すべてがアルゴリズム化される時代だ

 賛否両論のある「チャットGPT(Generative Pre-trained Transformer)」。公開されてから半年も経たない段階で議論百出です。これに似たプログラムはいたるところですでに使われている。この AI の「凄さ」「怖さ」は、似て非なる他のものとは桁が違うようです。ぼくは「人工知能」に興味を持っていないし、それが世の中に蔓延るのも好まない人間です。しかし、好みの問題ではなく、広範に、かつ深く浸透していくのが「進化現象(renovation)」です。ぼくは便利を何よりも優先したような生活(生き方)を選ぼうとはしないままで、八十年近くまで生きてきました。だから、携帯電話が流行りだした頃から、見向きもしないで今に至っています。「便利(convenience)」は「不便(inconvenience)」を排除することから生まれます。排除は除去を意味しません。一時的に不便を抑制・抑圧しているに過ぎない、いわば、不便を、押入れかどこかに隠しているだけなんですね。

 不便と便利は諸刃の剣のようで、両者は背中合わせであり、どちらか片一方だけを所有(利用)することは出来ない相談です。限りなく便利な時代は、恐ろしく不便な時代でもあるのです。オール電化住宅は「便利」がワンセットで家になっているものでしょう。でも、電源に不都合が生じると、不便極まりない箱でしかないものになる。ぼくたちの依拠し、必要としている便利は、そんなものです。あえて言えば、「砂上の楼閣(House of Cards on the Sand)」みたいなもので、なにも起こらなければ結構だし、一旦なにかが起これば、ご破産になるような代物でもある。

 「人工知能(artificial intelligence (略 AI)」とは人間の生産物です。「(人工の) artificial」「〔人造の〕man-made」という言語が示しているとおり、どんなものでも人間が作り出したものだから、正しいことがあれば間違いもある。「正誤はセット」なのであって、「誤」を排除することは不可能でしょう。それが「人工」ということ。原子爆弾はどうでしょう。悪意・善意の有無にかかわらず、作られたら使いたくなる、使うために作る、それが人間の「欲求に根ざした性(さが)」ではないでしょうか。「核爆弾」の現実はどうなっているか。「便利」とは、一面では人間が「手を汚さない」ことを可能にするものです。あるいは人間の身体的・精神的能力を無用にするものでしょう。人間のロボット化、です。人間がロボットになることでもあり、人間の代用にロボットがなるという意味でもあります。味気ないことではないかな。

 強大な時代の趨勢に背(そむ)きましょうというのではありません。一面では、究極の「人工知能」でもあるだろう「チャット GPT」 で変わるのは「人間の生活」ではなく、「人間性」「人間のあり方)そのものだという感想、あるいは直感を持っている。自分の脳がそっくり不要になるような場面が想定されているのです。でも、ここで長考します。自分の脳細胞をそっくり他人に支配されてしまうことを、ぼくたちは、早い段階から経験させられてきました。この劣島の学校教育の方法は、まさに「チャットGPT」の教育版だったからです。何をするにもしないにも、学校教育(教師)の与えたもの(学校智)が判断してくれる、それが「成績優秀」の代名詞となってこなかったでしょうか。「なぜ、人を殺してはいけないのか」と問われ、「先生がいけないと教えてくれたから」と答える。教師もまた、「チャット GPT」 の「洗礼」を受け、「先鞭」をつけてきた人でした。これが歴史であり伝統だというのはどうでしょう。

 「剽窃」とか「盗作」は問題視されます。しかし「丸暗記」「無批判」は褒められこそすれ、非難されてはこなかった。「チャット GPT」 は、凄いことは凄いが、「暗記型」能力の一典型であるのです。覚えるべき「元手」「資本」は誰かのものです。

 以下に挙げたパックンの記事の全文をお読みになることを進めます。「パックンはどんな人ですか?」という問いの表現を変えるだけで、「チャットGPT」によって、何通りもの「パックン像」が作られます。裁判や学校のレポートには格好の装置(アプリ)ですね。同じ問を出すと、まったく同じ答えが出てきます。「GPT」による「判決」は、裁判官を不要にするでしょうし、教師の機能(仕事)の何割かは削減されるでしょう。それはいいことか、悪いことか。偽りの問いを出しても、真面目に答えてくれるというのは、怖いこと。ぼくは、このような「チャット GPT」型反応にすでに何度か遭遇しているような気になっています。「よくある質問」には、同じ答えが返されます。人間の音声そのものと錯誤させる電話が何度も耳に届いていますから。オレオレ詐欺も集団強盗も、一種の「アルゴリズム」を使っているんじゃないですか。「模倣」「受容」「保守主義」時代は、「アルゴリズムの天下」「デジタル万能」だと言えそうじゃないかな。つまりは「先例」「前例」が幅をきかしているんだな。

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<パックンが自分のことを話題のチャットGPTで調べたら、AIの恐ろしさが垣間見えました。AIの全面導入に踏み切っていいものか、チャットGPTと一緒に検討しました>  AIってKOWAI!/ 始めまして。藤森慎吾とともに「レイザーラモン」というコンビを組んでいるパックンです。初耳ですか? 僕もです!/ でも、今話題の対話型人工知能、チャットGPT(ChatGPT)に「パックンは誰ですか?」と問うと、こんな情報が出てくるのだ。「お笑い芸人、俳優、タレントとして1990年代半ばから日本で活動している」など、正しい経歴も伝えてくれるが、その上で「2002年にはテレビドラマアカデミー賞の外国人タレント賞を、2003年には東京国際ドラマフェスティバルの最優秀タレント賞を受賞している」などと、空想の功績も創作してくれる。「こぼれイクラ飯」に負けないほどの「盛り方」だ。下手したら、人工知能で忖度まで学習できたのかな?/ もう有名な話だが、チャットGPTは真実とウソを見分けられない。良い・悪いも分からない。計算も間違えるし、凡ミスもする。なぜなら、チャットGPTのAIは、人間がこれまで書いた膨大な量の文章を参考に「この文脈の中では、次はこんな単語が来そうだ……」と推測を繰り返しながら自らの文章力を高める研究を重ねただけのものだから。つまり、真実じゃなくても、正確じゃなくても、倫理・道徳に反していても「文章として一番自然そうな言葉の羅列」を提供しているだけだ。僕のプロフィールでもなんでも、アルゴリズムに合った文章ならフィクションでも構わないってこと。(⤵)

チャットGPTは自分の「脳内」の矛盾もあまり気にしないようだ。聞き方を変えると、同じはずの情報でも答えがガラッと変わる。「僕は有名人のパックンです。僕の情報を教えてください」と、再度聞いたところ、今度はこうきた:「日本のテレビ番組やバラエティ番組でおなじみのお笑い芸人、パックンマックンとして知られる小島よしおさんですね」。違う! そんなの関係ない! そんなの関係ない!(中略)/ 人間を守るために開発されたAIが人間を滅亡させようとする。意識を持ったAIが自己防衛のために人間と対峙する。自己利益を求めるAIが人間をだまして利用する。などなど、ホラー気味なあらすじのSF映画や小説が多い。ゆくゆくはわれわれもそんな危険性も心配しないといけないが、今我々が目撃しているAI革命はそこまで極端な展開を見せていない。AIは意識も人格ももっていないし、人間と対立する構図にはなっていない。/ だが、シンプルで悪気の無いAIでも上記のような甚大なリスクを伴っているのだ。革命が起きる前にその対策を考えないといけないと、僕は思う。情報のソースや信ぴょう性、画像や映像の制作者の確認。公平な富の分配。AIの悪用防止。個人の経済的、社会的、精神的な安定保障。インターネットを維持可能なビジネスモデル。これらを構築できるまでは、AIの全面導入を遅らせるべきではないか。パンドラの箱の中身は見えている。急いで開けなくてもいいのでは?(⤵)

