「同調強制」は新型コロナの政治力学ですか

 もう半世紀以上も前に勤め人をしだしたとき、勤め先の学校が「ロックアウト」という事態に陥りました。その前に学生たち(全部が在学生だったかどうかは疑わしいが)がバリケードを築いて、「検問」なるものをやりだした挙句の当局の処置(措置)でした。職員は出入りの際には「身分証明書」を提示しなければならなくなった。ぼくはその当時も「身分証明書」なるものを携帯していなかったので、いつでも「検問」に引っ掛かり、その都度、「面通し(顔認証)」を事務職員にしてもらい、仮入構証を発行してもらっていた。(ある時には、フェンスをよじ登って入ろうとして、ガードマンに捕まったこともあった)大変に煩わしかったが、しばらくはそれを通していた。(名刺を持つ習慣にはついになじまなかった)「それが当たり前」であることが通用しなくなるのが気に入らないし、ある時、一方的に、こうするんだと法律や当局の決定でなされることにも大いに含むところがありました。その思いは、今だって少しも変わっていません。

 新型コロナがこの島ではやりだしたころはまだでしたが、やがてそれが感染力の大変に強いウィルスによるとかなんとか言われだしてから、島全体が一気呵成に「規制劣島」「同調群島」になりました。まるで「驚天動地」という大騒ぎになった。まずは「アルコール消毒」の強制的実施、加えてマスクの着用の「義務化」でした。それ以前はもちろん、感染が起こりだしても、ぼくはかみさんと何時だって頻繁に食事などに出かけることにしていた。週一、二度の「蕎麦屋」や、あるいは「スパゲッティ屋」さん通いは楽しみの一つでした。酒はやめていましたが、近間の「寿司屋」にも頻繁に出かけていた。そこは房総の天津小湊出身のマスターが経営していて、何時だって新鮮なネタがうまかった。

 ところが、さらに時間が経つにつれて、「マスク着用」と、店頭に張り紙が出され、テーブルにはアクリル板が立てられだした。ほとんどはかみさんといっしょでしたから、まるで「孤食」を強いるような「姑息」な塩梅には抵抗感が強くなり、仕方なしにそれらの店に行くのを止めてしまった。「食事中以外はマスクをしてください」などと店員に言われ、食べたものを吐き出し、「なんでや」と言いたくなったのですが、ぼくのモットーの一つは、何業であれ「営業妨害」は断じてしないということでしたから、それでは行くのを止めればいいだけと、以来、もう二年以上は「寿司屋」も「イタリアン」も「蕎麦屋」などにもまったくいかなくなった。外食はしなくなったのです。店の問題というよりは「保健所の指導」がうるさいということでしたから、なおさら、行政や政治は何を考えているかという、ある種の怒りが蓄積されてきました。 

 さらに時を経て「ワクチン接種」の大号令です。役所からも「接種券」なるものが届いたが、ぼくたちは関心を示さないままに、今に至るまで「接種」はしていません。それなりの理由はあっての、ぼく個人の判断です。さすがに食料品を仕入れに行くにはマスクなしでは入店は不可能なので、否応なしに着けますが、それ以外は「当たり前の生活」を続けているのです。もちろん現下の状況がわからないわけではないが、あまりにも素っ頓狂な方策が強制されるような事態だけは拒否したいのです。マスク、ワクチン、検査などなど、それを一つでも欠かすと、日常生活に支障をきたすような、短兵急な「同調過多」「過同調」に、いまだに大いなる抵抗を覚えている。娘たちの接種しなままでいます。

 ①マスクをしたい人はどうぞ! ②ワクチン接種もやりたい方はぜひ! ③「抗体検査」「抗原検査」も自らのご判断で、どうぞ! ④アクリル板はいらないと思う人には強制しないでほしいなどなど

 「新型コロナ」は、当たり前の生活を中断するような「感染症」なのかどうか、ぼくはいまだに疑っているのです。例年「インフルエンザ」に罹患し、亡くなる方々が二~三千名を数えていました。すべてが「感染」で亡くなったかどうかは定かではありません。(今回もそうで、死亡と感染やワクチン接種の因果関係を明らかにしていないのが、関係当局です)ぼくの基本の立場は「死亡」は統計(数)ではないということです。だから死亡者の多寡が問題になることはあっても、それを材料に「検証なしの理屈」を垂れないでほしいと何時だって願っているのです。「ワクチン」を接種したから感染しなかったのか、「接種」したのに感染もしたが、亡くならなかったのは「ワクチン」のおかげかどうか。死亡したのは「接種」したkらだったか、そんなことは役所も誰も「口を拭っている」のだ。もっと初歩的に言うなら、連日の劣島の感染者数が報道されますが、それを一度として実証的に、検証した機関がないのも不思議というものでしょう。最近では「検査数」から推し量ると、感染率が五十パーセントなどと肝をつぶすようなデータが、さりげなく、当然の如くに流されています。ぼくは最初から、政府や官庁の、多くの「統計」「数値」には「まゆつば」でしたが、それをさも真実であるかのごとくに報道する「ゴミ報道」には涙も出ない。

