「可能」は「不可能」のまちがいだった

 以下、「法の番人」、「人権の砦」を自称、偽称している「法務省」「法務大臣」の会見の一場面です。この会見概要の中に、言いようのない頽廃、堕落の極地を観るのです。ぼくは、時には大臣の会見記録を、必要に応じて読んでいます。我ながら随分と暇なんだという気もしますが、何かの拍子で、この人たち(大臣や官僚)は「人命」など歯牙にもかけないという「空恐ろしい本音」を見聞することがあります。いま、審議中の入管法改正問題。来週火曜日に委員会採決(通過)が予定(調和)されている。法務委員会では、先般、ある女性議員が「問題発言」をして物議を醸しました。入管収容中に「死亡」したスリランカ人女性の「詐病(仮病)」を匂わせる発言だった。法務委員会では法務大臣の発言も「人命軽視」ではなく、「人命無視」発言が際立つ。虚偽、捏造など、まさに日常茶飯事という次第です。そんな無能大臣を虚仮にしているのが「法務官僚」連です。大臣はすぐに辞める、自分たちは先が長い。適当に付き合うだけ。何もこれは、法務省に限らない。どうしようもない「頽廃」の蔓延の根っこに何があるか。人命無視であり、国民愚弄ですな。(ヘッダー写真はLOVEGREEN:https://lovegreen.net/flower/p172416/)

 以下は、先週火曜日(5月30日)の閣議後の大臣記者会見「概要」です。一人の記者が「難民審査に当たる一参与員が、一年半で500人の審査をした」という発言、その扱い件数は、本当に可能なのかと大臣に質問した。大臣は「事前の審査も行っているので、それは可能」と明言しました。ところが、同日の午後の会見ではその発言を翻して「不可能だというべきところを、可能と言い間違えた」と、記者の問題質問のせいで誤ったので、発言を「修正」したのです。入管問題の詳細は後日の駄文(予定)に譲りますが、現行の「難民認定申請」はいい加減なものが多いので「申請・認定の厳格化」を図るための法の改正を、というものだったが、その「難民申請」を受け付けて「審査する」作業が極めていい加減で、出鱈目なものであったことが明らかになったわけです。この小さな島国は、どうして難民認定をしたくないのか。恐ろしい「歴史」が底に横たわっています。

 「いずれにしても、我々の審査の仕方は、事前に書類を送って見ていただくということをやっておりますので、ですからそれも含めての処理数ということでありますので、一般論として申し上げれば、1年6か月で500件の対面審査を行うということは、(可能であろう ➡ )不可能であろうというふうに思っています」(注 「事前に、参与員に書類を見てもらっているから『可能』である」というのは文意は通る。それを、数時間後に、誰かに指摘されて、無理を承知で「『不可能』というところを、『可能』と言い間違えたというのなら、大臣は即刻辞任すべき。言ったことを言わなかった、いい間違えたというのは「食言」なのでしょうか。「訂正」なのでしょうか。誰を・何を守ろうとして、こんなアリもしない虚言を吐くのか。法務官僚にも、真偽の程を訊きたいね)(食言=[名](スル)《一度口から出した言葉を、また口に入れてしまう意》前に言ったことと違うことを言ったりしたりすること。約束を破ること」デジタル大辞泉)

 このようなありそうもない「発言訂正」を臆面もなく法務省ぐるみでやっているという現実に、ぼくは言葉を失う。スリランカ人の女性が収容中に「変死」した問題がいまもなお真相究明の途上にある、そのさなかに、大阪入管では以下のような「女性医師の問題行動」が明らかにされました。その問題を巡る質疑に関しても、法務大臣は「何をかばっているのか」「何を隠そうとしているのか」、それが見え透いているようにも思えてきます。法務省は「恥も外聞もなく、何かを必死で守っている」のです。それは何か?「体面(人が世間に対してもっている誇りや面目。世間体) 」、「面子(面目)」、そうだろうか。連中は、そんなに殊勝なタマではないだろう。「世間や周囲に対する体面・立場・名誉。また、世間からの評価。めんもく」というものを彼や彼女らが保っているとはとても思われない。そうではなく、大臣も官僚も「自己評価(自分はできるんだ)」を落としたくないだけなのだと思う。そんな「下劣なもの」で、人命を足蹴にされてはたまらない。

法務大臣閣議後記者会見の概要令和5年5月30日(火)大阪入管常勤医師に係る報道に関する質疑について                                                         【記者】読売新聞が今日書かれています、大阪(入管)の常勤女性医師の、アルコールが検出されたのではないかという関連でお聞きします。こちらは私も取材をしておりまして書かれてはしまったのですが、この女性の医師、1月20日に足取りがおぼつかないため色々指摘を受けてアルコールをチェックしたところ、アルコールが検出されたと。ただ、このときだけでなくそれ以外にも、ポケットからお酒の空き缶が出たり、勤務中に居眠りしたり、失禁するなど、これはアルコール依存症がかなり疑われるということで、だいぶ前から大阪管内で問題視されていたと聞いております。このことについて事実関係と現在どのような状況なのか、この女性医師は今でも医療対応をされているのか、このような状態が病院の医療体制は良くなったと言いつつ、またこのようなことが起きてしまっていることについての大臣の見解をお願いします。                                                     【大臣】まず、御指摘の報道は私も承知しております。現在、大阪局において、まず当該医師を被収容者の診察業務には従事させていません。そして、事実関係の確認など、必要な対応を今行っているというところですので、今の時点で、私のほうからこうだああだと言うことは差し控えざるを得ませんが、大阪局におきましては、被収容者の医療体制に問題が生じてはならないので、現状は、非常勤医師や外部病院医師による診察によってカバーをしております。  

                                                                             【記者】女性医師は処分する予定はあるのでしょうか。           【大臣】それは事実関係がまだ最終確認できていないので。                                                            【記者】いつ発表する予定ですか。                                                                     【大臣】それは確認し次第。                                                                             【記者】(本年)1月のことですが。                                                                       【大臣】確認し次第。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 入管法改正法案に関する質疑について                                                                      【記者】難民審査参与員柳瀬房子氏の件についてお尋ねします。難民審査参与員の柳瀬房子氏、2019年11月の「収容・送還に関する専門部会」第2回、第1回ではなく第2回の会議録に、「私は4,000件の審査請求に対する採決に関与してきました。そのうち約1,500件では直接審尋を行い、あとの2,500件程度は書面審査を行いました。」と発言したと記録されています。第1回では1,000件以上と言っていたんですけれども、第2回では約1,500件と明言されています。2021年4月の衆議院法務委員会では2,000人と会ったと語っているので、この1年間で、2019年11月から2021年4月までの1年半の間で、対面審査が500人増えたということになります。どちらも立法に関わる重要な数字なので、疑惑のある以上、2021年・2022年の審査件数だけではなく、それ以前の審査件数も出す必要があるのではないでしょうか。もしまたこの数字が正しかったとしても、1年半で500人の対面審査を行うなどは、とても真っ当な審査をしたとは思えないのですが、かつ参与員の中でも異常な偏りがあるという点はどのようにお考えでしょうか。  

