持ちつけぬものを持つと、とかく人間は…

 今でも覚えている方が多いと思います。かなり前に一人のトラック運転手が、銀座だったかの路上で拾った風呂敷包みの中に「一億円」があったということで大騒ぎになりました。その後、落とし主も現れず、大枚は拾い主のものになった。それ以降、紆余曲折があって、拾い主の大貫さんは六十二歳の生涯を終わられた。この金の持ち主がだれだったか、いろいろと想像がたくましくされましたが、当時、永田町において肩で風を切っていた「政界の暴れん坊」の金だったとされています。つい最近、これは別の話。札幌のゴミ収集車が集めた中から「一千万円」が出てきて、早速「自称・落とし主」が十人も名乗り出たという。とかく、天下の周り物ですから、どこでどう動くかわからないもので、さまざまな人生模様がそこに描かれるのでしょう。(事実は小説より奇なり)

 <あのころ>大貫さん1億円拾得 落とし主現れず  1980(昭和55)年4月25日、東京・銀座の道路脇で会社運転手の大貫久男さんが風呂敷包みを拾うと、中には何と現金1億円。拾得物として警察に届け出た。ミステリーじみた臆測も乱れ飛んだが落とし主は現れず、半年後に現金は大貫さんのものとなった。(共同通信・2022/04/25)(右写真は、拾得当時の大貫さん)

 金に限らず、多くの人にとって「持ちつけないもの」が突然(幸運にも、時には不運にもなるが)手に入ったら、それはどう使われるのでしょう。あるいは場合によっては人生(観)が変わることもあるかもしれない。あまりいい比較ではありませんけれど、「権力」が転がり込んできたらどうするか。その実生活辞典が「政界」というところではないでしょうか。能力も人品も決して優れていないと、自他ともに任じていた人が、ある運命のめぐり合わせで、思わぬ政治力学の中に引きずり込まれる。詳細は省きますが、上に出てきた大貫さんのように実直な生き方を続けられるとは限らず、その後の人生を地道に歩けなくなるのも頷けます。誘惑が絶えないんですね。

 以下に、例によって新聞のコラムをいくつか引用しました。何が問題か、読む側の主観で判断されるべきでしょう。当時の首相補佐官が「放送法」の政治的公平性問題に関わり、(自らの出身母体でもある)所管官庁の官僚に圧力をかけたとされるものです。権力の側近を匂わして、強引に法律(の解釈)を捻じ曲げようとしたのは、時の総理への「胡麻すり」であり、自己顕示の欲望を「権力の側近」という看板で示したもの。このような虎の威をかるような「馬鹿」が肥大するとどうなるのか楽しみではないが、国会への復帰を虎視眈々と狙っている。かかる有象無象の拡大再生産、だからいつまでも永田町は変わらない。この元補佐官は、中学以来、柔道をよくしたという。得意技は「内股」「体落とし」だと自認されている。「寝技」も入るんじゃないかな。技をかけるのは畳の上とは限らなかった。故元総理の最側近を任じた人でもある。

 当時の総務大臣は、「行政文書と公認された」ものを「捏造」と断定した。ちょっと待て、「信号は確認してから、渡りましょ」といいたいところですが、図星を付かれると人は脇目もふらずに「嘘をつく」のですよ。交通事故の絶えないのも当たり前。当時の総務大臣が、部下(の官僚)が作成した「行政文書」を「捏造」という。それをして「監督不行き届き」というのではないですか。これだけで「辞職」に当たりませんか。「私は無能です」と世間に向かって告白したも同然(言うまでもなく、知る人ぞ知るで、この大臣は夕刊(勇敢)を装っている朝刊(長官)のようで、時を弁えていませんね。神輿に担がれたいだけの「虚仮威し」だと思う。「愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。また、見せかけはりっぱだが、中身のないこと。また、そのさま」(デジタル大辞泉)。あるいは「bluff(おどし)」「showing off(みせびらかし)」に過ぎない。このような「悪徳」の性は男女に差はないといえますね。政界は「男女共同参画社会」なんですね。

 「私は馬鹿です」と看板をぶら下げて「虚仮威し」に現(うつつ)を抜かすのを「権力の行使」と錯覚している輩がのさばるのは、やはり「この御仁・大将」がいたからだと言わずばなるまい。森友事件という「超格安国有地払い下げ」に、「私と妻が関係していたなら、総理大臣も議員も辞める」と内心ビクつきながら宣った瞬間をぼくは忘れない。結果的には「ソノ言やヨシ」だったのは不幸であり、不憫でした。この「小心者の嘘つき」とされた存在がだんだんに「大心者」になるのは時の勢い。時勢です。当人の人格や能力とは無関係。神輿を担ぐ人、担ぎたがる人は、きっと「自分も神輿に担がれたい」と懇望しているはず。あんなのが担がれるんなら、俺だって、私だってと錯覚をしてしまう。多くの担ぎ手に「錯覚させた功績」は故元総理だった。この点においてこそ、彼は「勲章もの」でした。時勢というものは「はだかの王様」をいつでも生み出すという、人民にとっては迷惑至極の人為かつ自然の現象です。

 持ちつけない金が懐に入ると、多くの人は濫費したがる。だから「悪銭身につかず」というのですな。「不正な手段によって得た金銭は、むだなことにつかわれがちなので、すぐになくなってしまうものである」(精選版日本国語大辞典)というように、「悪権力」もまた「身につかず」だと言いたい。八年近くも「ABEについていたじゃないか」と反論されそうですが、なに、神輿の担ぎてから担がれたい奴が出てこなかった幸運に過ぎない。その証拠に、彼はなにか国民のためになるような「善政」を敷きましたか。持ちつけない刀を持ったら、それを振り回したくなる、切れ味を試してみたくなる、そんなものでしょ、愚か者の所業や思考というものは。「悪銭身につかず」と同様、「悪政人民のためにならず」でした。ルールを破り、権力を好き放題に「私物化した」だけだったのが、故総理だったといえます。

 「放送の公平性」問題も然りだったから、今回のスキャンダルを招いたのです。でも、とぼくは考えている。小心者の権力者は、小心だけに、他人から「悪口」を言われることが許せない。度量が浅いのは避けられない。「君は無能だ」と言われることを極度に恐れている、あるいは言われたくないから、誰かに言われたら、それに恨みを持つ、恨みを晴らす、その仕打ちが「俺は権力者」だと、当人を眩(くら)ませるのです。なぜなら、それは本当の話だから。「君は馬鹿だ」と言われたら、「馬鹿」は怒るんですね。それ故に、こいつは「小心者」と、ぼくは考える。ここに、もっとも肝心な「主役」が顔を出さないのは、なんとしても腑に落ちない。誰かが庇(かば)ってるんですね。マスコミですか? あるいは…。

 統一教会問題でも表に出ることはなく、今のところは逃げ果せている。近年の事件やスキャンダルの背後には、実はこの国の政治・政策を売った人間がいた。あるいは学術会議の会員問題でもあからさまな「悪政」を志向とした人物です。長年に及んで故総理を(官房長官の地位にあって)操り、自らも総理に就いたが、表に出てはいけなかった存在だったことが証明された。今回の総務省スキャンダルの根っこも、この「闇政治家」にあるんじゃないでしょうか。この見立ては「寝言」ではないと思っている。いずれ明らかになります。

