どんみりと 樗や雨の花曇り(芭蕉)

 緑輝く5月。どっしりと幹を伸ばし、四方に枝葉を伸ばしたセンダンが、薄紫の花を付けている。雲のようにこんもり、もこもこ。無数の花が風に揺れている。/ 本県では昔から、街道沿いや学校にセンダンを植えてきた。日傘のように、涼しい木陰をつくる木の下で、旅人らが休んだり、子どもたちが遊んだり。さらに葉は虫よけに、樹皮や果実は煎じて虫下しや整腸に、果肉はすりつぶして肌の塗り薬にと、さまざまに使われてきた。/ 薄紫の花を見ると、長さ1センチほどの細く白い花弁が星形に開いている。中央には、筒状の濃い紫の雄しべと黄色い葯(やく)がある。上品で美しい花だ。/ 一方で、牧野富太郎博士が「シロバナセンダン」と名付けた、白い花を付けるものもある。/ 県内で有名なのが、いの町神谷の神谷小中学校に生えているものだろう。藩政末期に、庄屋が村人の健康のために自宅に植え、学校が建った後も、庄屋をたたえるために残されたと伝えられる。かつては学校敷地内に4、5本のセンダンがあったそうだが、台風で倒れたり、体育館の建設のために切られたり。現在は白と紫の2本となっている。(以下略)(高知新聞Plus・2023/05/23 

(ヘッダー写真は「暦生活」:https://www.543life.com/shun/post20220510.html)

● せん‐だん【栴檀/楝】センダン科の落葉高木。暖地に自生する。樹皮は松に似て暗褐色。葉は羽状複葉で縁にぎざぎざがあり、互生する。初夏に暗紫色の5弁花を多数つけ、秋に黄色の丸い実を結ぶ。漢方で樹皮を苦楝皮(くれんぴ)といい駆虫薬にする。おうち。あみのき。《 花=夏 実=秋》「―の花散る那覇に入学す/久女」ビャクダンの別名。(デジタル大辞泉)                                                               ●せんだん【栴檀】 は 二葉(ふたば)より香(かんば・こうば)し= 白檀(びゃくだん)は発芽のころから早くも香気を放つように、英雄・俊才など大成する人は幼時から人並みはずれてすぐれたところがあることのたとえ。(同上)

 「センダン」にはたくさんの異名・異称があります。その理由はなんだったか、ぼくにはよくわからない。なかでも「唐変木」などという名がつけられているのは、ぼくには興味があります。もう何十年も前、新宿の富久町あたりを歩いていて「唐変木」という喫茶店があったのを覚えています。そのときは、文字通りに「気のきかない人物、物分かりの悪い人物をののしっていう語」(デジタル大辞泉)だと即断して、変な店名だなとしか思いませんでした。それが「栴檀」の異称だと知ったのは、かなり後年のこと。その異名の代表的なものをを挙げてみると「アフチ・アウチ・オオチ・オウチ・アミノキ・楝木・雲見草・唐変木・千珠・金鈴子・苦楝子・川楝子・苦楝皮」などなど。まだありそうですが。今や、あちこちに「唐変木」は大流行です。木工材としては「白檀(厳密に言うと「栴檀」とは別種)」はなかなかの高級品で、木が硬いので多用されています。これが「頭が固い」に通じるのでしょうか。「わからず屋」とも言いますね、唐変木のことを。「栴檀は…」は、この白檀のことらしい。

 栴檀の異名に「千珠」があります。曼珠もあります。文珠とも。珠は「真珠」のように、貝の中にできる丸い玉のこと、そこから美しく立派なものに冠せる言葉として使われています。「金鈴子(きんれいし)」とは栴檀の実のこと。これから「数珠(じゅず)」などを作る。念珠ともいう。というように、関連する言葉を取り上げてゆくと、どうも仏教に深い関わりがありそうな気配が濃厚です。今日はその方向に行くのは止めておきます。

 どうしてこんなにたくさんの呼び名があるのか。もう少し調べたいですね。「アフチ・アウチ・オオチ・オウチ」は、昨日触れた「夏は来ぬ」の「詞」にありました。「楝」です。別表記では「樗」、高山樗牛の筆名にあります。(以下の辞書参照)樗木と犛牛(ヤクの別名)をあわせたもので、どちらも「大にして無用」とあります。「無用の長物」を指しているのでしょうか。だから「唐変木」となったとも言えますね。要するに、大きな木(大木)の代名詞として「栴檀・樗・楝」が上げられたということでしょう。

●「樗牛」とは「樗木と犛牛(りぎゆう)。大にして無用のもの。〔荘子、逍遥遊〕吾(われ)に大樹有り、人之れを樗と謂ふ。其の大本は擁腫(ようしよう)(こぶだらけ)して繩墨(じようぼく)に中(あた)らず、其の小枝は卷曲して規矩(きく)(ぶんまわしと、定規)に中らず。~今夫(か)の犛牛(りぎう)は、其の大いさ垂天の雲の若(ごと)し。~而れども鼠を執(とら)ふること能はず。(普及版字通)  

 樗牛氏についても触れたい気がします。山形鶴岡出身で、一時期は文壇に「樗牛あり」と言わしめたほどの人物でした。「日本主義」の主導者でもあった。「滝口入道」で文壇に出、その後は雑誌「太陽」を始めとして、さまざま領域で活動を続け、大きな影響力を誇示したこともあったが、若干三十一歳で死去。帝大時代の同級生には土井晩翠が、(予定されていた)欧州留学同期生としては夏目漱石などがいました。不幸にして、留学直前に喀血して、夭逝した。