                                                                       【大臣】まず、色々数字をおっしゃったので、一つ一つ確認しなければ答弁できないですけれど、今突然言われてもですね。ただ、1年6か月で500件ですかという御発言がありました。この点について、私は、柳瀬氏の御発言は、様々な場所で様々な御発言をされているわけでありますので、各御発言の時期や経緯、これバラバラでありますので、参与員としての事件処理数を、そのときその都度お話しになっているのだろうと思いますが、いずれにしても、我々の審査の仕方は、事前に書類を送って見ていただくということをやっておりますので、ですからそれも含めての処理数ということでありますので、一般論として申し上げれば、1年6か月で500件の対面審査を行うということは、不可能であろうというふうに思っています。(※)
 それから、様々なデータについては、今、参議院の法務委員会において様々御要請いただいているところでありまして、精査をしたり作業が必要なものもありますので、全部出せるかどうか分かりませんが、御指摘のようなものも含めて、今、対応を検討しているところであります。                              (※)法務大臣の発言においては、「可能」とありましたが、「不可能」と発言しようとして誤ったものであり、訂正しています。  (https://www.moj.go.jp/hisho/kouhou/hisho08_00416.html

(注 臆面もなく、こんな面妖な『修正』を施す神経は異様ですが、そこには決定的に欠けたものがあるでしょう。何が欠けているのか)

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 斎藤健法相「可能だ」が夜には一転「不可能だ」 難民審査「1年半に1人で500件対面」巡り発言撤回(東京新聞・2023年5月31日 18時42分)   難民認定されなかった外国人の不服申し立てを審理する「難民審査参与員」の審査件数を巡り、斎藤健法相は5月30日朝の記者会見で参与員1人が「1年6カ月で500件の対面審査は可能」とした発言をその日の夜に撤回、「不可能」と訂正した。朝令暮改のようなやりとりに、法務省の広報担当は「不可能と発言しようとして誤った」とする。入管難民法改正案の根拠の一つが崩れたとして、支援者らからは「立法事実の根幹が崩れた。廃案にすべきだ」との批判が上がっている。  ◆どんな発言だった? 30日の会見では、参与員の柳瀬房子氏が1年半で500人の対面審査をした可能性があり、それで十分な審査ができるのか、という質問が出た。斎藤法相は「審査では事前に書類を送って(参与員に)見てもらっている。それも含めて一般論として、1年6カ月で500件の対面審査を行うことは可能であろうと思っている」と回答。事前に書類を渡し、審査を迅速化していると取れる発言だった。/ これに先立つ5月29日の野党ヒアリングで、出入国在留管理庁審判課の担当者は対面審査について「一般論で考えれば、月に最大10件、年間で100件程度だ」と回答。単純計算で1年半ならば150件程度となり、斎藤法相の発言はこれと食い違っていた。斎藤法相は6月2日に予定される会見で改めて説明する意向だ。/ 柳瀬氏は「審査で難民を見つけたいが、見つけられない」という趣旨の発言をしており、入管庁は3回目以降の難民申請を原則認めないとする法改正の理由の一つとしている。一方、柳瀬氏は昨年1年間で1231件の審査に当たったとされ、個々の事情を詳しく審査したかどうか、野党などから疑問が出ている。(望月衣塑子)(東京新聞・2023年5月31日 18時42分)

 6月1日は「人権擁護委員の日」です。人権擁護委員法が昭和24年6月1日に施行されたことを記念して、毎年6月1日を「人権擁護委員の日」として定めています。人権擁護委員は、あなたの街の相談パートナーとして、様々な人権侵害など、皆さんの問題解決のお手伝いをしています。女性・子ども・高齢者などをめぐる人権の問題やインターネット上の人権侵害などでお困りの方は、ご相談ください。(https://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken02_00046.html)

 あらゆる官庁で日常的に行われている茶飯事の一コマ、それが偶然問題になっただけ。誰も関心を示さないし、報道機関も、大半は権力の傘の下に。「屑も積もれば山となる」、その「屑の山」がこの劣島の骨格と中枢をなしている。だから、もはや手に負えないほどに「焼きが回っている」というほかないのです。ちなみに、「焼きが回る」とは「焼入れの際の火が行き渡りすぎて、かえって刃物の切れ味が悪くなる。 頭の働きや腕前が落ちる。年をとるなどして能力が鈍る」(デジタル大辞泉)ここにいう「焼入れ」とは「大学教育」を始めとする「暗記力競争」を指す。表面しか「鍛えられていない」脳を持って世に出ると、生半可な「愚人」が出来上がるんですね。過剰な自尊心や、その反動である他者を蔑視することにかけては、衰えることはないんだ。入管法と並んで、人命無視の法律に「マイナカード保険証紐付け法案」があります。これは成立した。問題ばかりが条文になっているというお粗末。「国民」を縛るにこと欠いて、カードを作らないとひどい目に合わせるぞ、などと脅しをかける、そんな法律が機能するかね。(ここには NTT等 と総務省・政治家とで掘り下げられてきた「暗くて深い汚職の海」が広がっているんです。政治は、この「汚職の海」を泳ぐ技術なんですね。これぞ、公共事業でした。それについても後日に)

 夏祭りの後は、後の祭りか

 「春の祭典」ではなく、「夏祭り」のようであると、ぼくは「広島サミット」を表現しました。祭主(斎主)は「K 首相」、広島出身を標榜しているが、実際は東京生まれの東京育ち。選挙区が広島だという理由で、サミット開催場所にこだわった。そのために「祭りの前」には着々と伏線を張っていました。その状況を表紙写真とともに言い当てたのが、雑誌「タイム」でした。最初は「平和主義を捨てて、軍事大国になる選択を」としていたが、政府側の抗議で、「タイム」は表現を削除、あらたに「国際舞台で日本に明確な地位を与えよう」としたと、首相が試みる「日本の選択」を紹介しました。訂正前後でなにか内容上の違い(に差)があるのかどうか、ぼくには判断できない。どっちにしろ、自国に、国際社会で明確はプレゼンスを与えたいと念願していたのは事実であって、今日〈 more assertive role 〉といえば、まさか「平和の鳩」になることを意味はしないでしょう。(「タイム」が抗議を受けて表現を訂正したのは語るに落ちましたね)

