誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らん

 

 受験生が絵馬で合格祈願 本格的な受験シーズンが訪れ、「学問の神様」として知られる湯島天神には、多くの受験生らが合格祈願に訪れている。/ 15日からの大学入学共通テストを前に神奈川県藤沢市から訪れた男子高校生(18)は「(新型コロナウイルスの感染拡大で)塾での自習を控えたり外出は極力控えてきたが、ここだけは来たかった。オンライン授業が増え緊張感を保つのが大変だったが第一志望に合格したい」とマスク姿で話した。(東京新聞・2022年1月13日 19時00分)(ヘッダーの写真は湯島天神。毎日新聞・2021/01/14)

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 大学入試にどれだけつきあってきたことか。自分自身の受験以来、半世紀以上にわたって入試の仕事をしてきました。採点や試験監督はもちろん、小さな学校でしたが、入試問題も作成した。その時々で、入試風景は変わったようにも見えましたが、中身は「不易」でしたね。端的にいえば、入りたい人を「落とす」ための試験ではなかったか。合格だけが求められる試験、なんだか残酷なという気がしますね。ぼくは一貫して、志願者は全員入学を許可したらいいと考えてきました。それからの四年以上の「大学就学期間」をどのようにするか、それだけが課題ではなかったかと、今でもそう思っているのです。そのためには、大学教育は、教師には過酷で厳しい仕事になるはずでした。

 今年の大学入学共通テストの受験者は五十三万人だとか。これを各地の大学にうまく配分すれば、学生確保も可能となるし、大学経営にも極端な波風は立たないはず。要は、将来の社会の担い手を育てる(というのが建前)のですから、公的な支援体制を確立すべきだったのに、それが、以前には「国公私立」間の壁が立ちはだかっていたし、今も大学の実態は、いわれるほどには変わっていないのではないでしょうか。要は「人囲い」です、一人でもいい人材をといいますが、「いい人材」を育てるのが、自らの役割なんですよ。ここで「大学・教育論」をするつもりはありません。受験生、それぞれが十分に実力を発揮して、「無事、希望の大学に合格を!」そうなってほしいですね。ぼくだって、時には殊勝になることもあるのです。

 必死で、わき目もふらずに「受験勉強」に邁進してきた結果、入った場所が、びっくりするくらいに「不勉強」なところだったとは、よくあるケースです。それも含めて、「受験」であり「大学入学」なんでしょうね。ぼくはいつでも考えたものでした。多くの人は「結婚」を云々するけれど、実際は「結婚式」に目がくらんでいるんじゃないの、と。それと同様に、受験に頑張る人が「入学後」にまったく頑張らないのは、この島の大学の「性格」を証明しています。目標が固定していて、それが越えられたら(達成されたら)、おしまい。実につまらないですね。目標に目がくらんでいると、その先が失意状態に暗転することだってないわけではないでしょう。

 余計なことは言わないで、とにかく、入って初めて「詰まんねー」ということが納得できるだけでも、「大学入学」の意味はあったとしましょうよ。まじめな教師にはなれなかった「教師の真似事」人間は、自らの学生時代の経験や、教師のような仕事に就いて以来の体験を思い出しながら、なにか大事なものが欠けていたなあ、と「大学」「大学教育」そのものをしみじみと再認識しているのです。それは埋め合わせできない、宿命のような欠陥だったと、今でも考えている。

 ぼくは、大学生になってから、文京区本郷に十年ほど住んでいました。湯島は散歩道で、しばしば「境内」を通りぬけていましたし、職業人になってからは「天神下」の飲み屋に通っていたので、土地勘はあった。また神社近くの出版社の社長とも仲良くなって、いつでも切通し下の飲み屋で、気勢を(社長が)挙げていました。ぼくは本来の目的(祈願?)で、天神さんに入ったことはない。これは、京都にいたころからそうでした。堀川のそばの中立売にしばらく住んでいたことがありましたから、北野天神へもよく通いました。しかしそれは、決して「お祈り」のためではなかった。後年になってから、「学問の神様」と崇められている菅原道真が、どんな怨念を残して死んでいったか、それを思えば「お祈りしている場合じゃないだろうに」と、気をもみながら、よく菅公さんを偲んだものです。

 その菅公さんはこんな歌を詠んでいます。ここにも「怨念」があるような。彼の実作かどうか、疑う人もないのではありませんが、いかにも道真さんらしいともいえます。(心持さえ正しくあれば、取り立てて神にお祈りを上げなくても、神は守ってくださるよ)という、その「天神さん」に出かけて、お祈りするということは「こころだに誠の道にかないなば」ではないからですか、というのは不吉・不謹慎ですね。「それを言っちゃあ おしめえよ」というのは寅さん。

  こころ だに 誠の道にかないなば祈らずとても神や守らん

 もう一首、あまりにも有名になりすぎて、ここに出すのを憚られますね。死後に学問の神様として「祀られ」たのは事実ですが(それ自体は、彼には無関係です)、彼は学者として、それ以上に政治家として活動をし、出世したので、それを妬む陣営(政敵)からの指弾を受け、彼を庇い立てする宇多天皇も譲位したから、ついには「左遷の憂き目」にあったのです。その彼が、大宰府に着いた際に、見事な梅の花を観た(愛でた)。それを詠じたものとされます。「春の東風(こち)が吹く時期には、きっと匂いを撒いておくれ、主人がいないといって春を忘れることがないように」と、梅に託した悲しみと悔しさの交錯した、菅公さんの情念が詠われたものでした。(それでも、天神さんに行きますか)

  東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

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 京都の北野天神さん(⇧)へ行ったのは、まだ小学校の三、四年生頃でしたから、オムツがようやく取れたころでした。天神さんは北野白梅町というところにありました。嵐電の終点でした。大学生になって湯島界隈を出歩いた時期はもう一人前のおっさん。だから、ぼくは湯島を通るといつも思い出していたのです。「婦系図(おんなけいず)(おんないけずではない)」は泉鏡花作。ぼくは小説より新派の芝居より、とにかく小畑実という歌手が歌った「婦系図の歌(後に「湯島の白梅」と改題)」が大好きでした。佐伯孝夫(作詞)・清水保雄(作曲)のお二人の作品もぼくは、殆んど聴いているはずです。ここにも、小畑さんのものを出したかったのですが、いいものがなく、その代わりというにはうますぎる、美空ひばりさんの歌で。迫力がありますよ。(聞かないほうがいいかな、あまりにも濃艶すぎて、ね)(https://www.youtube.com/watch?v=EcGR1HFaBgo

 「婦系図」が刊行されたのは明治四十年だったか。泉鏡花の師匠は尾崎紅葉。弟子の鏡花が想い人を得るが、それを紅葉は疎んじて反対した、それが小説の骨子となっています。鏡花はその女性と結婚した。ひょっとすると、こちらのほうが「金色夜叉」よりも優れているのかも、というのは言い過ぎか。主税(ちから)はもと掏摸(すり)、蔦吉は柳橋の芸者だった。いかにも荒唐無稽ですが、事実は小説よりも奇なりという、見本のような小説だったかもしれません。明治憲法下の治世、身分制や家制度を根本から否定する二人(主税とお蔦)の悲恋の物語。よくも書きましたな、鏡花さん、といいたくなります。「婦系図の歌」が出されたのは昭和十七年、戦時体制のただなかでした。惚れた腫れたには、戦争もかなわないという「世情背反」色恋沙汰の本調子でした。どうしてぼくはこの歌が好きになったのか、そんな、見境のない、退廃的な体質が胎内にあるんでしょうね。湯島境内には、いろんな運命に弄ばれた人々が、その足跡を残しています。(ぼくも、その一人だよ)そこで、「お祈り」して通じるんですかね。それにしても、この絵馬の山。誰が誰やら、天神さんはお分かりになるのかな。 

