元は自分の領土、それを取り戻すだけだ

 あの土地が欲しい ― 田中角栄元総理は「欲しい土地は簡単に手に入るよ」と、その手法を明かしたことがある。目当ての土地の隣に少しばかりの土地を手に入れ、そこで、明けても暮れても「空き缶を、がんがん叩く」。さすれば、「こんなところに住んでいられないと、逃げ出すよ」実際、そういう風にして彼は蓄財に励んだのかどうか、ぼくは知らない。一抹の真実味があるだろう。ロシアが「クリミア」に続いて、二匹目・三匹目・四匹目・五匹目の「泥鰌(どじょう)」を狙って、隣国ウクライナの「四州」を併呑し、自国のものと宣言した。「何と言う茶番」とは隣国大統領の本音だし、世の多くの納得を得ることはできない。今の世に、このような「謀反」「無謀」「出鱈目」が許されるのだとしたら、天地が逆転するに違いない。(プーチンは「咄嗟の判断」を迫られた。ウクライナ全土を奪い取る目算も狂い(当人が狂ってるんですからな)、多大の犠牲を払って略奪した「なけなしの(他人の)領土」も風前の灯。ここで抜かると、元も子もなくなるからと、恥も外聞も(初めから、彼にはない)そっちのけで、パンツ一つの裸姿で、「助命」の「嘆願」宣言なんだ、実際は。「ここで手を打ってくれまいか」と、虫がよすぎるな。裸形の独裁者は「前門の虎、後門の狼」という窮地に陥っている) 

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 この「強請(ゆす)り国家」であるロシアが、国連の「常任理事国」というのも、笑うことのできないブラック・ユーモアだ。自らの暴挙や不正を批判する意見に、ロシアが「反対」を表明すれば、世界はロシアに手出しができないとは、なんという「大茶番」だろう。「これは俺の土地だ」とばかり、藪から棒ではなく、「敵地からミサイル」を発射させる。無辜の民を数限りなく葬っているのだ。この「戦争」に駆り出されたロシア兵(少数民族の若者が圧倒的だった)には、手に負えない破落戸(ごろつき)の政治・軍事指導者に反旗を翻したい感情・情念が滾(たぎ)っているし、実際にそのような状況に到っている。日本の総理とかいう政治家が「国連改革」を国連総会で演説したというのも、「茶番」だ。この節は「茶番」の大判振る舞いだ。

 一名を「特別軍事作戦」という「侵略戦争」は日を追って自軍(ロシア)に不利になっている。この「戦争」が始まった段階で、ぼくは P 大統領は墓穴を掘ったといったし、彼は狂気に見舞われていると断言した。現にその通りで、彼や彼の取り巻きが投げ込まれるには十分の深さまで「墓穴」は掘り進んでいる。彼らをただ放り込むだけでは足りず、「戦争犯罪」の責任を厳しく追求しなければなるまい。他人の所有物を強請(ゆす)り・集(たか)りによって盗む、しかも、その破廉恥行為に対する「正当防衛」として、抵抗する兵や民衆を必要以上に、残虐非道の振る舞いで「なぶり殺す」、これを世界は放置していいのだろうか。この狂気は、万難を排して阻止すべき時期に来ている。

 世界が認める正義が彼ら(「戦争犯罪人」)を糺(ただ)す前に、あるいは、彼や彼の取り巻きは自国の民衆によって「縊り殺される」「扼殺される」かもしれない。それを望むのではなく、真っ当に、「戦争犯罪」という消しようのない過ちを償う、そのような「人間の道」(人道・道義)を明らかにしたい。(「ミサイル」を持った、文字通りに「核」をちらつかせる、この「狂気・狂言」強盗を許してはならぬ)

 国家は、世界という大きな「町内会」の一町会なんだ。会員の中の一つの町会が無法で暴虐を企てたにもかかわらず、それを放置していると、町内会そのものが瓦解する。今はその瀬戸際に到っている。謀反の張本人が、町内会そのものを破壊するほどの「核兵器」を使うぞと、さらに「脅し」をかけている。使えるものならどうぞ、ぼくはそう思っている。使えるものなら、さ。町内会もろともに破滅するのなら、致し方あるまい。災害に襲われた人々を互助の精神で助け合い、道路や空き地の除草作業も協力して実施する。町内を健全に、かつ良好に保つためである。でも、一町内が、それは嫌だ、俺は参加しないで、隣の町内の土地を自分のものにしたいから、そこにいるやつはどけ、邪魔立てするなと言ったら、どうなるか。「分かりました」と許諾しますか。