 それにしても、植物というものが、人間の生活にどれほど身近かであったか、この一本の樹木を見ていてもよくわかります。ウツギも咲き、センダンも香りを放つ時期、爽やかな皐月であると同時に、その側には「梅雨」も控えている、何とも賑やかそうな「小満(しょうまん)」の季節です。本年の「小満」は一昨日(五月二十一日)でした。「草木が茂って天地に満ちる」候、まさにその通りで、拙宅でも木々が緑成し、草は繁茂の限りを尽くしている。

 ところで「栴檀は双葉より芳(かんば)し」という俚諺は知っているものの、そのように言い当てられる「人物」に遭遇したことのないのは、ぼくの身の不幸でしょう。「双葉より芳し」という栴檀は我が邦のものではなく、インドあたりが原産の種類(白檀)を言うらしい。だから、仏像・仏具なとも「白檀」が尊ばれたのでしょうか。同じ木ではあっても、別名の「唐変木」と渾名(あだな)される人間たちには、これまで嫌になるほど出会ってきました。もっとも他人から言わせれば、「お前こそが唐変木だ」と言うでしょうね。そのとおり、「図星」です。大木の代表はなんでしょうか。まず「欅」、そして「木蓮」。ついで「栴檀」でしょうか。このいずれにも、ぼくは小さい頃から親しくしてきたせいもあって、いまなお、それぞれに懐かしくもあり、親近感を感じもする。庭木としては手に余りますが、遠くから眺めて、本当に「どっしりした」風格がある木々ではあるでしょう。万葉の歌人も詠っています。

 「妹が見し楝の花は散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干なくに 」(「万葉集」巻五・山上憶良)

 日本の学校の校庭に、どういうわけだか「サクラ」が植えられています。その理由は、どこかで触れた気もしますが、安っぽい理由だったと思います。「サクラはニッポン」と言わしめたいというもので、それは唱歌に謳われた「日本主義」「日本という観念」の具体的「対象物」だったという感想を持ちます。「日本の風景」「日本の文化」などと簡単に言いますが、こんな狭い島世間ではあっても、多様な言語や多彩な文化が生み出され、育てられてきました。樗牛らが主唱した「日本主義」は時代を経て、今に蘇りつつあるようにも見えるし、そんなものは観念の化け物で、実体は空無であるとも言えます。 「どこの国より、我が国は強いぞ」と言ってみたり、「歴史や文化の面ではこちらがすぐれている」と、どうして言えるのか、言いたいのか。唐変木のぼくには一向に理解できません。

● 日本主義(にほんしゅぎ)= 明治から第2次世界大戦敗戦までにおける欧化主義,民主主義,社会主義などに反対し,日本古来の伝統や,国粋を擁護しようとした思想や運動をいう。一定の思想体系をなしていたとはいえず,論者により内容が相違する。明治の支配層が押し進めた欧化主義への反発として,三宅雪嶺や高山樗牛らによって唱えられ,政治的には欧米協調主義への反対,国権や対外的強硬策の強調となって現れた。大正や昭和になって日本の資本主義の高度化が,階級対立を激化させ,社会主義やマルクス主義が流入すると,これら諸思想の対抗イデオロギーとして機能し,天皇を中心とする皇道や国体思想を強調した。(ブリタニカ国際大百科事典)                                                              ● にほん‐しゅぎ【日本主義】=〘名〙 日清戦争(一八九四‐九五)後、井上哲次郎・高山樗牛らが唱えた主義、運動。日本伝統思想と欧州近代哲学思想を折衷し、君民一体・忠君愛国・キリスト教排撃などを主旨とした。代表論文は明治三〇年(一八九七)六月に高山が「太陽」誌上に発表した「日本主義を賛す」。同年大日本協会の設立により機関紙「日本主義」も発刊された。(精選版日本国語大辞典)

 語る気もしませんが、ある種の「妖怪」のように、その幻影が、誰かの頭にやどり、どから来るのかわからない異音が、どなたかの耳に聞こえるのでしょう。「台湾有事」は「日本有事」と勝手に難癖や屁理屈をこね回して、挙句の果ては「他国に押し出す」という愚の愚をもう一度繰り返しますか。ぼくは、「栴檀」にはなれませんが、「唐変木」にはなれるというのではない。どんなものにも「二面性」「表裏」があり、どちらか一方を主張するばかりでは、それは「短慮」そのものであるということでしょう。「核」の是非を巡って議論が喧(かまびす)しい。あらゆる「核を廃絶する」ことを、まず人類の選択・判断として実行すべきだとぼくは考えています。とはいえ、それに対して「R 国の核はよくない」が「A 国の核は抑止力になる」から、不用意に廃絶すべきではないと、世界の歴々面々が、わざわ一同に会して「言うべきこと」ですか。

 「栴檀は双葉より芳し」、つまりは「英雄・俊才など大成する人は幼時から人並みはずれてすぐれたところがあることのたとえ」と言いいます。一体そんな人はいるのでしょうか。いたのでしょうか。そんな人間の存在など、「お釈迦様」でも気が付かないことではないでしょうか。「優等生」なら腐る程いたし、いるでしょう。それでは足りないんですね。同じように、隣国と競争して、なんか意味があるのかどうか。「昨日の敵は今日の友」の繰り返しで、時代は代わり続けるのでしょうね。