(総務省:新型コロナウイルス感染症陽性者数(2021年5月23日時点))

 そのような恣意的なデータいじりから打ち出される「政策」や「対策」にどれほどの信ぴょう性があるのか、これもどこかの団体や組織が調べましたという報告がありません。官民挙げて、とにかく「新型コロナ」は千載一遇の好機と、まるで商売や儲け話のように、なりふり構わずにごり押し政策・方針を打ち出し続けてきました。この間、コロナ対策と称して、いったい何兆円の税金が予算化され、その何割が「闇に消えた」のか、これもまるで雲をつかむような話です。国家がやることは「国民の安心安全」を守ることなどではなかったことに、目が覚めないかな。そんな「人民愚弄政治」を支持するという、その愚弄されてきた「人民」はそもそも、政治や政治家に何を願っているのかしら。

 例によって、この「駄文」に結論はない。マスクをするべきだと思う人はすればいい。だからと言って、しない人・したくない人を「危険視」も「異物視」もしてほしくないし、してはいけないと思う。なぜしたくないか、理由があるはずです、問題はそこから始まるんだ。ワクチン接種も、その判断はご当人に委ねるべきで、それは例年のインフルエンザ(流行性感冒)に処するのとまったく変わりない。ワクチン接種の有無で、決定的に分断される何かが、この社会にあるんですか。「黒人VS白人」というのは、アメリカ全体ではないにもかかわらず、その社会の大きな歴史的・人権的問題になり続けています。あるいは、瞬間的ではあれ、ワクチン「接種派VS非接種派」という色分けを政府や行政がやりたがっているのでしょうか。これまでに費やされた特定企業への「ワクチン」資金は膨大なものになります。薬品記者は史上最高の売り上げを誇っている。特定の企業に、これだけの金額が動くというのは、まるで「軍需産業」への莫大な軍事費納入と似ていないかどうか。(ワクチン接種証明書」なるものが言い出され、図らずも半世紀前の「身分証明書」不携帯を思い出しました、詰まらん話やね)

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 「右に習え」と、いたるところで号令が掛けられています。おのれの一声で、全員が操作できたら「さぞ気持ちがよかろう」というのでしょうか。このなれの果てが、「独裁主義」ですね。でも、この「号令に」に背く人間は必ずいます。ぼくは小学校時代から「右へ!」と命じられたら、「左」に向きました。その都度こっぴどく叱られた。教師は「命令を聞かない子どもを懲らしめる人種」だと悟りました。「今日から、このように決まりました」と、自分も参加したところで決められるならまだしも、一片の紙切れで「ああしろ」「こうするな」と言われれば、一家言も一家行も持ち出したくなります。「なんでや」「その理由は?」と、ぼくはいつだって質問していた人間です。もちろん、自らの誤解や受け止めそこないによる間違いはある、だから、それに気が付けば直せばいいのです。問題は「有無を言わさず」「みんながそうだから」という、全体主義を騙(かた)る態度です。それは無条件では認められませんでした。付和雷同の強制、群集心理の悪用ですね。

 この二年半、世界全体が「大騒ぎ」しました。それだけの根拠があったからだと思う反面、事態を少し冷静に判断する余裕があれば、もっと違った社会の一面が見いだせたような気もします。まだまだ混乱は続くでしょうが、なにも「新型コロナ」だけではなく、いろいろな問題で、はしなくも、多くの人間たちの「無定見」「無思慮」が白日の下に晒(さら)されることになるのではないですか。用意できるだけの「データ」というか「材料」を持ち寄り、それを間に置いて、互いに話し合いができないことの不幸は、その問題を超えて生じつづけるのです。なんだって、眼前の問題を解くのは、次の課題への準備でもあり、不幸を防ぐための不可欠な作業です。どんな人も、一人で生きてはいないし、生きてはいけないということの理由や背景を、さらに深めて知る必要がありそうです。「マスクをしなさい」「ワクチンを接種しなさい」といわれたから、「はい、そうします」という「愚図」は嫌だな。これを「唯々諾々」というらしい。

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 外科医が食堂の同僚たちのところにやってきて、溜息をついた。「ちょうどいいときに手術をした!もう一時間おそかったら、患者は手術しなくても助かるところだった!」(多くの専門職業人は、この外科医と同類じゃないかな。何を考えて「医者」「専門家」をしているんだか。なんとも恐いねえ!)