【斜面】脅しすかしの補佐官政治 若いころ、街宣車に入って右翼団体の幹部に取材したことがある。冷静に話していたのに突然、色をなしてすごむ。その直後、親しげに冗談を言う。緊張と緩みの連続で相手を揺さぶり、話の主導権を握ろうとする「技術」なのだろう◆安倍晋三政権時の礒崎陽輔首相補佐官と総務省幹部らの内々の協議を記録した文書を読み、ふと思い出した。文書は、政権に批判的な放送局を萎縮させたい補佐官が古巣の官僚を従わせ、出来レースの国会答弁で法解釈を「変更」するまでの内幕を記す◆磯崎氏は慎重な官僚の説明に何度もダメ出し。〈抵抗しても何のためにもならない〉。自分で作った解釈案に「自由に意見を」と柔軟さを見せるも、修正点を示されると激高する。大臣も知らないまま、磯崎氏の意に沿った案がまとまっていった◆「変なヤクザに絡まれたって話では」。経緯を知った首相秘書官の山田真貴子氏が官僚に言った。後に高額接待問題で菅義偉内閣の広報官を辞める山田氏。この時は同省出身のメディア担当として「法の根幹に関わる」「法制局に相談したか」と筋論を述べたが、首相の意向を知り撤退◆磯崎氏は官僚を「何回も来てもらってありがとう」とねぎらいつつ、「首が飛ぶぞ」と脅しもした。官僚に人事権を振りかざす政治のどう喝。顔色をうかがう省庁の忖度(そんたく)。安倍政権下で法は幾度もゆがめられてきた。役人の正義感からこの文書が出たのなら小さな希望も残るが、果たして。(信濃毎日新聞デジタル・2023/03/09)

【日報抄】「この件は俺と首相が2人で決める話。俺の顔をつぶすようなことになれば首が飛ぶぞ」。相当に高圧的な言葉だ。政治家が官僚を恫喝(どうかつ)して自分の考えを通そうとする様子が記された行政文書が公開された▼放送法が定める「政治的公平」の解釈を巡り、総務省と首相官邸関係者が2014~15年にやりとりした記録だ。「放送事業者の番組全体を見て判断」としてきた従来解釈を見直すよう、当時の礒崎陽輔首相補佐官が強い口調で迫っている▼内容が偏っているとやり玉に挙げられた番組名も明記される。首相秘書官から「言論弾圧ではないか」と疑問視する声も出たが、安倍晋三首相も前向きで高市早苗総務相は15年5月に「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と国会答弁した▼その後、総務省は従来解釈に変更はなく答弁は解釈を補充したものと説明したが、素直に読めば問題視できる範囲を広げたように思われる。政権の意向次第で放送事業者に圧力をかけられるのではないか▼「牽強(けんきょう)付会」という四字熟語が頭に浮かんだ。「牽強」も「付会」も都合よく理屈をこじつけることを指す。一つの番組が濃度の高い政権批判をすることはあり得る。牽強付会を押し通してでも、そんな番組を排除したい意向が見てとれる。これがまかり通れば行政をゆがめ、政権の暴走に歯止めがかからない▼政権と官僚機構との間に横たわる暗部に光が当たったのか。この問題が再浮上した背景も気にかかる。(新潟日報デジタルプラス・2023/03/09)

【余録】「ねつぞう」は慣用読みで本来は「でつぞう」と広辞苑にある。無根の事実を作り上げることを指す「捏造(ねつぞう)」である。「捏」には土などをこねる意味がある。同じ意味の「捏(でっ)ちる」という言葉もあり、こちらは「でっち上げ」の元とされる▲小紙のデータベースで検索すると、2000年代から使用頻度が増えた。旧石器発掘、医学論文、テレビのバラエティー番組など捏造が相次いで問題化した。小紙が「ねつ造」だった表記をルビ付きの漢字に変えたのが07年だ▲あってはならない重い言葉が身近になったのか。安倍晋三元首相は国会で新聞記事を「捏造」と断じ、物議を醸した。安倍内閣で総務相を務めた高市早苗経済安全保障担当相も抵抗がないようだ▲野党議員が入手した文書の記述を「捏造で不正確」と決めつけ、総務省作成の行政文書と判明した後も認識を変えていない。首相官邸の圧力でテレビの政治的公平の解釈に関する政府統一見解が事実上、変更された経緯が記された文書である▲安倍氏との電話内容などを否定しているが、当時の総務省トップが部下が捏造したと主張するなら奇々怪々だ。「一つ一つの番組から全体を判断する」という新解釈を国会で答弁したのは高市氏である▲捏造でなければ辞職するかと問われて「結構だ」と答えた。売り言葉に買い言葉だろうが、公文書の内容の立証責任を野党議員に押しつけるのは筋違いだ。報道の自由に関わる問題。ご本人から当時の経緯をしっかりと説明してもらいたい。(毎日新聞・2023/03/08)

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 なぜ、多くの国は「戦争」と戦わないのか

【斜面】花々が歌をうたう不思議で平和な町にある日突然、「戦争」がやってきた。とげのある硬い雑草を植えてゆく。光が失われて、優しい花は枯れていった。仲良しの3人が出てゆくように頼んだが、「戦争」は火花を散らして石を投げた◆傷ついた3人は石やクギを投げ返す。相手の心臓も狙った。けれど、無駄だった。〈なぜなら、戦争には心も心臓もないからです〉。町から人が消えていった=「戦争が町にやってくる」(ロマナ・ロマニーシン、アンドリー・レシヴ作、金原瑞人訳)◆ウクライナで活動する作家の絵本だ。2014年のロシアによるクリミア併合と東部の武力紛争の翌年、戦争について親子が話す契機に―と出版した。その7年後に大規模侵攻が始まり、あすで1年。親子はさらに涙を流し恐怖に慣れることで辛うじて精神を保っている。幼い心にも憎しみの黒い草が根を下ろす◆昨年12月に東部の激戦地を取材したAFP通信の動画が地下室で暮らす14歳の少年の声を伝えている。「将来は考えない」「願いは外へ散歩に行くこと」。人生の未来は語られない。ボランティアは「この子たちはもう大人になってしまった」と嘆いた◆絵本では「戦争」がとけて消え、平和が来た。でも全ては元に戻せない…。悲しい事実を教えている。現実の政治指導者は1年を戦った今でも石を投げ合って、戦争そのものと戦おうとしない。子どもは大人にされ、大人が子どものように振る舞っている。(信濃毎日新聞・2023/2/23)(ヘッダー写真は「ガーデニングの図鑑」:https://shiny-garden.com/post-20286/)(「ひなげしの花」です。別名は「虞美人草」)