 「樗牛」が出てきたついでに言いたくなりました。「独活の大木」、ぼくはこの表現も大好きです。「《ウドの茎は木のように長くなるが、柔らかくて材としては使えないところから》からだばかり大きくて役に立たない人のたとえ」(デジタル大辞泉)と解していますね。若芽は柔らかく、香りがあり、食用に供される。ぼくの好む食材でもあります。加えて、独活(ウド)は、成長すると「栴檀」にどこかしら雰囲気が似てくるんですね。もっとも、こちらは樹木ではなく草類です。「ウド」は「どっかつ」とも「つちたら」とも読んで、発汗・解熱・鎮痙(ちんけい」・鎮痛などに効果のある漢方生薬(草根木皮)として使われてきました。「漢方薬」について、もう少し学習を深めておきたかったですね。

 本日は、まるで三月に逆戻りしたように、寒くもあり、小雨が降り続いています。駄文の調子も湿りがちで、少しも前に進まない。その乱調子のままの「起承転結」なしに彷徨(さまよ)っている。「これもまた 五月雨の滴(しづく) 土の上」(無骨)

 (補足 表題句「どんみりと 樗や雨の花曇り」は元禄七年五月十三日、芭蕉、五十一歳)(*「どんみり=色合いなどが濁っているさま。また、空の曇っているさま。どんより」デジタル大辞泉)(「樗」は「あふち」か)

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 「藤の花は山の悲鳴」と言う人もいる

 「藤の花は山の悲鳴」 美しさの裏にも目を向けて 京都・南丹の山林から京都府南丹市の山林で藤の花が咲き、薄紫のかれんな姿が目を引いている。しかし、材木の価値を落とす厄介者の側面もあり、山仕事では見つけるとつるを切って増えないようにしてきた。関係者は「藤の花が目立つのは、山に手が入らなくなった結果。山の現状にも思いをはせてほしい」と話す。/ 4月下旬から、そこかしこで美しい花を咲かせている。同市美山町の男性(76)は「昔より増えている」と感じるという。/ 昔は集落総出で山林に繰り出し、下草刈りなどに精を出した。その際、藤のつるを見つけると必ず切った。放置しておくと、つるが木々に食い込み、木材としての価値を損ねるためだという。/ 住民による手入れの減少や林業従事者の高齢化などを背景に「最近はスギ林でも藤の花が咲く。昔はあまりなかった」と語る。(京都新聞・2023/05/10、右の写真も)

 例によって、ラジオ深夜便の語るところ、本日の「誕生日の花」は藤(フジ)だそうでした。また、フジ(藤)の「花言葉」とされている一つに「けっして離れない」があります。もちろん、「花言葉」は(商売用にか)人間が勝手に作ったものですから、それを見る立場によっては正反対の受け取られ方をします。しばしば、フジは松のそばに植えられた。ここでは松は「男性」、フジは「女性」でしょう。松本さんと藤本さんがくっついたということですね。だから「歓迎」という花言葉もあるのです。山林に関わって生業を営んでいる人からすれば、「歓迎」などとんでもないということになる。花言葉にこだわる必要もありませんけれど、「けっして離れない」など、じつに忌々しいと見れば、山に働く人々は「(藤の蔓は)必ず切った」と刃物が飛んできます。フジを鑑賞する人間には「優美」であっても、他の木を痛め傷つけるから、山仕事の関係者には見逃しには出来なかったのです。

 フジは日本が原産国。万葉にも詠み込まれてきました。赤人さんの歌は「フジを形見の 愛しき人よ」というのですが、これもまた、庭にでも植えた「藤の花」ではなかったでしょうか。我が庭にも貧相な藤の木があり、それでも「健気に」(とぼくは思っている)、毎年幾ばくかの「花」を垂らして、その存在を訴えています。今は花が散り終わった後、さかんに手足を伸ばすように四方八方に青葉若葉を広げています。ほとんど手入れもしないから、地下茎も伸び放題で、地上地下を這いずり回っている。まとわりついても困るほどの木はないので、「必ず切った」りはしないで放置している。

・戀之家婆 形見尓将為跡 吾屋戸尓 殖之藤浪 今開尓家里(山部赤人)(「恋しけば、形見にせむと、我がやどに、植ゑし藤波、今咲きにけり)

 京都の「美山」と言えば、合掌造りの名所として観光地にさえなっています。中高時代の同級生(一級建築士)は早くから美山にも一軒を構え、今ではそこに工房を開いている。町内の世話役もしているそうです。その「美山」の山のフジについて、外野から見れば「見事なフジの花」と感嘆したくなりますが、現地の住民にすれば「ヤマアラシ(山嵐)」にほかならないと、まるで目の敵です。「最近はスギ林でも藤の花が咲く。昔はあまりなかった」と、いかにも忌々しそうに訴えている様子が伺われます。(左写真は美山町観光情報サイト。美山ナビ:https://miyamanavi.com/sightseeing/kayabuki-no-sato)

 このような現象は、けっして美山町だけに限られません。長い時間の単位で見れば、いろいろな事情が作用して、山は荒れ、土地も荒れ、ついには人跡も絶えてしまう、そんな恐ろしい未来がこの島を飲み込んでしまうのかも知れません。ぼくの歩くコースにも、いわゆる「山藤」や「藤林」があり、「藤山」、どきに「藤川」「川藤」もある。ややこしい。これを書いていて空想をめぐらしていたのですが、「富士山」は、もとは「藤山(フジヤマ)」ではなかったか。いたるところに、「藤」は隆盛を極めていたのがこの地でしたから。