もちろん、AIの導入を遅らせることは、技術的進歩や競争力の損失につながる可能性があるため、必ずしも最善の選択肢ではありません。代わりに、AIの開発や使用に関する適切な規制や監督を行い、リスクを軽減することが重要です。また、AIの開発や使用に対して意識を高め、倫理的な考え方を重視することも大切です……。(⤵)

ちなみに、最後の段落は、チャットGPTが書いたものだ。怖っ!  「チャットGPTが反社の手下になったら、どうする?(パックン)」https://www.newsweekjapan.jp/pakkun/2023/03/gpt_1.php

● アルゴリズム(algorithm)= ある特定の問題を解いたり、課題を解決したりするための計算手順や処理手順のこと。これを図式化したものがフローチャートであり、コンピューターで処理するための具体的な手順を記述したものがプログラムである。イランの数学者・天文学者、アル=フワーリズミーにちなむ。(デジタル大辞泉)

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 徒然日乗(140~146)

◯ 2023/03/19・日 = 昨日の続きのような。ぼくの悪癖の一つでもあります。朝からSP (ストピ)に狂っています。音楽を、いろいろな意味味で、それは解放したものと捉えたい。入場料を払い、定められた座席に座ったまま、ひたすら舞台上の演奏家に耳目を集中することが、求められる聴衆の資質だったものを(クラッシックの場合)、とにかく、路上や街中に拠点を据えて(時にはゲリラ的に場所を変えながら)ライブ演奏、聴衆の大半は、通りがかりの人々(strangers)です。今日の都会などでは、とかくの制約・規則があるにも関わらず、朝から夜まで、各地各所で路上(街角)ライブが行われています。欧米でも盛んな演奏形態が、この島でも認知されてかなり時間が経つ。それと並行して、従来の演奏会形式も廃れてはいません。しかし、ぼくの予感では「近代建築」に鎧われた華美なホールでのバッハやモーツアルト、あるいはベートベンやブラームスの演奏は、やがて姿を消すに違いない。あるいは国立演芸場のように、国家の援助や保護をさらに受け入れて、保存されるべき「芸術」(博物館化)となるだろう。なんのことはない。街角ライブこそが、この島(に限らない)の歴史に刻まれてきた、「演芸」「芸能」の発表の形式だったのです。それ故に、ここにおいても、ある種の「後退」「先祖返り」を果たしつつあるのではないかと思う。(徒然日乗・146)

◯ 2023/03/18・土=一人の女性ピアニストの演奏に惹きつけられた。いわゆるストリートピアニスト(SP)と称されるのでしょう。詳しくはわかりませんが、埼玉県在住らしい。「いいしょう」さん。奈良県(田舎だと、本人がいう)出身。主に歌謡曲やJ.Pops、あるいは洋楽(カーペンターズやビートルズなど)がレパートリーで、各地の「ストリートピアノ」の鍵盤をていねいに辿られているようです。▼ 何年か前は、フラッシュ・モブなるものが流行していた(今も続いていると思う)、今日では路上音楽家が、市民権を得ているのか、たくさんの奏者と聴衆がいるようだ。いいしょうさんは、腕前もプロで、立派に独自性が発揮されていた。なんと二時間以上も、彼女の「演奏」(YouTube)を聴き漁った。(徒然日乗・145)

◯2023/03/17・金 =  20度前後の高温が続いていましたが、それでも朝晩になると冷え込みが強い。夕方になると、どうしても暖房用にストーブを使う。春分の日が彼岸に中日。明日は彼岸の入りです。最近は墓参りもしていない。コロナ禍が収束したのかどうか、ぼくには判断が付きかねるし、相当な規模でインフルエンザが流行っているという。念には念を入れてというが、さて、それでどうするのかという問題は残されたままだ。ワクチン接種の効果と、反作用(未接種者の感染が少ないという)を照らし合わせると、どういうことになるのか。夫婦ともに未接種だ。(徒然日乗・144)

◯ 2023/03/16・木 =  早朝から悪戦苦闘して、一時間半ほど、ようやく♂二つをケージに入れ、病院に連れて行く。去勢手術のためである。午後に実施し、夕方に引き取りに行くことに。午後一時ころに病院から電話があり、「マダニが猫の体に発生中。院内の、他の犬や猫に感染すると困るので、マダニ退治の薬を使いたい」との連絡。このことは予想していたので「ぜひお願いします」「迷惑をかけて、申し訳ありません」と謝罪。温度が異様に高くなったので、野外ではマダニが発生したことはわかっていたが、まず「手術」とばかり、この猫たちにはまだ使っていなかった。他の猫の半分くらいは使用済み。マダニ」は怖いもので、近近年では人間が猫からマダニを移されたり、直接マダニに感染して死亡した例がいくつも報告されている。房総半島でも最近農家の人の感染死の報告があった。マダニ退治には高額の薬品「フロントランナー」が使われており、拙宅もそう。4週間に一回使うことにしている。数が多いので、何かと出費がかさむが、致し方ない。夕方、手術済みの二匹を引き取りに。残りは一つになった。なかなか捕まえるのが大変な「カンベ」君が最後に残っている。(徒然日乗・143)

◯ 2023/03/15・水 =  ほとんど毎日のように買い物に行く。猫の食料と人間の食材と。初めの頃は、大きなスーパーに通っていたが、ぼくはこのところ、こじんまりとしたスーパーに決めている。混んでいないし、レジ待ちもないから。とにかく人混みが嫌いだから、できるだけ空いている店に行くことにしている。品物は変わらないし、値段は、物によってはこちらのほうが安いものもあるから、なおさら、繁盛している店には行かない。時々、「繁盛店」という看板のラ-アメンや町中華などのYTを見るが、偉いものですね。何事によらず、客商売というのは大変だと、いつも痛感する。一気に繁盛して、一気に寂れるのはどうか。ぼくは、少食だし、酒も呑まなくなったので、このようなお店に行くことはない。近所の蕎麦屋や寿司屋にはしばしば通っていたが、コロナ禍で、まず行かなくなった。それが終わっても、猫がひしめいている状態では家を開けることが出来ない。外食はまず無理ですね。(徒然日乗・142)

◯ 2023/03/14・火 =  ネットで国会中継を見る。憲法は「政治権力の暴走」を阻止するためのものであり、国民の権利を守るための武器であるのに、それを「腐敗権力」は、自らの意のままに変更できるという、バカ丸出しの「憲法改正論」を展開してきた。それとまったく同様に「放送法」は、自民党のような腐敗した権力が「放送」に介入しないための、政治権力への抑制・排除を養成したもの、それが「政治的に公平であること」という四条の真意。腐った権力が自らに敵対するための番組を作ることを禁止すると曲解しただけ。そのような暴力に、どうして放送界は抵抗しないのか、ぼくには解せない。つまり、放送界の上層部は、権力と徒党を組むことに意を砕いている証拠だ。翼賛の度はさらに深まっている。(徒然日乗・141)

◯ 2023/03/13・月 = 確定申告の書類を作成して、税務署ではなく、役場に提出に行く。その前に、マイナンバー(本人用)と免許証を、コンビニでコピー。「本人確認」のためという。面倒なことになっている。ネット上での申告もあるけれど、アプリを入れるのは無料ではないと知って以来、それを使う気がしない。役場に着いて、かみさんの住民票を取る。申告書には彼女のマイナンバーが求められているからだ。(かみさんは、物忘れがひどくなりモノの整理がだんだんに杜撰になっている)準備を整えて、書類を提出した。これまでに何度申告してきたか。何度やっても嫌だな。しかし、しなければみすみす「税金」を取られる(奪われる)から、それは絶対に認められないので、嫌ではあるが、申告をしてきた。この後、何回続くのか。(徒然日乗・140)