 要衝「バフムト」だと、戦争専門家はいう。この地の争奪戦は日増しに強くなっている。地下室暮らしの「子どもたち」や、その他の人々は無事だろうか。とても胸が痛む。昨日のコラムです。大事な情報があったとぼくは考えたので、本日に回しました。戦争(侵略)開始から一年。毎日毎日、ミサイルや砲弾の嵐がウクライナ全土を襲っています。それを、当事国以外の諸国・諸国民はどうするこもできないままで、拱手傍観していたのではないでしょう。ウクライナを援助する側がいれば、ロシアに救いの手を伸べる国々もある。「戦争は悪だ」ということを知りつつ、敵と味方に分かれて、結局は「世界の覇権を争う」ことに終止しているのでしょう。敵味方入り乱れての「人殺し合戦」、その意味は、「昨日の敵は今日の友」であり、「今日の敵は昨日の友」ということで、「正義がどこにあるか」という問題などではなく、要するに、地の利、いや「漁夫の利」を占めるための土地(他国領土)の争奪戦であり、「人を殺し、町を破壊する」だけでは足りなかったのか。無辜の民、数千数万が「殺戮されている」のです。

 AFPの動画に、静かな怒りを子どもが語る口調から感じさせられました。「子どもは未来だ」と、ぼくたちは何のためらいもなく想定している、でも、その未来に蓋をされている状況に生きているのは子どもではなく、「大人」だというに等しい。具体的な個々人をさして言うのではなく、大人も子どもも一種の符号でしかない在り様を示しているのでしょうが、戦争に潰された未来、その意味では大人も子どもも選ぶところはありません。だから、ぼくがいうのは、戦争を仕掛ける側、その命令を受けて人民を殺す人々(兵士)、それに対峙し、防衛戦を戦う側と、そのために戦列に加えられ、あろうことが、敵側の砲弾の犠牲になる人々。誰が「戦争」を初めたのか、それは一目瞭然です。でも、あからさまな戦争犯罪人を野放しにしたままで、あろうことかそれを援助する国々が少なからずあるという、世界の現状の荒廃の状態を、ぼくは見てしまう。  

 *「戦争で『大人になってしまった』子どもたち」https://www.afpbb.com/articles/-/3446473?cx_part=search.(AFP・2023年1月11日 )

 「常に付きまとう不安」 バフムートでは、親が市外に脱出できなかったり避難を拒んだりしている子どもが数十人、あるいは数百人、市内に残っているとみられる。/ 学校の地下にシェルターを設置した団体でボランティアとして活動するカテリーナ・ソルダトワさん(32)は「この子たちはもう大人になってしまった」と言う。/ シェルターへの道のりは非常に危険で、最近も移動途中だった民間人2人が死亡した。だが、子どもたちにとっては重要な場所となっている。ウォロディミル君(12)はAFPに、食事のために家に帰る時以外はこのシェルターで過ごすと語った。/ NGO「SOS子どもの村(SOS Children’s Villages)」ウクライナ支部に勤務する心理学者アリョーナ・ルキヤンチュクさんは、バフムートの子どもたちは「常に付きまとう不安」を感じていると強調。「世界にいつ裏切られるか分からない。すべてが一瞬で破壊される可能性がある」と説明した。/ルキヤンチュクさんによると、親が「生き延びることに集中」しているため、子どもたちは絶え間ないストレスに対処するすべを学ばなければならず、集中力や認知能力に長期的な障害が生じる恐れがあるという。(以下略)/ 映像は2022年12月に撮影。(c)AFP/Cécile FEUILLATRE(AFP・2023/01/11)

「戦争が町にやってくる」、その時、世界は油断していたのか。あるいは遠い他国のことだと等閑視していたのだ。クリミアをロシアが占領する時(2014年)、ウクライナも、実は、はげしくは抵抗しなかった。どうしてだったか。もともとロシアの領土だったからというのだったか。ぼくはその「侵略時」「戦時」の光景(世界の沈黙)に大きな違和感をいだき、恐怖を感じたのでした。誰もなにもしないのはどうしてか。「占領」がなった段階で、幾つかの取り決め文書が交わされたが、紙くずになっていった。ロシアは最初からウクライナを併呑することを狙っていた。だから、野生の狼でもあるプーチンに、クリミアという庭先を貸し与えるような「仲介」は致命傷となったのでした。「軒を貸して母屋を取られる」のたとえ通りに、プーチンは侵略・併合の道を突き進んだのだった。クリミア占領の際には、外野から邪魔(妨害)が入らなかったから、いい気になって「ウクライナ侵略」にかかったのが今回の戦争だった。二、三日で終わる・終わらせるという盗人猛々しい「魂胆」が許しがたい。

 ++++++【版元より】ウクライナの作家が子どもたちに向けて描いた平和と戦争の絵本。/ 美しい町・ロンドで、人びとは花を育て、変わった家を建て、鳥や草木に話しかけながら楽しく暮らしていました。ところがある日とつぜん「戦争」がやってきたのです。「戦争」を知らない町の人びとはおろおろするばかり。町を愛するダーンカ、ジールカ、ファビヤンの3人は、知恵と能力のすべてを使い、ロンドを暗闇から救い出そうとします。
 ロマナ・ロマニーシン(ろまなろまにーしん)・アンドリー・レシヴ(あんどりーれしぶ)絵本作家、アーティスト。共に1984年生まれ。ウクライナのリヴィウを拠点に活動する。リヴィウ国立美術大学を卒業。アートスタジオAgrafka主宰。2011年、ブラチスラバ世界絵本原画展(BIB)で出版社賞を受賞。本作は2015年に刊行され、ボローニャ・ラガッツィ賞を受賞し、世界15言語に翻訳出版されている。2017年BIB世界絵本原画展金牌を受賞した『目で見てかんじて 世界がみえてくる絵本』、2018年ボローニャ・ラガッツィ賞受賞の『うるさく、しずかに、ひそひそと 音がきこえてくる絵本』(共に、広松由希子訳 河出書房新社)など、世界が注目する新進気鋭のユニット。(https://www.folkbookstore.com/?pid=168867212)++++++

 このロシアの仕掛けた戦争が何時終わるのか。更に続くという予想が圧倒的です。そうかもしれないし、そうでもないかもわからない。いずれにしても「無謀な」「大儀なき」「侵略」は、仕掛けた側が止めるほかないでしょう。情報は錯綜しているけれども、必ず終わるということだけは明らかです。そこまで、はたして一人ひとりの「いのち」が無事であるかどうか、それだけをぼくは祈る。これは、少し前にも触れたことですが、この島のマスコミ、ミニコミ含めて、「戦争の行方」を語り、「戦術・戦略」の解説に終始しているのはなぜか。戦争のシュミレーションを、これでもかというぐらいに報道する値打ちはゼロではないにしても、あまり褒められもしないのだ。どうすれば「和平」「停戦」「終戦」に進むことができるか、そのためには誰が何をどうするのか、それをこそ語り尽くしてほしいし、そのプログラムに、劣島の住民の参加しうる余地があることを示せないものかと、ぼくは訝るばかりです。

 「核の脅し」を多用する「 P」 は「追い詰められている」のだ、もはや「狂気の舞台」から降りる・降ろす段階に来ていると、素人は「期待半分、確信半分」で考えている。いまの状態は「図体のでかい北朝鮮」でしかない。正体見たり「枯れ尾花」というではないか。弱い上に愚かだった「P」いう「空無な存在」でした。戦車や戦闘機で「平和」が来るものか、と誰もが知っている。よしんば「勝利」があったとしても、それが「武器によってもたらされた」のなら、直ちに時代は「戦前」です。この島の痴愚政治家は「戦争する国」「戦争できる国」を目指している。今では「戦闘武器」の輸出も目論んでいる。目論んでいる人間こそが「戦場に赴く」という法律を作って欲しい、そんな連中が戦場に出ることで、もはや敵対国は「不戦勝」を確信するでしょう。