 (かくして地球は消えるし、これまでも消えてきたのである。五十億年近くを要して出来上がってきた、この宇宙というか、地球の「現在」が滅ぶこと、おそらく、これまでにどれだけの回数を繰り返してきたのか。まるで「賽の河原」の石積みです。億の年数を費やしては、崩れる・崩される。その繰り返し。同じような過ちを、時代を超え、世代を超えて繰り返してきた。それ(過失)は、一時代や一世代の特権だとでも見做しているのだろうか。

 人間ばかりは、どこまで行っても「無知蒙昧」であるのだろうな。それを超えて、さらに高まることはできない相談なのだ。中途半端な知恵しか持たない二足歩行動物だからだろうか。二足歩行が「脳の大きさ」を決めたというのは、如何(いかが)わしいね。脳が大きいから賢明であると、誰が決めたんだろう。

 「盗人にも三分の理」、そう昔から言われてきた。だが、このロシア(プーチン)という「強請り強盗」には一分の理もありはしない。

================

 ロシア国内で軍指導部への批判噴出、核兵器使用を「提案」する声も ウクライナ侵略を続けるロシアの国内で、反転攻勢を強めるウクライナに対し、核兵器の使用を含めた反撃を求める声が強まっている。ウクライナが2日に東部ドネツク州の要衝リマンの奪還を宣言したことを受け、戦況で劣勢が目立つロシア側はいっそう厳しい状況に追い込まれることになり、今後の対応が注目される。/ 露国防省はウクライナ側のリマン奪還宣言に先立つ1日、露軍のリマンからの撤退を発表し、ウクライナ軍に奪還を許したことを既に認めていた。/ こうした状況を踏まえ、露南部チェチェン共和国のラムザン・カディロフ首長は1日、ロシアが一方的に併合を宣言した東・南部4州の防衛に関し、「思い切った手段が必要だ」と指摘した上で、「国境付近一帯への戒厳令発令や低出力の核兵器の使用」を提案した。

 プーチン露大統領は9月30日、4州の併合を宣言した演説で、「我々は自分たちの領土と国民をあらゆる手段で守る」と強調した。カディロフ氏の提案は、プーチン氏が演説どおりに行動するよう求めたものだ。/ カディロフ氏が言及した「低出力の核兵器」とは、戦術核兵器と呼ばれるものとみられる。ロシアは約2000発を保有していると推定され、爆発威力はTNT火薬換算で5~数十キロ・トンになる。/ ロシアは核兵器の使用基準に「国家存続を脅かす通常兵器による攻撃を受けた場合」を含めている。このため、4州の一つのドネツク州でのウクライナ軍の攻撃が、この基準に該当すると解釈する可能性もある。/ カディロフ氏は、リマンを奪還されたことについて、露軍指導部も批判している。制服組トップの露軍参謀総長にリマンが奪還される恐れを指摘したが、聞き入れられなかったという。露軍元高官の下院議員も1日のテレビ番組で、リマンでの部隊増強が不十分だったことを指摘し、露軍内の意思疎通に問題があったと批判した。(読売新聞オンライン・2022/10/03)

