五十一州」のようでもあります。

 かくいうぼくも、若いころは「アメリカの民主主義」かぶれ(接触皮膚炎)寸前にあったことを隠しません。もちろん、大学に入ってからの話です。もっぱら「民主主義」だの「デモクラシー」などと、世間並みにぼくも熱に浮かされていた時期でした。以後は「アレルギー」体質になりました。つまりは「過剰反応」ですね、この米国に対して。

ペイン「コモンセンス」

 入学した大学はぼくにとっては場違いなものだったし、ことに教育内容はよくないものだった。ひどいものでありました。自身の選択が誤っていたのだから、それ(大学教育)を否定するのは自分を否定することと同義みたいでね。まあ、どこの大学でも似たようなものと割り切って、勝手な道を歩こうとしていました。たとえ有料であっても他人から者を学ぼうという浅はかなこころがけ(根性)こそがよくなかった。ようするに 「学校の正体」がじゅうぶんにわかっていなかったのはなんとも不覚でした。

 大学に入って初めて読んだ本がジョン・デューイ(1859-1952)という人の「民主主義と教育」(Democracy and Education、1916年刊)でした。いまではいくつかの文庫本でも読めます。ぼくは浩瀚なこの本を英語で読み出しました。(分量は文庫本で2冊分)時間はかかりましたが、つまずきながらも、ともかく最後まで読み切りました。そのおかげかどうか、今でも英文でいくつもの文章を記憶しています。

 なぜデューイだったか。当時(六十年代後半)、この島では彼がもてはやされていたからです。教育を考えるにはデューイに限るとまではいわなくても、かなり重視されていました。今はどうなったか。彼は食品・雑貨屋さんの息子で、バーモント(カレー)州で生まれました。はじめはドイツの観念論(カントやへーゲルなんか)に接近、やがて心理学を学び、そこから教育問題に至った人です。

 (いずれ項目を立てて、彼について騙りたいのですが、今は省いておきます)

 彼には残された著作は多いのですが、ここでは『学校と社会』という講演集を引用しながら、当時(十九世紀末)のアメリカ社会(デューイの活動はシカゴを中心にしたもの)の教育状況を推し量ろうと思います。(この本は、当時デューイがいたシカゴ大学で「実験学校」を主宰した彼が行った保護者向けの講演(1899年)から成り立っています。著書の刊行は1915年)実験学校は当初は二十人足らずで始められ、その後は大学付属小学校となり、デューイが校長さんだった。七年ほど続けられました。School and Society. という書名に留意しなければなりません。

 ソローよりも四十年以上も後に生まれ、しかもソローの歩いた同じような方向を目指したデューイのことばを少しばかり、以下に紹介しましょう。

 「…たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことがらであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない」

 「実のところ、成功のためのほとんど唯一の手段は競争的なものであり、しかもこの言葉の最も悪い意味におけるもの―すなわち、どの子どもが最も多量の知識を蓄え、集積することにおいて他の子どもたちにさきがけるのに成功したかをみるために復誦ないし試験を課して、その結果を比較することである。じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである」

 「学校の課業がたんに学科を学ぶことにあるばあいには、互いに助け合うということは、協力と結合の最も自然な形態であるどころか、隣席の者をその当然の義務から免れさせる内密の努力となるのである」(ジョン・デューイ『学校と社会』岩波文庫版)

 このようにデューイが述べたのは十九世紀末でした。学校教育の現状を批判した『学校と社会』はいま読んでも、今日の学校教育に対する立派な批判として通用しそうです。それはまた、日本の学校教育の現状をも射当てているとぼくには思われます。その意味は、古今東西を問わず、「学校の役割」は同じであり、それはけっして子どもをじゅうぶんに伸ばし、賢くするための場になっていないということです。

 「私は旧教育の類型的な諸点、すなわち、旧教育は子どもたちの態度を受動的にすること、子どもたちを機械的に集団化すること、カリキュラムと教育方法が画一的であることをあきらかにするために、いくぶん誇張して述べてきたかもしれない」

「旧教育は、これを要約すれば、重力の中心が子どもたち以外にあるという一言につきる。重力の中心が、教師・教科書・その他どこであろうとよいが、とにかく子ども自身の直接の本能と活動以外のところにある。それでゆくなら、子どもの生活はあまり問題にならない」(同上)

