根っこを求めて、足元を掘り起こす

 *六百字の囁き 公立学校の教員が不足しているという。さもありなん。今時、好き好んで教員になろうというのはよほど「酔狂な人」だといえます。少子化がさらに進行し、学校数が急減しているにも関わらず、教員不足の傾向を止められないのは、なぜか。採用試験受けてまで教員になろうという「酔狂人」が少なくなったこと。それでは民間に喜んで就職を希望する青年がたくさんいるかというと、そうでもない。要するに、少子化が進もうが、高齢化が顕著になろうが、この小国には「若者を吸収し」「老人を歓迎する」、それだけの余力が早くに失われてしまったのです。▼ 教員になるには、「教職・学校」そのものがあまりにも殺伐としている現実を看過することはできない。「教師は労働者だ」と言って、その職場がブラックすぎては敬遠され、毛嫌いされるのが落ち。採用試験の競争倍率がほとんど「全員合格」の域にある自治体があっても、行政も文科省も適切な手を打たない。つまりは「学校の荒廃化」を放置している。「学校教育の空洞化(受験教育の弊害)」が叫ばれた時代は、今は昔になりました。今日では、学校や教育は「空虚化(教育の不毛地域化)」に苛まれているのではないですか。教育の要諦は「自己教育」です。先ず、そこから始める以外に手はないと思う。学校に通いながら、なお「自己教育」の道を探求する、さしあたりは、このことが大事だと考えられる「酔狂な教師」や「酔狂な親」や「酔狂な子ども」の出現を俟ち、その奮起を心から願うものだ。(yamano)

● すい‐きょう〔‐キヤウ〕【酔狂/粋狂】 の解説[名・形動] 好奇心から人と異なる行動をとること。物好きなこと。また、そのさま。酔興。「真冬に水泳とは―なことだ」「だてや―で言うのではない」(デジタル大辞泉)

 アホくさくて、言葉にするのも胸糞悪いが、教育は「点数競争」でもなければ「優劣争い」などでもないということ、それでもこの悪弊が一向に改まらない背景には、明らかな理由があります。教師の「教育力の梃子(てこ))になっているのが、「人より優れていたい」「他人に負けたくない」という、子どもや親の足元を見ている下品な根性です。その根性の中にすでに「自分を偽る感情」が、当人たちの心中に蔓延っているのです。当たり前すぎて、いうのも恥ずかしい。でも、そのことを半世紀もいい続けなければならないのは、つまるところ、「人より優れていたい」「他者の評価を求める」そんな衝動を満タンにして生きていくことが人生の幸福だと錯覚する、いや正答を求めている御仁が腐るほどいるというのでしょう。これは親や子どもと教師たちの「馴れ合い(collusion)」にほかならないね。

 「教育は他者との競争(コンテスト・コンクール)ではない」と力説する、その御本人が一センチでも他人より高い地位や職階を求めるのが現実です。心にもないことをいいつつ、心、教育にあらずという「教育者」もどこにでもいる。教師に期待するところはありますが、どんな場所で教育(実践)を営んでいるかを熟慮しなければ、一言も発し得ないのも当然です。「教育はこうだ、ああだ」といってみたり、「本物の教師はかくあるべきだ」と空論を垂れても、現場を離れ、現場の外から言うなら、まるで糸の切れた風船玉。一瞬は高く飛ぶでしょうが、やがて地面に落着(萎む)するばかり。とするなら現場に立つ教師自身が、足元を掘り返さなければ、何事も始まらないともいえます。まず「隗より始めよ」といいたい。つまりは立っている足元を掘り起こすこと、それを続けていくと「根っこ」に、きっと行き着く。それを発見することが「ラディカリズム」(根本主義)というものです。自分の今いる、その地点から「現実」を見つめ直し、自らの方向を求める、そこから「オリジナルな道」が見えるはずです。これが「オリジナリティ」であり、「独創(クリエイティブ)」というものではないでしょうか。

 「教師は労働者である」というのは、そのとおりです。しかし、その労働現場の実態は、言語に絶するというのはいいすぎかもしれないが、とにかく劣悪の一言に付きます。長時間勤務は朝飯前、時間外労働は昼飯前、土日勤務は「晩飯抜き」とでもいうしかないでたらめさ。どうしてこの状況を放置しているのか。第一に、この島の学校(教育)に不可避に随伴している「非人間性」側面であり、多面では、今風の効率性や合理性を追求することから生み出される非人間性の昂進です。しっかりした組織や集団であるとして、存在するなら「労働組合」に物申したいところですが、その組合幹部連が政権ににじり寄っている、この惨状から抜け出すのが、まず第一です。組合の組織率は二十数%だという。どうしにかして、少しばかりの力と時間を、それに組合費も、出し合っていくという基盤すら壊されてしまったのでしょう。ここでも「先ず隗より始めよ」ですね。世のため、他人のためである以上に、自分自身の力を発揮するために、です。なによりも中本して交われる他者を認めることではないでしょうか。