 「ここはどこの細道じゃ」「天神様の細道じゃ」「行きはよいよい、帰りは怖い」「怖いながらも、通りゃんせ 通りゃんせ」北野にも、湯島にも、大宰府にも、やはり道真さんの「怨念」が漂っているんでしょうか、今でも。

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 【日報抄】受験シーズンが本格化する。15日からの大学入学共通テストには全国で53万人が挑む。今年もウイルス禍の真っただ中。神様は受験生をどこまでいじめるのか。そう同情したくなるほどの試練が続く▼知識偏重から思考、表現力重視へ。そんなうたい文句で衣替えした入試改革は2年目で緒に就いたばかりだ。新変異株は受験期を狙い撃ちするように急拡大し、県内ではきのう、過去最多の新規感染が確認された▼当初、政府は感染者や濃厚接触者は受験を認めないとしたが、間際になって方針転換。本試験ができない受験生も追試や個別試験で合否を判断できるとした。柔軟さは大切だが、公平性が問われる。朝令暮改は混乱のもとだ▼休校の中、孤独に耐えて机に向かった受験生もいるだろう。受験の当日は例年、風邪や大雪の心配がつきまとうけれど、今年は何重苦か。勉強の追い込みどころでない若者の姿が目に浮かぶ▼悩んだり、考え込んだりする自分を受け止め、客観視してみる-。心理学者の諸富祥彦さんは、窮地の受験生にエッセーや著書でこんなアドバイスを送る。自分の中に落ち込む気持ちを見つけたら、少し間を取り、そんな自分を外側から眺める。すると、徐々に悲観的な考えから距離を置きやすくなるという▼「頑張れ」。大一番でこの決まり文句が多発される国である。「気楽に」「楽しんで」。欧米はこんな激励が多いという。「君は十分頑張っているよ」。今年は、こんな緩めの声掛けがあってもよさそうだ。(新潟日報・2022/01/14)

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 ただいま真剣に、あるいは鬼気迫る思いで「問題」と格闘している受験生に、相済まないようなことを書いています。でも、「神頼み」というのは、表面のことであって、実際は、それぞれの実力であり、まことの道にかなっているか、それが結果になって表れるのだろうと、ぼくは信じているのです。ぼくのおふくろは、五年前に百歳で亡くなりました。母親への、いろんな想いがぼくにもあります。その中でも、死んでも忘れられないというくらいに驚いたし、ありがたかったのは、ぼくが受験しているときのことでした。おふくろは京都、ぼくは東京にいたのですが、彼女は自宅近くの「車折(くるまざき)神社」に「合格」祈願に行っていたという。詳しいことは話さなかったし、聞かなかったが、おふくろは「お百度参り」をしていたと言った。それも何十年もたってから知らされたのです。ぼくは四十になっていたかも。

 これを聞いた時の、ぼくの衝撃は深かった。驚愕したと言ってもいい。その深い想いはその後、何かのたびに、ぼくにはよみがえってくるのでした。どのようなお参り方をしたか、ぼくは聞かなかったが、無能な息子、出来のよろしくない次男坊への、千尋の谷ほどもある深いおふくろの愛情・心配(だったと思う)に、いかなることがあっても、「おふくろだけは裏切らない・裏切れない」と、不真面目人間であったぼくは誓ったのでした。ぼくが感激したのは、合格とか何とかではなく、おふくろの「願いの強さ」がぼくを打ったと、直感したからでした。「親子系図」だね、まるで。

 もし、おふくろの「お参り」を入学直後に聞いていたら、まったく違った反応がぼくに起きただろうと、今でも考えています。母親にそこまでしてもらうほどの値打ちなんか、大学(受験)にはありません。そんな御大層なものでは断じてないと明言しておきます。それは、はっきりしている。でも、それ(受験)をきっかけにして、おふくろの真剣な姿(心根)が、確かにぼくに伝わった、それだけがぼくには貴重なことでした。おふくろは「神」(車折神社は「芸能の神」だとかいう)に祈ったのではなく、自らの願いを、ぼくに届けてくれたのだろうと、今では、ぼくには考えられます。絵馬を書いて祈るのは上辺(うわべ)の話で、実際は、絵馬に書いて祈りたくなるほど、「自分はこうしたい」という自己への期待の、強い表明であると、ぼくは思い続けているのです。お賽銭を払って、天神さんに祈った、後は「果報は寝て待て」というのではないでしょ。

 ただいま、受験の真っただ中の方々の健闘を、見ず知らずのおじいさんも念じています。今はお昼ご飯を食べようとしているところでしょうか。午後の部も、ご健闘されますように念じています。

 先は長いですよ、だから、ゆっくりと、アンダンテで。いつだって出直しがきくのも、また人生ですよ。どんなときだって、心に太陽でも何でもいいが、深呼吸を忘れないで。決して「頑張らない」ことですよ。頑張ると、ろくなことがない。頑張ろうとすると、きっと「こぶしを握っている」でしょう、人との競争じゃない生き方をしたい。こぶしを開いて、深呼吸ですよ。(ただ今、十二時十五分)

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◉ 百度参り(ひゃくどまいり)=神仏祈願するための呪法(じゅほう)の一種。ある特定社寺百度参詣(さんけい)して祈願すること。祈願の形式はその心情が痛切なほど複雑化する。一度の参拝では満足できずに、百度、千度と参詣するようになる。こうした形式を簡便にしたのがお百度石である。これは社寺の境内の、拝殿から一定の距離にある石で、一度拝んでからこの石の所に戻ってふたたび拝みに行く。この行為を百回繰り返すのである。これを俗にお百度を踏むという。回数を間違えないように数取りがある。素朴なものでは、小石や小枝を百ほど用意して拝む度に一つずつ置いてくる。また神前に竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんの形のものが備えてあったりする。願いを神仏に聞き届けてもらうために何日間もお参りするという行為が、神前とお百度石の往復に集約されたわけである。しかし、人々の切実な願いが背景にあるために、人の目に触れては願いが成就しないなどという伝えが広まっていった。(ニッポニカ)

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 国語は国民の精神的血液である

 【河北春秋】ある出版社が夏目漱石作品集を出した際、作家の内田百閒が推薦文を寄せている。百閒は『日本人の教科書』と題して「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」と書いた▼具体的には「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」という。百閒自身が敬愛してやまない漱石の作品は、若い人々に読まれて「年々新しく若返っている」▼時代を超えて読み継がれる文学作品は、読書の楽しみとは別に、人生の貴重な指針となり得る。名作に親しむ意義の一つだ。最近、気になるのは来年度から始まる高校の新学習指導要領。文学軽視の傾向が強まりそうだという▼国語の教科を実用的な文章の「現代の国語」と文学的な「言語文化」に分けた。結果的に古典や小説を扱う時間が減少する。現場の疑問の声は強く、また、出版社の中には「現代の国語」に小説を載せた社もあり、混乱している▼兵庫県の灘中学・高校の国語の先生だった橋本武さんは、中学の3年間を中勘助『銀の匙(さじ)』だけを丁寧に読み込む授業をした。生徒の読解力は飛躍的に伸びたという。文学がちゃんと読めることの大切さがこれでよく分かる。ちなみに、この小説は漱石が激賞した名作だ。(河北新報・2021/12/24)