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 「核兵器」を弄ぶのは、狂気の沙汰だ

【水や空】締約国会議閉幕 ウィーンには日本の大使もいるんだから、今からでも来ればいいのよ-。会議の様子を伝えるテレビの画面が外国人女性のこんな言葉を伝えていた。“唯一の戦争被爆国”の政府に対する世界の「?」をそのまま物語っている気がした▲ウィーンで開かれた核兵器禁止条約の第1回締約国会議が閉幕した。日本政府はこの会議に背を向けたままだ。〈会議の前日に広島出身の大学生が現地で直談判しても、日本政府はかたくなに拒否した〉と、現地発のリポートにあった▲広島・長崎の市長が被爆地の声を発信した。被爆者たちは核の恐怖を証言し、核なき世界への願いを切々と訴えた。日本の若い世代も決意を語った。それらが印象的であればあるほど際立つ日本政府の不在▲オブザーバー参加した非加盟国の発言が興味深い。「条約には加盟できないが、核なき世界の実現という目標は完全に共有する」と述べたのはドイツの担当者。ノルウェーは「すべての国と建設的な対話を模索する」▲リポートはこう伝えている。〈…考え方やアプローチに違いがあっても、オブザーバー参加各国のスピーチにも変わらぬ拍手が送られた〉。さぞ歯がゆい思いでキーボードをたたいたに違いない▲日本はこの先も橋渡し役を自称していられるだろうか。77回目の夏が来る。(智)(長崎新聞・2022/06/25)

(左写真は西日本新聞・2022/06/25)

 この主題については先日も触れました。屁理屈をこねてはいたが、初めから日本政府は不参加を決め込んでいた。アメリカからの差し金であり、アメリカへの忖度です。「戦争による唯一の被爆国」を「常套句」「接頭辞」として、言い続け、使いまわしし続けてきた政府がだんまりを決め込んだのでした。言うに事欠いて「核保有国と非保有国の橋渡し」に徹したいと、ぬけぬけといい抜けてもきた。核兵器禁止への方向に「異論」のあろうはずがないと言いたところですが、世界はそんな段階にまで、賢明な階段を昇りきってはいない。国連の常任理事国はすべて核保有国であり(このこと自体が、国連のまやかし性を明示しています)、それぞれが後押しをして、何時しか核保有国はすでに十か国に増加しています。(「世界の核兵器保有数」:https://hiroshimaforpeace.com/nuclearweapon2021/)この先、どこまで核開発に走る国が増え続けるのでしょうか。核を保有すれば、それを使いたくなる、使うチャンスをうかがっている国々も後を絶たない。ロシアは言うに及ばず、北朝鮮しかり、インドやパキスタンだって、何時だってその準備に怠りがない。イスラエルもイランもと数あげれば、やがて、核開発どころか、核保有国同士の軋轢がにっちもさっちもいかないところにいきついてしまうでしょう。

 今回の締約国会議には多くの条約未承認国の人々や国の機関がオブザーバー参加しました。また個人の資格等で大勢の「市民」が参加し、大いに議論を重ねていました。ぼくにはいくつかの疑問が「核保有」にかかわる問題についてあります。確かに核開発や核保有は「国の専権事項」なのかもしれません。当たり前のように、それを認めてしまっています。しかし、開発や保有の判断は政府の一存で決めていいはずはないし、そこに国民の参加する道が閉ざされているのはなんとも解せないのです。核兵器を使用し、戦争を始めるのは「国家(権力)」です。国民の意向など一切無視して戦争を始める、その戦争に否応なしに国民は参加を強いられる。兵士として、あるいは銃後の守りとして、その他有形無形の「戦争協力」を強制されるのです。そして、犠牲になるのは、そんな人民であることには間違いない。権力者は戦地に赴きもしなけれな、戦時中にも拘わらず、普段通りの「ノー天気」ですごしているのだ。ロシアとウクライナの現下の「戦争」が如実にそれを示している。「戦争は相撲で勝負を決める」あるいは「あみだ」だと、ぼくは言い続けている。その程度の値打ちもないのですから。国境は、一日も早く消えてほしいし、消すための方法も考えている。(上の図は中日新聞・2022/06/19)

 今回の国際会議では日本からも多くの市民が参加していました。それぞれの目的や役割があったことでしょう。これまでのように「核問題」は国家・政府の専権ではなく(これまでも専権事項ではなかったと思うが、それを無視してきたのが政府です)、国民(人民)がそれぞれの判断で決めるべき事柄ではないでしょうか。まずは地域レベルから、核保有に対する意見を表明すべきだし、最終的には国民の「投票」などによって意思決定すべきでしょう。その意味では、今回の会議には多くの課題も残されましたが、核開発問題に関して、一人一人の人民がいかなる役割を果たすべきか、その方向性が明らかにされたとも思われるのです。(下の図は毎日新聞・2018/08/06)

 中国が初めて核実験をした時、時の一政党は「核(原爆)には美しい核(原爆」もある」と、狂気の談話を宣わった。その政党は、戦後は保革の一翼を担ったこともありましたが、現在は絶滅寸前の状況にあります。(絶滅種に急接近)(「原子力の平和利用」と言い出したのアメリカであり、オウム返しにこの島国も使いだしました。いまでは「核の平和利用」とマジで考えている国々があるのです。冗談じゃないぞ)