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 ロボットは動く、人間は働く

 【日報抄】「機械にニンベン(人偏)をつけて、仕事するんだよ」。作家の小関智弘さんは高校卒業後、東京の下町で旋盤工になった。最初に掛けられた先輩の言葉が忘れられない▼ニンベンとは人にしかできない工夫や心配りの意味か。そうやって機械を扱えという教えだろう。自身の経験を基に町工場の職人の心意気に迫るルポを書いてきた。著書「現場で生まれた100のことば」は巻頭に2人の言葉が並ぶ▼「職人というのは、人の役に立つ仕事をする人間です。その人間の仕事が楽しくないはずがない」。三条市の刃物鍛冶の一言だ。もう一方は「仕事が楽しいなんて、きれいごとだ。真剣にやっていれば、仕事は苦しいものです」。東京の歯科技工士の弁だ▼2人の言葉は表裏だが、どちらも共感を呼ぶ。こうした思いを張り合いや励みにして仕事に打ち込む誇りが伝わる。いま人工知能(AI)の開発が加速している。条件を指示すれば、画像や動画、小説まで作ってしまう「生成AI」も注目の的だ▼10年から20年の間に、仕事の半分がロボットやAIに置き換わる-。日英の研究者が、こう推計したのは7年ほど前。それが現実になるような勢いだ。卒業シーズン、多くの若者が巣立つ。就活も始まった▼小関さんはロボットは「動く」が、ニンベンをつけて「働く」のは人間と言う。AIやロボットが進歩しても、汗や涙を流し、楽しみ、苦しむ心は持てない。そう信じたい。若者たちには、太いニンベンの進路を踏み出してほしい。(新潟日報デジタルプラス・2023/03/05)

 小さい頃から、職人の仕事を見ることが大好きでした。よく、その仕事場に入り込んでいきました。怒られた記憶はあまりない。能登半島の小さな村に、鍛冶屋さんがあった。それを終日見ていて、実に興味が湧いた。唱歌の「村の鍛冶屋」そっくりの世界があった。(「村の鍛冶屋」:https://www.youtube.com/watch?v=kphnvoE62Ms&ab_channel)この年齡になっても、時々思い出すのは、いつも魚釣りをしている街を流れているかわ(熊木川?)の側の広い鍛冶工場でした。(この川で、「赤い魚」を釣って大興奮して家に帰って、近所の人にも見せたことがある。金魚だったかどうか、未だにわからない)この鍛冶屋さんは同級生(「本田」さんという女の子でした)のお爺さんがやっていたもので、河原近くの工場で、つねに、一人で黙々と仕事をしてた。鞴(ふいご)を見るのも初めてだったし、赤々と燃えている炎の中に鉄の延べ板を入れ、それがうち叩かれている間に、次第に平たく大きくなり、ついには刃物の形ができあがっていく。何ともスリリングな時間でした。また、戦後しばらくの田舎社会では、建築も村人が総出で手伝っていたし、棟上げ式なども間近に見られるので、大いに興奮したものでした。今風に言えば、いつでも、どこにでも「現場」があり、その中に入っていけるような近さがあったことも、ぼくが職人仕事を好むようになった理由かもしれません。今から思うと、どうして職人の世界に入らなかったのか、考えるだけでも残念だという気になります。大工、機械工、農業など、いくらでも機会はあったし、親戚にもいろんな職業人がいたのですから。

 ぼくは尾関さんからも多くのことを学びました。「機械にニンベン(人偏)をつけて、仕事するんだよ」というアドバイスは貴重だったでしょうね。工夫することが人間の仕事なのだといってもいいでしょう。機械は便利だし、人間に似せて作られる AI ロボットはなお巧妙に仕事をこなしてゆく。その機械やロボットによって生み出されるものに十分満足することができれば、それはそれで悪いことではないでしょうが、ぼくたちはどんなものにも「ニンベン」を求めるという傾向があります。人間の仕業に、ある種の安心感を抱くのかもしれません。人間は機械にはなれないし、ある場合には機械以上の仕事をしてきたということです。

 一人の職人は、「職人というのは、人の役に立つ仕事をする人間です。その人間の仕事が楽しくないはずがない」という。別の職人は、「仕事が楽しいなんて、きれいごとだ。真剣にやっていれば、仕事は苦しいものです」と話している。まったく正反対のことを言っているのでしょうか。おそらく、二人の職人は同じことを、「自分流の経験」談として語っているのではないでしょうか。これまでにも、ぼくな有名・無名問わず、多くの職人に出会ってきました。自動車修理工の先輩からもいろいろなことを教えられました。仕事は難しい、楽ではない、だから、辛いという人もいるし、その辛いことがやがては楽しいことに重なるのだと経験した人もいる。手取り足取り、誰かに命じられて、あるいは支えられて何事かを成し遂げるのは嬉しいことです。でも自分で工夫に工夫を重ね、苦労してやり遂げることはもっと楽しい。教えられることに慣れると、自立できなくなりますね。

 ぼくは、「教育」というものを、一人の人間が自立できるための訓練だと考えてきました。幼児が自分の足で立つ。転んでは起き上がり、ついには自分の足で立って歩ける。二足歩行、これは誰にも自然に、簡単にできるものだと思いがちですが、その段階の幼児のそばに立って見ていると、実に苦心しながら、体全体のバランスを取りながら、自分の足で歩くことを獲得するのがわかる。人間は「歩くことを学習する」のです。自転車に乗れるのも「学習」です。経験によって獲得したものが「学習の核」となるのではないですか。ピアノを弾くのも、逆立ちするのも、すべてが「学習」です。しばしば、「学習は山登りのようだ」と言ってきました。平地を歩くのではなく、山に登るのは高ければ高いほど辛い・厳しい試練になる。だからといって、誰かに背負われたり、車で登っても少しも楽しくないでしょう。(自分の足で歩くという)本物の経験がなければ、与えられた楽しさは一瞬のうちに消えていきます。「仕事が楽しくないはずがない」というのも、「仕事は苦しいものです」というのも、自らの経験の確かさを二様に表現したものだと、ぼくは言いたいですね。苦しいから、楽しいというのであり、そこには「苦と楽」が背中合わせにある、経験の確かさを示していると思うのです。

 「小関さんはロボットは『動く』が、ニンベンをつけて『働く』のは人間と言う」

 動くと働く、似て非なる言葉であり、(言葉が持つ)内容ですね。もちろん、言葉に拘る必要は毛頭ありませんが、「あの人は動いている」というのと、「彼が働いている」というのでは、そこから受け取る印象は相当に異なってきます。どうしてですか。あるいは、move と work を並べて、その内容の違いが明らかになるでしょうか。誤解されそうですが、あえて言っておきます。ロボットは、限りなく人間に近づこうとする(ように、人間が操作するのです)、しかし、人間がロボットになる必要もないし、ロボットにはできない「工夫」を持っている限り、その「工夫」を発揮して行くことが求められるのではないですか。(左上写真:https://howtoniigata.jp/spot/tsubamesanjo/5955/)

 多くの職人の親方・名人たちは「俺は教えないよ」とか、「技は盗むんだ」という。自分で得る、体得すること、それが経験の本筋ではないでしょうか。技術は教えられないし、教えられるなら、それは技術ではないでしょう。どんな技術にも「極意」があり、それはその人だけの「心得」だともいえます。親方が、その「極意(心得)」で親方になっているように、自分も自分流の「極意(心得)」を得られるように修行する、それが職人が働くということではありませんか。教えられたとおりのことしかしないのは「動く」だけであって、そこに「ニンベン」がつく、「働く」が存在しないということのようです。