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 かなり前のことですが、ある雑誌から原稿を依頼されて、書くことは引き受けはしましたが、ついでに、雑誌名に注文を付けたことがあります。編集者は驚いただろうと思いまっした。何度か頼まれ原稿を書いていたので、一度は言っておかなければという気になったのです。もちろん、ぼくの注文が届くはずもなかったわけで、相変わらず、この雑誌は「国語」教育界では名が通っているのだと思われます。その誌名は「国語教育」というものでした。誰も不思議に思わないとは、ぼくは思わないが、「国語」ってなんですかという問題です。当たり前に「国語」という教科を受け入れているし、その教科の「国語」教育(授業)にも、殆んどの人は違和感を抱かないのではないでしょうか。その代わりに、授業内容には「不満」はたっぷり抱くのかもしれません。おそらく、この「国語」という言葉は、あるいはその言葉が表そうとしている内容である「国語」は、明治以前にはなかったでしょう。「国学」という研究・学問領域はあったし、本居宣長さんなどがさかんに掘り起こしたのが、その「国学」でしたし、それがいよいよ勢いを増して、やがて維新直前には歪曲されつくした「国学」の、ある意味では全盛期であったとも言えそうです。戦時中はその「亜流」が我が世の春を決め込んでいました。その「国学」とは何ぞや、ホントはこれについて語らないと「国語」問題も宙に浮いてしまうのではと、ぼくは危惧してはいるのです。

 「国学」といっても、面倒なことになりますが、ここでは、簡単にしておきます。宣長さんが中興の祖のような役割を果たして以降、おおいに盛んになった「学問の一流派」であり、あるいは「儒学」、あるいは「洋学」に対抗すべく突き出されてきたものです。今でもこの、「流派の争い」は続いています。「国学」を一言で評するなら、「天皇の学問」ということになるでしょう。「天皇」という個人ではなく、「天皇」という語に表現されうる抽象性、それが「天皇」です。そこには歴代天皇の歴史に見られるべきさまざまな約束事、あるいは文化や伝統というものまで含まれます。宣長さんが「国学」という名称は「そはいたくわろきいひざま也」であって、むしろ「皇国の事の学」といえばよかった、つまりは「天皇の学問」です。

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〇 こく‐がく【国学】=〘名〙① 令制で、国ごとに設けられ、郡司子弟を教育した学校。教官には博士・医師を配置し、おもに経書や注釈書を教授した。学生の定員に余裕があれば庶人の入学も許された。諸国にすべて国学が設けられたか否か疑問であるが、大宰府には政庁に隣接してたてられ盛況を極めた様子がうかがわれる。国の大学。〔令義解(718)〕② 江戸時代中期に起こった学問の一つ。記・紀・万葉など、日本の古典を文献学的に研究し、固有の文化を究明しようとしたもの。契沖荷田春満(かだのあずままろ)賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤などを中心として展開した。和学皇学皇朝学。古学。本教学。※うひ山ふみ(1799)皇国の事の学をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也」③ その国やなどで行なわれている学問。※葉隠(1716頃)一「御家来としては、国学可心懸事也」④ 中国、古代の制度で国都に設けた学校。隋以後は国子監という。〔礼‐春官・楽師〕[補注]本居宣長は、②の挙例にあるように「うひ山ふみ」のなかで、学問の名称としての「国学」を退け、自身では「古学」とよんでいる。

〇 初山踏(ういやまぶみ)=本居宣長(もとおりのりなが)の学問論。1798年(寛政10)成立。この年『古事記伝』を完成させた宣長は、弟子たちの求めに応じ、国学を志す初心者の心構えを説きした。賀茂真淵(かもまぶち)の『にひまなび』(1765成立)を意識しつつ、問の中心に「道」学びを据え、その勉強法を具体的に示し、さらに伝習や慣例にこだわらぬことなど学問の態度についても懇切に述べている。そのうえ国学を「道」学びに限定せず、歌文を学び、有職故実(ゆうそくこじつ)や国史の研究など、関連領域の重要さを述べ、国学の柔軟性をみせている。(ニッポニカ)

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 「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よはくては、学問すすみがたく、倦み怠るもの也」「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く、倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」

 「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」(以上は『うひ山ぶみ』より)

 余話です。三十過ぎの頃から、ぼくは心を躍らせて宣長を読みました。この「うひ山ぶみ」は何度読んだことでしょう。けっして「国学」オタクにもならず、「皇国史観」かぶれにもならなかったのが不思議なくらいに読んだものです。筑摩書房の(宣長全集」(全二十三巻)は、いまでも堂々とした風貌で、わが貧相な書棚に並んでいます。

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 「国語問題」についても、少しばかりあちこちで、ぼくは触れていますが、「日本の歴史」あるいは「日本史」は以前は「国史」と言っていました。これもやはり「天皇の歴史」です。さらには、この社会の文学文芸一般を「国文」「国文学」と称していたのは言うまでもありません。その典型は「王朝文学」であり、貴族社会の文化でもありました。今日では「日本文学」という名称(呼称)が圧倒的になりましたし、そのための「改名運動」のようなものがある時期に集中して行われたのです。しかしまだ「国史」や「国文学」という伝統的呼称に拘っている、あるいは改名の機運を逸したという判断で、旧来の名称(「昔の名前」で出ています)のままというものも結構ありますね。大学なんかは、このような「名称」により多くかかわって来たでしょう。いまでも「国学院」「国士館」「皇学館」などという名称を維持しているところは多数あります。

 「国語」という教科名は、単なる思い付きで使われてきたのではないのです。「国学(学問)」「国史(歴史)」「国民(民族)」という、「三重(三段重ね)の重箱」は、どれ一つが欠けても重箱の用をなさなかったのです。深入りしそうですから、方向を転換します。「国語」は「国の言葉」です、確かにそうですが、その「国」とは何を指して言うのでしょうか。それが宣長さんの言う「皇国の事」であるのは明らかでした。「皇国」というのは「天皇が統治する国」のことで、敗戦前までは「日本(大和)そのもの」だったのです。「すめらみくに」であり、他国を圧倒して優秀な国柄を誇っていた(そうです)。「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とは、日露戦争の日本海海戦時の戦艦「三笠」に掲げられたZ旗の檄文(東郷平八郎作)でした。そのように「皇国」「天皇の統(す)べる国」で使われるべき言葉、それが「国語」が担った機能・役割だったのです。もちろん、そこから作られるのが「臣民」でした。

 (運動会になると「軍艦マーチ」が轟(とどろ)いたものです。どうしてかな。ぼくはそれを聞くと、パチンコ屋を思い出します。結構はまっていたんですよ、「打ち止め」狙い。ここでもぼくは「非国民」でした)

 「英語」「米語」「仏語」「独語」「伊語」などという表記をしますが、欧米諸国はその地域内で使う言語という意味合いの名称を用いていました。その伝で言うと、どうして「日本語」にならないんですか。これがぼくの疑問、いや「国語教育」不審・不信といってもいい。ぼくは文学者でも「国語」研究者でもないから、言っても詮無いことのようですが、先に述べた雑誌の編集者にも、このような背景や事情がじゅうぶんに理解されて「国語教育」という雑誌名に拘っておられたのか、大いにぼくは訝っています。今から思うと、これまでの学校(小・中・高・大)時代、多くの国語教師に接してきましたが、ぼくが指摘しようとしている「国語」と「日本語」問題に、少しでも言及しようとした教師は、おそらく一人もいなかったと断言できそうです。「国語」を「日本語」に改称することに、どんな不都合があるのでしょうか。(「国語」であろうが、「日本語」であろうが、「どこに違いがあるんです」違いがないんだから「国語」でいいじゃないか、という向きが多勢である限り、「国語教育」は解放されないでしょうね)

 「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」と書いた内田百閒は、まさしく言葉の正しい意味で、「日本語」に関わって「正鵠を射る」文章を書いたのでした。漱石は日本人の先生で、その作品は日本人の教科書だという時、その教科書は「日本語」でなければならなかったでしょう。漱石の作品は、明治の「文明開化期」に大きな位置を占めていました。それは「国語」という維新期にふさわしい教育に資する言語(日本語としての「共通語」「標準語」)を生み出すために欠かせないテキストになったからです。漱石と並んで子規や鴎外なども、この「新しい言葉」を生み出すために大きな働きをしたのです。どこかで触れておきましたが、この国に初めて「国語」という名称を使った(作った)のは上田萬年さんでした。現在平凡社の「東洋文庫」で読める「国語のため」という著作は、この間の事情を余すところなく展開しています(いずれ、この問題について駄弁りたいと考えている)