● フジ(ふじ / 藤)[学] Wisteria floribunda (Willd.) DC.= マメ科(APG分類:マメ科)の落葉藤本(とうほん)(つる植物)。昔、大阪の野田がフジの名所だったので、ノダフジともいう。つるは左巻きで、支柱を左上りに巻いて伸びる。樹皮は灰色。葉は互生し、奇数羽状複葉で長さ20~30センチメートル。小葉は11~19枚、卵状長楕円(ちょうだえん)形で長さ4~10センチメートル、先はとがり、質は薄い。若葉には毛があるが、のちになくなる。5~6月、枝先に長さ30~90センチメートルの総状花序を垂れ下げ、下部から先へ順々に淡紫色または紫色の花を開く。花冠は蝶形(ちょうけい)で長さ約2センチメートル。果実は倒披針(とうひしん)形、長さ15~18センチメートルの扁平(へんぺい)な鞘(さや)で、短毛を密生する。果皮は堅く、10~11月に裂開する。種子は扁平な円形。山林に生え、本州から九州に分布する。棚づくりや盆栽にして観賞する。園芸品種に、花が白色のシロバナフジ、淡紅白色のアケボノフジ、淡紅色のモモイロフジ、花序が1メートル以上になるノダナガフジ、紫色で八重咲きのヤエフジ、小木のイッサイフジ、葉に白色または淡黄色の斑(ふ)が入るフイリフジ(カワリバフジ)などがある。/ 近縁の別種ヤマフジW. brachybotrys Sieb. et Zucc.はフジと異なってつるは右巻きで、小葉は9~13枚と少なく、短毛を密生する。花序は短くて花は大きく、全体がほとんど同時に開花する。兵庫県以西の本州から九州に分布する。品種に、花が白色のシロカピタン、淡桃色のアケボノカピタン、藤紫(ふじむらさき)色で八重咲きのヤエヤマフジがある。(ニッポニカ)

 俗に「源平藤橘」といいます。この島社会で、一家・一門をなし、「権勢家」や「名門」とされる代表に「藤原氏」があります。その「藤」を名字に持つ「姓」は数えられないほどありますね。あるいは「地名」にも。それほどに、「藤」は世間に受け入れられてもいた事実の証拠とはなるでしょう。万葉には「フジ」は「藤波(藤浪)」してと多く詠まれています。フジの花の揺れるさまを「波」に見立てたのです。(プロレスラーにもいましたな)あるいは「藤原」もそのたぐいであったか。上にも触れた「男は松、女は藤」というのも、古くからの謂れであり、「男は度胸、女は愛嬌」に通じるように、ぼくには見えます。何事であれ、「擬(なぞら)える」のは世相や通念の表れでもありますね。だから、今どきは松も藤も、位置づけは異なっているに違いありません。

 余談続きの雑文ですが、その余談の余談を一つ。昔から「葛藤」という熟語に興味を持っていました。別に取り立てて言うほどのこともありません。でも「葛」も「藤」もつる性植物だというところに、ぼくはいらぬ関心を払ってきたんですね。「葛」は「くず」です。くず餅の「くず」。「屑」ではありませんよ。その根は「葛根湯」としていろいろな症状に調法されます。フジとクズの「蔓(つる)」が絡み合ったら、どちらに軍配が上がるのでしょうか。おそらく簡単に決着はつかないでしょうね。何年何十年と時間のかかる長丁場の闘いだったでしょう。だから、「葛藤」を持ち出して、困難な人間現象を説明するために使われてきたのです。

● かっ‐とう【葛藤】〘名〙① かずらと、ふじ。また、広く、蔓草(つるくさ)などの類をいう。〔日葡辞書(1603‐04)〕〔出曜経‐五〕② 仏語。煩悩をたとえていう語。③ 仏語。禅宗で文字にこだわって語句にとらわれることのたとえ。また、意味の錯雑して解きがたい文字、言句、公案、あるいは単に問答工夫の意にも用いる。④ (━する) 人と人との間や人の心の中などで、互いに争い、さからいあい、また、憎みあうこと。争い。もつれ。悶着。また、戦争。⑤ (━する)(イ) 心理学で、二つ以上の対立する欲求が同時に働いて、そのいずれを選ぶか迷う状態。抗争。相克。(ロ) 精神分析における根本概念の一つ。精神内部で、違った方向の力と力が衝突しあっている状態。(精選版日本国語大辞典)

 じつは、「つづらふじ(葛藤)」という名の蔓性の植物も存在する。それを「かっとう」と読ませたかどうか、ぼくには疑問があります。藤蔓と葛蔓の一戦を「かっとう」と見るほうが理にかなっているようにも思う。縄がないときには、この蔓を利用して、ものを結びつける材料にもしました。個人であれ、集団であれ、あるいは集団同士でも、互いに苦悩や軋轢、煩悩や悶着が絶えないのが「生きている」ために取られる通行税(税金)のようなものです。冒頭にでてきた美山町の男性のように「藤の花は山の悲鳴」と言って「藤蔓」を切ってしまえば、その限りでの「葛藤」も収まるでしょう。だが、その男性が、別の問題で「葛藤」することは避けられないとは、いかにも「美しさの裏にも目を向けて」といいたくなるような、内面や裏面の苦しみにぼくたちは悩まされているんですね。

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 備えあっても憂いあり

【天風録】能登を襲った地震 8年前のNHK朝ドラ「まれ」の舞台は石川県の能登半島だった。主人公の祖父代わりとなる塩職人・元治(がんじ)のせりふが印象に残っている。「ないもんを数えんと、ここで生きるっちゅうて、腹くくらんけ!」▲小さな幸せを喜び、磨けば光るものを大切に―。同じように過疎と高齢化に悩む中国地方へのエールに聞こえた。俳優でダンサーの田中泯(みん)さんが演じた元治は、能登伝統の揚げ浜式製塩法の継承者。塩づくりの場面は半島先端の珠洲(すず)市で撮影された▲大型連休中のきのう、珠洲市を震度6強の地震が襲った。現地を伝える映像に崩れた民家が大写しになった。被害者の情報に胸が痛む。朝ドラで見た美しい棚田や豊かな自然は無事だろうか。余震と強まる雨が心配である。私たちも万が一の備えを怠らずにいたい▲能登半島では昨年6月にも震度6弱を観測するなど地震が相次ぐ。政府の調査委員会は、地下水の移動が関係している可能性を指摘していた。地下で一体何が起きているのか不気味だ。一刻も早く収まってくれまいか▲能登はやさしや土までも―。厳しい風土の農漁村で、助け合って力強く生きる人々を表す言葉である。そんな能登への支援を急ぎたい。(中国新聞デジタル・2023/05/06)