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 犯行は「的外れ」の「逆恨み」だったのか

<社説>安倍氏銃撃起訴 法廷外でも背景に迫れ 安倍晋三元首相を昨年七月、銃撃した山上徹也容疑者が起訴された。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対する恨みが犯行の背景にあるとされる。被告が動機を肉声で語る裁判と並行して、教団と政治との不透明な関係については法廷外でも解明すべきだ。/ 現職衆院議員だった首相経験者が、参院選の応援演説中に手製の銃で撃たれ、死亡するという衝撃的な事件だった。/ 奈良地検は現行犯逮捕された山上被告を五カ月半、鑑定留置した後、殺人と銃刀法違反(発射、加重所持)の罪で起訴した。

 事件は裁判員裁判の対象で、争点は被告の刑事責任能力の有無と量刑判断を左右する動機に絞られそうだ。検察は心神喪失などの状態ではなかったと判断している。/ 動機については、被告が母親の入信で家庭や自らの人生を破綻させた教団に対する恨みを募らせ、教団トップを狙えないため、教団と深い関係のあった安倍氏を撃った、と伝えられている。/ ただ、これは伝聞にすぎない。裁判員らは予断を排し、法廷で被告の口から語られる動機と真意を聞き取ってほしい。/ 事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた。/ 近代刑法は個人の報復権を否定する、という前提がありながらも同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう。

 批判を受けて岸田文雄内閣は、教団の解散命令請求に向けて宗教法人法の質問権を行使し、不十分な内容ながらも被害者救済法を成立させた。宗教を背景にした児童虐待対策のために、自治体向けの対応指針も定めた。/ しかし、二〇一五年の教団の名称変更に当時の安倍政権が関与したのか否か、国政選挙で教団票を差配したと指摘される安倍氏の役割など、教団と自民党との親密な関係の核心部分には踏み込んでいない。その検証には今もなお、背を向けたままだ。/ 銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない。裁判では解明に限界がある。法廷に加え、国会でも事件の背景に迫らねばならない。(東京新聞TOKYO Web・2023/01/14)

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 この駄文集録では珍しいことです、「社説」を読んでみようという気になった。まだ新聞購読を続けていた頃(三十年ほども前か)から、「社説は盲腸」論などと失礼なことを言いふらしていました。あってもなくてもいいものの代表で、まるで「トイレの額縁」ではないか、と言う無礼千万を働いていた。でも、そんなでたらめは言うべきではないと、当時、直ちに反省したことも事実です。「社説」があるために、広報誌ではなく、これは「新聞」だとわかります。言ってみれば「看板」です。もちろん、看板倒れということは避けられないから、あえて言うなら「無用の用」、それが「社説」なのだとしておきます。「無用の用」はぼくの好きな言葉のベストテンに入ります。それはまるで「床の間」みたいなものではないですかね。「社説」に触れるのは、この駄文集では恐らく二回目だったか。どこかの看板コラム「正論」ではありませんが、何かと、無能・無知なぼくの脳細胞を刺激してくれたのです、お礼のために、感謝の意を込めて触れようという魂胆です。 

 昨日も触れましたが、もう一度考えてみたくなりました。容疑者の起訴に際して、幾つかの新聞報道の「論評」「社説」などを読み直しました。多くはほぼ同じような意見であり、解説でした。当然と言えば当然、突飛な論評が出る気遣いはないのです。極めて同情すべき背景や理由があったにせよ、断じて殺人は許されないという趣旨のものでした。それでいいのだろうか、「いかなる理由があれ」といって、動機や事情を考慮しないままで、「殺人は厳罰に」と主張しているようで、ぼくには「悍(おぞ)ましい」という感じしか持てませんでした。ここにおいて、一例として上げるのはふさわしいかどうか疑問が残りますが、同じ殺人行為でも、一市井人と総理大臣というような地位にある人間とでは、それを受け止める印象はまったく違うはずです。幼児の嘘と大臣の嘘が同じものとして論じていいと、ぼくは考えないのです。「法の下の平等」では割り切れないものがあるのでしょう。(蛇足を言うなら、このとき、殆どは「国家の犯罪」にも等しい「死刑」もは一切触れられていない。それは当たり前の国家の行為というのでしょうか。それなら、「いかなる理由があれ、人殺しは厳罰」と言うべきではなく、国家や国家から発する戦争における「殺人」は認めるというべきであるし、その根拠も示サなければ、不正確であり、不誠実だと、ぼくはいいたい)

 そういった視点で、東京新聞の「社説」には大いに刺激されました。まず、「事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた」 という部分に関しては、少しばかりの異論を。「理由は問わず、殺人は厳罰に」というのが「正論」であるとはぼくは思いません。単なる「報復論」、それも国家による「報復論」にすぎないと言えないでしょうか。このようにいって、ぼくは容疑者の蛮行を無条件で容認していないのは当然です。ぼくの立場は「罪を憎んで人を憎まず」ですから。どこかの記事に、「容疑者を死刑に問えるか」という内容が出ていました。「一人殺害」だから、死刑は無理だというのに対して、「状況判断次第で死刑はあり得る」という、これまた「無責任な憶説」だと想った。この「社説」が「容疑者への同情」を全的に否定しなかったのは、以下の理由によるでしょう。他の多くの「論評」には欠けている部分だといえます。