 自らの政治的な都合で「核」を云々するというのは許せないし、いまどき「核保有」とは言わず、「核共有(シェア)」と、寝言を、目を明けて言っている元ソーリがいる。恥ずかしい段階を通り越して、一日も早く消えてほしいと、ぼくはひたすら願う、そんな存在だ。その昔、山形有朋が死去したとき、経済ジャーナリストの石橋湛山は「死もまた、社会奉仕」というような意味のことを雑誌に書いた。亡くなるのが少し遅すぎたとも書いていた。今だって、早く「社会奉仕」を果たしてほしいと切望している「セージカ」が、ぼくにとっては、まだまだいます。ただいま参議院議員選挙中です。選挙の時だけでも賢くなることはできないものかと、現下の政治・経済状況を見ながら、「ないものねだり」をしているのです。(ヘッダーの写真は「オカトラノオ(岡の虎の尾の意)」です。散歩道には、今を盛りに咲いています)

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 沖縄無残!(こわいをしって、へいわがわかった)

 【北斗星】日中戦争から無事復員した六郷町(現美郷町)の藤原源也さんは1944年8月、妻と5人の幼い子どもを残して再び出征した。沖縄本島南部の激戦地に送られ、45年6月に戦死。享年35▼長女の籠谷ミチさん(87)は今でも時折、相撲が得意だった父の大きな手や笑顔を思い出す。47年夏、戦死の報が届いた。骨箱に入っていたのは名前の記された紙切れ1枚だけ。遺骨は沖縄の地に眠ったままだ▼一家の大黒柱を失い、ミチさんは高校進学を諦め母と家族を支えた。父が存命なら違う人生を歩んでいただろうと思ったことも数え切れない▼沖縄が戦後の米軍統治を脱し、日本に復帰して50年。全国世論調査によると、沖縄の印象について60代以上の4割が「多くの人が悲惨な体験をした戦地」と回答。20~50代は「海などの自然を楽しむ観光地」が首位だった。苛烈な地上戦の風化を痛感する▼米軍普天間飛行場の辺野古移設で、沖縄本島南部の土砂を埋め立てに使う計画がある。沖縄戦の遺骨収集を続ける那覇市の市民団体代表、具志堅隆松さん(68)は土砂に遺骨がまざる恐れがあるとして、全国の市町村議会に土砂使用断念を政府に働きかけるよう求める文書を送った。「人道上の問題として全国の人に考えてほしい」と訴える▼沖縄戦では日米双方で計20万人超が死亡。沖縄本島や周辺で亡くなった本県戦没者は藤原さんら計485人。沖縄の米軍基地問題を「わがこと」として考える出発点になるかもしれない。(秋田魁新報・2022年5月18日 )

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 昨日は「沖縄慰霊の日」、この日は、毎年のようにぼくは「常軌を逸する」めぐりあわせの時間にめぐまれたかのように生きてきました。昨日も、終日、海勢頭豊さん作曲・作詞の「月桃」を聴き、ひたすら「慰霊」の意味を考えていた。本日は、まだ「常軌」に戻り切れていないようです。ぼくは何事によらず、「儀式」に参加することはおろか、それを見るのさえも死ぬほど嫌で、その中でも、式典の中での「心ない挨拶」や「空言・虚言の羅列」を耳にするだけでも気が狂いそうになるのです。昨日も、空しく響く「ソーリ」の、心ここにあらずの「セリフ」をネットで聞きかけて反吐が出そうになりました。その時、平和祈念公園では「ソーリ、帰れ!」のコールが起こったとありました。人間ではなくポストが語る「言葉」がどんなに非情で無慈悲(人間が顔を出さない)か、それを語っている「ソーリ」が一番に知っているでしょう。(ヘッダー写真は琉球新報・2022/06/23)(下写真は沖縄タイムス・2022/06023)(ガマの奥に誰がいるのですか?)

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 数年前の「原爆記念日」に「挨拶」した(ソーリを名乗っていた)男が、「文章を読み飛ばした」ことがあったが、当のご本人が、それにはまったく気が付かなかった。何が書いてあり、何を読んでいるのか、まったく無関心で、低能ロボットが読んでいたのですね。その「恥知らぬ(無知の)所業」を隠す(尻ぬぐいする)ために、あの手この手の「捏造」つくりに躍起になっていたのが、取り巻きをはじめ、近くにいる官僚群だった。そこにはマスコミだって加担していた。また少し前のソーリなるものが、広島と長崎の「記念日」に同じような文章を読んでいたことがあった。もちろん、これさえ自分で書くのではなく、ゴーストライターなる存在が書くのだが。ことほどさように、問題になるのが「戦死」であれ、「被爆死」であれ、そんなことにはいささかの興味も眼中にない連中だから、嘘八百の「挨拶」を読み過ごす(飛ばす)ことができるのだし、それができなければ、「ポスト」には就けないのだ。政治家がどんな種類の人間か、これだけでわかろうというものです。「自分は偉い」という自己誤認だけに生きている存在かもしれぬ。