 昨日午後、庭仕事をしていると、かみさんが「能登で大きな地震があった。知り合いはいないのか」と知らせに来ました。毎年のように「震度6」前後の地震が頻発していて、とても気にはなっていた。石川県を離れて七十余年、親戚もあるが、今では交際はなくなっています。もちろん親類縁者がいるからというのではなく、どこで起ころうが「自然災害」の被害を受けた方には見舞いをいい、少しでも被害が少なくすむように祈るばかりです。また、能登半島にも、近隣にも「原発」が多数存在しています。度重なる地震の発生に、関係当局は「異常なし」と決まり文句を繰り返しはしていますが、その本性を知っているだけに、にわかには安心できないのは、大した因果だと思わないでもない。今のところ、大きな揺れの割には、大規模の被害が出ていないのは、まずは不幸中の幸い。とはいいながら、少なからぬ被災に合われた当事者の方々には、お見舞いを申し上げる他ありません。繰り返し襲う地震の影響は、まるで「ボディブロー」のように、いろいろな方面に打撃を与えているのです)

 連休さなか、肝を冷やした方も多くいたはずです。地震列島と言われて、その規模や数の大小多数に「辛酸」を舐めてきた島人です。これを止める手立てはありません。けれども、被害や犠牲者を限りなく少なくする方途(政治)はあるはず、というより、そのための「政治」だという思いが強くある。親類や友人(後輩)も何人かいる。現地の様子がわからないので気ばかりもんでいます。今の段階で、事態が落ち着くことがあるのかどうかわかりませんが、何らかの方法で「連絡」を取り、なにかする必要があるなら、できる限りのことをしたい。

 余震が続く中、被災地では、本日は大雨も予想されています。不穏当な言い方になりますが、連休で何処も彼処も人出で大混雑中でした。そのところに地震が起こらなかったのはまことに幸運だったというほかありません。この先は、一日も早い復旧に全力を向けてほしいし、足手まといにならない範囲で、老骨だって、いささかの助けにもなれるものかと思案しているのです。列島上空に低気圧や前線が近づいてきそうです。望まない荒天になる恐れもあります。どこにいても、自然災害(に加えて、被害をより大きくする人災も加わるケースがほとんどです)は襲来します。受ける打撃をできる限り軽くすることに注意を集中したい。

 「備えあれば、憂いなし」(No worries if you are preparedm. Now I’m prepared, but I’m worried)ではなく、「備えあっても、憂いあり」です。避けられない災害に遭遇して、なお身の安全を保持するための準備を、そんな当たり前のことを改めて実感する。(右写真は北國新聞・2023/05/06)

 この駄文を書いているのは午前十時頃です。南からの風でしょうか。かなり強く吹いています。本日は庭仕事は中止です。その代わりに、いろいろと片付けなければならない屋内仕事が溜まっています。日常の「明け暮れ」を当たり前に送れることに偶然の重なりを感じています。いくつもの偶然が重なって、ぼくたちは生きています。無数に重なった偶然が生み出しているのが「必然」です。その「必然」はまた、軌跡でもある、その思いをさらに強くしている。

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 御迎ひの雲を待身も桜哉

 寺のシンボル 満開 津和野 【津和野】島根県津和野町後田の古刹(こさつ)・永太院(えいたいいん)のしだれ桜が満開を迎え、多くの桜ファンが撮影に訪れている。/ 桜は樹高10メートル、幹の太さ2・5メートル、枝張り15メートル。明治初期に植えられたが落雷のため上に伸びず、残った4本の枝が横に広がり、しだれ桜のように生育したとされる。/ バイク仲間2人と全国二十数カ所の観光地をツーリング中に立ち寄ったフランス人のフーゴ・ディレッテルさん(25)は「日本の桜はきれいだ。このしだれ桜は素晴らしい」と桜をバックに撮影を楽しんでいた。/ 森山道宣(どうせん)住職(32)は「中世に津和野を治めた吉見家が約500年前に開いた由緒ある寺のシンボル的な桜。多くの人に春の美しさを楽しんでほしい」と話した。(青木和憲)(山陰中央新報デジタル・2023/03/28)

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● こばやし‐いっさ【小林一茶】=江戸後期の俳人。通称、彌太郎。本名、信之。信濃柏原の人。三歳で実母に死別し、八歳以後継母の下に育てられる。一四歳の時、江戸に出る。のち二六庵竹阿(ちくあ)の門に入り、俳諧を学ぶ。全国各地に俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠として安定した地位を得た。しかし、ようやくにして持った家庭生活は妻子に死なれるなど不幸であった。その作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の様式を開いた。著に「おらが春」「父の終焉日記」など。宝暦一三~文政一〇年(一七六三‐一八二七)(精選版日本国語大辞典)