 さて、サミットは終わりました。もちろん、立場や好みによって、「サミット」開催の評価は分かれる。ロシアや中国が積極的に評価するはずもないし、国内にあっても、「核の抑止力」を大義に核保有を是認したという点では大きな非難・批判が出るのは当然でしょう。左下米大統領と映り込んだ写真を見て、どんな感想・印象を持つでしょうか。「俺たちは親友だ」と捉える人は、まずいないかも知れません。せいぜいが「賢兄愚弟」ならぬ「愚兄愚弟」の偽兄弟(コンビ)といったところでしょう。早く、このコンビ(従属関係)を解消したらどうか、救国の主になれるかも知れぬ。

 随分昔は、「大観小観」をよく読んでいました。それなりに直球を政治経済の現実に投げ込んでいたと見たからでした。その後、編集方針が変わったのか、記者が変わったのか、あるいは両方だったのでしょうか、ぼくには好んで読みたいとは思わなくなりました。三重県内の「政争」の暴露記事欄然としているとしか読めなかったからでした。昨日のコラム「大観小観」はどうでしょう。内容は、まことに妥当な、というか「夏祭り」の騒々しさと過度の警護ぶり、それも終わってみれば、虚しさが漂う、そんな印象が浮かんできました。「長年の平和主義を捨て去り、自国を真の軍事大国にすることを望んでいる」と書いた後で、抗議を受けて、「国際舞台でさらに積極的な役割を与えようとしている」と変えたが、その「こころ」は変わっていないだろう。(どうして記載表現を変えたのだろうか)

 嘗て「湾岸戦争」時の「金だけ支援」の島社会の姿勢に対して、宗主国から「日の丸を掲げろ」と一喝され、慌てふためいた挙げ句の「自衛隊の海外派遣(派兵)」へと続く泥道を歩いたのでした。その延長線上に、今回の「広島サミット」があった。直接に人を殺す装備品は供与できないが、それ以外ならと、「自衛隊車両〈百両〉」の提供をウクライナに申し出たと言う。〈Show The Flag〉ということだったでしょう。その車両で、ウクライナ軍は何を運ぶか。日本も「戦争」に参加したのです。

● ショー・ザ・フラッグ=同時多発テロに対抗する米国の軍事報復行動に対して、先進各国の支援・協力体制が広がった。日本政府には、かつて湾岸戦争の時に、一三〇億ドルという多額の戦費を負担しながら人的貢献がなかったことで国際的に孤立した「トラウマ」があり、早くから、後方支援でも自衛隊を派遣したいという意向が強かった。その際、知日派でもある米国のアーミテージ国務副長官が柳井駐米大使(当時)に「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せろ)」と発言したことが、無形の圧力となったといわれる。政府は、現行憲法の枠内で何ができるかを検討し、時限立法としての「テロ対策特別措置法案」を立案、可決させた。ここに、物資の補給や輸送、非戦闘地域での医療活動などにおける自衛隊の後方支援への道が開かれた。(とっさの日本語便利帳)

【大観小観】▼伊勢志摩サミットから7年。鮮烈さこそ今に残るが、何が行われたかというと、当時の安倍晋三首相が伊勢での開催にこだわったこと以外、ほとんど記憶がない▼広島サミットはその点、ウクライナ侵攻を続けるロシアの核兵器使用が懸念される中で被爆地にこだわっての開催。意義は明白だが、被爆者団体からは不評。まるで岸田文雄首相だと言っては言い過ぎだが、武器供与の話はこの地でしてほしくなかったという被爆者の言葉は重い▼議長国として岸田首相の顔が米誌『タイム』を飾ったという話の経緯も象徴的な気はする。近影は上目遣いで策謀家の趣というのは報道評だが、記事の表題は当初、岸田首相が「長年の平和主義を捨て去り、自国を真の軍事大国にすることを望んでいる」▼記事は「世界3位の経済大国に見合った軍事的影響力を持つ国にしようとしている」で、捨て去るなどの言葉はない。駐日米大使には祝意を示されたが、日本政府は表題の違和感を働きかけ、電子版は平和主義の日本に「国際舞台でさらに積極的な役割を与えようとしている」へ変えたという▼インタビューはタイム誌のシンガポールから来た記者だという。かつて進駐した東南アジア各国の漠然とした認識が、表題に現れたのだろうか。少なくとも、最初の表題で伝えて違和感はなかったのだろう。憲法の解釈変更や敵基地反撃能力など、日本人でさえひところ考えられなかった言葉が飛び交う▼「核兵器のない世界」を目指す岸田首相の理念と防衛力強化が指摘されている。考えされられることの多いサミットではあった。(伊勢新聞・2023/05/23)

「被爆地が踏みにじられた」 核廃絶を求めるNGO・ICANの川崎哲氏が挙げた広島ビジョンの問題点 21日閉幕した先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)では、被爆地・広島から「核なき世界」に向けた実効性を伴う発信があるかが注目された。2017年にノーベル平和賞を受賞した非政府組織(NGO)「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」の国際運営委員を務める川崎(あきら)氏は、首脳らが「被爆の実相」に触れたことは一定の評価をしつつ、成果文書は「失敗」と酷評。「被爆地が踏みにじられた。深く失望し、憤りを感じる」と批判している。(川田篤志)                            ◆原爆資料館の視察を完全非公開に サミット初日の19日、G7首脳は史上初めてそろって原爆資料館を視察。8歳で被爆した小倉桂子さん(85)と面会して証言を聞くなど40分滞在した。川崎氏は、7年前のオバマ米大統領(当時)の滞在が10分間だったことを踏まえ「十分に長いとは言えないが意義はあった」と評価する。/ ただ、日本政府は自国の核抑止政策への影響を懸念する核保有国の米英仏に配慮し、視察を完全非公開とした。メディアの館内取材を認めず、どんな展示品を見たかの詳細も非公表で、首脳らが視察を通じて感じたことや表情は伝わってこなかった。川崎氏は「なぜ隠すのか。政府の写真公開もない。被爆者と会うのが悪いことのようで、被爆者に失礼だ」と怒り、政治指導者の発信としては不十分だったと指摘する。(中略)核軍縮・不拡散に向け、広島ビジョンは核拡散防止条約(NPT)を基礎とすることを強調したが、NPTの過去の合意文書に明記されていた「核兵器の廃絶」の約束は盛り込まなかった。/川崎氏が最も注目していた核兵器の非人道性への言及もなく、核兵器禁止条約にも触れなかった。中ロを非難する一方でG7の核保有は「侵略を抑止するもの」と正当化しており、川崎氏は「自分たちは防衛目的だからいいんだという開き直りがある」とみる。(以下略)(東京新聞・2023/05/22)