 「教育」の役割は、一人ひとりの子どもたちが、自分は「動く」「動かされる」だけの存在ではなく、工夫をこらして「働く」人間であることを自らに証しするための練習・訓練期間だと思う。自分の足で立ち、自分の頭で考えるための訓練です。それ故に、安易に、「答え(らしいもの)」を与えることは厳禁ですね。ぼくの心情としては、教師が「教える」「教えすぎる」というのは、まさしく「犯罪行為」だと言いたい。子どもたちから「創意」「工夫」の可能性(余地)を奪ってしまうことになるのだから。まして、暗記によるテストの成績で順番を決めるというのは、絶望的な非教育的行為であり、反教育的ですらある。創意や工夫を凝らすことができない人間だけをのさばらせることになる学校教育の敗北ではないですか。今日の、この島社会の工業や技術の遅れ、停滞は、「物を覚えるだけの教育」の横行、暗記にしか捌け口を見いだせない貧相な教育間観がもたらした結果でもあると言えないでしょうか。「ものづくり」はロボットに任せればいいという、根っこから間違った「ニンベン」による「創意」「工夫」を活かす教育の放棄の当然の報いだったように、ぼくには思われます。いろいろな意味で手遅れだというのも、ここに原因が存在しています。

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 人間は何からできているか

【斜面】言葉の貧困 戦時中、おなかをすかせて「一つだけ、ちょうだい」とねだる幼子がいた。父の出征の見送りでおにぎりを全部食べてしまってもせがむ。父はごみ捨て場のような所でコスモスを一輪摘み「一つだけ」「だいじにするんだよ」と渡した◆今西祐行さんの童話「一つの花」。戦争の知識がない子どもには伝わりにくい話だが、ある学校の授業で児童がこんな解釈をした。「騒いだ罰として汚い花を食べさせた」「お金もうけのため花を盗んだ」=石井光太著「ルポ 誰が国語力を殺すのか」◆受け止めはそれぞれ自由とはいえ、あまりに作意から離れてしまうと授業が成り立たなくなる。極端なケースなのかと思いきや、県内の教員も「似たような体験はある」と明かす。言葉を表面だけでとらえ、語られない部分の意味をつかみ取る力が弱まっていると感じる時がある◆「ウザ」「キモ」「エグ」。SNSのような短い単語ばかりで話す世代では会話がすれ違ってトラブルが起きると同書は指摘する。言葉が足りないと、他者とのつながりは浅くなる。言葉は自分と向き合う手段でもある。質も量もおろそかにはできない◆多発する暴力事件にも言葉の貧困の広がりが関係しているのだろうか。ルポによれば、劣悪な環境で育ち、罪を犯した子の多くは、怒り以外に自分を説明する言葉を持たないという。少年院では言葉の獲得が更生のための出発点となる。どの子にも、豊かな言葉に満ちている場所が必要だ。(信濃毎日新聞・2023/03/02)

◯ imply  音節(im • ply)(発音implái)1〈人・態度などが〉…を暗示する,ほのめかす,それとなく伝える≪that節≫ Silence often implies resistance.無言はしばしば反抗を意味する 1a〈事実・出来事などが〉(必然的に)…を意味する,示す≪that節≫;…の存在を意味する,示す 2〈考え・行動などが〉…を必ず伴う,含む 語源[原義は「編み込む」]◯ implication 音節 im • pli • ca • tion 発音ìmplikéiʃən 1(…という)含み,言外の意味,暗示≪that節≫;《論理学》含意((プログレッシブ英和中辞典)

 しばしば「辞書で意味を調べなさい」といったりいわれたりする。どうやら、「辞書」というものには「意味」が出ていると思われているらしい。では、その「意味」とはなんでしょうか。わかりそうでわかりにくい単語(言葉)ですよ。改めて、「意味」とはなにかと訊かれると、ぼくなんかは答えに窮する。ある辞書には「 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の―を調べる」「愛を―するギリシャ語」  ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の―で一席設ける」「―ありげな行動」「沈黙は賛成を―する」  価値。重要性。「―のある集会」「全員が参加しなければ―がない」(デジタル大辞泉)と書かれています。意味とは「内容(実質)」だというのです。簡単ではなさそうですね。

 コラム氏が紹介しています、「言葉を表面だけでとらえ、語られない部分の意味をつかみ取る」言葉が持つであろう内容、あるいは表には見えない、隠された部分、それが、強いて言うなら「意味(含まれている部分)」というものでしょう。見える部分を成り立たせている「見えない部分」こそが大事なもの・ことであり、それがわからなければ、何をわかったことにもならないのではないですか。どんな「もの」にも「影」ができます。物があってこその影なんですが、ぼくたちは往々にして「影」を本物と見てしまう。

 明かりが灯っていれば、その明かりが映す影ができます。ほとんどの場合は、「影」を見て「実物」と錯覚している、その「影」が「意味」だというらしい、多くの場合は。影をつかむことはできないのは、シャボン玉を握ることができないのと同じ。世に流通している「言葉まがい」は。この「シャボン玉」なんじゃないですか。「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」「屋根まで飛んで、こわれて消えた」という歌に出てくる「シャボン玉」のような言葉が横行しています。あるいは「意味不明」と言われるような、そもそも何を言いたいのかが明らかではない「単語の羅列」を発言と勘違いしているのです。表があるというのは、裏によって支えられているからです。裏ではなく表をこそ、いや、実際は表を成り立たせている裏にこそ、大事な部分が宿されているのです。それを、ぼくたちは掴もうとしなければならない。

 ぼくは一切やらないから、その酷さ、下等さはわからないが、SNS などの、稔りのない隆盛は、言葉不毛の時代にマッチしているし、言葉が不毛の土地(世間)だから、その荒野にこそ、寸足らずののSNS による「言葉遊び」が流行るのですはないですか。「言葉が足りないと、他者とのつながりは浅くなる。言葉は自分と向き合う手段でもある。質も量もおろそかにはできない」「多発する暴力事件にも言葉の貧困の広がりが関係しているのだろうか」というコラム氏の指摘する部分は、正しくそのとおりだと、ぼくには同感の思いです。言葉がないから手が出る、暴力が飛び出すのです。「問答無用」というのは、まったく言語不要を言い当てる名言だと言いたくなります。言葉があれば、言葉で返す、少なくとも語り合う、その必要性を認められないから、「問答無用」なのであり、問答がいらないから、代わりに「暴力有用」となるのです。

 人間は何からできているか、そう問われれば、何時だって、ぼくは答えます。「人間は言葉からできている」と。その人間を作り上げている言葉が家庭においても学校においても、つまりは社会において有効性を持たないようなら、それに取って代わるのは「暴力」です。この「言葉の重要性」については、これまでに、嫌になるくらい語ってきました。教師、あるいは親は「言葉のタネをまく人」であってほしいと。そして、親も教師も、子どもとともに「言葉のタネを育ててほしい」とも。時代は、猫も杓子も「SNS」でしょ。言葉ではなく、単語の、それも細切れが飛び交っていて、果たしてそれで何が伝わるのか、伝えたいのか。意味もなく、ひたすら感覚を刺激するばかりの「単語ゲーム」が席巻している時代と社会、そのようにぼくには思われてなりません。メンデルスゾーンに「無言歌(Lieder ohne Worte)」というピアノ曲があります。その中でも、もっともポピュラーになったのは「春の歌」(作品62-6)です。言葉のない歌というのは、一種の逆説です。リズムとメロディがあれば、それにテンポや強弱が付けば、立派な「歌」になると作曲者は自信をのぞかせたのです。(https://www.youtube.com/watch?v=eB6mZckKwEA&ab_channel

 パスカルは「腕のない人は想像できる。でも頭(思考する力)のない人間は想像さえできない」と言っている。「思考は言葉による」のであれば、思考しない人間は言葉を持たない人間と同義です。次のように考えたらどうでしょう。「暴力」という語を、「言語」と対置させましょうか。「暴力」とは「乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「―を振るう」 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」(デジタル大辞泉)参考までに、「violence」とは「(行為の)激しさ,荒々しさ」「冒涜ぼうとく;(事実・意味などの)曲解,歪曲わいきょく,(字句の)改ざん」「激情,猛威,(言葉の)激しさ」「(事の程度の)はなはだしさ」(デジタル大辞泉)暴力は言葉(言語)と対極にあります。もちろん、言葉そのものが暴力(武力)に化すことがあるのはいうまでもありません。よく「文武両道」などといいます。その文武とは「文化」と「武化」を指して使われる言葉でした。「文事と武事。学問の道と武芸の道。文化的な面と軍事的な面」(同上)等と便宜的に言われるものです。詳しくは触れませんが、「文王」「武王」という中国古代の君主の統治・政治の方法からきているものです。