 「国語は皇室の藩屏である。国語は国民の精神的血液である」という国粋色の濃厚な「国語」「国語言語」論は、やがて朝鮮侵略に不可欠となった「言語強奪」へとつながっていくのでした。(これはまた、別の機会に)

〇藩屏=おおい防ぐ垣根。守りの。また、守りとなる物のたとえ。かくれまがき。〔新令字解(1868)〕② 特に、皇帝・皇室の守護となること。また、その人(精選版国語大辞典)

〇 上田万年(うえだかずとし)(1867―1937)=国語学者。現代国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。(ニッポニカ)

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 次年度からの新学習指導要領で「国語の教科を実用的な文章の『現代の国語』と文学的な『言語文化』に分けた」という。分けたがどうだ、というのか。いったい何を考えているのかというなら、実は審議会の連中も文科省の官僚もほとんど考えていないと言っても間違いありません。教師や子どもが翻弄されてきたのが「教育行政」でしたが、行政の無作為(無計画)、これは文字通り「不易」に類することでしょう。「行政」ならぬ「虐政」であります。ぼくは学校時代、まったく本を読まなかった。自分の怠慢が第一の原因でしたが、「国語」教育が死ぬほどつまらなかったからでもあります。古文解釈と言って、「数行」読んでは、何でもかんでも分解するばかり、これが面白いという生徒がいたら「おへそで茶を沸かしてやる」といったくらいです。(「英語」も右に同じでした)

 だから、まず本を読まないで、外遊びに徹する、それがぼくの決意(というほどでもないが)だった。その代わりに(大学に入ったら)「狂ったように、本を読もう」と思ったのですが、思いは叶わず、今度は「室内ゲーム(飲み屋さん)」に入れあげてしまったのです。気が付いたら、もうこんな歳(手遅れであり)になってしまいました。「現代の国語」といい、「言語文化」という、その内容は、ぼくには定かではありませんが、名称だけを見ていると、なんだか「悪すぎる冗談」だという気がしてきました。「昔へ昔へ」と、草木も靡くということは不正(視野狭窄)(歴史の改竄)ではないですか。

 学習指導要領は十年をめどに改定されてきました。そのつど、教科書はすべて新たに作られる。採択されれば、時には数百万部の「空前のベストセラー」です。莫大な教科書代金が動くんですね。もう何十年も前になりましたが、ある教科書会社の幹部という人と会食する機会がありました。「三蜜」状態で、新宿辺の料理屋さんに呼ばれました。大変なものでした。「ぼくの知らない世界が、ここにあるんだ」と、ぼくは「井の中の蛙」であることを幸いだと思ったことでした。これは下種(下司・下衆)の勘繰りです。これまで一冊だったものが、二冊になったら、それにかかる費用はどうなるのでしょう。ぼくは昔から「教科書代(もちろん授業料も)は無償にすべき」だと主張していました。「義務教育はこれを無償に」の中に、当然入れるべきものでしたね。(高校も大学も、いまや「義務教育」ですよ)この下にある「指導用資料」も、ずいぶんと高価なんです。(明治期、何度か「教科書汚職」と言われる事件が起こっていましたね。「検定」といい、「採択」という「さじ加減」はいつだって生きているんですね)

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 「世界と日本」人間とわたし」、この言い方は、どこか変じゃないですか

 以下は余談です。ぼくは現場を離れていますから、実状に疎い。したがって、これから述べることは見当違いであることを断っておきます。上田萬年先生が「国語は国民の精神的血液である」と言われたことについて、それはそうであってほしいという願望であると同時に、そのような「国語という血液」に満たされた「国民を創る」という強い信念があったのだろうと推察します。この「国民」は、言い換えれば「臣民」だったはずで、天皇制国家における「赤子(せきし)」としての国民育成のための「国語教育」だった。今日において、ぼくは「国民」であることは、(法的)事実において誤りではないけれど、果して、ぼくの中に流れている「精神的血液」が「国語」であるかどうか、大いに疑わしいのです。面倒なことになりそうですから、切りを付けたいのですが、問題は複雑怪奇で、一筋縄ではいきません。

 「現代の国語」というのですから、「過去の国語」というものがあるに違いありません。それはどういうものであり、それとどのように異なるのが「現代の国語」なのか、実物を見なければ、確たることは言えそうにありません。その場合の「国語」をどのようにとらえているか、ぼくには疑問なしとしないのです。

 さらにもう一つの問題ですが、「言語文化」というものの内容です。「文化」は固有性を持っていますが、その固有性を自覚するためには異質なものを知らなければならないでしょう。ある種の「鏡」がなければ、自己認識は困難です。現状の「国語」に対して、異質な言語は何でしょうか。「分かり切ったことを言うな」と非難されそうですが、例えば、英語や韓国語(朝鮮語)というものが横にあって、初めて「日本語」の特徴というか、固有性が明らかになるのではないでしょうか。とするなら、その「国語」は、当然「日本語」ということになります。それでも「国語」でなければならぬ根拠はどこにあるのか、もうお里が知れているのですが、そろそろ「国語」(という表現を使用するのだけでも)は廃止して、「日本語」にすべき時期だろうと、ぼくは愚考している。

 「国語」と「外国語」というとらえ方に、ぼくは強い違和感を覚えます。もっとも、日本は「世界を相手に戦争した」国柄ですから、少しもおかしくないのでしょうが。でも「世界」の外にある「日本」というのは、どういうところに位置しているのですかね。「世界と日本」という、どいう了見でこんな言い方が出てくるのか。日本は「世界の外」というのですか。同じことだと思いますが、それなら「人間とわたし」というのはどうか。まるで「わたしは人間の外」「人間以外」と言っているようだし、実際に、そのように自己認識しているのですか。「オットセイとわたし」というのなら理解はできますね、わたしはオットセイじゃないからです。こんな言い方も「国語的表現」なら問題はないというのかもしれませんが、「日本語表記」としてはいただけないし、こんな表現をする当事者の頭脳の程度を強く疑われます。(さらに加えたい事柄がありますが、機会を改めて、「新しい指導要領」を一瞥して、底の浅かろう「愚見」を、しかも、「日本語」で書いてみたいものです)

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 あなたが最近、訪れたスポットはここです

 【明窓】 極めて便利なツールだが 電車やバスに乗った時、周囲を見渡すと、8割方の人はスマートフォンに見入っている。ニュースサイトを見ている人、ゲームやメールをしている人…。ちょっとの間なのだからスマホから目を離せばいいのに、といつも思う▼いわゆるガラケーからスマホに替えて1年になる。電話とメールができればいい、と思っていたし不便も感じなかったが、通信費が安くなるからと娘が格安スマホに替えてくれた。使ってみるとその便利さに驚く▼年のせいで人の名前が出てこないことが多いが、ちょこっと調べるとすぐに出てくる。以前はかばんの中にカメラ、録音機、ラジオ、懐中電灯などを入れていた。しかしスマホがあれば、これらをばらばらに持つ必要はない▼読書、ゲームもできるし、新聞も読める。買い物もできるのだから、1人になるとスマホを使いたくなるのは理解できる。しかし、興味があるサイトを開くと、関連したコマーシャルがどんどん画面上に出てくる。つまり個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない▼歩きスマホをしている人も多く、ぶつかりそうになることも。ましてスマホを見ながら自転車を運転するなんて自殺行為だ。ナビ機能の位置情報を最近はオフにしている。「あなたが最近、訪れたスポットはここです」という案内など余計なお世話だ。自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い。(富)(山陰中央新報デジタル・2021/12/18)                                     (ヘッダー写真は<https://arch.gatech.edu/tokyo-smart-city-studio>から)