 どんなに長く続いた「戦争」も必ず終りが来る。戦争は終わるだろうが、死んだ人は生き返らず、壊された心は回復しない。それは人間性を破壊する、途方もない蛮行だからだ。傷つけられた記憶は「消えない」もの。それは歴史になるからです。

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 氏より育ちか 批判を拒絶する体質

 政治政党としての「共産党」は嫌いではない。そんなに好きでもない。天秤計りで言うなら、針が、一グラムほど「嫌いではい」に触れるというところか。京都の共産党員が「委員長公選制」を主張して「党から除名」処分を受けた。よくわからないが、党紀違反に当たり、党の問題を外部に出したというのがその理由。滑稽というか、可笑しいね。まさか、地下組織でもあるまいに。現委員長は在職二十年。不思議に思うのは、嘗ての党勢は消滅しており、いっかな国民の支持率が上らないままで、委員長在職何十年というのは、ぼくには、志位ではなく、奇異に映る。つまり、共産党は「何より現状維持」派であり「正真正銘の保守」党、いやもっと率直に言えば、「長老支配」である、ということにならないか。▼前F委員長が健在の頃、毎年ぼくのところへ、委員長のメッセージが届いていた。ぼくは党員ではなかったが、選挙ではほとんど毎回のように共産党候補に入れていたし、大学時代の先輩教員が共産党の講師団の一員をしており、彼が退職する時、ぼくに「組織(昔風に言うなら「細胞」)の代表をしてくれ」と、とんでもない依頼をされたこともあったけれど、ぼくは共産党以外の政党には魅力を感じなかったのは事実だが、無条件に深入りするのはぼくの姿勢に反したのです。先輩教授の依頼を、もちろん、ぼくは引き受けなかった。▼ 個人の心情として、ぼくは組織に属することは好まなかったからだ。(この先輩教授は高名な共産党シンパだった、彼がぼくの名前を党に伝えていたらしい)

「除名処分」を受けたM氏の(日本記者クラブにおける)講演を聴いたが、しごくまっとうな、組織人としても、見ごとな感覚を持っている人だと、ぼくには思われました。当然組織内には、これを観葉にも許容する柔軟性があれば、党は現状に停滞するようなことにはならなかった。だから、卑見としてはどう考えても、当幹部の判断は不当な過誤であり、大時代的な振る舞いだと強く感じたね。逆に、党員の活動の自由度をあまりにも認めすぎるなら、組織の質は変わらざるをえないのは言うまでもない。党の在り様を現実に合わせるのか、その反対か、選択肢は、しかしまず残されていないようです。(余談です。前委員長の父親の上田庄三郎氏は好きだったし、彼の仕事(土佐における教師時代と上京後の教育批評家の仕事ぶり)を、ぼくは高く評価していた)▼ 結党以来百年も経つと、あちこちに「澱(おり)」や「淀(よど)みができる。霞を食っているのではないから、当然だと思う。ここらで、気分一新「女性代表(委員長)」が出ないものか。候補者は豊富だと見えるし、同僚議員に「パワハラまがい」の狼藉を働くぼんくら幹部に名を成さしめていていいのか、余計なことだが、このことを強く感じる。断るまでもなく、ぼくはいかなる政党にも属していない、一人のノンポリ、高齢化した孤児でしかない。

 共産・志位氏、党員除名の妥当性をあらためて主張 朝日新聞社説は「あまりに不見識」 共産党は6日、志位和夫委員長の長期在任を批判し、党首公選制導入を求めた党員で元党職員の松竹伸幸氏(68)について、言動を「重大な規律違反」として除名処分にしたと発表した。松竹氏は同日、日本記者クラブでの会見で「党員には憲法が保障する表現の自由が許されていない」と非難し、処分を不服として党側に再審査を求める意向を示した。/ 松竹氏は1月、党運営の透明化を訴える著書を出版。志位氏の長期在任を「国民の常識からかけ離れている」と公言するなどしていた。/ 松竹氏は会見で、分派活動との除名理由に「こじつけに過ぎない」と反論。「処分が覆らなければ、党は衰退の道をたどる」と指摘した。(共同通信・2023/02/06)

 「除名処分は異常」共産の党首公選求めた松竹伸幸氏、京都の地区委員会の処分に反論 共産党トップの委員長選出を巡り党員投票による党首公選制の導入を主張している現役党員の松竹伸幸氏(68)について、所属する地区委員会が党規約で最も重い「除名」処分としたことを受け、松竹氏が6日、東京都内の日本記者クラブで会見し「除名処分は過去の歴史からも異常。党の改革がますます必要だ」と反論した。/ 松竹氏は共産党政策委員会の安保外交部長などを歴任し、かもがわ出版(京都市上京区)編集主幹を務める。/ 京都府委員会南地区委員会に所属していた1月に松竹氏は著書「シン・日本共産党宣言」(文春新書)を出版。同月19日、東京都内で記者会見を開き、党トップである志位委員長の在任期間が20年以上であることを「国民の常識からかけ離れている」と批判し、党員投票による党首公選制を導入するよう訴えた。これに対し地区委員会は2月5日、除名処分を決定。京都府委員会が処分を最終調整している。/ 松竹氏はこの日の記者会見で、除名について「分派はこじつけにしかすぎない。ただ本を出すことが分派活動なら、憲法の言論や表現の自由が党員には許されないも等しい」と訴えた。/ 共産党機関紙「しんぶん赤旗」は21日付で、藤田健編集局次長名の論説で「『党の内部問題は、党内で解決する』という党の規約を踏み破るもの」などとして松竹氏の言動を問題視した。(松竹氏講演・日本記者クラブ:https://www.youtube.com/watch?v=nOYb3w7zSFo&ab_channel=jnpc

 花も嵐も踏み越えて、日本共産党は百年党になった(1922年創立)。だから「老舗」「名門」であり、やっぱ凄いとか、「やったあ」というのではありません。この百年の間には「功罪」相拮抗するか、いや罪の方がはるかに勝っているという気もするのです。その共産党が敗戦後も八十年近く経過するうちに、ついには焼きが回ったというか、本性がむき出しになったというべきか。「生まれ本性」ついに違わずと言ったらどうでしょう。「昔の名前で出ています」とクラブのママみたいなことを宣っている間に、党は歴史的存在になりつつあったのです。「昔の…」で出てこられて、御年八十というのも悪くはないかもしれぬが、客は寄り付かないね。

 この駄文集録にも何度か、島社会には自民党を含めた与党(保守党)と共産党しか存在しないと言ってきました。この志位委員長の「居直り」「居座り」会見を聴いていると、独断専行、実に「独善的(self ritghteous stance)」で、あいも変わらず、この党も党員もついに、「保守共産党」と看板を変えたのかと思わざるを得ません。あるいは、かくいうぼくも発言を訂正しなければならないのかもしれぬ、「共産党は心底保守でござった」と。なかなかに矛盾撞着しているが、「革新保守」「伝統革新」というべきなのかもしれません。