 まるで、「錦の御旗」のように「戦争による唯一の被爆国」を繰り返し売り物にしているにもかかわらず、「核兵器禁止条約」には見向きもしない国なんです。理屈はいろいろというけれど、要するに「核」は、その中でもアメリカの核は、世界の現状を維持するには必要不可欠であるとみなしているからこそ、屁理屈をつけて、「条約」に参加しないことにしているだけ。「核保有」国と「核非保有」国の間を取り持つのだと、笑わせるじゃないですか。こんな嘘っぱち一つだって、これが自己の判断や決断かどうか、決してそうではないところに「属国」の賤しさと悲しさが共存している。ぼくはその「属国」の一人の国民であることを隠さない。のうのうと「原爆被爆」の非人間性を、「被爆唯一の国のソーリ」として訴えることができるという、これは政治家の珍芸当ではないですか。そんな「国」をどこのだれが信頼し、尊重するのでしょうか。いつだって「核の傘」に身を寄せ・しがみつきながらながら、「核」の不当性を訴えるなんて、「天に唾する」類でしょ。「攻撃能力」「核の共有」と(言辞を弄び)時代を無視し、隣国に石を投げるような「挑戦的言葉」を言い募っている輩が蝟集しては気勢を上げている、何とも笑えない構図です。こんな徒党を、選挙のたびに選ぶというのは、何の因果なんですか、と我ながら、己もその一人の、劣島住民に「問いたい」な。

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(以下は昨日の新聞記事より)
 沖縄は23日、「慰霊の日」を迎えた。「沖縄全戦没者追悼式」が糸満市の平和祈念公園で営まれ、沖縄市立山内小2年の徳元穂菜さん(7)が「平和の詩」を朗読した。(以下略)(毎日新聞・毎日新聞 2022/6/23 11:00)(下写真は同記事より:沖縄全戦没者追悼式で「平和の詩」を朗読する沖縄市立山内小2年の徳元穂菜さん=沖縄県糸満市の平和祈念公園で2022年6月23日午後0時33分、喜屋武真之介撮影)

平和の詩「こわいをしって、へいわがわかった」
 沖縄市立山内小学校2年
 徳元 穂菜(ほのな)

びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな
こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん
風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった
おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ
たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている
こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?
きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな
おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな
せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった

(下左写真は毎日新聞・2022/06/23)(その右写真:FNNプライムオンライン)(その右写真は核兵器禁止条約の第1回締約国会議=ウィーンで2022年6月21日、隅俊之撮影:毎日新聞)(その右写真:NHKニュースより)など

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 「こわいをしって、へいわがわかった」と語る穂菜さん。はたして「怖いを知って」いる大人たちはどれだけいるのか、また「怖いを知って、平和がわかった」大人たち(人間たち)がどれだけいるのか。「慰霊の日」、家族や親戚、あるいは友人知人と、さらには、たった一人で「ガマ」で悼む心を解くほぐしている人たちがいます。カメラや記事には乗る気遣いのハイ無数の人々の側に「慰霊の心」が込められているのでしょう。ここにこそ「慰霊の日」の真実があるような思いが深くなるばかりです。二日続けて「常軌を逸し」でいる人間がここにいる。

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 ひもじさを避けたいなら、言う通りにせよ

 【斜面】食料の因果は巡る 「大豆ショック」との記事を1973(昭和48)年6月の本紙が報じている。世界一の生産を誇る米国が禁輸を断行。75%を米国から輸入している日本は深刻な影響を受け、豆腐など日本人に欠かせない大豆食品が途絶えかねない、と◆凶作に苦しんでいたソ連が米国産大豆の買い付けを始めたのが発端だ。米国内の大豆が不足して価格も急騰。飼料に必要な畜産農家が批判の声を上げていた。当時ウォーターゲート事件で追及されていたニクソン政権の人気取りの自国優先策でもあった◆大豆ショックの衝撃は余程強かったのだろう。田中角栄政権は輸入先の分散を計る。ブラジルと協力し、広大な半乾燥地帯を開拓して大豆を生産する事業に取り組んだ。ブラジルはその後、米国を脅かすほどに成長。今や中国にも頼りにされる世界有数の巨大生産国に上り詰めた◆ソ連時代に受けた仕打ちへの意趣返しなのか。食料を武器にしたロシアの振る舞いが目に余る。ウクライナの小麦の輸出を阻んでいる。国際価格の高騰は思惑通りか。自国産の輸出で莫大な利益を得ているはずだ。アフリカや中東の人々の飢餓を尻目に◆国連事務次長の中満(なかみつ)泉さんが本紙「多思彩々」で書いていた。食料難はさらなる不安定要因となり、紛争の火種になるだろう。これほど世界が崖っぷちにあるように感じたことはなかった、と。やせ衰えて尽きる命を救うため食料を武器にした争いを止めなければ人類は谷底に落ちていく。(信濃毎日新聞・2022/06/14)

「ひもじ(い)」という言葉が浮かんできました。今だって、多くの人々が「ひもじ(い)」思いをしているでしょう。これはほんの趣味の問題のようですから、ぼくだけの判断で、何人もそうすべきであるという気もありません。動物を「躾(しつ)ける」「訓練する」のに「食餌」を使うということがぼくにはできない。人間が思うとおりの「芸当」「しつけ」ができたら、好物を与えるというやり方、それは人間の「養育」「教育」にも盛んに利用されてきました。いわば「飴と無知」とでもいうような、実に嫌味の訓練法ではないですか。雨と無知に動かされなkレば、「しつけ」は成功しないというのは、逆にえば、人間の動物化そのものだともいえます。