 都内で、あるい各地で「夏祭り」が本格的に始まっています。大きな神輿(みこし)を担ぎ、声を枯らして、担ぎて手は誇らしげに「ワッショイ」の連呼。一足早く「広島の夏祭り」は終わった。表向きは終わった。しかし、本番はこれからで、そのための助走期間が「サミット」開催までの道のりだったでしょう。そこで、これから始まるのが「後宴」(宴のあと)です。由来のある言葉で、平安時代から行われてきた「大切な慣習」であり、それはいろいろな形式で今日でも行われている。「サミット」という宴のあとにはどんな「後の祭り」「宴の後」が始まるのでしょうか。

● ご‐えん【後宴】=〘名〙① 宮中で、大嘗会(だいじょうえ)の神祭の儀式の翌日、潔斎(けっさい)を解いたあと催される酒宴。② 大きな宴のあと、場所や日を改めたりして、さらに催される宴。③ 江戸時代、町家や遊里などで、節供、祭礼、花見などの翌日。(精選版日本国語大辞典)(右は奈良県三輪の大神神社の「後宴能」:https://www.youtube.com/watch?v=B8NGgPVX3L4)

 「広島夏祭り」は祭主の目論見通りに大成功と、評判はうなぎのぼりです。政治は元来が「祭り」でしたから、賑々しく「祭礼」を執行することは悪くはありません。とは言え、祭りに浮かれ、祭ばやしに浮かれて、あらゆることが「後の祭り」にならないとも限りません。「後の祭り」には二通りの行動・所業が用意されていた。本来は「 祭りのすんだ翌日。また、その日、神撰(しんせん)を下ろして飲食すること。後宴」(デジタル大辞泉)というのが本義。「神撰」とは「みけ」で、神に差し上げる食事。神人共食を表す行事でもあります。さらに別の意味では、「祭りのあとの山車(だし)のように、時機遅れで、むだなこと。手遅れ」(同上)という解説もあります。

 「サミット」の「後の祭り」はどうなるのでしょうか。神とは言わないが「宗主」たるアメリカに献上する「御饌(ミケ)」はこれまでにも数えきれないほど献上してきた(強要されてきた)。今回も例に漏れず、でした。また、「むだなこと」としては「支持率急上昇」の間に解散総選挙をということが声高に囁かれています。前回選挙から、まだ二年も経っていないのに。無駄ですね。やる必要がないのは、共産党以外は「総与党」という現実の国会勢力図があるからです。何も心配せずに、好き勝手ができているではないかと、ぼくも思う。「後の祭り」で怖いのは「手遅れ」です。国の借金は天文学のレベル。日銀は債務超過そのものであり、にっちもさっちもいかないままで、「物価の番人」は政府の子会社に成り下がっています。株価は三万円超という「お祭り気分」ですが、大いに上げておいて、担ぎ手(投資家、特に海外投資家)は、ある日突然に逃げ出すような、恐ろしくも乱暴な「乱高下」を目前にしている気がします。そして、アメリカのコバンザメ然とした存在を誰も信用しないと、ここでも言いたいですね。(ともかく、世界規模で発生している「政治レベルの低下」は目を覆うばかりです。大きくは「学校教育」のもたらしているへいがいそのものです)

 くり返し言いますが、政治に「正直さ」「誠実さ」が欠片(かけら)も見られないとはどういうことか。「ウクライナ侵略戦争」という「とんでもない宴」にも、この島国は隣席、いや臨席(参戦)しています。この「祭りの後」には何が待っているのでしょうか。宴の後には「破れかぶれ」が待っているのではないかと気にはなる。(カネを配ることが政治だと、深く錯覚している政権与党、どれだけ税金があっても、「アメリカのミケ(御饌)」代はなっても、人民の糊口をしのぐための「救命具」すらならないのだ。  

 数日ぶりに晴天に恵まれました。まるで梅雨のような天気が続いた後、こちらの「後の祭り」はどういうことになるのかしら。やることがいっぱいあるような、何もしたくないような、実に中途半端な気分で、この駄文を綴っています。

 (左上写真は「芍薬」(しゃくやく)です。「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という。いかにも「都々逸風」で、こんな御仁がいるとは考えられない。牡丹科の多年草。ぼくはこの手の厚ぼったい花(にかぎらず)は苦手です)

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 「野球ってすごいなと思ってくれたら」

 一瞥したかぎりで、23日付の各紙コラムなどで「WBC決勝戦」に触れていないものはまずなかった。当然さ、という気もするし、それにしても、凄いですねと、驚いて見せたくなる。全体主義本番直前のような「横一線」、いや「縦一線」だったか。それを、どうこう言いたいのではない。各紙の独自性(得意芸)が、揃いも揃って「横並び」「右へ倣え」だったことが証明されたというだけのこと。各紙は、実は「一紙」だったのだ。だからこそ、実際の政治はやりやすい(容易い)、馬鹿でもやれるのかもしれない。それもいいね、というのでもない。駄目さ加減が「ここまで」「そこまで」来ていることを再確認させられた、ダメ押しされたのだ。▼ かくいう駄文子も「目くそ鼻くそ」であることを隠しません。言うも恥ずかしい付和雷同主義者であり、同調を潔く受け入れるところがある、いや、あった。それは、ぼくの致命的な欠陥であると自覚したのは、おそらく中学生になってから。このままで、あらゆる場面で「後塵を拝する」「先達の驥尾に付す」姿勢でいいのかと、少しは悩んだ記憶がある。

 似たような表現で「他人の尻馬に乗る」とか、「他人の褌(ふんどし)で相撲を取る」ともいう。いずれも麗しい言葉使いではないのは、その「様・状態」に見られるなにがしかを指していて、一理ありそうだね。「狂人走れば、不狂人も走る」というのまである。こんなに多くの類語があるというのは、「付和」型人間も「雷同」主義者も、どんなにたくさんいることか、という証明であろう。「雷がなる」、いの一番に逃げ出すやつがいるもので、瞬時にそれに連れ立って飛び出すものがいる。人間の中にも「先導獣(Leittier)」はいるのだ。