 生まれも育ちも「共産党」という人はいざしらず、議会制民主主義という「建前」を唱っている政治形態において、議席数が嘗ての三分の一、その希少な議席数に甘んじてか、誇りを持ってか、それを受け入れるという姿勢は、まったく古典的保守派だと、「皆様のNHK」ならぬ「国民政党であるKST」と看板替えをした方がいいと、ぼくは愕然としているのだ。(言いたいことはたくさんありますが、「共産党よ、お前もか」と、伝統・十八番(おはこ)のゆるぎもない「民主集中制」の危うさ・怪しさを痛感させられた事件ではありました。さて、この先、どう転ぶか。右見て、左見て、上見て、下見て、首が疲れたという次第です)

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 「メメント・モリ(死を忘れるな)」

 <卓上四季>悪魔のささやき 初めから殺人者として生まれてくる人間などいない。そんな当たり前のことを教えてくれたのが、先日93歳で亡くなった加賀乙彦さんだった▼作家として死刑制度や社会問題に関する多くの著作を残した。「ある若き死刑囚の生涯」(ちくまプリマー新書)もその一つ。貧困や嫉妬などから犯行に及んだ死刑囚が、歌人となり罪と死に向き合っていく様は人のもろさと更生する強さの両面をつぶさに明かしていた▼福岡市博多区の路上で女性が刺殺された事件を機にストーカー規制法の限界を指摘する声が高まっている。容疑者が接近を禁じられていたにもかかわらず、事件が起きたからである▼加害者に衛星利用測位システム(GPS)を装着させる案も浮上するが、法令に反していない段階での装着を正当化する根拠に乏しい。万一GPSを外された場合は効果も期待できない。警察による巡回警護もおのずと人的な限界がある▼「悪魔がささやいたとしか言いようがない」。1954年に精神科医として一歩を踏み出して以来、多くの犯罪者と向き合った加賀さんが何度も耳にした言葉である▼恐ろしいのは、こうした自分ではないような意思が人をとんでもない犯罪へと走らせること。ストーカー対策ではカウンセリングも有効だろう。相談に乗ったり、注意したり、時には叱ったり。犯罪を防ぐのは悪魔につけ込ませない隣人の言葉である。(北海道新聞・2023/01/27)(写真は日経新聞・2023/01/17)

 この社会では「衝動殺人」という言葉がよく使われた。予(あらかじ)め殺害を計画した上でのことではなく、そのつもり(意図)がなかったのに、「ついカッとなって、やってしまった」というのでしょう。しばしば、「殺意」や、その具体的な「計画性」が問われるのが裁判。「未必の故意」という語も多用されている。「殺すつもりはなかった」のに、起こってしまったということ。武器を持参して相手に接近するのは、「殺意」があるからだとも言えるし、脅すために持っていただけとも弁明(釈明)できる。実際のところはどうだったか、誰にもわからないことだと思う。「確信犯」と自他共に認めているなら、裁判はそれほど困難ではない、そこでは「量刑」のみが争われるのだから。作家の加賀乙彦さんが亡くなったというニューを聞いて、ぼくは、とっさに二つのことを感じた。

 一つは、何度か加賀さんに会ったこと。本当はすれ違っただけだったが、たしかに挨拶をし、一言、二言の言葉を交わしたこともあった。当時、千九七十年台前後、学部生のぼくは文京区本郷に住んでおり、加賀さんも同地に居られた。夕食後のほぼ決まった時間に、東大前の古書店や地下鉄駅前のレコード店に顔をだすことが日課だった時代。加賀さんはもちろん、すでに小説を書いて居られた。ぼくは未読だったが、上智大学だかの教授としても、精神科医としても、あるいは小説家としても高名だった。(すでに半世紀以上も前になる)たったそれだけのことだったが、なにかあると、この小さな「邂逅」を思い出す。静かな佇まいを感じさせる「大人」が前に立っていると感じ入った。 

 もう一つは「冤罪」「死刑」「裁判」といった、実に深刻でもある問題群を小説の主題として真摯に書かれていたのだが、その「テーマ」とも言えるものが「メメント・モリ(memento mori)」だったということ。これはキリスト教の教えでもあったもので、加賀さんは「カトリック」の信仰者だったと記憶している。この言葉(格言・格律)は、人間の行動規範とも言えるし、基準ともなるものです。古代ギリシャ、ローマの早い段階から、人間社会では問題語として扱われていたことが知られている。多様な意味を含んでいたし、使われてもいた。

 ぼくは、学生時代にカント哲学を学んだが、そのなかでも、彼は「メメント・モリ」を自らの生活規範としていたことを知った。生きているとは、何時でも死が伴っているということ、あるいは「何時死ぬことがあっても、それを後悔しない生き方をせよ」、そんな意味のことを彼は書いていた。たしか、ドストエフスキーもこの語を使っていたと思う。「メメント・モリ」は、邦訳では「死を想え」「死を忘れるな」と訳されています。セ氏でワンセット、人つづきの過程として捉えておけということだったように理解していた。ある面では、ぼくたちは日常的に、この表現に身近に接しているとも言えます。自分ではなく、誰であれ、他者の死は毎日のように耳目に届く、そのたびに、濃淡の違いはあれ、「メメント・モリ」と復唱しているのです。この表現をタイトルにした書作は幾つか公刊されています。「メメント・モリ」について、ある辞書による解説を以下に。

● みひつのこい【未必の故意】= 法律用語。犯罪の実現とくに結果の発生を意図した場合およびそれが確実だと思っていた場合は故意であり,それを全く考えていなかった場合は過失になることに問題はない。しかし,この中間的な場合,すなわち,もしかすると結果が発生するかもしれないとは思っていたが,それを意図したわけではないという場合に,これを故意・過失いずれとみるかは問題である。このような事例は,すべての犯罪について起こりうるが,実際に問題になるのは,通常の殺人(かっとなって刺した場合など),自動車事故(暴走して事故を起こした場合など)などが多く,公害事件などでも問題になる(被害が出るかもしれないと思いながら操業・販売を続けた場合など)。(世界大百科事典第2版)

● 【死】より=…孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ――〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。…

【髑髏】より=…一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。当時,〈死を想え(メメント・モリ)〉の思想と〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉の絵とが人々をとらえ,パリのイノサン墓地では,回廊の納骨棚にさらされた多数のどくろやその他の骨が人々に死が来るのは必定であること,したがっていたずらに生の歓びをむさぼることの空しいことを説いていた(ホイジンガ《中世の秋》)。デューラー,ホルバイン兄弟らが好んでどくろや骸骨を描いたのは15世紀末以降のことである。…(世界第百科事典における「説明・言及」)

 