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 週替わりのメニューのように「内閣支持率」が報道される。飽きもしないで「よくやるね」というのが、ぼくの没感想(愚感)です。どうしてこんな無粋な情報にもない情報以下を垂れ流すのか。紙面構成の都合なんですかね。「この内閣を支持する理由は?」に「ソーリ大臣の人柄が信用できそうだから」(知りもしないで、さ)。反対に「この内閣を支持しない理由は?」「人柄が信用できそうにないから」、ひょっとして、これは同じ人が応えてるんじゃないのと、いつも思う。「信用できそうだから」が三日ももたないのですから、こんな調査が「信用」できないと、誰だって、そのよう受け取るでしょう。だから、ぼくは「世論調査」というものを端(はな)から信用していない。不信・不審しか持たないのは、政治家・官僚の国会答弁や、官庁の「統計資料」と同じです。嘘八百であり、偽造であり虚偽であるからです。だから、これをぼく流に言いかえると、「世論調査」は「世論操作」となります。「調査は操作」なんだ。欧米では遥かの昔から、この手の報道で政治が動いていました。「まさか、これが、世論操作?」と疑い深いのは、初心(うぶ)なんてものじゃない、立派な「すれっからし」の列島民だけですよ。「知ってるくせに」、ですね。「さまざまな経験をして、悪賢くなったり、人柄が悪くなったりしていること。また、その人。すりからし」というのは「デジタル大辞泉」です。こんな政治が続けばどうなるか、先刻承知で、明けても暮れても「◉✖党」に名を成さしめてきました。こんなもんでしょ、という「すれっからし」の選挙結果です。

 物事には表があるのだから、裏もある。裏だけ、表だけということは一切ないのが道理です。人間も同じ。「腹」もあれば、「背中」もある。あるいは「腹」と「背中」は元来は同じだったが、いろいろと不便・不都合が生じるようになったので、たがいを区別するようになったのかもしれない。「おへそ」のあるところが表であると決めたんですよ。その証拠に、ぼくはこれまでに何度も、落語で「へそが背中に回った、お里帰りしたよ」というような話を聞いたのですから。やがて、そのようなところから、「背に腹は代えられない」という俚諺が生まれた、きっと。(この「ことわざ」も意外に難解ですね。意味は不明瞭です。腹には「五臓六腑」があって、大事なところ、背中は肋骨や背骨で守られているから、丈夫だとか、まるで頓智のような解説が定番です)「余人をもって代えがたい」というのと同じようなことじゃないですか。要するに、表もあれば裏もある、本音も言うが建前も忘れていない、これもそうでしょ。「あんたの考えはどっちや」ときかれ、「一括現金給付もあり、です」と言ってみるが、最初は「半分は現金、残りはクーポン」の方針は譲れないと言っていた御仁だ。「人柄が信じられそう」「人柄が信じられへん」、誰が見ても、そういう矛盾したこと(受け止め)が生じるのは当然だね。

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● せ【背】 に 腹(はら)はかえられぬ=同じ身体の一部でも背と腹をとりかえることはできない。大切なことのためには、他を顧みる余裕がないことのたとえ。大きな苦痛を避けるためには、小さな苦痛はやむをえない。背中に腹はかえられぬ。背より腹。(精選版日本国語大辞典)

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 「明窓」氏を、あなたは「信じられる?」「信じられない?」、どちらですか。「ガラケーでいい」と言っていたのに、反対に「利用料と便利さに、もう手放せない」と宗旨替えをいわれる。何でここに「娘」が出るん? いずれにしろ使うと便利だ、というところで口を閉じればいいのに、しかし「個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない」とか「自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い」と仰る。阿保か、と言いたくなりますな。「ある意味ダダ漏れ」も、「誰かに把握されている」というのも、そもそものネット社会であり、「情報化」というもんでしょ。でも、この「明窓」氏と同じように、いろいろ御託を並べてはいるけど、結局は時代状況、流行に「どっぷりつかっている」のは「ええ気持ちや」という風潮です。「茹でガエル」の教訓ですね。実際に、「蛙をゆでた人」がいるんでしょうね、蛙はそうだけど、人間は違うと言いたいのですが、どうですか。

 ぼくは若い頃には「行動心理学」(学習理論)とやらを齧っていたことがありました。その領域では、実験に「モルモット・ネズミ」を使う場合が多かった。特に「学習」「記憶」などの問題を研究するのに、生の人間を使うわけにはいかなかったので、いつだって「ネズミ」だった。それでネズミ実験の結果が、直ちに人間に適応されることがほとんどで、「学習心理学」は出来上がっていたのです。今だってそうですね、ワクチンの動物実験など。それを称して「人間のネズミ化」といった学者がいました。「ratfication」そこには、サルやネズミなどと人間の「同一視」が厳然とありました。それを可笑しいとは、大半の研究者は言わなかった。(これについてはもう少し詳しく述べる必要がありますが、今回の主題ではない。いずれにしても、話は逸れました)

● ゆでガエル世代=1957年から66年生まれの50代ビジネス・パーソンを表す言葉。カエル常温の水に入れ徐々に熱すると水温変化に気が付かず、ゆで上がって死んでしまうという寓話と50代ビジネス・パーソンの置かれている状況が似ていることから、日経ビジネス誌が命名した。この世代の会社人生はバブル経済到来と共にを開けた。しかし、数年後にバブルが崩壊し、その後もITバブル崩壊やリーマン・ショックなど危機が幾度も訪れた。同誌はこの世代を、安泰に会社員生活を終えられると考え厳しい現実から目を背け続けていたために、50代になった今、過酷な現実を突きつけられ、ぼう然自失となっていると分析している。(2016-9-6)(知恵蔵min)

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 「あったら便利」だからと、ほとんどの人はスマホや携帯を所持されています。あったら便利の反対は「なかったら不便」というのでしょうか。ぼくにはそうは思えない。ある人には「あったら便利」でも、別の人には「なくったって構わん」ということではないでしょうか。ぼくは「あったら便利」という観点で、物事をとらえない人間です。むしろ、「あったら不便」という判断基準があるんですね。あえていうなら、「何ですか、あったら便利?」「そうだな、お金かな」「それで困っている人を少しでも助けられるやん」という程度。ところが、世間の人は「あったら便利」という観点で「お金」をとらえていないでしょ。「ないと困る」という切羽詰まった気持ちがあるから、こコンビニで、ドスを突き付けて、「黙って、金出せや!」という仕儀になるのですよ、きっと。(ほんとに「黙って金出す」店があるんですね)携帯やスマホがなかったら、生活できないというのは、ウソだと言いたいね。「決して、切羽詰まらない」これは、まるで「(他人に誇れる。自慢できる)学歴」の有無と似ていますね。高卒や大卒の学歴がないから生きていけないということは、まずありません。反対にその学歴があるから「生きていけます」ということにもならない。「あったら便利」、そんな程度や。役に立たないけどね、スマホほどには。つまるところ、「あっても不便や」です。

 これはどういうことですか。ぼくには、「これがぼくの学歴です」というほどものもなかったし、「家柄」とかいう「江戸の名残」「封建の遺物」なども微塵もありませんでした。だから「生きていけなかった」とは言えないようで、まあ、「死なない程度には生きてこれた」と思っています。スマホと学歴は似た者同士。まず見栄え(偏差値と型式)、相場が高いか安いか(ブランド・無印)。多機能かどうか(就職や婚活に有利か・通用範囲が狭いか)、あるいは「スマホとカバンや靴」、「スマホと時計」、なんだか似た者ばっかりが、この世で「ちやほや」されているようです。靴やカバンや時計なんて、ぼくには最低限度の必要性も(しか)ないものばかりです。その他、いくらでも類似点を示せますが、バカバカしいので止めておきます。いかにも「学歴」に似ている。「学歴は身分なり」という、信じがたい迷妄に弄ばされてきたのが、この島社会だったでしょうね。今も、余韻というか余波、いや、残滓(ざんし)が蔓延っています。