 「子曰、君子和而不同、小人同而不和」(「論語 子路」)ぼくは君子ではないから、「同じて、和さず」だったのだ。そこへ行くと、偉い人は「定見」というものがあって、いたずらに同調はしないけれども、他者とはなかよくするのだという。「主体性」「自主性」が問われていたんですね、中学生にも。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、今どきの「オレオレ詐欺」や「集団強盗」式の「付和雷同」だと言いたい。堕ちたものですね、人間性も。

 我れながら、自らの悪癖に気がついた。「生き方」の芽生えというのは格好よすぎよう。それぞれの路・道には、優者や賢者がいるのは当たり前だし、そこからなにごとかを学ぶのは大事なこと。おのれの判断に、ゆっくり、あるいは直ちに従おうということだったかもしれぬ。ぼくには矛盾したところがたくさんある。歓喜の輪に加わりたくない、他人の喜びに水を差したいという「臍曲り」な面と、そこに入って「我を忘れたい」という同調したい気分が溢れるほどある、いやあった。▼ 中学入学以来、無駄な精進を重ね、「歓喜溢れるユニフォーム」は着たくないと誓った。「日の丸」という旗のもとに集まらないように生きよう、と。馬鹿な話だが、事実はその通りに、「孤立猿」を導師として生き存(ながら)えてきた。ちなみに、駄文子は「申歳」の産でした。

 人混みが大嫌いなのも、このこととは無縁ではない。誰彼に「いっしょ」を強いられる筋合いはないぜ、それがぼくの「啖呵道」だった。他者の存在(の有無)にかかわらず、一人で「感動」、孤独に「感涙」などはいつでもあるのだ。その昔、酒飲みの時代にはもっぱら「一人酒」に徹しようとしていたね。人生は孤独な「競技(マラソン)」だ、だから「集団ゲーム」の闘争精神や勝負を探し求めるのかな。手に握るのが「バット」であるのは当たり前ではない、それが銃に変わらないための注意深さ(平和への願い)こそが、「WBC」の主眼ではなかったか。「野球ってすごいなと思ってくれたら」とは栗山監督の言。試合は「死闘」「決戦」であっても、破る訳にはいかない「ルール」があり、そのあからさまな判定者である審判がいる、そして、どんな闘(戦)争にもきっと、終りがある。「ゲームセット」(ゲームオーバー)は「ノーサイド」、つまりは「敵味方」なしということ。そこが「野球ってすごいな」の言わんとするところではなかったか。死闘を繰り広げた相手を「尊敬し合う」ということを、試合を通じて、グラウンドで経験しているのだ、それが監督の伝えたかったところでなかったか。〈⇩ 下の写真:(Getty Images)〉

【有明抄】フィールド・オブ・ドリームス 北海道栗山町にある野球場「栗の樹ファーム」。ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表の栗山英樹監督が2002年、名前を縁に私費を投じて造った。草木が生い茂る場所だったが、現在は少年野球大会も開かれ、子どもたちが駆け回っている◆野球場を造りたいと思っていた栗山監督。トウモロコシ畑を切り開いて野球場を造る米映画「フィールド・オブ・ドリームス」の感動が背中を押した。完成の2年後にプロ野球日本ハムの本拠地が北海道に移り、栗山監督は10年間、チームを率いた◆映画は「それを造れば、彼がやって来る」という謎の声から展開する。栗の樹ファームを造った後に日本ハムが来て、監督就任の依頼が来て、二刀流を目指す大谷翔平選手も入団してきた。映画の物語が重なるようだが、夢の続きを見せてくれた◆米フロリダ州で開かれたWBC決勝で、侍ジャパンは前回王者の米国に競り勝って3度目の優勝を飾った。栗山監督の下にやって来た精鋭による「ドリームチーム」は存分に力を発揮し、日本中の期待に応えてくれた◆栗山監督は「野球ってすごいなと思ってくれたら」と語った。すごいと感じた個々の選手や場面を挙げるにはマス目が足りないが、記憶に刻んだ次の世代がいつか続きを見せてくれる。そんな夢がつながる世界一だった。(知)(佐賀新聞・2023/03/23)〈⇧右上の写真:(Getty Images)〉

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 AI は人間の模造、人間の限界が露出する

【滴一滴】単語を組み合わせて調べるインターネット検索の方法が変わるのでは、と注目されている。マイクロソフトが投資する米国企業が開発した自動応答ソフト「チャットGPT」である。日本語の質問にも答えてくれる▼「世界一年俸の高いサッカー選手は?」『2021年はメッシ選手でした』「メッシ選手のようになれるかな?」『適切な訓練を積み重ね、自身の目標を達成することは可能です』▼「実は私は50歳過ぎなのですが…」『健康を維持し、情熱を注げば、自分なりに技術を向上できるでしょう』。知識が豊富で、あいまいな問いに巧みに応じる。回答に気遣いまで感じられる▼同様のソフトは米グーグルや中国の百度(バイドゥ)も発表した。ただ、中国ではある新興企業のソフトが、公開後程なく停止されたという▼「中国の経済成長は勢いを欠き、環境汚染が深刻だ」などと答えたのが原因とみられる。国民の不満を代弁されては困るのか、中国政府は必要に応じて「倫理面の対応」を取ると警告している▼冒頭の米国製ソフトに「あなたの倫理面の問題は?」と尋ねてみた。『AI(人工知能)は人間の判断を模倣するので人間の偏見を反映することがあります。AIが感情を持つようになれば、問題はさらに深刻になる可能性もあります』。鋭い自己分析に空恐ろしさを覚えた。(山陽新聞digital・2023/03/16 )

 情報BOX:チャットGPTとは何か、その活用方法は (ロイター編集)[5日 ロイター] – 最先端技術における人工知能(AI)利用が急速な進展を続けている。米サンフランシスコの企業オープンAIが作ったチャットボット「チャットGPT」は11月30日から一般公開され、無料で試せるようになった。チャットボットとは、ユーザーの入力に反応して人間のように会話するソフトウエア・アプリケーションだ。/ オープンAIのサム・アルトマン共同創業者兼最高経営責任者(CEO)によると、公開から1週間で100万人を超えるユーザーがチャットGPTとの会話を試みている。  ◎オープンAIの所有者はだれか、イーロン・マスク氏は関係しているか 研究開発企業のオープンAIは2015年、シリコンバレーの投資家サム・アルトマン氏と富豪イーロン・マスク氏によって非営利企業として設立された。ベンチャーキャピタリストのピーター・ティール氏など、他にも数人が出資している。19年には外部から投資を受け入れるため、関連する営利企業を設立した。/ 最近ツイッターを買収したマスク氏は、18年にオープンAIの取締役会から外れているが、流行のチャットGPTについてこのほど「恐ろしいほど良い」とツイートした。/ マスク氏はその後のツイートで、オープンAIがツイッターのデータベースをAIの「訓練」に使っていることが分かったため、同社によるデータベースへのアクセスを一時的に中止したと明かしている。 (⤵)