 人間は間違いを犯す存在です。大小を問わず、人は必ず、生きている間に過ちを繰り返すものです。間違わない、過ちを犯さない、それは人間ではありません、それほどに人間の「弱さ」は完璧です。問題はどんな間違いを犯すかではなく、犯した間違いをいかに改めるかということにあるのではないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」(「論語・学而」)と哲人は言う。他文明では「It is never too late to mend.」と言っています。人間の弱さが避けられないことの証明にもなるでしょう。ぼくは、この駄文集録で度々「罪を憎んで、人を憎まず」ということを指摘してきました。これもまた、孔子の言だとされています。それ程に、「過ち(誤ち)」「間違い」から解放されないのが人間の条件(制約・限界)なのでしょう。犬や猫には「誤ち」はない、失敗はあっても、それを間違い(過ち)であるという自覚と、さらに犬猫社会に「共通の認識(コンシャンス・良心)」があるようには見えないのですから、ないも同然。樹木がなにかの理由(原因)で倒れるのも「間違い」「誤ち」ではないでしょう。人間社会のみが「罪の意識(良心)」を認めるのです。(好み方は、人間の側からする偏見かもしれない)

 なぜ、人間には「間違い」「誤ち(過ち)」が伴うのか、それが意識というものだと言えば簡単です。しかしこの「過ち」の自覚(意識)はもとから内在しているのではないことはいうまでもありません。裁判の核心部には「問責」というものがあります。犯罪の責任が問えるかどうか、それがまず確かめられることから裁判は始まります。罪の自覚や意識がなければ、その責任を問うことはできない。よくニュースになる「飼い犬が郵便配達さんを噛んだ」と、その際、犬に刑を課すことはできない。あるいは食餌を抜かされることはあっても、自分から反省して飯を食べないということはない。辛うじて、犬の飼い主が責任を問われるのです。

 このことを、一人の人間に移し(置き)替えるとどうなるか。罪を犯す(犬)のは(情動・衝動・情念)です。その持ち(飼い)主はだれですか。倫理の筋からすれば、罪を犯した当人ですね。でも、当人を裁けない場合は、誰を裁くのか。心神耗弱状態で、適切な判断は不可能だったら、罪は問えないこととなっているのが、現行裁判制度の根底にある思想です。誤解を恐れずに言います。人間は弱い存在だという、その意味は「情動」「衝動」「情念」という本能に根ざす感情は、あるいは当の本人ですら制御できないことがある。制御不能だったから、事件(犯罪)になるのです。犬(情念)と飼い主(当人)という構図が成り立たないことが起こり得る。普段は冷静だったが、なにかのきっかけで、「カッとなって」ということは誰にも起こりうることです。「あんなことをする人だとは信じられない」のは、自分の情動を管理(自制)していて、鎖でつなぐことができていた「人間」を見ていたからです。しかし、「衝動にかられて」(自制心が失われて)、つまりは「主人」から自由になって暴力に走った。だから、「信じられない」となるのです。

 「罪を憎んで、人を憎まず」としばしばぼくが言いたくなるのは、罪(情動と言い換えても構わない、これを加賀さんは「悪魔のささやき」と言われた)は確かに裁かれる必要はある、しかし、その「持ち主」とは言い難い、(当人ですら、どうすることもできなかったのですから)人間が裁かれるのは理にかなっていることか、問題はここにあるのではないでしょうか。幼児が銃を乱射して人を殺害したとして、誰が裁かれるのか。ぼくに言わせれば、第一には「銃」です。でも、銃に責任能力がないのは明らかですから、幼児に問責の矢は向かうでしょう。しかし、幼児も「銃並み」で「責任能力」はないとするなら、裁かれるのは誰かという問題が残ります。「保護者」ですか。

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 米で4歳男児が銃振り回す 父親を逮捕、TVで生中継【ニューヨーク共同】米中西部インディアナ州インディアナポリス近郊のアパート廊下で、男児(4)が実弾入りの拳銃を振り回し、警察は17日までに保護責任者遺棄の疑いで父親(45)を逮捕した。米メディアが伝えた。警察に密着していたテレビ番組の生中継で男児の映像が放送され、衝撃が広がっている。  14日夕、銃を持った男児がいるとアパート住民から通報があった。引き金に指をかけて発砲するふりをする様子が防犯カメラに写っていた。駆け付けた警察官が男児の住居から銃を押収し、父親を逮捕。弾倉に15発入っていたが薬室に装填されておらず、すぐに発砲できる状態ではなかった。(KYODO・2023/01/18)

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 「恐ろしいのは、こうした自分ではないような意思が人をとんでもない犯罪へと走らせること」というコラム氏の指摘は、もっと深く考えなければならない問題を含んでいるように思われます。自分ではないようなものが犯した「犯罪」の責任を問われるのは「自分」なのだとするのが近代裁判精神の姿(思想)でしょう。報復主義と言ってもいい。それで、しかし、一体何が解決したのか・されたのか。なんともいえない後味の悪さだけが残ります。(ここから、幾つかの問題を検討しなければならないのでしょう。しかし、天候が悪くなってきたのと、猫たちが寒がっているので、その世話・養生もしなければなりません。かみさんは外出中。ひとまず、ここで駄文を閉じます。稿を改めて、いずれ続きを)

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 戦争の足音が聞こえるって、「空耳」かな?

  ぼくの目も耳も、ただの節穴なのか。「戦争の足音が聞こえる」と言われても、ぼくの目には「徴候(兆候)」は見えないし、微かな摺足(すりあし)の音すら、ぼくの耳は聞き取れない。この「戦争の足音」は、ただいまウクライナで生じている「戦争」を指しているのだろうか。他国における「戦争」や「戦場」「戦禍」の報道は、これまでも一瞬も止むことはなかった。取り立てて「聞こえる」と言うのだから、この「戦争の足音」は島国に関わる(起こる)ものだというのだろう。そうだとして、どんな「足音」がしているのか。(この駄文は、昨年の「真珠湾攻撃・八十一年目(記念の日・12月8日)」に書こうとしていた問題でした。「反撃能力≒敵基地攻撃能力」をどれだけ強めても、「先制攻撃」で戦争は始まりはするが、終わりはしない。それを百も承知で「政治家」は戦争する国になりたがっているし、したがっている、その愚挙・暴挙を、ほとんどのマスコミは尻押し、尻馬に乗っていたと、ぼくは思う。管見の限りで、唯一、東京新聞(中日新聞)だけがこれに触れていた。でも、「戦争の足音が聞こえる」と当紙は書くが、ぼくには、ついぞ聞こえてこない、それを言いたかった)

 あえて言うまでもないじゃないか。この間に示された政府の独断・独裁的な「国防政策」「軍事費倍増」の強引な導入や決定を見れば、誰にも「足音」は近づいているのがわかる、東京新聞を始め、多くの国民にも「足音」が聞こえているから、そういうのだろう。それは、しかし「妖(あや)かしの音」であって、冷静に観るなら、聴くなら、「前触れ」」も「足音」も見えない、聴こえないのだ。「妖かし」の正体は何か。「正体見たり、枯れ尾花」だとしたら、とんだお慰みさ。「仮想敵国」をでっち上げて、戦争準備と称して、完膚なきまでに叩きのめされた現「超軍事大国」の属国への道をひたすら走っているに過ぎない。過ぎないというが、それは大変な事態で、両者間での「安全保障条約」を締結させられているがゆえに、「独立」を奪われ、領土を乗っ取られているのだ。(だから、結果として「アメリカの戦争」に加担させられる危険性は甚だ大であると、ぼくも考えている。だとしら、「アメリカの戦争の足音が聞こえる」というべきではないですか)