____________________________

 莫迦につける薬はないー国葬を国葬儀と強弁

 国葬儀を国葬に擦り替え ~ 故元総理を「国葬」で、と受け取ったのが殆ど。現総理は「国葬儀」と強ばる。銃撃直後興奮に駆られ、故人の恩義にと、咄嗟に閃いたのが「国葬」だったが、根拠法がない。躊躇の暇もなく、副総理が「理屈じゃねえ」と「国葬」をゴリ押し。重箱(内閣府設置法)を取り出し、その角を穿(ほじ)ったら「国葬儀」が出た。「国の儀式」の所掌は内閣の任だから、「国葬儀」で可だとほくそ笑んだか。悪知恵を捏造したのは官僚だ。愚民には「国葬」も「国葬儀」も無分別だからさ。喝!筋の通らぬ「屁理屈」を捏(こ)ねるのが政治かね。これぞ、国民愚弄の極み。恟懼しつつ禁じ手を出すや、「ダボ(人民)」が飛びつき「国葬反対」の大騒擾。有耶無耶のまま「国葬」へと算段する。我が思う壺と「快哉を叫んだ」ろうが、墓穴を掘っただけさ。無知無能で策略の一手のみ、そんな連中が牛耳る「国」は必要か。(「莫迦(ばか)につける薬はない」(第八回・2022/09/10)

**************

 駄文を書いている本人がどうしようもなく「情けなく」なるのですから、こんな愚劣な問題に触れるというのも、はっきり言って始末に終えません。法的根拠のない「国葬」といえば、いや内閣が所掌するのは「国の儀式」だから「国葬儀」なら、閣議決定で問題はないと言う。名のある大学出の大人が、この程度の「ごまかし」を真顔でやるところに、著しい頽廃を感じてしまう。マヤカシであり、屁理屈の捏造だと言えば、まともな感覚は呆れかえる外ないのです。「弔い」を葬式といおうか、葬儀といおうか、どう取り繕っても、することは同じだ。いくら言っても詮無いことで、でもあまりに酷(ひど)いと、駄文であれ何であれ、ぼくの言葉で書いておくことは必要だと思うから、書き留める。

 自分の利益になるなら、使えるものは何でも使う、「統一教会」でも「国葬・儀」でも。そこには「信仰心」の欠片(かけら)はもとより、故人を悼む雰囲気は皆無です。じつに酷い遺産を残されたと思うばかりです。

 この駄文は午前中に書きあげていました。アップ寸前に電話があり、久しぶりに友人が声を聞かせてくれました。(アップしたのは午後二時過ぎ)その隣には、今夏、ある大学に入学が決まっている人がおられ、久闊を叙すという塩梅で、長々と「雑談」に花を咲かせた次第です。歳を取るという実感はいろいろな場面で感じることができます。何よりも若い人の話を聞く時、それを強く感じますね。かなりの昔、ひとりの評論家が、先輩作家に抗して「歳は取りたくないものです」と書いて物議を醸したことがあります。でも、「歳」は、当人が希望してどうにかなるものではないという意味では、まったく誰にとっても条件は同じで、平等です。

 同じように、「死」もまた、誰彼の間に差はなく、まったく平等にやってくるものです。それを避けることはできない、結果においては。その「死」に対して、遺されたものがいろいろな計略を企み、死の意味を曲げてしまうのは、どうしてか。結婚式は当人の希望が実際に確認できますが、「葬式」はどうか。遺言そのままということもありましょうが、そうでない場合がほとんどです。その際、多くは世間体を憚ったり、故人なら、きっとという、勝手な判断で、いろいろな奇妙なことをしてしまいがちです。

 今回の「国葬儀」もその典型です。遺族や当の本人の意思が確認できない以上はどんなやり方だってできますよというのは、死を弄ぶことと同義ではないですか。ぼくは白洲次郎さん(左下写真)のことを思い出しています。彼は、戦後の混乱の中で復興にかかわる仕事をした人として知られています。小林秀雄さんの友人でもあった。彼は死に臨んで一通の「遺言書」を認(したた)めていました。別に白洲さんだけではなく、こんな考えを持っていた人はたくさんいました。今だっている。ぼくもそのひとり。加えて、「墓もいらぬ」とするね、ぼくは。ひとりで生まれひとりで死んでゆく、それで何の不都合もないもので、世間はそれを許さないわけがないのに、国葬だ、国民葬だとまことに喧(かまびす)しいのです。遺言があれば話は別、それがなければ(あったところで)、いろいろな「忖度」が働きます。   