◎オープンAIの仕組み オープンAIはチャットGPTのモデルについて、「人間のフィードバックによる学習強化(RLHF)」という機械学習技術を用いて訓練されており、会話をシミュレーションし、追加質問に答え、間違いを認め、不正確な前提には異議を唱え、不適切な要求は拒否すると説明している。/ 初期開発においては、AIトレーナーがユーザーとAIアシスタントによる会話を演じてみせることで、モデルに情報を提供した。今回公開されたチャットGPTのバージョンは、ユーザーの質問を理解し、人間が書く会話文体に似せた文章で深い答えを返すようになっている。 ◎何に使えるか チャットGPTのような道具は、デジタルマーケティング、オンラインコンテンツのクリエーション、カスタマーサービスにおける質問への回答などに実用できる可能性がある。一部のユーザーは、コードのバグ(欠陥)を修正するのにも役立つことを発見した。/ チャットGPTは人間の会話形式をまねて幅広い質問に答えることができる。 ◎問題はあるか 多くのAI関連イノベーションと同様、チャットGPTにも心配な点はある。オープンAIが認めている通り、「まことしやかに聞こえるが、不正確もしくは理にかなっていない答え」を返す傾向がある。これは修正の難度が高い点だという。/ AI技術はまた、人種、性、文化などを巡る社会的偏見を固定させかねない。アルファベット傘下のグーグルやアマゾン・ドット・コムなどの巨大IT企業は以前、AIを使って試したプロジェクトの一部が「倫理的に危うい」ものであり、限界があったと認めている。複数の企業では、AIが引き起こした混乱を修正するのに人間が介在する必要が生じた。/ こうした懸念はあるものの、AI研究は依然として魅力的だ。調査会社ピッチブックのデータによると、AI開発・運営企業に対するベンチャーキャピタル投資は昨年130億ドル近くに増加し、今年も10月までに60億ドルに達した。(Siddharth K記者)(Reuters:https://jp.reuters.com/article/explainer-chatgpt-idJPKBN2SQ0AZ

 判決にAI利用で波紋 「チャットGPT」に疑問の声も―コロンビア 【サンパウロ時事】南米コロンビア北部のカルタヘナの裁判所判事が、人工知能(AI)を組み込み利用者の質問に自動で答えるツール「チャットGPT」を判決文作成に使用し、波紋を広げている。地元各メディアが2日伝えた。同国では訴訟手続きでのIT利用が法で認められている。/ 裁判では、自閉症の子供を持つ親が保険医療サービス企業に対し、治療の自己負担金や手数料などの免除を要請。1月31日の判決は、親側の主張を認めた。この判決を下したフアン・パディジャ判事はメディアに対し、時間節約のためにチャットGPTを利用したことを明かした。/ 判事はチャットGPTに「自閉症の未成年の治療で、手数料は免除されるべきか」「手数料は医療サービスを受ける障害となるか」などと質問。チャットGPTは、法令などの論拠を挙げ「シ(イエス)」と回答したという。/ パディジャ判事は「こうしたツールを使うことが、裁判官の怠慢には当たらない。判決は自律的判断に委ねられる」と強調。その上で「AIは判決の一連の文章を組み立てるのに役立つ」とメリットを説いた。/ 一方、AIに詳しいロサリオ大准教授で弁護士のフアン・グティエレス氏は、パディジャ判事と同様の質問をチャットGPTに行ったところ、別の結論が出たと主張。「チャットGPTは正しくない返答をすることもよくあり、真実と虚構を見分けられない」と信頼性に疑問を呈した上で、「判事に対する早急なデジタル教育が求められている」と警鐘を鳴らした。(時事通信・2023/02/04)(https://www.jiji.com/jc/article?k=2023020400371&g=int)

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 もう二十年以上も前になると思う。ゼミ生の一人が「AI 人工知能」に関する卒業論文を提出。ぼくが出した「成績判定は不合格」でした。今から思えば、内容がほとんど他者の著作からの「引用」だったからです。まさしく「AI トーク」だったのです。他人の頭で考えられたものをそっくり自分のものにするということがいいことかどうか、一概には言えません。宗教などのかなりな部分は、「教祖」の「お筆先」のようなもので、それを真に受けるというので信仰が成り立つのでしょう。この「チャットGPT」にも、それに似たところがあります。もっとも似ているのは、チェスや碁・将棋のソフトです。しばしばプロの棋士などとの勝負が話題になります。勝ったり負けたりで、話題には事欠きませんが、それを人間同士がするから面白いのであって、はたしてAI の助けを借りたら、どうなるのでしょう。学生のレポートなどは、実に早い段階から、他人の文章の剽窃が横行していたし、今日では手に負えない勢いでそれが蔓延しているでしょう。大学教育の崩壊です。それを今更どうこう言ってもはじまりませんね。

 問題は多岐にわたります。そのいちいちを論(あげつら)うことはしない。要は、人間が人間でなくなる度合いが並外れて大きくなる時代に、ぼくたちは巡り合わせているということ。ぼくの持論で「人間は言葉で(から)出来ている」という口癖があります。その「人間」をそっくり模倣して「AI」が代用してくれるのですから、便利で楽だと言えば、これほどのものはなかったでしょう。ガソリンエンジン車が電気自動車に入れ替わるみたいで、道具の交換のようでもある。もちろん、現下のAI の進展状況を否定するのではありません。ぼくが否定しようがどうしようが、展開するものはその方向へ行くのです。また、何事にも両面というものがあって、利用すべき方面では大いに促進されるべきであるというのは当然です。ただ、これまでも「文明の深化・進化」を閲(けみ)すると、悪い面にも相当な影響が及ぶことは避けられないのを恐れる気もある。自動車は便利な道具です、しかし、それは殺人の凶器にもなる。もちろん、それを用いる「人間」そのものの問題ではありますが。