 「極めて便利なツールだが…」、ぼくは持ったことがないし、持とうという気もない。所有無用、まったく要らないからです。以前には、かみさんが盛んに「持ちなさいよ」と脅迫してきた。その理由を聞くと「あなたが持てば、私が助かる」だった。なんじゃそれ?と呆れました。かみさんの「便利のために」、何でぼくが携帯やスマホを持たなあかんのと、一貫して拒否しています。しかし、そんなことを言っているうちに、何でもかんでも「携帯」「スマホ」を使わなければ生きていけない時代になってきた、いやそんな環境を一生懸命に作って来たし、これからますますそうしようというのが「経済」という名の「金の亡者ども」の企みなんでしょうね。それを称して、smart city だってよ。やがて、スマホや携帯を持たない人間は「不所持」の罪を着せられることになりそうです。甘んじて「罪を被る」というのではなく、断じて、ぼくはそんな「冤罪」は認めませんよ。

 学歴差別というものが現実にある社会は「貧相な社会」「恥ずかしい社会」だし、この島は確かにそういった社会状態ではあったと言えます。「何かを持つ」「持たない」で人間の値打ちを「量る・測る」社会には、ぼくは住む気もないし、断じて抵抗したいですね。何d化、「量り売り社会」だね。断じてという意味は、その「何かを持たない」という姿勢を貫くということです、ささやかな風を吹かせながら。(こんなのを「年寄りの冷や水」というのですか。(冷や水がいけないなら、温(ぬる)めの燗(白湯)がいいよ)「学歴フィルター」をかける企業があるとして、そんなとこに「入る・入ろう」とすること自体がナンセンス。そんな意気地なしで、どうします。「持ち物」で差別する企業が、どんないいことを言ってもしても、それは「表向き」でっせ。ぼくはいくつかの企業を、いくらか知っていましたが、「アカン企業やった」な。例えば T 芝だとか、H 立だとか、M 菱だとか。「フィルター」そのものが。とっくに「目詰まり」を起していました。汚染された空気(風)が「社風」になっていました。そんなのが「一流」なら、この社会は「終わってまっせ」と受け止めていたね、もう数十年前のことになりますが。(以下の表は:https://money.rakuten.co.jp/woman/article/2021/article_0279/)

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 さ霧消ゆる 冬景色 時雨降りて 日は暮れぬ

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● 冬景色=日本の唱歌の題名。文部省唱歌。発表年は1913年。歌いだしは「さ霧消ゆる湊江の舟に白し朝の霧」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定された。(デジタル大辞泉)

♫♬=https://www.youtube.com/watch?v=oA_KqAHgV-A

 今朝は、今季でもっとも寒い夜明けとなったようです。この駄文を書いている今は、午後の一時半です。先程から「時雨」が降り出しました。「冬景色」というものをすっかり消しているのが、現代という時代と社会だという気もしていました。百年以上も前に小学校で歌われた唱歌。この季節になると、ぼくはきっと思い出し、思い半ばにすぎるものを感じます。だれにだって、そんな「記憶の中の唱歌」がきっとあります。ぼくでさえ、いくらでも数え上げられます。この「冬景色」も作詞・作曲ともに「不詳」となっていますが、多くの他の唱歌と同様に、明治期の文部省が唱歌を作る際に、いろいろな専門家で合議した結果、誰が詩を書き曲を書いたがはわからなくてもいいということになったのです。何よりも学校に唱歌を取り入れるのに急を要していたという事情からでした。

 ぼくは唱歌に限らず、「歌」そのものが特に好きではないし、唱歌でも特別の想いがあるものはない。ただ、生活環境の中で、今日とは比較を絶して単調であったし、娯楽というものが自然を相手にして、自分で生み出すという性格のものだったから、この小学校唱歌で歌われている「世界」は、ぼく自身が、幼いなりに生きてきた環境でもあったのです。だから、歌詞がきれいであるとか、メロディが素敵であるということとは関係なく、自分の記憶に焼き付いている「景色」が、再現されているという気持ちになるのでしょう。いくばくかの感慨が湧きます。(昨年も、この曲に触れたと記憶しています。わが脳中の記憶組織は、やや不調気味であり曖昧でもあります。駄文の山は積み重なり、数から言えば、とっくに千編を超えました。「千編一律」というのですな)

 いずれにしても、この島社会の景観・風物・労働・生活、それらが一年間の各季節ごとに歌われることによって、一面では、愛郷心とか愛国心というものを涵養しようとしたことは疑えないところです。しかし、この「冬景色」をどこにいて(どんな土地で)歌うか、耳にするか、そのことは実に重要な要素でもあります。この歌詞に詠われている「冬景色」からは想像できいないような、過酷な「雪の下の生活」を強いられていた(いまでもなお、いる)人々の想いはまた別のものだったと思います。

 旧聞を引用しておきます。教育や学校というものについて、たくさんのことを、ぼくはこの人から学びました。

HHHHHHHHHHHHHHHHHH

子供の心見える 綴方のススメ

 3月に連載された「こころの作文」では、子どもたちに身近な出来事を作文に書かせ、それを授業で読み合うことで「心」を育む教育法「生活綴方(つづりかた)」に全校で取り組む堺市立安井小学校を紹介した。戦後まもなくに出版され、この教育法が広く知られるきっかけとなった文集「山びこ学校」を世に出した元教師の無着成恭(むちゃくせいきょう)さん(89)に、いま作文教育に取り組む意義を語ってもらった。(左写真:戦後間もない山形の中学校で作文綴方を実践した無着成恭さん=大分県別府市)

 山里の厳しい生活を記録した「山びこ学校」は「雪がコンコン降る。/人間は/その下で暮らしているのです。」という生徒の詩から始まります。教え子に作文を書かせたのは、貧乏なのは自分たちのせいじゃなく、そうさせているのは何なのかに気づいてほしかったから。自分を洗いざらいさらけ出す、そこからしか日本の民主主義は始まらないという発想からでした。

 連載を読んで、こういう学校がまだ残ってるんだなと驚くとともに、うれしくなりました。安井小では転校して来てクラスになじめない子をフォローする子たちがいましたね。「山びこ学校」でも、お金がなくて修学旅行に行けない子を連れて行こうと、クラスみんなで積み立てをしました。作文を読むと、その人の生活や心の中がわかる。他人の目を通して物事を見る経験は、自分自身を見つめることにつながります。弱い立場の子を仲間として受け入れる。そういう子が出てくるのが大事なんです。(以下略)(朝日新聞・2016年04月24日)

HHHHHHHHHHHHHH

 幼いころ、ぼくは石川県の能登中島の熊木村というところで生まれ育ちましたから、過酷な「冬景色」は身に染めて覚えている。自然環境の厳しさは、学校唱歌が好く教えるところではありません。むしろ景観の美を歌い、豊かな「四季の移り変わり」を謳歌するべく、唱歌は利用されたとも言えます。今の「音楽教育」がどのような具合になっているのか、ぼくには知るところがありませんから、勝手なことを言うこともできないし、そのつもりもありません。戦争の惨禍や自然災害の愕然とする惨状、あるいはそれ以上に人災に苦しめられてきた庶民の「生活の苦しみや辛さ」はまず「唱歌」の題材にはならなかったというところにも、ぼくたちは気を配るべきであろうと思うのです。(それでも「唱歌」は戦争への大きな「旗」として用いられたという歴史も忘れてはならない問題です。このことについては、どこかでまとめて考えてみるつもりです) 