 その時は、恐らく「葬式」は、一種の「演出」になるのでしょう。芝居です。脚本を書く人がたくさんいるから、今回は困っているのじゃないですか。国葬でも国葬儀でも、内容や段取りは変わらない。ただ、それを国民葬だ、合同葬だなどとしたくなかったのは、死を悼むのとは別個の信条(魂胆)がある・あったということです。これは死者が「位人身を極めた」(とみなされている)人だったからなのか。あるいはさらに別の思惑があったからなのか。ぼくにはどうでもいいことで、死を悼む気持ちは、どんなかたちでも示せますよ、ということに尽きます。

________________________

 カルト集団により、足元の堤防は決壊寸前です

 堤防は決壊寸前です ~ カルト集団との「議員交流調査」結果が出た。破落戸議員は約半数。(「自白」に証拠能力はない)「カルト集団と知らず」と嘯く議員が大半で、事態の切迫性に無自覚か、無知を装う。地方議員の側に深刻かつ広範に侵食している現状を、敢えて無視している。地方議会の大半に公然非公然に潜入し、議員の意識を呪縛しているかもしれぬ。選挙に勝つなら、どんな浮遊物でも掴むという議員根性が、この島社会を破滅前夜に至らしめた。足元から決壊は始まっている。無数の支流を集めて「本流」となる習いだが、支流そのものが深く汚染され、かく汚濁した流水が本流めがけて奔流して来たのが、この十年の「最長政権」期だった。「保守政党」は「過去に併合化した地」から叢生したカルト集団に人民を拉致され、金員を強奪・略取されるのを傍観・放置。この島国を隷属化してきた「集団」に身を寄せ、魂を売った議員諸公の本懐はなんだったか。(「言わねばならぬ事」第七回・2022/09/09)

 カルト集団に「国民」が蹂躙され、それを無視するどころか、その「集団」に救いを求めたのが大半の国会議員だった。目先をごまかし、批判や非難が行き過ぎるのをやり過ごすつもりでしょうが、果たして、そう行くか。事態はじつに深刻だと、ぼくは見ています。保守派を任じる面々が「反日本」を標榜する「集団」にすり寄り、挙げ句に、抜き差しならぬ事態に至ったことを、ほとんど自覚していない風がありありです。(一面では、「勝共連合」は見せかけの、日米保守派向け看板です)この「汚染議員集団」を作り上げた先達が「故総理」だったのは周知の事実。いわば腐れ縁の元締めの言動に蓋をして「死人に口なし」を決め込んで、時の過ぎゆくままにと「洞が峠(日和見)」を許すほどの時間の余裕はないと、だれも見ていない。(右図表は東京新聞(Tokyo Web・2022/09/08)

 宗教を騙り、詐欺商法で大枚を巻き上げ、高額献金強制で、家庭崩壊・一家離散を現前させた「世界平和統一家庭連合」の暴力的体質に寄りかかってきた多くの政治家諸公は、「日本国」及び「日本国民」が外から異端視され、あるいは対等に交際できる仲間とは認められないとなれば、どうするつもりだったか。ぼくには、昭和初期以来の歴史に刻まれた「悪夢」が過(よぎ)るのです。信教の自由は権利として承認されるべきであり、どんな宗教の信者となることも自由です。思想信条の自由は、基本の権利だといえます。しかし、それを偽り、社会(集団・家庭)の平和を乱し、破壊をもたらす結果になるなら、それは一定の制約を受けることにならなければおかしい。(「勝共連合」の初期会長に座ったS某は「地球は一家、人類みな兄弟」と大々的にテレビ画面に出ていた。早い段階から、「地球一家」派を任じていたのも、この「集団」との親和性を明示している)保守政権の多くの基本政策(キャッチフレーズ=題目、一例は「美しい日本」「同性婚反対」その他)は、この「集団」からの受け売り、いや販売代理店となっていたきらいがあります。「店長」は、誰だったかって?言わなくてもいいでしょ。

 「思想信条の自由」とは、それを表現する当事者の言動によってのみ明らかにされるものです。つまりは、宗教は個人的なものですよ。徒党を組むのは、宗教(信仰)以外の、別の狙いがあるからです。宗教は「阿片」(マルクス)だというのは、その効能によって「苦痛の癒やし」がもたらされる限りで、そういわれるのです。「疼痛」解消のため「鎮痛剤」でもあるモルヒネは阿片から抽出されます。そのモルヒネ(宗教)で「人生の苦悩(激痛)」から一時的にせよ治癒(解放)される限りで「服用」は容認されるもので、宗教は、個人個人にとって、そういう効能効果を持つものではあっても、世界統一国家樹立や、まして他民族支配を目論むものは、けっして宗教とはいえないでしょう。それは宗教に名を借りた「政治権力(暴力)」そのものです。

_______________________

 背広にネクタイ、下はパンツ姿。鏡を見てご覧!