 この「社説」で特筆すべきだと、ぼくが判読したのは「近代刑法は個人の報復権を否定する、という前提がありながらも同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう」というくだりでした。このような「教団と政権党の癒着」は、半年過ぎても断罪されたり、猛省されたりしたとは思われません。とにかく、「銃撃事件」と、「カルト集団と自党の関係」を真っ先に切断し、容疑者の一方的な「思い込み」「逆恨み」のために生じた事件だと、検察も政権党も断定しているように思われるのです。罪を犯し、反社会的な暗躍を繰り返し、さらには民事・刑事の裁判でも有罪判決が出ている「カルト集団」に「宗教法人というお墨付き」を与え、さらに「名称変更」さえも認めた経緯も一切明らかにしてこなかった、その問題が放置されたままでいいはずがないでしょう。

 「銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない」という指摘こそ、多くの報道や記事には見られないもののようでした。もちろん、この点を裁判で裁くことは困難というよりは法廷には馴染まないものです。しかし、ことの順序として、この暴力的、反社会的な「カルト集団」の行為を見逃しただけではなく、自らの政権維持のために利用していたことは早くから分かっていたにも関わらず、いかなる解明にも乗り出さなかった、政治の不作為もまた、問われ、糺されるべきではないでしょうか。政治と似非宗教の癒着が明らかになった途端、如何にもそれは極めて淡白なもので、政策や行政にはまったく影響(関わり)がなかったという「背信行為」に走ってきました。この点は地方政治のレベルではさらに濃厚に関わりが深められていたのも事実です。多くの地方議員が選挙に際して、教団の「滅私応援」を受け入れていたことは明らかになっています。(教団は無性の応援をしていたという、ならば「ただより高いものはない」という社会常識に、ぼくたちは直面していたのですよ。

 事件の解明は法廷の場に移りました。そこに多くを求めるのは見当違いであることはわかります。しかし、一国の元総理が「特定の教団」と深いつながりがあったという事実は等閑に付されるべきものではないでしょう。政治と宗教の関係が、実に疎ましいつながりで結ばれていたことは、この島国の恥部であり、それを根底から質さなければならないのは言うまでもありません。それは、ひとえに政治の判断・実行によるところです。政治的に重要な課題や問題がことごとく独断専行で進められ、国会(国民)は放置されてきました。政治遂行のためには「民意」は余分なもの、できる限り権力者だけで、法網をかいくぐってでもなされるべきであるという風潮を根付かせてしまった、その責任は「選挙民」にも大いにあることを忘れるべきではないでしょう。現政権は、糸の切れたタコのようでもあり、それを腹の底から笑って(歓迎し)、タコの行方に目を奪われている隙きに、驚くような「強権・専断政治」が敢行されているのではないでしょうか。

 法廷は犯罪事実の有無、さらには量刑の軽重可否を問うところです。また国会は「言論の府」(だそうです)だとするなら、行政の妥当性や政策の是非を「探究」「探求」する場です。国権の最高機関というのは名ばかりで、何一つ「行政の独断」を阻止できないままで、この島国は落ちる所まで来てしまいました。立法・司法・行政という三権の権力行使に誤りなきを期するためにこそ、もう一つの言論の自由の源泉である「報道」が機能していたかどうか、いや、なぜ機能してこなかったのか、それこそが問われています。この島社会の現状に著しい退廃や堕落、挫折感が蔓延している、その理由や原因はどこにあるのか。それもまた、ぼくたちに問われているのではないでしょうか。ここでも「選挙」「投票」というものの正しい行使が、この社会の健全性を保つための命綱であるという、実に陳腐で迂遠なことしか言えないのです。「まず、隗より始めよ」という他ありません。

● かい【隗】 より 始(はじ)めよ= (中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕の昭王に賢者を用いる法を聞かれた時に、「今王誠欲士、先従隗始、隗且見事、況賢於隗者乎」と答えたという、「戦国策‐燕策」にみえる故事から) 「賢者を招きたいならば、まず自分のようなつまらない者をも優遇せよ、そうすればよりすぐれた人材が次々と集まってくるであろう」という意。転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよの意にいう。また、物事はまず言い出した者から、やり始めるべきだとの意でも用いられる。(精選版日本語大辞典)

● 無用の用(むようのよう)=『老子(ろうし)』や『荘子(そうじ)』にみえる中国の道家(どうか)思想の述語。役にたたない実用性のないようにみえるものに、実は真の有益な働きがある、ということ。車輪の実用が遂げられるのは中心の轂(こしき)によっており、人が大地に立つのは足で踏まない周囲の無用の土地があるからだ、といった比喩(ひゆ)で説かれる。逆にいえば、有用にみえるもの、知恵があり才能のあるものが、かえってその知能のために害を受けてその働きを遂げられなくなる、出すぎた釘(くぎ)は打たれるということになり、道家の無為(むい)の処世術とも通ずる。真実の価値は世俗の求める一時的、現象的な有効性にはなくて、俗人では気のつかない隠されたところにあることを警告して、現象にとらわれない真実世界への眼(め)を開かせることも重要である。さらに世俗的には、人や物の使い方に適材適所があること、無用と決めて棄(す)て去るような単純な態度をとるべきでないということにもなる。「聖人に棄物(きぶつ)なし」である。(ニッポニカ)