 ぼくの耳・目は故障しているのかもしれない。国防関連の問題で政権党は、必要以上に「騒ぎ、煽り立て」、政府は強引に「当初の計画」を閣議決定した。その経過を針小棒大に報道して、火の元は狂ったように加熱しているのだ。要するに、「戦争する国」という看板を掛けたかったのだ。これが「一等国」の印だと、まるで明治時代の大方の世論が示した「錯誤・錯乱ぶり」です。当時、漱石はなんといっていたか。空騒ぎも強引な手法も(大山鳴動ぶり)、「筋書き通り」で、本気で「戦争」するための序奏(第一歩)だと、ぼくには思われない。一体、(この小国は)どこと戦争するというのか、どこが(この小国と)戦争をするというのか。中国や北朝鮮やロシアだと広言されているが、それらの「敵対国」はこの小島国を相手にするとは、ぼくには微塵も考えられない。「戦争の足音」を立てているのはこの島国ではない、島国のごく一部の覇権屋であるのは確かでも、本筋は、アメリカの忠実な属国(家来)として、戦費も兵隊も、万事怠りなく準備しておけと命じられたから、「小間使い」「ATM」として、精一杯の背伸びをして「役割」を果たそうとしているに違いない。何のためか、おのれの地位や身分を宗主国に保証してもらうために、だ。その格好の見本が、先ごろまで存命していたではないか。史上最長不当政権を騙った、例の「虚言総理」さ。

 日本が焦土と化した太平洋戦争は一九四一(昭和十六)年のきょう十二月八日に始まりました=写真は、開戦を伝える国民新聞(中日新聞社が発行する東京新聞の前身の一つ)夕刊。あれから八十一年。憲法九条に基づく「専守防衛」が大きく変質しようとしています。耳を澄ませば、戦争の足音が近づいてくるようです。 / 戦後日本の防衛政策は、戦争放棄と戦力不保持の憲法九条の下で組み立てられてきました。日本の安全保障を米軍の攻撃力に委ね、日本の自衛隊は専守防衛に徹するという役割分担です。 / 自衛隊の装備は自国防衛目的に限られ、「他国に侵略的攻撃的脅威を与える」攻撃的兵器は、あえて保有してきませんでした。 / それは日本人だけで三百十万人というおびただしい数の犠牲者を出し、交戦国だけでなくアジア・太平洋の人々にも大きな犠牲を強いた戦争への反省に基づくものでした。日本は再び軍事大国にならないとの誓いでもあります。 ◆平和国家を歩んだ戦後  安倍晋三内閣当時の二〇一三年に策定された国家安全保障戦略は次のように記します。 /「我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持してきた」 /「こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない」 / この平和国家としての歩みを大きく踏み外すのが、岸田文雄首相が年内に予定する国家安保戦略、防衛計画の大綱、中期防衛力整備計画の三文書改定です。  その狙いは、他国領域を攻撃できる、政府与党が反撃能力と呼ぶ敵基地攻撃能力の保有と、防衛力強化のための財源確保です。 / 歴代内閣は、他国領域にあるミサイル発射基地への攻撃は「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」と憲法九条が認める自衛の範囲内としつつも、他国を攻撃できる兵器を平素から備えることは「憲法の趣旨ではない」ともしてきました。 / 長射程の巡航ミサイルなど、これまで保有してこなかった敵基地攻撃能力を実際に持てば、専守防衛を逸脱することになります。 政府は、この敵基地攻撃能力を安倍内閣が一転容認した「集団的自衛権の行使」にも使えるとの見解を示しています。日本が攻撃されていないにもかかわらず、他国領域を攻撃することになれば、他国同士の戦争に積極的に参加することにほかなりません。 / 岸田政権が敵基地攻撃能力の保有検討に至った背景には、軍備増強を続ける中国や、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮の脅威があります。周辺情勢の変化に応じて安保政策を見直し、防衛力を適切に整備することは必要です。 / しかし、軍事力に軍事力で対抗することが地域情勢の安定につながるとはとても思えません。逆に軍拡競争をあおる「安全保障のジレンマ」に陥るのは必定です。 ◆軍拡増税という分岐点  抑止力の向上が狙いでも、攻撃的兵器をたくさん備え、他国領域も攻撃できると声高に宣言するような国を「平和国家」とはとても呼べない。戦後日本の平和を築いてきた先人への背信です。 / 岸田首相は二三年度から五年間の防衛費総額を現行の一・五倍超の約四十三兆円とし、二七年度には関連予算と合わせて国内総生産(GDP)比2%にするよう関係閣僚に指示しました。二二年度の防衛費約五兆四千億円はGDP比約1%ですので倍増になります。 / そのための財源をどう確保するのか。政府の有識者会議は歳出改革とともに「幅広い税目による負担」を求めています。 / 物価や光熱費が高騰し、社会保障費負担も増える一方、賃金はなかなか上がらず、国民の暮らしぶりは苦しくなるばかりです。 / いくら防衛のためとはいえ、国民にさらなる増税を強いるのでしょうか。国民を守るための防衛費負担が暮らしを圧迫することになれば本末転倒です。とても「軍拡増税」など認められません。 / 戦争はいつも自衛を名目に始まります。そして、突然起こるものではなく、歴史の分岐点が必ずどこかにあるはずです。 / 将来振り返ったとき、「軍拡増税」へと舵(かじ)を切ろうとする今年がその分岐点かもしれません。感性を磨いて耳を澄ましてみると、戦争の足音がほら、そこまで…。(東京新聞・2022年12月8日 07時46分)(上の二枚の写真も)

 戦後体制(レジューム)の総決算と、総理たるものはだれでも宣言したいらしい。まるで蕎麦屋の釜(かま)だね。その心は「ゆ(湯)ーだけ」です。そのためにアメリカに数十兆円の「古式武器」購入を強いられ、自衛隊の増強を唆された、「勝共連合」の一部として、この劣島は米国の「戦争図」に書き込まれていたのが戦後一貫した有り様でした。中国建国、朝鮮戦争の勃発、ソ連の覇権主義の膨張、これらはすべて「共産主義」を売りにする国々。だからこそ「極東小国、ジパングは防共の防波堤(砦)」となるべきだし、その任を振られたのが、この島国の戦後でした。それを「ご破算」にし、「日本を取り戻そう」と雄叫びを上げたにもかかわらず、最難関敵国である米国に「自己権力」を承認してもらいたくて「売国の挙」に出たのは誰々だったか。米国の言いなりになる道しか取ら(取れ)なかった上での、悪い「いたずら(軍事大国化)」だった。今からでも遅くない、誤りを正すには。

 「感性を磨いて耳を澄ましてみると、戦争の足音がほら、そこまで…」と、「社説」氏は、「怖いこと」を繰り返します。どこから聞こえるのですか?あるいは「王様の耳はロバの耳」のように、かすかな音でも聞き取れる「ロバの耳」をお持ちなのも知れません。もちろん、何時だって、どこかしらで「戦争の足音」はしています。あまり聞きたくもない「恐音」ですけれど、この世には「覇権」を我が物にしようという「欲張りの王様」がいるのですから、聞こうとすると、聞こえるのでしょう。でも、いくら感性を磨いても、この小島国が戦争するというのは、嘘っぱちでしかないでしょう。どこが、相手をしてくれますか。「戦争をさせられる」「戦争に巻き込まれる」というのなら、そのように書くのが正解ではないでしょうか。そのような他国による「戦争の足音」すら、ぼくには聞こえては来ない。