 文明というものが栄えれば栄えるほどに、人類(人間集団)が衰えるのは避けられなかったことは多くの歴史が示しています。知的になるというのは、自分の頭で考えるのではないというそんな時節が到来して久しい。野生や野蛮という「自然性」を失うことが、すなわち「文明人」の資格になるというなら、間違いなしに、世に文明人は溢れることになります。人智(知恵)も人間性(徳性)も具有しないで「人間」であることが可能な時代とも言えるでしょう。ぼくは悲観しているのではない。それが「必然」だと想えばこそ、そこにどの様に入り込むかを愚考するばかりです。昨日、少し触れたヴァレリーが遭遇したのも、このような「人間性の危機」だったと言えるでしょう。「自動運転」自動車に乗り、人工知能でレポート(手紙)を書き、AI を忍ばせて他者と会話する。面白いという段階を通り越して、「人間集団の危機」「人類の危機」にぼくたちは脅迫されているのではないですか。

 卒論を書いたK 君には「先見の明」があったのでしょう。逆に言えば、ぼくには予見も予想もできなかったことを、彼は問題にしていたともいえます。その彼は、ただ今は自衛隊の幹部になていると聞いている。パイロットになりたかったので自衛愛に入ったが、身体検査に引っかかり、飛行士を諦め、そのまま幹部候補生になったそうです。その自衛隊も、「ボタン戦争」時代に入っています。まるで時刻を合わせるようにスイッチをおし、殺戮するのが今日的戦争でしょう。AI というもののもっとも活躍する場が、人間性否定や人間存在の価値破壊の現場であるというのは、なんだかとても象徴的ではないでしょうか。「人間の脳細胞」が、ごっそり・そっくり「半導体パネル」に取って代わられる時代、それは徐々にではあれ、かなり進んでいるのではないですか。この先、どういう進み行になるか、ぼくには想像する元気がないのです。人間の知的な面や道徳的な面、あるいは他者に対する尊敬の念の備わった感情というもの、それらが日進月歩の「AI 化」と足並みをそろえて、逆方向に突き進んでいく、つまりは「劣化」「退化」していくさまが、まるで幻燈(スライド)一枚一枚のように、ぼくの網膜にゆっくりと映し出されているのが見えるようです。

 時勢の横暴・暴力というものを痛感しています。「人間は空っぽ」だから、外からの命令によって、どんなことでもするのでしょう。(以下の文書出典:https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/330530)

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 与えられた任務のため、まず矛を収めよ

 いつまで啀(いが)み合っているのだ = 日韓両国間の積年の懸案であった「元徴用工賠償」問題に、一定のけじめが示された。最終解決になるとは思われないが、いったん、ここで、双方の「合戦」はうちどめという、第三者の言い分を受け入れたというところ。詳細には触れないが、植民地支配の後始末を有耶無耶のうちに「政府(権力者)間」で取り決めて、民間企業等の責任問題は放置されてきた。この問題についても、両国が簡単に問題解決のために歩み寄るとは考えられなかったが、「台湾有事」だの、「中国の覇権主義の台頭」などで、気を揉もんでいた米国が、「いい加减にしないか」と一括したのだ。その経緯は、いずれ明らかになるからここでは触れない。太刀持ち(韓国)と露払い(日本)が喧嘩をしていては「相撲」にならぬという見立てだった。日韓米三国のうち、とりわけて「日韓」は「対北朝鮮」「対中国」「対ロシア」に向けての重要な橋頭堡の役割を担わされている。それゆえに、いっちょう有事に備えて、現状は著しくまずいので、なんとしてでも片付けておきたいという問題であった。日韓は表向きは「喧嘩している」風を装っているが、実態は「(アメリカという帝国の)番人≒助さん格さん」だというわけ。ここまで来ると、日本も韓国も、米国の(軛)から抜け出ることは不可能だと肝を据えたほうがよろしい。(ヘッダーの写真は、ぼくのイメージするところ、「橋のない川」といったものです。自立していない国同士が啀み合うと、どんなことになるのでしょうか。ろくなことにならないのだけは確か。(右上写真は日テレNEWS)(左写真はYahoo JAPAN !ニュース)

 これまでもそうであったと、世界中の大方は見通していたが、ここまできて、さらに明らかになったのは、日韓当事国同士では何も解決をできない状態にはまり込んでいたが、極東アジアにおけるアメリカの戦略とって、両国の対立は利益にならないと分かったから、早く「手打ちを」と、唆(そそのか)されたのだ。日韓双方は、それぞれが「独立国」であると自認するには、まことに恥ずかしい事態に陥っていると目を開くべきだと思う。ことに、この島国は、ぼくの見立てでは、米国の属国扱い以下の処遇であり、もはや国家の体をなしていないとはっきりと、この劣島の住人は自覚するべきだろう。肝心な事柄は自前の判断で決定できないことになっている現状は、この社会の現在にも未来にも、感化できない悪影響を与えているのだ。さて、どうする。                                                       

(●ぞっ‐こく ゾク‥【属国】=〘名〙 他国の支配下にあり、独立していない国。付庸の国。従属国。属邦。(精選版日本国語大辞典)

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 韓国財団が日本企業の賠償肩代わり、「元徴用工」解決策発表…朴外相「悪循環の輪を断ち切るべき」【ソウル=溝田拓士】韓国の 朴振(パクチン) 外相は6日午前、日韓間の最大の懸案である「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」の訴訟問題について、韓国大法院(最高裁)判決で確定した被告の日本企業の賠償を、韓国の財団が肩代わりする解決策を発表した。日韓関係の悪化をもたらした問題の決着に向け、大きく踏み出したことになる。/ ソウルの外交省で記者会見した朴外相は、経済や安全保障などあらゆる分野で日韓協力が非常に重要だとして「長期間硬直した関係を放置せず、国益の次元で国民のために悪循環の輪を断ち切るべきだ」と述べた。

 2018年、元徴用工らが新日鉄住金(現・日本製鉄)と三菱重工業を相手取った計3件の訴訟で勝訴が確定した。2社は原告計14人に1人あたり8000万ウォン~1億5000万ウォン(約840万円~1600万円)の賠償金を支払う義務を負った。解決策は韓国行政安全省の傘下の「日帝強制動員被害者支援財団」が、遅延利子を含む賠償金相当額を原告側に支払う内容だ。

 その資金は企業からの「自発的な寄付」でまかなうとしている。韓国政府関係者によれば、1965年の日韓請求権・経済協力協定に基づく日本の経済協力で恩恵を受けた韓国鉄鋼大手ポスコなどが想定されている。被告の日本企業の資金拠出は前提としていない。/ 日本政府は、元徴用工問題は65年の協定で最終的に解決済みとの立場で一貫し、大法院判決は国家間の約束を覆す「国際法違反」と主張してきた。被告の日本企業の拠出がなければ、日本側も受け入れが可能となる。/ 韓国の裁判所では、元徴用工らが日本企業に賠償などを求めた同様の訴訟が多数、係争中だ。解決策では、原告の勝訴が確定した場合、財団が被告となった日本企業の賠償を肩代わりして支払うとしている。(以下略)(読売新聞。オンライン・2023/03/07)