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 民は由らしむべし、知らしむべからず

  戦争をしたがる国に ~ 何時の頃までか、憲法九条が国是となり、(日米安保条約に守られ、タダ乗りと非難されて、実際は、相当の「お守り代」を支払いながら)虎の威を借りた狐よろしく、専守防衛に徹する国、これがこの小島(社会)唯一の「売り」の時代があった。今はどうか、ともかく「戦争する国」「戦争をしたがる国」(Shadow War)に齷齪している様はまるで狂気だ。嘘と誤魔化しで、国民を蔑ろにし、どこが敵で、どんな理由で「戦争」に備えなければならぬ事態か、「煙も立たず、火もない」日常に、ひたすら「戦争前夜」を煽る、木の葉が「中朝露」に見える、そんな「悪夢」、「白昼夢」をお天道様の下で貪りつつ狂っている。「攻撃能力」の狂喜乱舞。軍事費倍増は誰に頼まれたかと、訊くだけ野暮ではなく、腹が立つ。無能無策の内閣が、黒子に動かされ、内閣の体をなさぬまま、あらゆる旧悪・窮策が復活している。この惨状の露見は、この劣国に置いてさえ、近年では前代未聞・空前絶後。あざとい官僚(昔陸軍、今経産省)、それも経産省の数人ばかりが総理大臣を拉致・辱め、その内閣を恣(好き放題)に差配している、この在り様を如何にせん。経産省は国亡官庁だというね、ぼくは。防衛省は経産国亡省の出先機関。環境庁は在って無い「盲腸(庁)」であり、かくして、この三流以下の国は、破れかぶれの官僚天国、いや官僚地獄に他ならない。もはや破産状態だ。それでも「地獄の沙汰も金次第」とは強欲な。この傀儡(かいらい)を左右しているのは「電通」?まさか?「メリケン」?(「馬鹿も休み休みに」、そんな暇はない。とにかく、休まないで言うよ)(上掲のヘッダー写真は「out of season」)

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 本気で「戦争をしたがる国」になろうとしているとは、ぼくには想像もつかない(そうだとは思われないですね)。「特定秘密」を「防衛省の隊員(軍人)」が漏らす国。退職した先輩に頼まれたからという。ほんとか?防衛省も他の省庁に劣らず、とんでもない嘘をつく省。なにせ「大本営」を擁していたのだから。「防衛省」内でも大変なことが起こっているのではないですか。臭ってきますよ。政治家は、戦争をしたがる風を装っているだけ。そういえば、防衛費倍増でも三倍増でも「物言わぬ国民」は許してくれると。何しろ、右から左に「税金」の移動があるだけで、先制攻撃(ピンハネ)、敵基地攻撃(中抜き)、その他諸々の戦t略や戦術(下請け・孫請け・筒抜け)を網羅・駆使して、「元金」をむしり取るのが政治だという国。税金泥棒天下というべきだ。いい年齢をしてぼくはこんなことはいいたくもないが、言わなければ腹の虫がおさまらない。笑っている場合ではない。原発再稼働や原発の稼働年数を無期限にという謀略は誰も知らないうちに、経産省とどこかとだけでやっていた。総理大臣は、後日、書かれた紙を読んで「こうするように指示した」という。冗談言うな、指示したのは経産官僚(総理秘書官たち)で、指示されたのが総理だという、これは、もう日常茶飯のことになっているのだ。「コロナ禍を生み出しているのは、誰だ。それにうつつを抜かしていると、その合間に、とんでもないことが起こっているのです)

 昔、勤めていたところで「なんとか建設委員会」「これこれ審議会」があり、ぼくは断ったにもかかわらず、何度か委員にさせられた。なぜ断ったか、始まりも何もあったものではない。すでに建設計画、完成図」は出来上がり、建設業者も決まり、予算まで決定してからの「委員会発足」だと知っていたから。頭にきて、初回で、すべてを暴露したから、ぼくはほとんどの委員から総スカンでした。いくつもの委員会では同じ光景だった。ぼくは「除け者」になりながら、言いたいこと(言うべきこと)を言ってきた。八百長の「露払い」をしていたようなもの。情けなかったな。相撲を取る前に、誰も知らないうちに「勝負あった」という談で、これを「八百長」という。勤め先は私企業だったから、「汚職」にもならなかった。こんなことは、ことの始まり(開業・開学・開国)から続いていること。大学は官庁を真似たにすぎないのだ。それにしても、汚い連中でしたね。政治は「汚職」であり「賄賂」に慣れることだというのは、どうでしょう。

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  「国民に対する背信だ」原子力規制委、経産省と不透明なやりとり 原発60年超巡り面談7回、内容公開せず  原子力規制委員会事務局の原子力規制庁は27日、原発の運転期間の見直しを巡り、担当者が山中伸介委員長から検討指示を受ける前の7〜9月、経済産業省資源エネルギー庁(エネ庁)の担当者と少なくとも7回にわたり面談をして情報交換していたことを明らかにした。山中委員長は、原発推進側の経産省とのやりとりは公開するよう指示しているが面談の内容は、非公開にされている。規制委の透明性が揺らいでいる。/ 規制庁によると、経産省との面会は、岸田文雄首相が原発政策見直しの検討を指示した翌日の7月28日。経産省側からの呼び掛けで始まった。その後、委員長らに報告しないまま面会を重ねた。