《デューイ【John Dewey】アメリカの哲学者・教育学者。プラグマティズムの立場から論理学・倫理学・社会心理学・美学などあらゆる方面にわたる業績があり、また子供の生活経験を重視する教育理論は大きな影響を与えた。著「民主主義と教育」「哲学の改造」「確実性の探究」「論理学」など。(1859~1952)》(広辞苑第五版) 

 いまなお(二十一世紀に入っても)、私たちの社会、というよりは「島国」の学校教育は「旧教育」に支配されているといえそうですね。

 学校になじめばなじむほど、学校という制度に自分を預ける度合いが強くなればそれだけ、学校で行われる教育(授業内容)が実生活から離れてしまうのはなぜか。生きる力を育てる教育などということがさかんに、まことしやかに叫ばれてきましたが、そのこと自体が学校では生きる力が育た(て)ないことの証明になっていたでしょう。「いや、そうじゃない」と反論があるかもしれない。決められてことができ、言われたことを素直に実行するような力こそが「生きる力」なんだというのですか。ここにはっきりと学校教育の目的や意味があるようにぼくは考えています。

 つまり、生きる力を個々のこどもが自らのうちに育てるようなプログラムは最初から学校には存在していないのだということです。では、いったいなんのための学校、なんのための教育なのか、このことはあらためて問われる必要がありますね。これこそが「生きる力」であると子ども以外の何者(元締め)、そういう塊が断定した「教育」を徹底して行おうとするのが学校なんだ。

 「旧教育は子どもたちの態度を受動的にする」とデューイが批判したのは今から百年以上も前のことだった。受け身は柔道にあるばかりではない。いやなことだが、「旧教育」は「永遠に不滅」(同語(義)反復ですが。

 この小さな本が「学校と社会」と題されて、「学校と国(国家)」といわれていないことにぼくたちはていねいな考察を及ぼさなければならない。一人の人間は「社会」に属し、「国」にも属しています。でも両者(同じ人間が属する集団)は機能もねらいも異なるんですよ。クラブと教室の役割がちがうように。第一、気分がまったくちがうんだ。社会人といって国家人という習慣が、ぼくたちの生活圏にないのはどうしてですか。(「社会」と「国」はちがうよ)

 子どもといっしょに歩くひと

 石垣りん(1920~2004)。芯が強くて、意志の大切さをぼくに感じさせてくれた詩人。

 ある雑誌に次のようなエピソードを語っておられます。

 「親戚の女子高生が言ってきたことがあるんですよ。<試験に石垣りんの詩が出たけど、正解がわからない>っていうの。「作者が表現しようとしたのはつぎのどれか」という設問の正解が作者の石垣さんにもわからなかった、と。

 「詩って、いろいろ意味がとれるでしょ。与えられた中から答えを選ばなきゃいけないって言うのは大変不都合だと思った」

 「洋服でも着物でも、昔は自分で作ってましたよね。いまはみんな、買う、つまり出来合い品から選ぶんです。答えも選ぶんです。自分で書くのでなくて」

 「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」

 石垣さんが高等小学校を卒業して「事務見習」で東京丸の内にあった銀行に就職したのは昭和9年(14歳)のときでした。(すでに八十五年以上が経ったんですね。お別れしたのはついこの前だったような気がします)初任給は18円。その18円が、自身の意に反して、一家を支えるなけなしの元手となった。四畳半に6人の生活から、硬質な光沢をもった、清冽であり薫風薫るような詩が生みだされました。このあたり、青春の大半を使い尽くした、並大抵ではなかった明け暮れが強いた辛苦が石垣詩の骨格を作ったと思われます。

 「出来合い品から選ぶ」「子どもたちが自分で考え、自分で書く。大事なそのことに付き合ってくれる大人がいなくなった。怖いことですね」という文章に目がとまった時、飲んだくれだったぼくでさえも慄然とした。恐れおののいたといっても過言ではなかったと思いました。子どもが歩く、その子どもと「いっしょに歩く人」が教育者だったといったのはソクラテスという哲人でした。

 子どもと歩く、どころか、自分でさえも歩かない、歩こうとしない大人(親・教師など)がいなくなったのはなぜだろう。マニュアルが横行する時代は人間の器量が著しく棄損される時代でもあるのです。それもまた、教育のなせる業といっていいのか。「考える」は「歩く」です。

 以下はオマケです。

  詩の四行に読みこまれている悲哀と怒り。かくて、わたしたちは大切なものを忘れていく、忘れられるはずはないのに。それでいいのか。

 死者の記憶が遠ざかるとき、

 同じ速度で、死は私たちに近づく。

 戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、

  覚えている人も職場に少ない。                     (「弔辞」)