 「ひもじい」という語が「ひ‐だる・い【饑い】[形][文]ひだる・し[ク]空腹である。ひもじい」に由来し、その「ひ」に「文字」が付いたとの説明が辞書にはありました。「ひ文字」と。(デジタル大辞泉)「饑える(うえる)」「饑い(ひだるい)」には「水飢饉・水饑饉(みずききん)」などという語が当てられています。漢字の詮索や表記法はどうでもいいことで、要するに、人であれ、動物であれ、それを「餌」にして「支配する」という行為は、ぼくにはけっして認められない方法だというのです。「ひもじさ」から抜け出したければ、俺の言うとおりにしろ、そうすれば「小麦」は少しは譲ってもいい、そんな理不尽・不当な人間の扱いが、戦時であれ、平時であれ、まかり通っていること自体、ぼくには許しがたいことに思われるのです。ひもじさも「分け合う」という精神がなければ、人間の付き合いとしてはまっとうではないというべきでしょう。

 今も言われるようですが「食料安保」という立場、それがそもそもの間違いでしょう。食べ物を弄んでいるからです。「武士は食わねど高楊枝」という表現がありましたが、それは「やせ我慢」であり、理の通らないことには筋を通すということでもあるでしょう。それはあくまでも個人の問題、態度です。食事を摂る摂らないの問題ではないですよ。国連の「難民」に関する資料を見ていると、いたるところに「食料安保」の防衛線が張られているし、年に何百万が餓死しても、当面は自らの政治経済面に痛痒を与えないから、言われる「フードロス」も、豊かさの反映なんだという安直な姿勢が、この島社会でも何時だって顔をのぞかせています。「国連事務次長の中満(なかみつ)泉さんが本紙『多思彩々』で書いていた。食料難はさらなる不安定要因となり、紛争の火種になるだろう。これほど世界が崖っぷちにあるように感じたことはなかった、と。やせ衰えて尽きる命を救うため食料を武器にした争いを止めなければ人類は谷底に落ちていく」と、やはりここでも記者さんは「常識」通りの穏当な「見識」を書いておられる。ぼくに言わせれば、とっくの昔に「人類(のいくばくか)は谷底に落ちて」いるのです。

  ある特定の国が、どんなに破天荒なふるまいをしようが、道義に照らしてすべての国がそれを受け入れないかというとそうではありません。誰がどう考えてもその行為は許せないという「侵略」「核武装」などを強行しても、それを支持する国々が現れるのですから、始末に負えないんですね。具体的な国名を挙げるならいくらでも紹介できます。そんな「出鱈目」をほしいままにしている国々を支持し、支援するというのは、はっきりした背景や理由があるからです。一言で要約するなら「覇権競争」です。世界の政治や経済は、決して「道徳」「理性」「友情」などという軟(やわ)なもので動いているのではありません。「勝てば官軍」という言い草がこの島以外にもあるでしょうが、勝ってしまえば、すべては許され、帳消しにされるということでしょう。今現在「ウクライナ侵略」を進めているロシアに対して、それなりの筋の帰還や団体が「戦争犯罪」を数え上げ、人道上の罪を糾弾してはいます。でも、はたしてそれをかの国や権力者に容認させられるかどうか。とにかく勝つんだ、それで終わり、言う。

 「If you win, the government army, if you lose, the thief army」という言い方が合っているかどうかわからないが、いかにもそのような気がしますが、勝てばいいだろうという、その態度には、驚くべき頽廃と根本からの腐敗が進行しています。現下のロシアが「万難を排して」「あらゆる手段を駆使して」、ウクライナを壊滅させようとする。そうすれば、それは「官軍」であり、どこからも文句が付けられないというのでしょうか。「勝者が敗者を裁く」という「戦争裁判」には大きな錯誤があります。それは断じて認められない方法です。(この部分に関しては、進行中の「侵略戦争」の帰趨が見えてきたところで再論したい)

 IIIIIIIIIIIIIII

 今回は、ここまでで終わりにする予定でしたが、大豆や小麦の危機がこの島にも及んでいるという記事(コラム)を紹介したくなりました。「豆腐」は貴重な食材ですが、豆腐らしい豆腐という、あたりまえのことをいうのですが、そんな大豆商品も簡単には手に入れることは困難になる気配です。何でもない食品ですが、その多くが他国からの輸入に頼っている現状は、いずれ「食糧危機」は避けられないという、島社会の未来を暗くします。「自給自足」などより、輸入に頼る方が経済的にも遥かにコストもかからないとでもいうのでしょうか。この小さな島国が多くの商品の製造拠点を、国内から海外に移してきたのは事実ですが、その結果、いったん出先地域で事が起こるとどうなるか、これまで何度も経験してきたことですが、「羹(あつもの)に凝りて、膾(なます)を吹く」という珍芸を今もまた続けていきそうな気配ではあります。腰を据えて「国内生産」という構えが取れないのでしょうか。