  8月29日には規制庁職員が規制委を所管する環境省への説明資料を作成。現行の原子炉等規制法(炉規法)の「原則40年、最長60年」とする規定が、経産省が所管する電気事業法に移管されることや、炉規法に長期運転への規制手法を新設するなど、方向性の詳細が記載されていた。/ 山中委員長は10月5日の定例会で、規制庁に対して運転期間が見直された場合の規制について検討を指示し、経産省とのやりとりは透明性を確保することも求めた。規制庁はこれ以降の面談録はホームページで公表しているが、指示前の面会内容は公表していない。/ 規制庁はNPO法人原子力資料情報室からの指摘を受けて調査。黒川陽一郎総務課長は会見で「面会では経産省側の情報伝達を受け、政策の協議や調整はしていない。(規制対象の)電力会社との面会ではないので、面談録を作らなかった」と説明した。(以下略)(東京新聞・2022年12月28日 06時00分)(右は「記者会見する原子力規制庁の黒革総務課長)(https://www.tokyo-np.co.jp/article_photo/list?article_id=222433&pid=865331)

 これが政治なんだ。情報公開を求めると「黒塗り」が出る。国民の知る権利が墨で消されている。あらゆる会議・委員会(公開を公言したものも)では、個人情報秘匿を「タテ」に非公開。笑うべきであり、悲しむべきでもある、国民の置かれた状態ですね。「情報公開のあり方を議論する会議」の議事録もすべて墨塗り。これが、本当のブラックユーモア。そんな上等なものではないでしょう、「権力」欲の赴くところ、どこにおいても「滑稽」かつ「深刻」な事態が隠されるのです。「民は由らしむべし、知らしむべからず」はしぶとく生きている。これが、この劣島の政治。

 「封建時代の政治原理の一つ。出典は『論語』泰伯編。「人民を従わせることはできるが,なぜ従わねばならないのか,その理由をわからせることはむずかしい」という意味である。つまり,人民は政府の法律によって動かせるかもしれないが,法律を読めない人民に法律をつくった理由を納得させることは困難である,といっているにすぎない。ところが江戸時代には,法律を出した理由など人民に教える必要はない,一方的に法律(施政方針)を守らせればよいという意味に解されて,これが政治の原理の一つとなった。(ブリタニカ国際大百科事典)

 江戸幕府政治が今も続いている。将軍も天皇も、祭り上げられていて、下々は虚仮にされている。議員は、各藩のお役人。「幕府閣僚(幕閣)」が主権を掌握して放さない。これが天下泰平(官僚専制)の元凶ですね。この島はまだまだ未開、あらゆる面において鎖国状態であり、幕閣統治が敷かれているのです。旧態依然、旧慣墨守、これをだれが破れますか。まもなく「選挙」だそうだ、棄権は危険ですよ。(ぼくは、驚いているのではない、野蛮だなあ、と我をも含めて笑うばかりです)

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 どこと戦争したいんですか

  この国は、どこを相手に「戦争」するために、途方もない軍事費の倍増を図っているのか。それ以前に、どことであれ、現実に「戦う理由」は見当たらないではないか。「国防」というよりは、例の「集団的自衛権」の発動(強制)という「柵(しがらみ)」で「米軍」の一部分(手足か)となって、「応分の負担」を果たすための「軍事費倍増」であるというべきだ。▼ 今となれば、この「集団的自衛権」も、この国政府の発想・発案というよりは、宗主国による指示・命令であったということがはっきりする。五年間で四十三兆円という、箍(たが)が外れた軍事費捏造も、結局は、その多くは米国から無理矢理に「時代遅れ」の武器などを買わされることになるのだ。▼ ともかく、国家運営という観点で、現政府・与党にはいささかの政治感覚・方向性も認められないのはどうしてか。まさに「亡国」の道を潰走しているとしか思われない。

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 この三年間に及ぶ「コロナ対策」で積み上げられた税額は百兆円にも及ぶといいます。そのうちの何割が「中抜き」「ピンハネ」「ネコババ」されたのでしょうか。ねこくんには申し訳ないが、「魚屋の留守番を猫にやらせるようなものだ」と。今時の猫は「国会議員や官僚と比べられると、卒倒するかもしれない、俺たちは、そんなにクズか?」ってね。この税金の横領・強奪がやめられないから、多くは政治家になるんじゃないですか、とまさしく「下衆の勘繰り」をしてみるのです。もちろん、精錬潔白を絵に書いたような政治家も、血眼になって探せばいるかもしれないが、目につくというか、大いに目障りなのが、公人を偽装する「私人」の駐屯地(屯所)、それこそが政党であり、政治の世界だといいたくもなります。「国防」は、国家存立の要です。だから、それに必要な備えはするべきだというのは当然です。拙宅にも「鍵」は付けてあります。しかし、どんなに要塞化しても、狙われては手の打ちようがありません。「備えあれば憂いなし」ではなく「備えあれば憂いあり」です。スイスやコスタリカを、真面目に学んだらいい。軍備は外交に優るものでは決してありません。腰に二丁拳銃ならぬ、ミサイルをちらつかせての「外交」は「脅し」で、これはいま、ロシアが見事に示している。道化ですな。