 時雨は、本降りになってきました。「冬景色」の三番に詠われている光景は、今ではどんなに想像力をたくましくしてもかなわない、地上から消え去った記憶の彼方の風景でしょう。この世のモノは、すべて消え去り、再び浮かび出ることはなさそうです。時は過ぎ、さらに過ぎて、いささかもとどまる気配がないのも時の定めでもあります。その時、人は時の深みに沈みゆくばかりです。

嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の 漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里

 雪の北海道のあまたの地域でも、景観の「ライトアップ」がもてはやされています。ぼくには、これがわからないんです。なぜ「ライトアップ」なのか。それを美しいとか、神秘的とか言って売り出す方も見に行く方も、どうしたんでしょうねえ。ほかにすることがないんですか、減らず口を叩いたり、余計な世話を焼きたくもなります。どこでもおそらく、「若し灯火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里」を隠したいのかもしれません。本当は「ありのまま」がいいんですね。それにしても、薄化粧じゃなく、たっぷりの厚化粧を野山に施すというのは、なんという心ない業でしょう。いまだって、深い雪に閉ざされる「生活」を送っている人々がこの島にもいるのです。

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 「らくだが死んだとよ、ありがてえなあ」

 【筆洗】乱暴で近所中から嫌われていた男が食べたフグの毒にあたって死ぬ。落語の「らくだ」である▼生前、その振る舞いによほど苦しめられたのだろう。らくだの死を聞いた大家の喜びようがすごい。「えっ、死んだの。そいつはいい塩梅(あんばい)だなあ」「ありがたい。そりゃあたしゃ助かったねえ」「おい、生き返ることはないだろうね」「頭をよくつぶしておかなきゃいけないよ」。らくだが生きていたときは手も足も出なかった大家が急に元気になるのがおかしい▼「らくだ」の一席を聞いた心持ちになる。田中英寿前理事長の脱税容疑による逮捕などを受けた日大の記者会見である。「田中前理事長と永久に決別し影響力を排除する」「今後は日大の業務に携わることを許さない」。加藤直人新理事長の言葉はなるほど威勢がいい▼威勢がいい分、ならば、なぜもっと早く、田中前理事長の身勝手なやり方を戒める動きが大学内から出てこなかったかという思いにもなる。逮捕、理事長辞任となった後で田中容疑者に強気な姿勢を示されても聞いている方はため息が出るばかりである▼前理事長の力がそれほど恐ろしかったのだろうとは想像できるが、大学という学識と探求心の場でそれとは無縁なでたらめな経営を許してしまった。その事実は消えぬ▼らくだが二度と出現しない具体策を示していただかぬ限り、学生は落ち着くまい。(東京新聞・2021/12/12)

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  「筆洗」に「らくだ」が出てくるとは、「御見逸れしました」と正直に言えば、あるいは失礼になるかもしれません。記者は、もちろん落語オタクであり、関西出身の方かもしれません。いやいや、いうまでもなく東京の方でしょうとも。とにかく、この噺の主人公(本当の主人公は「屑屋さん」です)の「馬さん」ほど嫌われ者はいないというほどの「悪態ぶり」です、それも巨悪に挑む「小悪」ではなく、ささやかな生活に明け暮れている庶民を泣かせるのですから、質が悪いとしか言いようがない。八百屋でなんでも、ほしいものは片っ端から持っていく、カネを払わないで品物を持っていく始末です。もちろん家賃は払わない。「たなちんって、なんだ」などと抜かすようなやくざものです。だから、馬さんの死を耳にして大家は「飛び上がって喜んだ」のです。この噺は、元来が上方(関西)ものでした。だから、どうせ一席を伺うなら、大阪の噺家に限るでしょう。今でも、どこかの町内にこんな荒くれ者がいるはずです。笑福亭松鶴(鶴瓶さんの師匠)さんがピッタリでしょうね、まさみ当たり芸だった。「馬さん」にそっくりというと、泉下の師匠に怒鳴られますね。あるいは米朝さんも凄かったし、そのお弟子だった枝雀さんも、なかなかのはまり役を堪能させてくれました。少なくとも一回は、ぼくはこれら、並みいる師匠連の噺は聞きましたね。

● 屑屋(くずや)=廃品再生を目的として屑物を買い集める業者の俗称。廃品回収業者のこと。江戸時代からあるが,近年は都市化,工業化の過程で発達した一種職業となっていた。仕切屋から金を預って買い集め,仕切屋はそれを金属などに分類して,それぞれの製造会社に売った。関西で「てん屋」と呼ばれたこともあったのは,「たまってんかー」などという呼び声のためである。(ブリタニカ国際大百科事典)

 ぼくは上京してから、くりかえし聴きましたので、やはりなんといっても志ん生さんでした。(この演目はぜひとも、志ん生さんのものをお勧めします)先ごろ亡くなった小三治さんも立派なものでした。とにかく、このネタは、どなたがやっても、相当に聴きごたえがあります。それだけ、人々の心中には「馬さん」的なものに対する鬱憤と、屑屋さんの「弱気が駕籠を担いでいる」表向きと、酒が入った時の凄みというのはそうそう見られたものではない、だからこの屑屋さんの「啖呵」に人々は留飲を下げたのだったろう。志ん生さんは文字通り、駕籠を担いで(素面で)町内を回っている役にぴったりでした。というわけで、「よくぞ、河豚(ふぐ)が中(あ)ててくれた」と赤飯焚いて、祝儀まで出そうかという大騒ぎは、この悪漢の退場を、馬さんの友達以外は、心底望んでいたことが偲ばれます。(友人だって、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、なんとも怪しいものでした。ただ酒にありつけると、ひたすら儲けものをしたのだから)

 ぼくが感心したのは、そんな「馬さん」と日大の前理事長が兄弟分だったという、記者の、洒落っ気がありすぎるような「目利き」です。言われてみて、なるほど、そうだったとぼくも遅まきながら合点したのです。それほどに嫌われていた(あるいは、恐れられていた)田中某氏が「失脚」したという。誰もが「待ってました! たーなーかーや」とご祝儀袋を配ったとか配らなかったとか。今を去る六十年代、この島の各地の大学が大騒ぎをした、その発端になったのが「日大闘争」でした。当時も「会頭(と言っていたんですね、大学の代表を)の大学私物化」が大問題にされ、確か、死人がでたほどでした。その後の騒動の広がりで、神田界隈が「カルチェラタン」になったと言われました。(*使途不明金発覚から紛争が拡大。会頭の古田重二良(壇上中央左)や日大全共闘議長の秋田明大(同右)も出席して初の「大衆団交」が開かれた=1968年9月30日、東京・両国の日大講堂:中部経済新聞)(この「日大講堂)が後年になって「国技館」に生まれ変わります。日大と相撲社会のつながり・因縁も深いものがありました。)

 この騒動が「学生運動」として各地の大学に広がり、まるで燎原の火のようでもありました。ぼくはそんな時期に大学入学を迎えたのでした。学生運動の洗礼を受けたとも言えます。ぼくは「運動」には関心も興味も持たなかった。その方法や根拠が怪しいと確信していたからです。そのような学生運動の季節の中から、後輩の森田必勝君と知り合いになり、さらに運動には批判的になりました。またこの時期の同級生には「反学生運動」の強烈は信念を持つ友人も何人にもいました。今も健在な、「元一水会」の代表だったS君などがいましたし、その近くにいた友人の何人かは、産経新聞に入り健筆をふるっていました。森田君は、後年の「三島事件」の同志となったのでよく知られています。ぼくはこういう連中とは、卒業後は一切交際はありませんでした。