 以下、桜に因む一茶の句です。いずれも「文政句帖」所収。文政5年(1822年)から文政8年(1825年)にかけての句日記。一茶(1763.6.15ー1828.1.5)の六十代の初めのもの。ぼくには、句作当時の一茶の年齡を遥かに超えているにも関わらず、よく受け取りかねるものも数句もあります。思い半ばに過ぐるものもまた、いくつかあります。彼の桜を詠んだ句は、五十や百どころではない。桜は、一茶にとっては「生活」の背景であり、前景でもあった。自らを桜に見立てたり、桜を貶めたりと、一茶の面目がはっきりと伺える句題だったし、それほどに桜は一茶の身近にあった。

 これは、すでにどこかで触れていると記憶していますが、二句目の「日の本の山のかひある桜哉」、ぼくにはよく理解できないものです。ぼくたちが思うほどに、一茶は「日の本」に思い入れを保っていたとは考えられないのですが、この句以上に「大和魂」を詠みこんだものがあるのですから、面倒ですね、「桜花」は。この句と対局にあるのが、三句目でしょう。これはぼくにもよく分かるもの、とにかく、貧富を問わずに桜花、と、そこには、我が意を吐露した一茶がいます。

 津和野の永太院の「しだれ」について、数年前にも写真でしたが、見たことがあります。その時から見れば、随分と樹勢が衰えたように、見た目でもわかる。桜の寿命は、長いのは一千年を越えます。しかし、ぼくたちが「さくら」と慣れ親しんでいるものはほとんどがソメイヨシノで、長くて百年もつか、そんな樹齢ですから、なんとも咲き急ぎというか、急かされているという事情に、ぼくは桜の身に成り代わって、同情するものです。枝羽織る、根っこは踏む、飲めや歌えで、いくら木であっても、毎年一度は、辟易しているに違いない。桜・サクラ・さくら、三日見ぬ間の桜かな。人知れず咲いて散る、その奥ゆかしい山桜がいいですね。想像するだけでも満たされます。

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・人顔は下り闇也はつ桜

日の本の山のかひある桜哉

・吹けばとぶ住居も春は桜哉

・本降りのゆふべとなりし桜哉

・来年はなきものゝやうに桜哉

・御迎ひの雲を待身も桜哉

・桜咲く春の山辺や別の素湯

・何桜かざくら銭の世也けり

・今からは桜一人よ窓の前

・穀つぶし桜の下にくらしけり

・翌あらばあらばと思ふ桜哉

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 「来年はなきものゝやうに桜哉」というのは、桜の見納めを詠んだのだと思えば、溜息が出ます。この二年後に、一茶は身罷(みまか)るのですから。若い頃は、死というのは、ぼくにとっては「モーツアルト」が聴けなくなることと、浮いたことを言っていました。アインシュタインという音楽学者の言だったと思う。受け売りしていたものです。やがて、還暦も過ぎた頃から、「桜が見られなくなる」、それがぼくの「死」への想いになった。これも誰かが早くから言っていそうです。宣長さんの言いそうな「セリフ」ではないでしょうか。たしかにぼくは、桜大好き人間ですが、花見は好まないというより、大嫌いです。まず出かけたことがない。一人か二人で、人のいない、人の知らない山里に入って、偶然に桜木に出会うということを念じていたし、何度かそういう「桜】「花」を楽しんだことがあります。大袈裟に言うなら、花の色はもちろん、桜花の匂いまでが記憶に残っていると言いたいほどに、一瞬の桜花を堪能してきました。ぼくにとって、桜といえば、山中に隠れて咲く「山桜花」ですね。

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 ハル講堂の華の宴、巡る思いに影さして

 先生や学びやに笑顔で別れ 大分県内の多くの小学校で卒業式 

 県内の多くの小学校で22日、卒業式があった。新型コロナウイルス対策が緩和され、マスクを外して式に臨む卒業生も。着脱の判断はまちまちで、笑顔で先生や学びやに別れを告げた。/ 由布市挾間町古野の由布川小(森次晃(ひかる)校長、432人)は65人が門出を迎えた。多くはマスクを着けず、体育館に入場した。/ 森次校長(59)が一人一人に卒業証書を手渡し、「苦しいこともあるだろう。悩んだらいつでも母校に来てほしい」とあいさつ。5年生約70人が「皆さんが守ってきた伝統を受け継ぎます」と述べた。/ 卒業生は「支え合ってきた仲間と羽ばたきます」と声をそろえ、校歌を斉唱。式後に、クラスメートと記念撮影した山田陽喜(はるき)君(12)は「コロナ禍のため、感動する出来事があっても友人と抱き合うことができなかった。小学校最後の行事でマスクを外せて良かった」と話した。/ 同校によると、昨年度の卒業式に比べ、出席できる保護者と在校生の人数は大幅に増やしたという。/ この日は公立小246校のうち、198校が卒業式を開いた。(大分合同新聞・2023/03/23)

 「異様な」、そういうと不謹慎だと詰(なじ)られるでしょう。写真は、大分県内のある小学校卒業式の一コマです。ここだけのものではなく、全国の多くで見られる光景なのかもしれない。「晴れ着」というのかどうか、このような写真を、ぼくは長年見なれていました。もっぱら大学においてです。きっと、お彼岸やお宮参りの日と同様、各地の貸衣装屋さんは大忙しの大盛況ではないか。このところの「コロナ禍」で厳しい状況にあった分、これはこれで大変結構だという気もします。しかし、ぼくがいいたいのは、小学校の卒業式で「華美」を競うのはよくない風潮だなどという無作法なことではない。一張羅、晴れ着の「オメカシ」は、小学生はダメで大学生ならいいというのも、おかしい話だからね。