ところが、その「国防」に名を借りた「軍事費」(内実は、米国製戦争武器の言い値買い費用)の闇雲な倍増は、現下の国情に照らして真に不釣り合いに「無駄」であると、ぼくは言いたいですね。「溝に大金を捨てるようなもの」というと、ネコババたちは「溝」ということになり、まさに塵であり、クズですね。(左の表は東京新聞・2022年6月3日 06時00分)

 こういうことをするために「予算」が必要だ、そのための増税や国債発行は、やむを得ないどころか当然であるという、しかし、今時の防衛費増額は、何を買うから、何を導入するから、これだけの金額が入用だという議論はほとんどなされていません。国会でも、まったくこの問題は扱われていない、にもかかわらず、倍増額が独り歩きして、気がついたら、決まっていたというのです。統一教会に肝を抜かれ、国防も敵基地攻撃もあったものではありません。熱心に軍事費倍増をいう政治家は、「国防族」ではなく、「売国奴」です。

 いかなる人間でも躊躇したくなるような乱暴狼藉を働いているのが、ほとんどの国会議員です。このような醜悪な景色は、前大戦時にもしばしば見られました。(戦時国債は、戦後は紙切れになった)今時は、時の敵対国と相並んで(その膝下に入って)、一体どこと戦争を始めようとするのでしょうか。往時の戦争とはまったく事情を異にし、一国対一国の限定された戦いでは済まされない、世界規模の大戦になるのは必定です。国防のための備えは必要です。備えがあるから、戦うのだというのは、いささかお門違いです。軍備や軍事の前に、徹底した「外交」が求められるのは誰もいうとおりですが、果たして、この島の現状で、それがどこまで果たされているのか、大いに不信の念を膨らませるばかりです。(右は離島防衛訓練を行う米海兵隊員=23日午前、静岡県の東富士演習場:「陸上自衛隊は23日、離島防衛専門部隊「水陸機動団」が米海兵隊と静岡県の東富士演習場で実施中の訓練で、離島の作戦で射撃を展開する場面を報道関係者に公開した。/ 陸自隊員の伝える情報に基づき米軍が射撃をする「火力誘導」の場面も含まれ、実際の射撃はしないものの海兵隊のF35Bステルス戦闘機2機が飛来。陸自によると、これまでも火力誘導の訓練は日米間で実施されているが、日本国内で陸自と米海兵隊の訓練にF35の参加は初めて。出典は産経新聞・2022/03/23)(下の写真は「日米共同訓練」:海上自衛隊公式サイトより:https://www.mod.go.jp/msdf/operation/training/h2_2018/)

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 違法行為を行った公務員(個人)は無答責なのか 

 「国または公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,その職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは,国又は公共団体がこれを賠償する責に任ずる」(国家賠償法1条1項)

 「森友」事件で公文書の書き換え(改竄)を命じられた財務省職員が「自殺」した事件で、改竄を命じたとされる上司(当時の財務省理財局長)の責任を問う、原告(元職員の妻)の訴えに「公務員の個人責任を認めず」という判断が下された。じつに疎ましい法律(国賠法)であり、判決である。公務員個人には職務上の問責は不問で、その責は「国家・地方」が負うという。同事件での国の責任を問う裁判では、去年十二月、原告の訴えをすべて認める「認諾」(賠償責任)という手続きで、裁判そのものにすら入らなかった。(右画像は:https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/213967)

 「散歩中の飼い犬が通行人に噛みつき、大怪我を追わせた」なら、犬の責任は追及しないで、飼い主の「管理責任」が問われる。それ相応の理由はあるだろう。さすれば、公務員は鎖で繋がれた「飼い犬」に等しい。仮に、野生の犬や猪が人間に危害を加えれば「殺処分」が相場ではないか。「畜生」のくせに「人間」を傷つけたのだから、という廉で、その責任を追求されたわけ。

 国家・地方を問わず「公務員」は、飼い犬以下、野生の犬や猪以下の存在なのか。裁判官は、自ら「猪以下の存在」を証明したようなもの。下級審で「死刑判決」を出した裁判が、その後「冤罪」であること明らかにされた裁判事例いくつもある。誤った判決を下した裁判官は、けっして「裁かれない=責任を問われず」のは、公務員だから。「誤審」の責任を追求されたら、おちおち判決など下せない、それがために、いい加減な裁判が横行することになるのだろうか。同様に、公務員の行状や職務が堕落・頽廃するのも、野生の犬や猪以下の存在として、責任を問われない(無答責)位置に縛られているからだ。公務員も人間だ、だからこそ、「人間倫理」の問題として、この状況を放置しておいていいのか。