 使いもしないで非難するのは脳がないと思わないでもありませんが、TwitterやInstagram、あるいは Linkedin・ Facebook・ TikTOKなどの交流(SNS)方法は、知らず知らずに「問答無用」「暴力有用」の荒野を広げているように、ぼくには感じられます。必要に迫られて、時にはそれらの媒体に接近することがありますが、いよいよ「言語不要」「意味不明」の坂道をひた走っている時代の巧まざる、企まざる「暴力」を痛感します。

 「劣悪な環境で育ち、罪を犯した子の多くは、怒り以外に自分を説明する言葉を持たないという」と指摘するのはコラム氏。言葉そのものの保有量が貧困だというのでしょう。「劣悪な環境」とは単に貧乏だとか、家庭環境の条件の悪さばかりを指すのではない。この国の「政治家」の言葉の桁外れの貧困さは、度を超えいていると言わざるをえないからです。「同性婚はいやだ」と言った官僚がいました。その親分は「同性婚を認めれば、社会が変わる」と国会で言った。その中身を詳しく聴かれると、慌てて弁解する、釈明する。「そういうつもりで言ったのではない」というのは、どういうことか。質問をはぐらかし、質問を捻じ曲げ、質問者を愚弄する、それが国会議員の仕事のようになっているのはなぜでしょう。指摘されて「そんなつもりで言ったのではない」「誤解を与えたとしたら申し訳ない」と、軽薄な弁明に終止するだけの輩が「どんなに劣悪な環境で育ったか」、ぼくには手に取るようにわかります。受験にうつつを抜かし、偏差値ばかりが幅を利かせる世界、環境は、言葉の種をまく、言葉を育てる、そのための環境としては最劣悪の環境ではないでしょうか。その悪環境にいてなお、自分を失わない、自体に対して「誠意」を持ち続けられる教師や子どもにさいわいがありますように。

 政治家や経済人、あるいは芸能人や学校教師が関わる幾多の犯罪に、ぼくたちは大いなる危機感を抱く必要があります。しかし、ぼく自身にはもう手に負えない状況に現状はあると、半ば以上は、期待することを捨てているところがあります。本日の「斜面」氏の記事は、ぼくの持論そのものを言い当てていると感謝するばかりです。「言葉の貧困」とは、政治や経済で 救済できるような、そんな生半可な「貧困」ではないということに気がつく人はいるでしょうか。暴力装置を手にして、なお「言葉の貧困」から開放されると考えているとしたら、それは土台無理な話です。言葉の貧困とは、人間らしく生きるためには「致命的欠陥」を生み出すからです。「同性婚を認めたら、社会が変わってしまう。家族制度がこわれ、従来の社会秩序が既存される。だから、私は反対です」というべきところを、曖昧に、追求されれば、言い逃れをする、言葉を弄ぶという以上に、自らの責任で言語を発することができない総理は、可愛そうですけれど、「裸の王様」ですね。

 「人間はなにからできているか?」「人間は言葉からできている」「言葉というものは歴史を含んでいるのです」と、まるでこわれたラジオやレコードのように繰り返します。言葉がなければ、暴力が取って代わるのは火を見るよりも明らかです。人間が考えるのは保存している「言葉の出し入れ」「並べ替え」によってです。考えるための材料は「言葉」です。言葉がなければ考えることはできないのです。赤ちゃんはどうでしょう。「快・不快」という素朴かつ強力な感覚でしか反応できない存在です。あるいは動物を考えてみれば、この事情はわかるでしょう。人間であるため、人間であろうとするなら、何よりも、経験から得た「言葉」、おのれの「言葉」を持つことはどうしても必要なんですね。「言葉の貧困」にあえいでいる存在に近づけば、野生の虎狼のごとく、問答無用で「噛み殺される」のが落ちです。今や、世界の至る所に「言葉を持たない怪獣」が虎視眈々と獲物を狙っている。そんな「虎狼」にとって「SNS」は鬼に金棒でしょうな。あるいは、「なんとかに刃物」でしょうか。

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 介護保険サービスの一部ですか、ペットは?

 【滴一滴】昔話「花さかじいさん」の犬は最初、正直じいさんに大判、小判がある場所を教えた。意地悪じいさんに殺されたが、墓に植えた木はみるみる育ち、その木で作った臼からは、米がどんどん出てきた▼臼が燃やされ残った灰は枯れ木に花を咲かせ、正直じいさんは殿様からたくさんの褒美をもらった。犬は姿を変え、正直じいさんに多くの富をもたらした▼さて現代。犬や猫などのペットはどうやら、お年寄りに元気な暮らしをもたらしてくれているようだ。ペットを飼っている高齢者は、飼っていない人に比べて介護保険サービスの利用費が半額に抑えられている―。こんな研究結果を東京都健康長寿医療センターのチームがまとめた▼2017年に埼玉県の高齢者で、ペットを飼っている96人と飼っていない364人を対象に、直近17カ月の介護保険制度の利用状況などを比較した。ペットの世話に責任感を持ち、活発で規則正しい生活を送ることが、介護サービスの利用軽減につながるとみられる▼犬や猫などのペットをなでると、飼い主の脳内にホルモンが分泌され、心を癒やす効果もあるとされる。ペットはさまざまな“褒美”をくれている▼〈振り返り犬が気遣う散歩道〉。全国有料老人ホーム協会が公募したシルバー川柳にあった。ペットと飼い主の優しい関係が長く続きますように。(山陽新聞digital・2023/02/26)

 

 本日は2月26日です。どなたもが、言わずとしれた「2・26」と言い切れるのか、いささか怪しい。この国がおのれの寸法を測り違えて、国外に押出していく大きなはずみになった事件が起こった日です。昭和十一年の今日、陸軍の将校たちによって引き起こされたクーデタ。すでに大陸では「満州事変」が展開中でした。「1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争」(ニッポニカ)これをさらに大掛かりな侵略戦争に太らせ、国内的には軍部の発言力を一層大きくするための「権力奪取・掌握」の試みでした。今日、権力の側の(若手将校)科「老人将校か、いずれもが居丈高に雄叫びを上げる事態に立っている。「台湾有事」は「日本有事」と、如何にも朝にでも先端を開くための軍備増強を、なけなしん税金からむしり取っているのです。(この事件を主題に駄文を綴ろうというのではありません。これは別の機会にします。)

 この「二・二六」という日は、別に珍しくもなんともないのですが、ぼくの親友の「誕生日」ですので、毎年、この日は忘れられなくなっているのです。W氏は政治学徒で、半世紀近くの交流があります。近年は全く連絡をしておらず、間接的にご機嫌を伺うだけになりましたがそれすらも途絶え勝ちになっています。現役勤め人のときには、それこそ毎晩のように「飲み歩いた」ものでした。「馬鹿の交わり」の時代だった。元気でありますように。

● 二・二六事件【ににろくじけん】=1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制派の台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣は倒れ,軍の政治的発言権が強化された。(マイペディア)(左写真は東京新聞:2021年2月26日)