 バイデン氏「新たな幕開け、重要な一歩踏み出した」…「元徴用工」解決策で声明 【ワシントン=田島大志】米国のバイデン大統領は5日深夜(日本時間6日午後)、韓国が「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」訴訟問題の解決策を発表したことなどを受け、「画期的な新たな(日韓)協力の幕開けだ。(両国が)重要な一歩を踏み出した」と歓迎する声明を発表した。 / 声明では「米国は、日韓の指導者が、新たな理解を永続的な進歩につなげるために支援を継続する」とも強調した。日米韓3か国関係の強化にも期待を示した。(同上)

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 「言」を食って肥るのを政治家という

「食言」考 ~ 「食言」は中国由来の表現。「書経」に見える。言わんとするのは「食言するな」であり、まともな人間として生きるなら、「前言を飲み込み、それとは違ったことを言う」、つまりは「前言」を取り繕ったり、翻してまでして、嘘を言うことは恥ずかしいことだというのです。この戒めがあるというのは、「食言」があまりにもありすぎた証拠です。「前言と違ったことをいう」「約束を破る」、つまりはそんな卑しい行いは慎めと、政治の要諦にしたのでしょう。広辞苑には、[書経湯誓]「(一度口から出したことばを、また口に入れる意)前に言った事と違う事を言うこと。約束をたがえること。うそをつくこと」とあります。「春秋左氏伝」に、ある人が「なんであいつは肥えているのか」と尋ねたら、側近いわく「是れ言多し。能く肥ゆること無(なか)らんや」(字通)と引かれています。その伝で言えば、東海の小島の総理は「食言総理」なら、大臣は「食言大臣」であり、官僚たちは「食言官吏」というべし。顔色一つ変えずに、平気で「嘘をつく」のは政治家の根本の「脂質(資質)」だと思う。ぼくがこれまで、遠近問わず見てきた政治家は、距離に関係なく、一見してわかった。まず「脂ぎって」いた、やがて肥え出す。何処から見ても政治家だと、誰にもわかるのは「言を食っている」からだ。政治家に「公約(膏薬)」はつきもの。なんでもある。どこにでも張り出す。真偽も信義も、一切不問。こんな連中が挙って、「食言」し、あまりの肥大・肥沃化の結果、その「重量」で国は滅びる運命にある。つまりは「嘘で滅びる」国というわけです。この小さな島国は、大小問わずに、人民の多くはまぎれもなく「政治家」です。その得意技は「食言する」「前言を翻す」「約束を反故にする」「嘘をつく」「欺く」「騙す」というピン芸で、これには長々とした歴史と伝統があるでしょう。もちろん、そのピン芸に乗せられる「国民」は不可欠です。その点でも、この小島には条件は揃っていますね。

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 右の記事は読売新聞(2010/05/11)「食言」は左派右派を問わない。どの内閣であれ、大臣であれ、とにかく「食言」したくてたまらないのだ。「言葉が軽い」のではなく「言葉に内容がない」のであり、その言葉を使う人間(政治家)に思考も思想もない証拠ですね。右の新聞コラムの内閣や首相などの固有名を誰に変えても、記事の指摘が立派に通用するというのですから、不思議の国の「セイジ」ですね。下の新聞は毎日新聞(2022/08/27)。ぼくは世論調査とか内閣支持率などは一切信用していませんから、どんな数値が出ても驚きはしません。ロシアの「大統領」の支持は岩盤ですか。それとも、別の要因があって、いつまでも高い支持率を誇っているのでしょうか。彼 P のお家芸は「名代の食言」にあるのではないか。

 どんなに「食言」を詰(なじ)られたところで、いっかな辞職も謝罪もしないのは、攻める側の「力不足」なのか、攻め(責め)られる側の「攻められられ馴れ」なのか。一時代前とは言いませんが、ある時期までは「失言」「食言」が指摘されれば、即刻、自ら辞任や辞職をしたものです。自腹を切るのは、ある種の「責任」の取り方でした。時代が変わったということもあり、辞職するばかりが能ではないという雰囲気もあってか、だらだらと、むだな時間稼ぎに終止している間に、追求も止んでしまうのです。ぼくが、政界は共産党を除いて、すべて「与党」だと言っている意味がここにあります。そして、「食言」問答を繰り返しているうちに、時間切れになるという寸法です。国会は「お気楽天国」ですな。

 世に一言居士は数えられないくらいにいますが、それにも負けず「二言居士」もなかなかに多士済々ではないですか。ことに政治の世界では「二言(にごん)」の主が引きも切らないのは、一言では足りず、二言三言で商売が繁盛すると踏んでいるからでしょう。「前に言ったことと違うことを言うこと」が二言の中身だとすれば、一言では足りないというか、それでは言いたいことが尽きないというのではないかとも考えられます。要するに、政治家の多くは「クチから出任せ」と、無意味な単語を吐き出しているだけという風にも思われます。誠意の欠片も感じられないのはそのためでしょう。

 簡単な英語表記で「二言(にごん)」をみると、「〔うそをつく〕be double-tongued」「〔約束を破る〕break one’s promise」とあります。二枚舌ですね。「double-dealing」「double-tongued」です。どうして、閻魔さんに手数をかける輩を「支持する」のでしょうか。支持者(有権者)もまた、二枚舌だったりしますかね。「矛盾したことをいうこと。うそをつくこと」、それなのに、矛盾を矛盾と受け取らない、嘘を嘘と見ぬかない、それがデモクラシーを標榜する選挙における「候補者と有権者」の契り合いなのですかな。嘘や欺瞞を超越してつながるというのは、まるで「☓☓一家」「●●組」のごとしで、揺るぎない「絆」に結ばれたご縁なのでしょう。この「絆」を、ほとんどの人は誤解しています。実に気分・気持ちのいい言葉だと受け取っているんですから、手に負えないですよ。きずな(絆・紲)はまた、「ほだし」といいます。「ほだされる」などというでしょ。「情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる」(デジタル大辞泉)というように、実に困った繋がりです。あるいは牛や馬を柵につなぐのを「絆(ほだ)す」という。馬や牛からすれば、束縛され、自由を奪われることであり、人間の場合には、冷静な判断力が失われることを指します。絆されたい、絆したい人ばかりが多いのはいいことなんでしょうか。

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