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 佐川元理財局長に「説明や謝罪の法的義務ない」と大阪地裁 森友文書改竄訴訟  学校法人「森友学園」をめぐる財務省の決裁文書改竄(かいざん)問題で自殺した近畿財務局の元職員、赤木俊夫さん=当時(54)=の妻、雅子さん(51)が、佐川宣寿(のぶひさ)元国税庁長官に1650万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、大阪地裁であり、中尾彰裁判長は請求を棄却した。国家賠償法や最高裁判例に基づき、公務員が職務で損害を与えた場合は、個人ではなく国が賠償責任を負うと判断した。/当初の被告は国と佐川氏だったが、国は昨年6月、赤木さんが改竄の経緯をつづった文書(通称・赤木ファイル)を開示。その半年後、約1億円の賠償請求を受け入れる「認諾」の手続きをとって訴訟を終わらせた。残る争点は、当時理財局長だった佐川氏個人の賠償責任を認めるかどうかだった。

雅子さん側は、文書改竄は「民主主義の根幹を破壊する悪質な行為」と指摘。佐川氏に責任を負わせることで再発防止を図るべきだと主張した。これに対し、中尾裁判長は、損害賠償制度の目的は被害者が被った不利益の補填(ほてん)で「制裁や同様の行為の抑止を目的としていない」と判断した。/雅子さん側は、佐川氏には改竄を指示した経緯の説明や謝罪をする義務があるとも訴えたが、「道義上はともかく、法的義務はない」と退けた。/ 判決によると、赤木さんは平成29年2月以降、この問題に対処していたが、同年7月に鬱病を発症。30年3月に自殺した。/ 国は認諾の際、赤木さんが強く反発した財務省からの改竄指示などへの対応が自殺につながったことを認めたが、この日の判決は改竄指示と自殺との因果関係に言及しなかった。雅子さん側は閉廷後、判決を不服として控訴する意向を示した。(産経新聞・2022/11/25)

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 「注意は他人(ひと)のためならず」ですね

 【編集日記】安全確認の基本に指さし呼称がある。行動の正確さが上がるとされ、鉄道や工場などさまざまな職場で浸透している▼ことわざで表すならば「打たねば鳴らぬ」。何をするにしても、行動しなければ成果や結果が得られないことを意味する。「ことわざ・格言にならう安全衛生訓」(労働新聞社)では、打てば鐘が響くように、指さし呼称を徹底しようと訴えている▼「千慮の一失」は、よく考えたつもりでも、思いがけない失敗があること。人の注意不足を補うために文明の利器を頼っても、作業手順や環境の変化が、新たなミスを生む要因になることがある。万全とはいえない。便利なようで手間が増えれば、手を抜く人が出る▼あのときに確認さえしていればと、後悔は尽きないだろう。大阪・岸和田で女児が自家用車に放置され、熱中症で亡くなった。保育所に預けたという父親の思い込みに、施設側の連絡不足が重なった。岩手と広島では、命に別条はなかったものの、送迎バスに児童が置き去りにされた▼昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない。(福島民友新聞・2022/11/17)

 このところ、立て続けに車内に子どもを放置したままで、何時間か後に気がついて見たら、「熱中症」等で亡くなっていたという事件(事故なのか)が発生しています。問題の発端は、ある保育園の送迎バス内での「降ろし忘れ事件」でした。どうしてこんなことが起こるのか、問題にすること事態が愚かしくなるような、人間の「不注意」です。不注意による事故は日常的に、誰にも起こっています。急いで階段を降りて、躓いて落ちた、信号を見落として事故を起こした、スマホをいじりながら歩いていて、他の歩行者と衝突した。こんな類の事故は誰にもつきもので、さいわいに大事に至らなかったから、問題にならなかっただけです。交通標語は好きではありませんが、「注意一秒、怪我一生」(実際に起こるのは、「注意一秒、落命一秒」なんでしょ)。「ヒヤッとした、あの瞬間を忘れるな」などなど、それこそ「ドキッ」とし、「ヒヤッ」とするような「標語」ばかりです。この手の事件や事故が発生する最大の理由(原因)は、じつに単純です。「不注意(carelessness)」、それだけです。不注意とは、「不用心」ということであり、物事に気を配らないことです。

 (若い頃に、たった一度した、怖い経験を忘れません。青信号で交差点を通りきろうとしたら、信号無視の車(女性が運転)が突然侵入、危うく衝突しかけたが、咄嗟にブレーキを踏んで事なきを得た。信号無視で走り去った女性は、仰天して目を剥き、手を口に当てた片手運転の格好を、その驚愕した表情とともに、今もって忘れない。不注意な人間による間違いに巻き込まれる、そんな「不注意」を自分は犯したくないというのが、ぼくの運転の際の戒めです)

 気を配ることは「注意(attention)」を払うことです、自分のすること、しようとしていることに配慮すること、気を配ることです。ぼくは、繰り返し、人間の道徳問題の「中核」は「注意深くなること」だといい続けてきました。いくつかの本も書きました。なぜか。ぼくたちが犯す「誤ち」「不幸」の十中八九は、大小と問わず「不注意」によるものだと、自ら経験してきたし、今でも経験しているからです。多くの人は「注意する」といいますが、その相手は「他者(自分以外)」です。それはおかしいというか、間違っていると、ぼくは度々、この駄文収録でも言ってきました。「信号を守りなさい」と注意するといいますが、実際に守るかどうかは「当人」です。だから、当人が信号を守る(注意する)ように忠告するのでしょう。注意すると忠告するは、いっしょじゃないかと言われそう。でも、どんなに大事な忠告を受けても、それをやるかやらないかは当人次第です。