 「花さかじいさん」が話題になったのを見て、さて、どのように展開するのかと瞬間的に推理し、やはり、そういうことだったかと合点がいったという話です。これなら、ぼくも「コラム】ぐらいは書けそうだと言いたいのではない。「さて現代。犬や猫などのペットはどうやら、お年寄りに元気な暮らしをもたらしてくれているようだ。ペットを飼っている高齢者は、飼っていない人に比べて介護保険サービスの利用費が半額に抑えられている」という件(くだり)。このことはすでに幾つもの「コラム」が扱っていましたから、あえて言うこともありません。しかし、腑に落ちないのは、「ペットを飼うと、介護保険サービス料が(飼っていない人の)半分」という部分です。如何にも経済的だから、是非とも保険料節約のために「ペットを飼いなさい」と勧めていませんか。そうですかね。医療費や介護保険利用料が節約できるから、「犬・猫をペットに」という、その魂胆(狙い)は、どこから出てくるのか。犬や猫をなんと考えているのでしょうか。

 いくつか不満を述べたいところ、以下の二つに限定しておく。

 ①犬や猫を飼育するのは「そうしたいからである」と指摘すべきだ。保険料等の節約のためになるというのなら、まことに「お門違い」ですよ。飼い主の医療費などは減らせるかもしれぬが、「ペットの医療費」はどうなりますか。場合によっては人間よりも高額になることはいくらもあります。さらに、種類や個別性にもよりますが、ペットの食事代はどうなります。けっして「ただ」ではない。缶詰めなんか、これも人間のものより高額になることはいくらでもある。

 (本日も、朝一番に「♂」猫を医者に連れていきました。去勢手術の前のワクチンと幾つかの検査のためです。一匹当たり、本日の診療代金は2万2千円でした。これが八匹分にかかります。その上で「手術代」です。財布はいつも空っぽになるほど。加えて、毎日の「食事代」。人間よりも高額になるかもしれない。馬鹿になりません。このところの値上げの悪ノリか、缶詰などは、なんと三割も高騰しました。銭金の問題ではないのではない。銭金の問題でもあり、加えて、生命を粗末に扱わないという人間に等しいき付き合いを動物は求めるのです。それらを考えれば、「ペット」だからなどという気分はどこかに吹っ飛んでしまいませんか)

 ②「ペットの世話に責任感を持ち、活発で規則正しい生活を送ることが、介護サービスの利用軽減につながるとみられる▼犬や猫などのペットをなでると、飼い主の脳内にホルモンが分泌され、心を癒やす効果もあるとされる。ペットはさまざまな“褒美”をくれている」この部分に対しても、お節ご尤も、と言ってみますが、それはペットとは無関係でしょ。犬や猫の有無にかかわらず、「活発で規則正しい生活を送ること」は、介護の世話になる期間や負担を少なくしてくれるはずです。ぼくは、動物病院から帰宅し、十時から約一時間、少々風が冷たくもありましたが、約8000歩ほど歩きました。天候の具合などで歩かない時もありますから、これが規則正しいとは言いませんけれども、自分の足で立つ・歩くという基本能力を失わないための、ぼくの姿勢です。これまでには一円たりとも「介護保険」の手助けを得ていません(この先は皆目わかりません)。保険料はごっそりと収奪されていますが。

 別段、脳内のホルモン分泌によって癒やされるのは、ペットの頭ばかりではない。音楽だって、昆虫だって、限りありませんね。なんだか八つ当たりしているようですな。少しばかり虫の居所が悪いんですよ。生きていると、何かと好都合とばかりはいかないもので、時には腹立ち紛れに、大声を上げてみたくなります。このところ、連日のように動物病院に行きます。もちろん、必要があってのことですが、いろいろな病気を抱えた犬や猫がいます。ぼくの通っている病院では、小鳥などの小動物も診療科目に入っているようで、いつも混んでいます。大雑把な印象では、ここでは犬派が多いようですね。なかには、高齢のご夫婦が、これも高齢の犬を連れて見えます。これを見ると、生命の付き合いは、何とも大変だと強く実感するのです。頭を撫でれば癒やされるなんていうどころの話ではないですよ。これまでの半世紀近くの間に、ぼくら夫婦は、おそらく五十匹を超える猫(犬や小鳥も、時にはいました)との生活を送ってきたと思います。何かの魂胆があってのことではないし、ましてや「癒される」ため、「看護保険利用料半減」のためなんかではありませんでした。誰かがやることを、ぼくたちがやっているだけのことです。

 「〈振り返り犬が気遣う散歩道〉。(中略)」「ペットと飼い主の優しい関係が長く続きますように」たしかに、ぼくもそのように思います。でも、犬や猫とつき合うのは、そんなことばかりではないことも事実です。犬も猫も、人間同様に老齢を重ねるのです。「ペットと飼い主の優しい関係」」という表現に、なんだか人間の優勢・優位意識が潜んでいませんか。(虫の居所は、ここまできても、治りませんでした。悪いところに潜んでいるようでしたね)

*参考文献「【最新研究】ペットを飼うと介護費が半減?”お世話”が介護予防に」(介護新聞:https://e-nursingcare.com/guide/news/news-20104/)

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 「集団」「組織」だけが人生ではない

 ある番組を観て、何時まで経っても「いじめ」に対して、教育者や教育行政家は「子どもの辛さ」を理解しようとしない体質を持っていると、嫌になるほど感じてきたものを、さらに改めて確認させられました。人間が作る、人為的な集団ではかならず、きっと「いじめ」は起こるという。ぼくも、それを否定する根拠は持たない。いじめは自然現象だから、どうにも手の打ちようがないのだということではないでしょう。京都と大阪の二つ「いじめ問題」を番組では扱っていた。京都の場合、クラスで男の子が、数人の女子から「集団イジメ」を受けていた。教師はその事実を知っていたが、なんとかしようとはしなかった。一人の同じクラスの女子が担任に伝えて、なんとかしてほしいといったが、教師は「世間ではどこにもいじめはある。だからそれを認め、て耐える(我慢する)事が大事だ」と言うばかりで、何もしなかった。それを聞いて、その女子児童は「学校に対する不信」を募らせ、ついには登校拒否(不登校)になり、それが何年も続いているということでした。

 大阪のケースはやはり「いじめ」にあっていた男児が不登校になり、親ともどもに「転校」を求めたが、学校は許可しなかった、というより、それを聞かなかった。「とにかく、学校に来るように」の一点張りだった。(子どもが学校に来なくなると、教師たちは、「自分が否定された」と感じるのでしょう)まもなく、その男児は「自死」した。その後に及んでも学校や教育委員会は積極的に善後策を取らなかったばかりか、クラスの子ども達に「自死」の事実さえも知らせなかった。ぼくも教師稼業の真似事をしていた時、何度も同じような問題に遭遇したり、相談を受けたりした。そのとき、ぼくはまず、「学校には、どうしても行かなければならないということはない」ということは最初の段階で話した。もちろん、それが解決策であるという確信なんかなかった。でも、なにかの理由で「学校に行けない」「行きたくない」というのだから、その理由が学校やクラスにあるとするなら、問題はそちらにあると考えたからです。江戸以前は、ほとんど学校なんかなかったし、行かなかった子が大半だったという歴史事実を考えるといいでしょう。

 この「いじめ事件」の報道と同じ時期に、ぼくは youtube で高名な解剖学者の講演会の模様を見た。そこの講演会にはいろいろな大学からの学生が参加していた。おそらく五十人以上はいたかもしれない。はじめ、参加者の表情を見て、「中学生?」と思ったほど、如何にも幼い顔が並んでいた。Y氏は予め、参加者にアンケートをしていて「今、あなたは幸せですか。その理由はなんですか」というような質問に答えてもらっていた。アンケートの結果について講師は話した。参加者のすべてが「自分は幸福である」と答えていたことに驚いたという。「幸福の理由」の大半(あるいは、すべて)は、友人に恵まれている、家族と上手くいっている。困った時に相談する大人がいる」といったようなことでした。もちろん、不登校に悩んでいる「大学生」はこんな講演会には出てこないでしょうし、たった一人で講演会に参加するというのではなく、動員がかかっているような雰囲気があったから、この場には「自分は不幸です」という人は参加していなかったのでしょう。