 咄嗟の発言…いきなり質問され、どう答えるか。応答次第で、その人となりはわかるというもの。この政治家・泉某には、前にも触れた。閣議決定直後は、「国葬」には静かに参加したい旨を表明。世間の雲行きが険しくなると、時をおかず軌道修正を重ねて、最近では「国葬反対」と断言、かと思いきや「(参加の)可能性はあると思う」だって。何、この言い方?小なりと雖も「政党代表」たる御仁。こんなに「右顧左眄」すると、きっと「顧小失大」を招くね。「自分の意見」がないのは、見識(主体性)に欠けている証拠。政治家には似合わない。第一、支持する国民(がいるとして)が迷惑をする。その昔「なんでも反対、社会党」と揶揄された勢力があった。その「なんでも反対党」は深部で政権党を支えたね。今に言う「補完勢力」だった。「国葬に反対」、しかし「参列」というのでは、背広にネクタイ、下はパンツだけという醜悪な姿そのもの。鏡に写してご覧よ。見事に、一貫性がないね。どこを見ているの?早々に所属を変えたらどうか。(「嫌なことも言わねばならぬ」第七回・2022/09/02)

*******************

立憲民主党の泉健太代表=8月19日、東京・永田町

 国葬出席の可能性「あると思う」 泉立民代表 立憲民主党の泉健太代表は1日のBSフジ番組で、故安倍晋三元首相の国葬に出席する可能性について「あると思う」と述べた。「国会論戦を行う中で最終的に判断していきたい」とも語った。立民は法的根拠が乏しいなどとして、国葬に反対の立場を示している。(時事通信・2022/09/01)

 この政治家に「含む」ところはまったくありません。面識もない。ただ、選挙区が京都だという、つながりとも言えないつながりだけ。国政政党の代表だと名乗る以上は、いろいろな意味で「肝・胆(きも)」が座っていなければ、そういうささやかな願い(ないものねだりかもしれないが)を申し述べただけです、悪しからず。

**************

 朝五時前のラジオで、今日の「誕生日の花」と「花言葉」が流れてきました。茗荷(ミョウガ)だそうです。我が荒れ庭にも、あちこちに生育しています。まったく手を掛ける必要がない植物で、しかも薬味としても大変に重宝で、ぼくもいつでも戴いています。ミョウガを食べ過ぎると「物忘れ」がひどいと言う。食べなくても物忘れ人間ですから、いつも口にしているので、健忘症は激しく進行中です。その「花言葉」は「忍耐」だと。とても日陰が好きなんだな。

 「国葬出席の可能性『あると思う』」と二股膏薬を貼ってる、両睨み政治家さん、どうぞ、たんと「ミョウガ(茗荷)」を召し上がれ。「命冥加(いのちみょうが)」などという好運に恵まれないとも限らない。「忍耐」も、ね。

_________________________

 「死もまた、社会奉仕」と湛山は書いた

 国葬考(その二)…「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」元総理の「国葬」処遇は憲法違反。「国葬」挙行の理由如何?(下記参照)。悉く「賛同」できぬ。在任中の「非政治的業績」は、「虚偽答弁」が惹起した信用失墜(不信拡大)、「アベノミクス」による財政破壊(「日銀は政府の子会社」)、「国権の無視(「私は立法府の長」)」、「北方領土」「拉致問題」などの政治的悪用。刹那的・恣意(個人)的政治行政により国益を激しく毀損、行政長たる地位を濫用した「(独善的)公私混同」によって政治本来の筋道を著しく歪めた。最たるものは「旧統一教会(カルト)」との癒着だ。石橋湛山は山縣有朋逝去に遭い、「死もまた社会奉仕」と直言。国主宰の「葬儀」ではなく、「国を葬る儀」とすべき理由は素朴そのもの。社会健全化のためにも。「(「言うべきことは言う」第六回)(2022/08/30)