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 【雷鳴抄】まちの豆腐屋 栄養成分が豊富で価格も手頃な食材の一つに豆腐がある。季節に合った味わい方を楽しめ、夏場は冷ややっこもいい▼総務省の家計調査によると、豆腐の月別支出額は例年7、8月が最も多く、鍋物や湯豆腐に欠かせない冬季を上回る。暑い盛りにさっぱりとした食感などが好まれるようだ▼家計調査は本県の「豆腐好き」もうかがわせる。直近の品目別都道府県庁所在市ランキングで、宇都宮市の年間平均購入量は93.36丁で全国6位と上位だ。しかし、豆腐製造を巡る県内の現状は厳しい▼県と同市によると、本県の豆腐製造業者は2002年の277軒から21年は102軒と20年間で6割強減った。多くは小売りも兼ねた個人営業の「まちの豆腐屋」とみられ、高齢化や後継者難、大手メーカーとの価格競争などが要因とされる▼「全国豆腐連合会」(東京)によると、豆腐屋の減少は全国的な傾向といい、連合会も品質向上に向けた品評会の主催や新規開業のサポートに乗り出している▼スーパーなどの食品売り場では木綿や絹ごし、寄せ豆腐などのパック詰めが所狭しと並ぶ。消費者も価格やサイズで選べることができ、手にしやすいだろう。でも、地元の豆腐屋が手作りしたこだわりの一品が食卓に並ぶ日があってもいい。地域に根ざした和食文化の担い手は地域で支えたい。(下野新聞・2022/05/26)

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 個人を崇拝しすぎると、自由は失われるんだ

 【小社会】ムーミンと独裁者 世界中で愛されるムーミンの物語に抱く印象は平和や多様性、寛容さだろうか。ただ、やや意外なことに作者の故トーベ・ヤンソンさんは、第2次大戦中の風刺画で頭角を現している。◆スウェーデン語系フィンランド人による政治風刺雑誌で恐れのないペンを披露した。いくつかの評伝本には旧ソ連のスターリンをやゆし、検閲に引っ掛かった表紙の下絵が見える。◆撤退するナチス・ドイツ軍の略奪行為を描いた表紙は、兵士たちの顔が全てヒトラーだ。もちろん、風刺画には戦争への深い憎悪と平和への愛がある。後に「あの仕事で一番楽しかったのは、ヒトラーやスターリンをこてんぱんにこきおろせたことね」と語っている。◆ムーミンの作品化は1945年から。自由と孤独を愛する旅人スナフキンのファンも多いだろう。彼にこんな名言がある。「あんまり誰かを崇拝すると、本物の自由は得られないんだぜ」。時節柄、今また世界を振り回している専制主義的な国を連想しないでもない。◆北欧2カ国が北大西洋条約機構(NATO)に加盟を申請した。ウクライナを第2次大戦下に引き戻したかのような、ロシア軍による蛮行の帰結といえる。NATOの拡大に反発するプーチン政権に対し、フィンランド大統領が言う「鏡を見ろ」は的を射ていよう。◆戦禍はまもなく3カ月になる。ヤンソンさんならば、この混乱した世界や「独裁者」をどう風刺するだろう。(高知新聞・2022/05/23)

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● ヤンソン(やんそん)(Tove Jansson)(1914―2001)=フィンランドの女性画家、児童文学作家。スウェーデン系の出で、作品もスウェーデン語で書く。スウェーデンやフランスで絵画を学ぶかたわら、1930年代より政治誌『ガルム』に表紙絵を寄稿する。その後、表紙絵に自らのサインのかわりに描いていたムーミントロールを主人公にした『小さなトロールと大洪水』(1945)を著して挿絵画家および作家としてデビュー。以後、『ムーミン谷の彗星(すいせい)』(1947)をはじめ、幻想的な「ムーミン物語」を8冊発表。70年に発表した『ムーミン谷の11月』が、シリーズ最後の作品となった。フィンランドの海辺を舞台に、孤独、愛情、理解、慰めをやさしく語り、広く世界に真価を認められる。フィンランドのルドルフ・コイブ賞、スウェーデンのニールス・ホルゲルソン賞とエルサ・ベスコフ賞を、66年には国際アンデルセン賞を受賞。ムーミン・シリーズは30以上の言語に翻訳され、日本では発行部数1000万部を超えたといわれた。また、69年以来三度テレビアニメ化され、90~91年のアニメは本国フィンランドでもブームを巻き起こしたという。ほかに絵本『それからどうなるの?』(1952)、少女小説『ソフィアの夏』(1971)、自伝的小説『彫刻家の娘』(1968)、短編小説集『聴く女』(1972)などがある。(ニッポニカ)

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 権力者を心から「崇拝」するなどということがあるのでしょうか。ぼくにはよくわからない感情ですね。おそらくスナフキンのセリフに使われている「崇拝」の言語がなんであるか、折をみて調べておきます。文字通りの「崇拝」は「[名](スル)心から傾倒して、敬い尊ぶこと」(デジタル大辞泉)でありますから、「あんまり誰かを崇拝すると、本物の自由は得られないんだぜ」という表現は、少し割り引いて受け止めたいとぼくは考えています。「誰か」とは「独裁者」であったり、「権力者」であったりします。あるいは宗教的な指導者もその対象になるでしょう。身も心も「御一人」に捧げると、当人は「蛻(もぬけ)の殻」になっているのでしょう。それは「崇拝」という行為のあり方とは相いれないようにも思うのです。いずれにしても、何が何でも誰かを受け入れると、自分には考える余地はなくなるし、その「御一人」が間違えるなどと「疑う」ことはご法度になる。つまり、ここで「自由」とスナフキンが言うのは「疑うということ」です。疑う自由、それが奪われると、人間は無思考存在になるほかありません。