 それはともかく、Y氏は「幸福と感じる根拠がすべて人間関係なんだ」と驚いたと言っていました。この「人間関係」を別の表現で言うと、「社会」です。あるいは「社会集団」です。幸・不幸の理由(根拠)が「人間関係」であるというのはどういうことでしょう。ぼくたちは、幾つもの集団に属しています。家庭・幼稚園・小中高校・大学・企業・サークル等々、そのすべては、社会集団として人為的に作られている組織です。もちろん、ボランティアの集団もありますし、趣味の集団(サークル)もある。でもそれらも、非公式ではあっても「人間関係」に支配されているのではないでしょうか。幸福や不幸の原因・理由の殆どが人間関係に依存しているとはどういうことか。この関係が上手く行っていたとしても、何かのきっかけで、一瞬に崩れる危険性があります。学校(クラス)を例に取れば、誰にも思い当たる節(ふし)があるはずです。

 昨日まで「上手く行っていた」のが、なにかの拍子で「仲間はずれ」に会う。「いじめ」を受ける。ぼくたちが幸福であると思い、不幸であると悩む、あるいは思い余って「自殺」することさえある、その境界というか、基盤は実に「脆(もろ)い」というほかありません。人間存在の根拠が、他者のたった一言によって左右されるというのは、どうしたことですかね。いじめを受けた子ども、その子どものいじめを、なんとかしたいと思い悩む同級生(クラスメート)、そのどちらに対しても担任教師や学校当局、あるいは教育行政側は、何をしなければならないか、(釈迦に説法)でしょうから、ぼくは言わない。言っても無駄という気もします。

 テレビ番組のなかで、亡くなってから七ヶ月後に教育行政担当者が児童宅を訪れた。大阪泉南市だった。最初はしおらしく「遅くなったが、お悔やみを」とかなんとか言っていたが、「息子はなぜ亡くなったのか」「どうして、転校を認めてくれなかったのか」「クラスの子達に自殺したことを、なぜ知らせなかったのか」と、そのこの母親から、幾つもの質問を投げかけられた。ぼくはここまで堕ちているのだ、と驚愕したのは、その問いただされたことごとくに「お答えは差し控えさせていただく」というものだった。お悔やみを述べるため(弔問)に、「霊前」にぬかずいていたのに、根っこでは、自殺した子どもいのちに一分の「哀悼の意」もなければ「尊敬心」の欠片(かけら)さえなかった、とぼくは直感した。役目上、仕方なしに「割の合わない立場」だという不平さえあったかもしれない。そして、教育委員会は「第三者(有識者)委員会」を立ち上げて、真相の究明に当たるということだった。なんで、自らが責任を持ってことに当たらないのかな。「学校なんか、消えてしまえ」と叫びたいね。

 ぼくも教師の端くれをしていた自覚はあったし、メシの種だったから、仇や疎かに仕事を考えていたことはないと、今でも言える。ぼくにとって、学校は「教室」の一つではあっても、すべてではなかった。何事であれ、学ぶことができる場、それが学校だった。人間関係が「人生のすべて」などと、どうして幼い子どもたちは考えさせられてしまうのだろう。学校に行けない子は「だめな子」だと、なぜ教師はいいたがるんだろう、この疑いというか不信は、ぼく自身も小学校から持ち続けているものです。「教師に近づきすぎるな」「学校とは距離を取れ」、その反対に「教師に不信感を持つ方がいい」「学校の餌食になるな」と、飽きることなく言い続けてきた。理由は単純です。学校だけが「社会」ではないからです。もっというなら、社会という人為的な制度や組織に自分を預けると、潰されることだってあるぞ、そんな気を持つ方がいい考えるから。自分の「幸福、不幸」の決定権を「人間関係」が握っている、そんなことなんかありえないんだ。そう思い込まされているだけ。「人間関係」や「社会」というものは、自分を殺さなければ、いつかきっと復讐される危険性をつねに孕(はら)んでいるのですよ。

 人間関係、あるいは社会だけが、一個人の行き場なんかではありません。もっと大事な、自分自身もその一部である「自然」というものを、忘れてほしくないですね。こんな事を言う時、ぼくは何時だって、何人もの人々(ほとんどは先輩です)を想起している。まず、映画監督の羽仁進さん。羽仁さんは幼児の頃から強度の「吃音」だった。言いたいことはスムースに出てこない。だから人との交わりが苦手で、いつもで「昆虫」と遊んでいたという。この事実は、ぼくにはとても大きな示唆を与えてくれました。羽仁さんは「昆虫と自分」という(共同体」を作っていたし、そこで命を育んでいたのです。後に、彼は映画製作に取り組み、素晴らしい昆虫の世界をぼくたちに教えてくれました。さらに、画家の熊谷守一さん。この人については何処かで触れています。画家として、さらに人間として実に「純粋」だったと思う。だから、ありや蝶々や猫や、その他の昆虫たちが気を許したんだろうね。

 人間関係だけで「幸福・不幸」を決めるようでは、人生の大切な宝物の半分以下しか見ていないことになります。「自然」というものを、人間が身ぐるみ預けてもいいものとして、ぼくたちはもう一度再発見しないか。犬でもいい、猫でもいい。メダカでも、花々でも、何でもかまわい。人間社会の網の目に入らない「自然」から「幸福感」を得られると本当に嬉しいね。(いつも通り、お粗末の一編でした)

 学校がなくなっても人間は生きていけます。でも、自然がなくなれば、その一分である人間も当然、消えてしまう。「昆虫との社会」を作ろうと、件の解剖学者は言っていたように思われましたよ。

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 大寒の木々にうごかぬ月日あり (桂信子)

 二十四節気のうちの「大寒」です。次の節季は「立春」ですから、本日は、一年納めの「節季」というわけ。また、この「季」の七十二候の「初侯」(1月20日〜1月24日頃)は「 欵冬華(ふきのはなさく)」となっています。厳寒の砌(みぎり)、土中から蕗の薹(とう)が顔を出し、その上に花をつける頃。わが拙庭にも、幾つかの蕗の薹が出てきました。

● 大寒(だいかん)= 二十四節気の一つ。陰暦12月中、太陽の黄経300度に達したときで、太陽暦の1月20日ころにあたる。北半球の温帯地域では一年中でもっとも寒い季節で、極寒に抗して身体を鍛えようとする種々の寒稽古(かんげいこ)が行われるのもこのころである。大寒が明けると立春である。/ およそ1月20日に始まる15日間は暦のうえでは寒の後半にあたり、日本では各地で、1年間のうちの最低気温の観測される期間である。北国や本土の日本海側では、なお雪のシーズンでありスキーなどが盛んに行われているが、太平洋側ではフクジュソウ、スイセンなど寒中に花を開くものがあり、西日本では白梅、紅梅も咲く。南国ではヤナギが芽を吹き始める所もあり、ヒバリの初鳴きも聞かれるころとなる。(ニッポニカ)

 小さい頃から、ぼくは天気(天候)には関心を持ってきました。田舎に住んでいたので、農家の仕事には早くから接していたせいもあり、田植えや稲刈りにも駆り出された。その際に、もっとも大切なのは、「天気を読む」ということでした。農作業には「天日干し」が多く取り入れられていたので、おのずから、天候の良し悪しの判断は万全を期さなければならなかった。ぼくは今ではすっかり忘れましたが、「農業カレンダー」とでもいうものを知っていました。今日ほど気象や気候に科学的な知見が用いられることはなかっただけに、長い間の経験知から割り出された農作業の極意だったし、それを上首尾に成し遂げるためにも「天気を読む」ことはとても重要な意味を持っていたのです。

 農昨業や土壌から離れれば離れるほど、「暦」はある種の「生活のアクセサリー」のように見られるようになったのは事実だったでしょう。「二十四節季」や、それをさらに詳しくした「七十二候」などはほとんど必要性もなくなったのであり、わずかにその幾つかが、商売(儲け主義)上の必要から生活に華を添える、いわば「お飾り」になった感は否めないでしょう。それは当然のことであり、嘆いても始まらないことです。そうではあっても、「時代ですか」らという言い方はしたくないですね。必然というのか、成り行きとでもいうのか。