(写真は東京新聞・2022/07/22)

 「地獄の沙汰も金次第」とは、この浮世のえげつない拝金主義を呪った言い草です。元総理が凶弾に倒れ、非業の死を遂げた機を捉えて、有象無象が、「その死」を(表向き)大いに悼みつつ、最大限にそれを、自らの権力・権限拡大のために利用しようとしています。人民の意向(の大勢)は「国葬」反対。にもかかわらず、政府与党等は、挙行・強行するのです。(左図表は東京新聞・2022/08/19)

 「国際社会から極めて高い評価」が出ているとするが、それは「外交辞令」、つまりはおべんちゃらだ。「憲政史上最長の在任期間」といって、その「憲政」を踏み躙(にじ)ったのが「最長期間」の総理だったではないか。「経済再生」ではなく、「経済再生不能」にまで悪政策を強行したのです。「大きな実績」とは、どこを探して言うのか。「最大の空虚・虚無」だと、ぼくは、再三に及んで、言ってきました。かかる「宰相」をあてがわれた人民は、不運であり不幸だったと、今にして(今だから、か)言うべきでしょうか。ぼくたちに、「政治の質」や「政治家の品性」を見る目(観察力)(政治センス)がなかったと言われても仕方あるまい。

 繰り返して言いました。国葬は、「やりたければ、どうぞ」、と。ただし、それは「国を葬る」儀式としての「国葬」です。国という機関が健全に機能する気遣いはないとぼくが考えるのは、その機関を運営するのは「政治的人間」「権力志向人間」ばかりだからです。政治的人間とは、自分一個の欲望の赴くままに、権力を行使したがる性癖に淫した存在のこと。そのような行政府の(肥大化する)権限による「統治(運営)方式」が避けがたいのなら、政治家や官僚(役人)、つまりは当局者には(可能な限りで)限定された権限のみを付与すべきでしょう。(「小さな政府」とは何か。これは宿題にしておきます。後日)

 これもすでに何度か触れましたが、ぼくは「アナーキー(無政府主義)」論者です。今や、政治的権限が大きくなりすぎて、守るべき人民の生命や財産を破壊し、蹂躙することが政治権力だと錯覚する輩が多出している。人民に対する「生殺与奪の権」を持っていると、恐ろしいまでの錯覚(勘違い)を自覚していないのだ。その挙げ句が「戦争」をしたがるという「暴力信奉」の持ち主です。いまも、いくつかの地で「戦争」が生じている。国民(人民)のだれかが「戦争しよう」と言ったから、戦争が始まるのではない。「臥薪嘗胆」「鬼畜米英」と雄叫びを上げ、根拠のない暴走に傾き、自らの政治的野望として「他国併呑(植民地化)」をぶち上げる「不道徳」な権力者がいるからです。

 恐らく、権力者は、悉(ことごと)く「不(非)道徳」なもの、と言いたくなりそうです。その「堕地獄」から遠ざかるのは不可能に近い。それほどに「政治権力」は、まともらしい人間を堕落、頽廃させる。その危険性を自覚している「政治家」は、果たしているのでしょうか。「権力の誤用」が常識となるのが、政治の世界であり、逆に「政治道徳」は二律背反で、道徳心は、そこでは棲息できないのではないかと思ってしまう。それは八百屋で「カツオ」を買おうとするようなもの。まことに笑止そのものではないでしょうか。

 今般の「国葬」問題の背景は、じつに単純で、「法の下の平等」を踏み躙る政治権力が、「憲法蹂躙」を繰り返した元総理を顕彰し、それによって「おのが権力・名誉」を得ようとするからにほかなりません。憲法を土足で踏み躙った元総理を弔う主が、同じく泥靴で憲法を踏み躙ってまでやろうとする現総理だというのです。「憲法」遵守を蔑(ないがし)ろにし、それでもなお政治家を続けているという、驚きべき厚顔の面々です。「顔厚忸怩(がんこうじくじたり)」という「姿勢」は絶えて見られない。「俺(お)ら、こんな国いやだ」

___________________