 羽織であろうが袴であろうが、着たい方はどうぞ、というばかり。「それを言ったらお終いよ」、そんな危険な言葉が喉から出かかっています。悪意を含んではいないつもりですが、ハレの日に水を差すことだけは間違いなしでしょう。だから、ここでは言わない。当て推量でいうのですが、上掲の卒業式会場の写真を観た瞬間、「これは少子化現象の一露出なんだ」ということでした。とするなら、いずれ保育園でも幼稚園でも「スーツにネクタイ」や「羽織・袴」が正装の「右へ倣え」となるのは目に見えています。奇っ怪なといべきう事態が進行している。それにしても入学式や卒業式は、お母さんやお父さんの「晴れ着の日」なんかではないんだがな。

 商売繁盛を求める商人が「獲物を狙い撃ち」するのは何の不思議もない。「将を射んと欲すればまず馬を射よ」とは杜甫の「前出塞」にある詩句だ。その応用編のような戦術・商法が盛んに、この劣島のいたるところから目に入ってくる、現代的「馬を射る」という風情であります。この際、「将」が誰で、「馬」が誰かは言わないことにします。「式」が華やかであり綺羅びやかであることはいいことなんでしょうが、ぼくは、そんな「式」には加わりたくないというだけで、上の写真を出した微意がおわかりいただけるでしょうか。お葬式には「黒」一色の衣装は、誰が決めたんですか。ぼくは着なかったな。

● ハレ(民俗学)はれ= 日本民俗学の基礎概念として、ケ(褻、毛、気)に対比する内容を示す語である。一般にはハレとケは民俗文化を分析する用語として使われている。ケが日常的側面を説明しているのに対して、ハレは非日常的側面を説明する。ハレは晴、公の漢語に置き替えられる例が多い。晴は天候の晴天に通じ、公は公的な儀式に表現されている。したがってハレ着という場合には、普段着ではなく公的な儀式に参加する際に着用する盛装や礼装に当てはまる。人が誕生してから死に至るまでに何度もハレの儀礼に出会う。宮参り、七五三、成年式、結婚式、年祝いなど冠婚葬祭が基本にある。また1年間の行事においても、正月、盆、神祭りなどもハレの機会である。/ ハレは衣食住に顕著に表現されており、ハレ着のほかにも、食事が普段と異なり特別の作り方をする例に示される。神祭りに使われる神撰(しんせん)や、供物を人々が食べ合う直会(なおらい)などの食事、餅(もち)や赤飯、赤い色をつけた食物をカワリモノとしてハレの食物にしている。/ ハレはケを基本にして成り立っている。ケである普段の生活、日常生活が維持できなくなると、それとは別のリズムをもった生活が必要になる。非日常的な側面が強調されるのであり、それは精神が高揚した晴れやかな気分に満ちた時間と空間をさすことになる。私的な部分よりも公的な部分が顕著なのであり、ケに対するハレが公式の儀礼に表現されてくることになる。(ニッポニカ)

● ケ(褻)【け】=冠婚葬祭など公の行事が行われる特別の改まった日をハレ(晴)と呼ぶのに対し,日常,平生もしくは私を意味する言葉。ふだん着を褻衣(けのころも),居間を褻居(けい)という。ハレとケのダイナミズムが日本の民俗文化を大きく規定している。(マイペディア)

 ハレとケというものが保っていた民俗(文化)を破壊することが文明化であり、近代化だったのは、ついこの間のこと(明治維新期)。総掛かりの「旧慣打破」が、いつしか「旧慣墨守」に入れ替わるのを見せつけられると、思い半ばにすぎるものがあります。今どきの「祭り」を見るといい。お神輿は、あろうことか担ぎ手がいないので「軽トラ」に担がせて練り歩くのではなく、練り奔る、こんなむさ苦しい風景がいたるところで見られます。中身のない「模倣」こそが生命線だという「歴史なし」「背景なし」の横行です。

 「卒業式」は、一体何を「模倣」しているのでしょうか。ぼくには恐ろしいほどの「精神の退廃・錯乱」としか見えない。「格」も「式」も「空虚」なままが、いのちなんだなあ、と嘆息する。場末ではなく、世末ですね。軽トラにお神輿なら、卒業式という「軽トラ」に乗るのは「誰」、「なに」ですか。そこには神主もいれば、お巫女さんもいるし、氏子もいれば、元氏子もいる。現下の卒業式は、ある種の神前儀式を装っているのでしょう。模倣の時代は「実体空虚」の時代でもあります。まもなく、その軽トラも自動運転となります。人みな消え、中身もなくなる、なにがありがたいのか、ぼくにはわからない。上辺さえ整っているなら、それでいい、そんな風潮が蔓延しているようですね。妖怪ならぬ、「空虚」が徘徊している時代でもあります。「カネになるなら」殺人強盗、なんでもいいという、荒(すさ)んだ時代相に見合っているのでしょうな。

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 羹に懲りて膾を吹く、そんな「愚か者」になりたいな

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2023-03-01/RQRM6TDWLU6801?srnd=cojp-v2

 故郷復興への願いと原発再稼働の狭間で揺れる-東日本大震災から12年

 「史上最悪レベルの原子力発電所事故が日本を大きく揺るがし、市民の怒りの矛先が原子力に向けられてから間もなく12年になるが、世界的なエネルギー危機が日本に原発再稼働を促している」(以下略)小田翔子(2023年3月1日 12:48 JST)(ヘッダー写真はBBC NEWS JAPAN・2021年4月13日)