 現下の状況に置き換えて、ロシア国民(人民)が「P」を「崇拝する」気分なんて微塵もないと思う。彼に任せておけばいい、自分はそんなことにかかわりたくない、そんなところがせいぜいではないでしょうか。彼は損をするようなことはしないだろうから。さらに質が悪いのは、必要な「知る権利」すら奪われているのですから「自由でなくなることおびただしい」と言わざるを得ません。ことは「戦争」ですから「勝ち負け」が付くのでしょう。しかしこの「戦争」は、どこから見ても「土足」で隣国に踏み入り、これこれの土地は俺のもだから、いやなら出て行けと言っているに等しい。泥棒国家であり、強盗帝国ではないか。こんな盗人猛々しい輩に「理屈」を繰り出しても無意味です。四の五の言わずに、その「非」を、国際世論にはっきりと訴え続けるべきでしょう。いずれ、どんな形にしろ「戦争は終わる」が、そのとき国際社会はどうするか。国連を使って何かをするなどできない相談であり、むしろ、国連を無にしてきた無法者を明らかにするための新たな「手法」を準備すべきです。

 ロシアを筆頭として、国際社会から追放・排除しなければならなような事態が生じているのです。あからさまな暴力で他国を侵略し、その土地を奪うことを、認めたなら、今後、この手の強盗国家・盗人権力者が陸続として蔓延り続けるでしょう。コラム氏いわく、「時節柄、今また世界を振り回している専制主義的な国を連想しないでもない」と、スナフキンの箴言を受け止めかねるのか、受け止めているつもりなのか。高知新聞にして、この程度の「役目ずまし」とは、なんともやりきれない緊張感のなさですね。ロシア国内においても右から左から、「権力批判」は「クーデター勃発説」すら出ているのです。時の権力者に向けた「怨嗟の声」は大きくなることはあっても、立ち枯れることはないでしょう。

 個人を崇拝しすぎるということは、これまでも歴史にはどこかであったに違いありません。例えば、ヒトラー。彼を「崇拝しすぎた」民衆は五万といたのか。ぼくにはそうは思えない。ほんの一瞬の旋毛風(つむじかぜ)、あるいは辻風であり、一瞬にして消え去るものでした。民衆の圧倒的「崇拝(という錯覚)」を長時間維持することはまず不可能で、辻風はやがて「逆風」になるのが定めです。ヒトラーに限らない。現下の「ロシア皇帝」も例外ではありません。旋風は、一時期は順風に見えたけれど、当の本人が「風を読み違えた」のだ。順風だとばかり思っていたら、なんと「逆風」逆巻く大嵐だった。それを取り巻きがおべんちゃらばかりでごまをすったがために、意想外の「長丁場」にはまり込んでしまった。かかる誤算を引き起こすこと自体、彼はもう「焼きがまわった」ということです。

 長期に及んで自己権益を貪ってきた「落とし前」をつける時が来たようです。ロシアが「ウクライナ戦争」に勝つというのではない。ロシアには勝つ以上に戦い続けるしか道がないのです。一方のウクライナには「侵略」を見逃すことはできない。戦いを放棄すればウクライナは地球上から消えます、いや消されるのです。両者の立場にはあからさまな、差異があるのです。侵略を正当化しようとした「盗人に三分の理」である、「ロシア系住民の虐殺」はどこに行ったのでしょうか。いかにもPは、恥も外聞もかなぐり捨てて(もともと、彼には恥じらいも外聞を気にする気持ちはさらさらない)、とにかく、土地を奪いロシア化するだけ。こんなばかげた「傍若無人の振る舞い」を世界中の人民が認めたら、どうなりますか。KGB上がりの「皇帝」一人に手もなくひねられて、それでもだんまりを決め込むつもりでしょうか。

 「ヤンソンさんならば、この混乱した世界や『独裁者』をどう風刺するだろう」などと、高みの見物を決め込んでいる場合ですか、コーチの兄さん。「『小社会』ならば、この混乱した世界や『独裁者』をどう風刺するだろう」という期待のかけらくらいは見せてほしいですね。まさか「内政干渉」という批判を恐れているんじゃないでしょ。ウクライナからの避難者をこの島社会の各地が受け入れてきました。すでに千名を超えたとされます。もちろんすべてが上首尾だというわけにはいきませんし、異国で働くことのこんな差を少しでも和らげておきたい。故国が落ち着いたら帰国したい方々もおられる、それは当然の想いあり、そうなるようにできる範囲で尽くしたいと念じているのです。

 (9条の会・医療者の会 )

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