 日大という大学は、「劣島最大のマンモス」だということですが、いずれマンモスは絶滅する運命にあったことを考え合わせると、その行く先に一抹の悲しさを覚えます。古田氏も大学職員だったし、今回の田中氏もそうでした。それで何かを言うのではありません。大学を私物化するのは、けっして一人ではできないし、教員の代表でも難しかったのではないかということを愚考したまでです。さらにいうなら、今は事情が変わりましたが、往々にして「大学経営」に教員は不向きだったというか、無関心の度が深かったと思う。それが、こうなった理由だと単純化はできませんけれど、なにがしかの背景の背景にはなっていたでしょう。それにしても「前代未聞」が二度三度と発生するのですから、この大学もまた「伏魔殿」で、「馬さん」が後を絶たないということでしょう。どうしてこうなったか、その幾許かをぼくも考えていないわけではありませんが、ここでは触れません。ただ一言すれば、「馬さん」っを育てる風土というか、土壌があったということで、それを除去大尾することは大学を潰すほどの被害をもたらすでしょう。今回のような事案は、何処で起こっても不思議ではないことが「大々的に」特定の大学において生じたということは、いかにも暗示的です。

 裏社会とのつながりや政界や相撲界との汚れた付き合いは以前から評判にのぼっていました。ぼくが勤めていた、ある大学でも「腐れ縁」はどことでも付く・付きかねないという危険性を、ぼくのような「三下(さんした)」でさえもが感じていたし、それを「当局」に向かって指摘してきたものでした。私立学校だからと、財政運営が出鱈目でいいというものではありません。この大学に、何十年にわたって続けられ、今日でも「税金(国庫助成金)」が投入されており、おそらく百億円は下回らないでしょう。これは、六十年代の学生運動の「成果」でもありました。大学経営の任に当たる「当事者」が「公金」を「私」のものにするという、あきれ果てた行状が天下に晒されても、学生も教職員も大人しいものと、ぼくは肝をつぶしています。授業料等納付金を「私腹の肥やし」にされたんです、しかもその当事者は「元学生相撲」のエースだったという。今回の余波は国技館にも及ぶでしょう。確か現在の国技館は、「日大講堂」の跡地に建てられたのではなかったか。

(*「1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。/ その後、日本大学日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている)(Wikipedia)

 相撲協会も何かといわくのある法人ですね。「裏社会」というものとのつながりがなければ「興行」が打てなかった時代がつい最近まで(いまでも)続いていました。現役の日大出身の関取は誰々でしょうか。「あっと驚く!」となりますか。「玉手箱」は、既に開きかかっているのです。

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【独自】田中前理事長「現金受け取った」供述始める…一部は「日大出身力士への祝い金に」

【独自】田中前理事長「現金受け取った」供述始める…一部は「日大出身力士への祝い金に」

 田中容疑者は11月29日、日大医学部付属病院の建て替え計画などを巡り、受け取ったリベートなど計約1億2000万円を税務申告せず、計約5300万円を脱税した疑いで逮捕された。申告から除外した所得のうち7500万円は大阪市内の医療法人「錦秀会」前理事長・籔本雅巳被告(61)(背任罪で起訴)から受領したとされる。(以下略)((読売新聞・2021/12/12 05:00)

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● らくだ=落語。上方(かみがた)落語の「らくだの葬礼」を明治中期に3代目柳家小さんが東京へ移したもの。らくだの馬とあだ名されている乱暴者のところへ兄弟分が訪ねてくると、らくだは前夜に食べたフグにあたって死んでいた。そこへ通りかかった屑屋(くずや)を脅して手伝わせ、通夜に入用だからと大家(おおや)に酒と煮しめを持ってくるようにかけ合わせる。大家に断られると、屑屋に死骸(しがい)を背負わせて「カンカンノウ」を踊らせる。驚いた大家が届けた酒を2人で飲むが、屑屋は酔うほどに強くなり、兄弟分を逆に脅す。酔っぱらった2人はらくだを四斗樽(だる)に詰めて火屋(ひや)(焼き場)へ担いで行くが、途中で樽の底が抜けたのを知らずに火屋まで行き、あわてて拾いに戻る。酔って道に寝ていた願人(がんにん)坊主をかわりに詰めて火屋へくる。願人坊主が目を覚まして「ここはどこだ」「火屋だ」「ひや(冷酒)でもいいからもう一杯」。江戸時代の風俗を活写し、変化に富む。東京の現行演出は3代目小さん型だが、大阪型もおもしろい。[関山和夫](ニッポニカ)

● 日本大学(にほんだいがく)=私立。1889年(明治22)、時の司法大臣山田顕義(あきよし)によって、日本文化の高揚と新日本建設を担う人材の育成を目ざして設立された日本法律学校を起源とする。1904年(明治37)日本大学専門部と改称、1920年(大正9)大学令により日本大学となり、法文学部、商学部、専門部、高等師範部を置いた。1949年(昭和24)新制大学移行し、法学部、文学部、経済学部、芸術学部、工学部、農学部、第二工学部の昼間部と、法学部、文学部、経済学部、工学部の夜間部、合計11学部に発展。2010年(平成22)時点で、法学部(一・二部)、文理学部、経済学部、商学部、芸術学部、国際関係学部、理工学部、生産工学部、工学部、医学部、歯学部、松戸(まつど)歯学部、薬学部、生物資源科学部の各学部からなり、総合科学、法学、新聞学、文学、総合基礎科学、経済学、商学、芸術学、国際関係、理工学、生産工学、工学、医学、歯学、松戸歯学、生物資源科学、獣医学、薬学、グローバル・ビジネス、法務、知的財産の各研究科の大学院をもつ。さらに法学部、文理学部、経済学部、商学部に通信教育部が置かれ、短期大学部も付設されている。/ ほかに人口研究所、量子科学研究所、総合科学研究所、教育制度研究所、精神文化研究所などの研究機関と附属高等学校をもつ。各学部は独立採算制で運営され、それぞれ独立した単科大学として機能しながら、全体で総合大学を形成している。発足当初は法文系を中心に発展したが、第二次世界大戦前期から理工系にも力を注ぎ、とくに戦後は理工医歯系の発展が目覚ましく、日本でもっとも大規模かつ多彩な一大総合学園となっている。本部は東京都千代田区九段南4-8-24。[喜多村和之](ニッポニカ)

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 上の沿革にあるように、この大学は、創立初期は「法律専門学校」でした・明治・法政・中央などの各大学と同じです。神田地区に作られたのにも理由がありました。ここでは、詳細は省きます。当初は「東京(帝国)大学」の法学部長の管轄下にあり、多くの帝国(東)大生が講師として、各専門学校に派遣されていたのです。今でいう「非常勤(非正規)講師」でした。帝国大学に支えられて誕生したという奇縁は、その後延々と続きますが、それは別問題。この大学は、大学のみならず、各種附属係属校をいたるところに所有しています。恐るべき教育産業版の「コングロマリット」ですね。(*「コングロマリット【conglomerate】 の解説=相互に関連のない異業種部門の企業を次々と買収・合併し、多角的経営を営む巨大企業。複合企業」(デジタル大辞泉)

 まだ事件が解き明かされていません。この先どの方向に進むか予断は許されませんし、その他の各大学は安閑としておられるのかどうか。ぼくは「教育産業」という言葉は大嫌いだし、それを聞くと虫唾が走ります。最後に付言しておきたいのは、この時世に「選挙を通じて」、しかも十数年間も、「馬さん」的存在が大学の頂点に「君臨していた」にもかかわらず、その周りは馬さんの子分の「仔馬さん」ばかりだったし、誰も馬さんに「鈴をつけよう」とはしなかったという、驚くべき事態の歴史そうっ出に全面的に共犯関係を結んでいたということです。さらに書きたいこともないわけではありませんが、事件は長引きますので、またその時にでも。今回はここまでにします。

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