 結婚して気がついたことはたくさんありますが、かみさんが意外に「年中行事」というか季節の風習に関心を持っていたのに驚いたことがあります、表面上のことでしたけれど。とくに、大晦日と元日については、なかなか頑(かたく)なな姿勢を持っていました。今から考えてもおかしいというべきか「若水汲み」というしきたりにこだわっていた。子どもが成長したら尚更、元旦早々の一番目の「風俗・風習」を断行するのでした。取り立てて文句を言う筋合いもないのでしょうが、その「若水」を「水道水」から汲んでいた。それが小さな子どもの初仕事だった。また、これは今でも、さかんに宣伝されたり、自らの長命祈願、寿命信仰の実践として行われている「年越しそば」のことです。かみさんは、この習わしもかなり熱心に続けていました。多分、子どもたちが家を出てから、夫婦だけになったので取りやめたのだといえます。水道水や天然水(市販)の「若水」はぼくは好まないし、「年越しそば」も大半が原産地がわからない輸入物だったりしている現状から、それを食したから「長命」と言うのも解しかねるものですから、かみさんはよく作っていました。ぼくはあまりそれに賛成しなかった。そのうちに沙汰止みなった。いいことですね。「お節料理」もしかり。出来合いのものは便利だし、手もかかりませんから、大流行でしょう。しかし、天邪鬼の人間としては、そんなものに箸をつけるということができないんですね。

 もっとはっきり言えば、この時代、なんだって、普段どおりが何よりだ、といいたいだけで.宮参りも初詣も行ったことはない。某TV局の「歌合戦」など見たこともありません。(義母が健在だった頃は、毎年のように千葉の「笠森寺」(右上写真)には出かけた。かみさんの母親だったが、ぼくは健気にも運転手を勤めていたのです。真面目に「手を合わせる」ということはなかった)(左の写真は都内神田の有名な蕎麦屋の「年越しそば」の順番まち。ぼくは何よりも並ぶのがきらいだったから、こんなハレンチはしたことがなかった」

● 若水汲み= …元日の行事の使い水で,口をすすいで身を清めたり,神への供物や家族の食物の煮たきに用いたりする。若水汲みは〈若水迎え〉ともいわれ,儀礼的な色彩が濃く,若水手拭で鉢巻したり,井戸に餅や洗米を供え,祝いの唱え言をしてくむ土地が多かった。鹿児島県奄美群島には,若水といっしょに小石を3個取ってきて,火の神に供えた村もある。…(世界大百科事典)

 というわけで、まるで「小言幸兵衛」みたいな雲行きになっています。人間がすることには、どんなことにも「意味」がありました。しかしその意味も歴史も無視したままで、「惰性」でやるのは進歩もなければ工夫でもないということです。「年中行事」のほとんどは形骸化どころか、解体してしまいました。「お祭り」につきものの「神輿」を軽自動車に乗せて町内を回るというのは「児戯」そのものですね。生活に潤いがあるかないか、それは「行事の意味」が失われたままに、それを「模倣」したところで、なにか「ご利益」があるのですかと、訊きたいぐらいです。時も所も弁えずに「花火大会」をするようなもの。それを楽しめばいいのですから、「年中行事」もすでにそうなっているのでしょう。如何にも「コンビニエンスの時代」がもたらしている、さまざまな「歴史のまがい物」です。(恵方巻き」ってあれが始めたんですか。多分、セブンイレブンだと思いますね。商売が過ぎてやしませんか。

 例によって、駄文に結論なし。世情を嘆いているのではありません。また社会の健全化を求めるのでもありません。いかに力を注いでも、壊れるときは壊れるし、その方向を逆流させることはできないという、その見極めをぼくはしたいというだけです。よく使う表現に「物情騒然」というのがあります。世間が先殺気立っているというか、騒々しいままに「人心」が浮足立っているさまをいうのでしょう。要するに「余裕」を失っている状態です。右に左に「物情騒然」の実際を見ない日はありません。親が子を殺し、親が子を殺す。夫が妻を、妻が夫を殺(あや)める事件が続きます。大好きだった浪曲の「壺坂霊験記」の出だしは「妻は夫を労(いたわ)りつ、夫は妻に慕いつつ」でした。幼少の頃、ポケットに手を入れたままで、これを口ずさんでいたことを思い出します。元は浄瑠璃の一演目。それを浪曲にしたものを、恐らく、浪花亭紋太郎師匠でぼくは聴いたと覚えています。この噺は驚くべき展開を示すので、ぼくは記憶にとどめていたのです。別名「お里澤市物語」、盲目の夫とその夫を支える妻のもだし難いという夫婦愛が本筋です。

 (内容は、とんでもない展開になっています)(落語も好きでしたが、あるいは当時(小学校卒業ころまで)は、浪曲の方をもっと好んでいたかもしれません。今でも、その出し物の幾つかを諳んじています)

 今月の十六日でしたか、福岡県の博多駅前で「凄惨な刃傷事件」が起こりました、いわゆるストーカー行為による殺人事件でした。この女性はなぜ殺されねばならなかったのか、その詳細はわかりませんが、とっさにぼくは「壷坂霊験記」を想起したのです。いつの時代でも「人間関係」は複雑怪奇であり、また単純明快です。要は、自分自身の「育ち」「成長」の問題に尽きますね。加えて言うなら、この時代に、刻々と失われていくのは「尊敬心」「誠意」「思いやり」という、他者への心持ちのあり方、あるいは「親しき中にも礼儀あり」という惻隠の情です。

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 「物情騒然」とか「人心惑乱」は、けっして孤立しているものではなく、世間という大きな集団社会の歯車が変調をきたしている、その現れが、個別の人間関係の歪みに波及しているのでしょう。打つ手があるのか、あるいは手遅れなのか。再現したいのは、いつでもどこでも誰でも「やり直し」はできる、ということ。それを改めて念じてみたい。

 「夫子之道、忠恕而已無」と言うのは孔子さんでした。「夫子(孔子)」を「人間存在」と、ぼくは言い換えておくものです。冬晴れの「大寒の日に」、一筆啓上とか何とか、そんな気分でしたね。

 この「忠恕のみ」といったのは孔子だと、すでに何回か触れています。ぼくの愛読する辞書「字通」には「【忠恕】(ちゆうじよ)まことと、思いやり。〔論語、里仁〕「子曰く、~吾が道、一以て之れを貫くと。~門人問ふ~曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕のみと」孔子という人が終生、たった一つの姿勢(態度、つまりは思想です)を貫いた、それはただただ、忠恕だけだったと。この態度や思想は学歴や地位にはまったく関係しないというより、むしろそれらは「忠恕」を曲げてしまう虞(おそれ)が大いにあると思う。孔子がこのよう述べたという意味は、それだけ、誰に対しても深い思いやりや誠意をもって対することは、どんなに難しいことだったかと教えているのではないでしょうか。ぼくは、聖人でも君子でも大人(うし)でもないから、なおさらに、そのように思うのです。だからこそ、といいたい。孔子が生涯をかけて、貫き通そうとした姿勢や態度は、実は人の人に対する「最良」の応接の礼儀だということです。教育や道徳の問題の初発、出発点をここに置こうとする教師が一人でも生み出されることを懇望(こんぼう・こんもう)するのです。もちろん「忠」も「恕」も、どちらも真心(まごころ)といい、誠実というばかりです。人とのつながりにおいて、裏も表もない、利害打算も混入しない、そんな心持があるのだろうか、ぼくはつねに胸に手を置き、その想いに耽ることがある。(大寒にも「泰然自若」たる木々があるように、困難に遭遇してなお、一を以って貫く「忠恕」に、ぼくは渾身の願いをかけるのだ)

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