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 明日が「フクシマ」十二年目の3.11にあたります。読み応えのある記事が少ない中、ブルームバーグのものに目が止まりました。この問題に関しては多くの人がいろいろな観点から語り継いできました。ここに来て、燃料費高騰の折から、原発再稼働、新増設への展望が開けたかのような、度厚かましい動きが見てとれます。いろいろな観点が必要であるにも関わらず、ひたすら「燃料確保」の経済合理性からという一点に集中しているのは、ぼくには認められない。エネルギーは国内での産出は無理、だからといって輸入に頼るにしても現下の状況は不確定要素が強いのだから、それに頼り切るわけにはいかないという。また環境問題からいっても最良の燃料源は「原発だ」ということにしている。本当にそうかどうか、考える余地がない問題設定で、民意(選択の余地)を束縛しているのだ。かりに、今ある「原発」のかなりの部分を再稼働させるにしても、何年かかるのか。あるいは、新規増設に要する時間は予定すら立たない話だということを、多くの人は忘れている。まして「既存原発六十年超運転」論は論外です。入院中の年月(日数)を実際の年齡の計算外とするという、アホかという理屈だね。

 この十二年、幾多の発電源を確保し、きわめて僅かな原発起源の燃料で、この島社会はやってこれた。それでもなお、原発を、というのは、何よりも「経済的豊かさ」が人間の最高の価値なのだということしたいからだろうか。悪どい「儲け主義」ですね。この島社会(国)は「先進国」である必要はどこにあるのか。「先進国」である理由はどこにもないと、ぼくは考えています。どこよりも「他者」を尊重する社会、それが何よりも尊ばれなければならないと考えるものです。現実の社会は、ぼくのような鈍感な老人にさえ、堕落・退廃していると思わせるほどの荒み方をしています。「原子力明るい未来のエネルギー」という小学生の「標語」を書かせたのは「学校教育」でした。その「アカルイミライ」とは、だれにとって、どんなものだったか、誰もそれを深く考えてみようとしなかったのではないでしょう。

 30年前に標語「原子力 明るい未来の エネルギー」を考案した少年はいま          「明るい未来 じゃなかった」福島の原子力発電所  

  標語を考えた当時は小学6年生だった/ 標語を考えたのは大沼勇治さん(42)。双葉町が1988年3月、子どもたちを含む町民から集めた標語の一つを看板にしたのだ。当時は小学6年生だった。/ 震災前にSNSの先駆けだったミクシィを通じて、現在の妻(42)と知り合い、2010年3月に結婚した。結婚後1年で原発事故が起きた。妊娠7ヶ月で、長男(6)がお腹にいた。そのこともあり、2日後には、妻の実家のある会津地方に避難した。現在、茨城県古河市に住んでいる。(以下略)(https://bunshun.jp/articles/-/6535)(文春オンライン)

(左写真は大沼さん一家)(日本経済新聞・2021年3月11日 18:28)たくさんの人々の運命を否応なく、強制的に変えさせた「原発事故」。復興が叫ばれるのは、それだけ、復興からは程遠い現状であるということの証明でもあるでしょう。事故発生当時、二度と原発事故はゴメンだと、一部の亡者を除いて、ほとんどの人が直感(直観)したはずです。たとえ不便でも、生きていることが大切だし、それが大切だと思える生活を送りたい、と。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」という。あるいは「喉元すぎれば熱さを忘れる」ともいう。どちらも、人間は愚かであるということ、その愚かさは度し難いということを言っているようにも、ぼくには読める。一瞬の直感(直観)が、人の生き方を決めることはいくらもあります。その直感を忘れるのもまた、人間の愚かさでもある。人間の歴史は、十中八九は「愚かさの歴史」であるとも言えそうです。(下の写真は「標語が優秀賞となり表彰される小学6年生(当時)の大沼さん(右から2人目)」(日本経済新聞・同上)

 一つの状況を強いられていながら、そこから抜け出すには、多くの選択肢がない。時には「キムは愚図であり、愚か者だ」と言われることもある。どうしても同じ「愚か者」であるほかないなら、ぼくは「膾を吹く」愚かさを選びます。ことによれば、石橋を叩いても渡らないという俚諺を実践したいとも思う。もちろん、それは問題の性質によるのはいうまでもない。原発(原子力)使用の悲惨さ・無惨さを、死を以て、文字通り、身命を賭して示した人々がどれほどいたか。ぼくたちは、現状を唯唯諾諾と追認するだけなら、その人々の「死」を蔑(ないがし)ろにすることになるのだ、死者の躯(むくろ)を足蹴にして生きてる、それでいいのかと問われている。その要の姿勢が取れるかどうか、その問いかけを肝に銘じたい。そのための「3.11」だ。

(上写真:新しい双葉町役場庁舎(右奥)の近くで傾いた住宅)(東京新聞・2022年8月31日 06時00分)明るい未来を原子力という破壊的・破滅的エネルギーに託してから三十五年後の双葉町の「復興」状況です。現在、同地区に居住する住民は約60人。事故発生当時の7100人の1%にも及ばない。これが「復興」の実態です。住民不在の公共事業だけが盛り上がっている。「政治」の不実、不謹慎のなせる所業だというほかありません。本当に「復興する」「復興した」とは、一体どういう事をいうのでしょうか。「復興」と言えばいいのではないでしょう。「復興」とは「荒廃」「廃墟」の別名であったと、ある場合には言わなければならないのではないですか。それをあえて可能・現実にしてしまうのが「政治」という暴力です。

● 羹に…=「楚辞」九章から》羹(熱い吸い物)を飲んでやけどをしたのにこりて、冷たいなますも吹いてさますという意。前の失敗にこりて必要以上の用心をすることのたとえ。(デジタル大辞泉)

● 喉元…=熱いものも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまう。転じて、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。また、苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまう。(デジタル大辞泉)

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