 決して言葉の問題ではなく、道徳の核心部の問題なんですよ。なぜ、人間は間違いを犯すか。自分の置かれている状況をよく見ないからです。慌てる、他に気を取られる、物思いに耽る、よそ見をするなどなど。車にいくつかの荷物を載せていたとします。すべてを運び終えたと勘違いして、一つや二つを降ろし忘れることはいくらでもあります。物忘れです。荷物なら、熱中症になっても、取り返しが付きます。生モノだったら腐敗するとか、植物だったら枯れてしまうとか。でも、それは代償が利くでしょう。別のものを購入して、事なきを得るのです。「子どもを降ろし忘れた」不注意と、「ティッシュの箱を忘れる」不注意の出どころ(原因)は同じです。間違いを犯す神経系統の接続・接触ミスです。前方の信号を見落として、歩行者を死なせるという「不注意」もまったく同じところから生じるのです。

 別のことを考えていた、降ろしたつもりだった、いろいろと弁解や言い訳をします。時すでに遅し、命を落とすということに関しては「後悔」だけしか残らないものです。ぼく自身が「不注意人間」だし、そのことからたくさんの「間違い」「誤ち」を犯してきたからこそ、「注意深くなろう(be careful)」「注意を払おう(pay attenntion)」と、いつだって「自分自身に向かって」言ってきました。「昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない」とコラム氏はいう。その指摘はあたっているのでしょう。でも、とぼくは反省する。どんなに「対策を講じても」ミスは起こる、そのミスをなくすために、あらたな対策を講じる。その対策の積み重ねによって、人間はますます「不注意」になる、「不注意」に慣れるのです。この「対策」こそが、注意しない人間を作っていることに気が付かないのでしょうか。

 自動運転車の開発が進み、実用化の一歩手前まで来ました。これは究極の「不注意人間」、いや「無注意人類」の世界を想定しています。「蟻がクルマに乗る」ようなものではないですか。車の走行に蟻は関心を持っていない。人間の神経系統の動きの重要さを忘れること、その面倒臭さから人間を解放することが「進歩」「革新」だというのかと、ぼくは大いに疑問を持ちます。最新の IT 技術を駆使してコンピュータは機能しています。ミスは起こらないといいいながら、至るところで「間違い・障害」が生じています。(ウクライナの迎撃用ミサイルがロシアのミサイルを撃ち落とし損なって、ポーランド領内に落下(着弾)。二名が亡くなったと報じられている)人間の注意力が及ばないところで、最新の技術に依存した「無思慮」「無注意」がもたらす深刻な事態は、深く静かに、あるいは騒々しく浅く進行(侵攻)しているんじゃないですか。

 登録以来二十年超のクルマに乗っています。昨年の夏前、用事があって横浜まで出かけました。東京湾アクアラインを通って行けば便利だと言われた。その通りに高速道に入ったのはいいが、念のためにとカーナビを見たら、アクアラインが登録されていない。車もマニュアルだし、装備そのものもマニュアル、運転するものも、一級のマニュアル人間でしたから、道に迷い続けた。だから、二度目は、まず間違えないという経験を得たのでした。つまらないことをいっています。しかし、何ごとも、なにか(誰か)に依存するというのは、便利で楽チンです。しかし、やがて自分の足で立てなくなるのは目に見えています。それでもいいのだ!という時代と社会なんですね。

 園児の「積み残し」ー まるで荷物ですね ー 防止のために、車内に警報ブザーをつけるつことを義務付け、その費用について国が補助するという。究極の「愚民政策」です。もし、警報ブザーが故障していたら、どうするん?どこまでいっても、終わりのないゲームみたいな話です。でもことは深刻、人間の命がかかっているのです。たった一人の「我が子を積み残し」という事件は、いつでも、誰にでも起こりうる、「注意深くなければ」ね。子どもにクラクションの鳴らし方を教える、警報ブザーの押し方を教える、それが幼児教育の必須科目になる時代、なんか狂っているよ。「わんづかの こころのゆるみが 大事故に」

 子どもを降ろし忘れるような事故はいつでも起こっているのでしょう。でも大事に至らないで気がついたということだったのかも知れません。大事に至らない前に、というのは「注意力」によるほかないんじゃないでしょうか。二重三重の防止・予防策をいうのもいい。でも根本の重用さに対して、「不注意」であっては困ります。一人ひとりが「注意深くなる」ことです。そのための練習が「学習」なんですから。算数の問題は「注意深い人間のためのもの」と、どうして考えられないんですか。13+59=73、この間違いをもたらすのは、計算能力の高低ではなく、不注意からです。「計算に集中できなかった」、「注意散漫だった」のは、余計なことを考えていたからです。学校の勉強は「頭のいい子を生む」ためではなく「注意深い人間を育てる」ためのものです。計算間違いを犯す「不注意」は、信号を見落として人を轢いてしまう「不注意」と同根・同類です。計算間違いは消しゴムで消せますが、交通(人身)事故を消せる消しゴム、いまのところ売っていない。「自分に注意する、注意は自分にむかってするもの」で、他人に、ではありません。

 注意は他人(ひと)のためならず(Attention is not for others)。

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