 再言します。アメリカが起こす「戦争」はあるでしょうし、そこに巻き込まれる(集団的自衛権)危険性は十分にありえます。だから、こそ、属国から「自立・独立」した島社会になるための政治をこそ、ぼくたちは求めることが望まれているのです。「王様の耳は長かった」けれど、それで大切な事柄が聴こえなかったのではありません。自意識過剰だったに過ぎない。「軍備を備えよ」、そうしなければ、敵が攻めてきても遅いぞというのは「被害妄想」以外の何物でもない、作り話でさえありません。「少しばかり長い耳」を気にしていただけの話。気にしなければ誰も何も言わない。隣人と仲よく、それは小さなことの積み重ねで出来上がるものです。敵国視するばかりでは、仲良くしたくないという信号を常に発しているこことになる。新聞も、どんな足音が、どのように聴こえてくるのか、「ほら、そこまで」という、その実況を丁寧に書いていただきたいですね。アメリカに好かれたいし、そのアメリカはこの島国を属国視してきた。さて、政治家の皆さん、どうするのですか。「再度、一戦を交えるのですか、宗主国と」 

 アメリカから「時代遅れの武器」を買わされながら、アメリカと戦う、文字通り、日米決戦の再現ですね。当時も、アメリカ(敵国)から石油を買い求めていたのだ。闘魂の「EU諸国」のようですね。その石油輸入国と戦争するというのは(無謀)、「正気の沙汰か」というものだと、赤子・赤児でも知っていたでしょ。(真珠湾攻撃は、まさしく「敵基地攻撃能力」だった。「虎の尾を踏む」という掟破りでしたね)(写真は「1941年12月7日の真珠湾攻撃で沈む戦艦アリゾナ」Navy/U.S. Naval History and Heritage Command/Reuters:https://www.newsweekjapan.jp/furuya/2022/03/post-24.php)

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 情報は操作され、加工されるもの

【斜面】防衛のステマ 発信力が強く他人の行動を変えうる交流サイト(SNS)の投稿者はインフルエンサーと呼ばれる。若者に人気が高い中国系動画投稿アプリの運営会社が昨年末まで、こうした投稿者20人に計7600万円を支払っていたと報じられた◆アプリ入手を促すような投稿を依頼していた。一般の投稿に見せかけ、広告目的を隠すステルスマーケティング(ステマ)だった疑いが指摘された。担当者は後ろめたさがあったのか。インフルエンサーに打診する際には、別の会社名を名乗ったそうだ◆ステマと似た手法らしい。防衛省が検討する世論工作でデジタルある。人工知能(AI)を使ってSNSの投稿など大量の情報を収集・分析。防衛問題に関心がありそうなインフルエンサーを特定する。頻繁に利用するSNSやサイトに情報を流し、有利な情報を拡散するように仕向ける◆これなら姿を隠したまま世論を操作できると踏んだのか。ウクライナ戦争に乗じるように政府は中国や北朝鮮への抑止力を高めると軍拡に躍起だ。有事体制を整えるジグソーパズルの最後のピースは、特定国への敵対心を国民に醸成する心の動員だろう◆ロシアは偽情報をSNSで広げ反戦世論を抑え込んでいる。世論操作はお手の物の中国は台湾に情報戦を仕掛けていよう。人々の心の中に軍靴で入り込む独裁国家だ。日本の政治家に哲学者ニーチェの警句を届けたい。〈怪物と闘う者は、闘いながら自分も怪物とならぬようにするがよい〉              ■あとがき帳■ 2016年米大統領選は、ステルスマーケティングの手法が選挙に悪用された例でもあります。フェイスブックの利用者8700万人分のデータを英政治コンサルティング会社が入手。人工知能(AI)で利用者が「いいね!」を付けた投稿などから個人の特性をつかみ、それに合うフェイクニュースや評論に誘導しました。/「ローマ法王がトランプ氏支持表明」などの偽情報が拡散しトランプ陣営を利したとされます。ツイッターなどのSNSは誰もが情報の発信者になれます。国家に閉じ込められている民の声を世界に届けられる一方、国家が世論操作にも使える両刃の剣です。/ 有事になれば国家は血眼で情報や思想の統制に走ります。古今東西、戦争の歴史を振り返れば明らかです。ロシアや中国が特別なのではありません。そうした目で防衛省の世論工作研究を注視していきたいと思います。/ ニーチェの言葉は中山元訳「善悪の彼岸」から引きました。(論説主幹 丸山貢一)(信濃毎日新聞デジタル・2022/12/13)

(右写真はCNN・2020.02.23の配信より。「ノースロップ・グラマンのB2スピリットは1989年に初飛行した。21機が米空軍で就役中だ/USAF/Getty Images North America/Getty Images」)                    ● ステルス=ステルスは〈隠密〉のこと。軍用機などの機体を敵のレーダーに捕捉されにくくする技術。機体材料・形状,電子装備を改善し,レーダー波の反射や赤外線の放出量を減らし,また放出電波を傍受されにくくする。ステルスは,1989年のパナマ侵攻の際,戦略爆撃機F-117Aで使われ,また1991年1月の湾岸戦争でも使用された。ステルス技術は艦船,ミサイル,戦車にも使われている。(マイペディア)

 「防衛省が検討する世論工作でデジタルある」とあるのは「世論工作デジタルである」のか。それでも文意は要領をえませんが。これもまた、「ステマ」の一種なのかしら。それはさておいて、世は「ステマ」ばやりです。何も今に始まったことではありません。広告や宣伝は、顧客を誘導し、虜(とりこ)にするために考案されてきたのですから、SNSだから特別というものでもないでしょう。たしかに時代の流儀というものはある。それを徹底して使わなければ、むしろおかしいというばかりの時代の勢いです。「ウクライナ戦争」で「偽旗作戦」ということが繰り返し指摘されてきました。敵を欺くためなら、白旗であろうが赤旗であろうが、何でも旗にして、相手を信じ込ませる、油断させるのであって、こうなると、防衛省にとって「国民」は騙すべき「敵」となるのです。味方に向かって銃を打つ、そんな「戦争」がすでに始まっているのです。

 ぼくは携帯もスマホも持っていない人間ですから、完全な「時代遅れ」です。便利な道具は、危険な武器にもなるという一例でしょうね。未知の人間と、いとも簡単に繋がり、そこからいろいろな事件や事故が生じていることも報道で知るばかりです。「なりすまし(spoofing)」というものも横行しています。「敵対国」「仮想敵」作り、加えて、「好戦」国家に仕立て上げるのに躍起にならなければ、国防予算も自衛隊の株も上がらないとでも思っているのかしら。「自衛隊」というのですから、あくまでも「国防」の範囲で戦う存在だと長い間言われてきました。言われてきたけれども、じつは大変な攻撃力も備えた、立派な軍隊です。自衛隊は軍隊ではないという「屁理屈」が相場になっていましたが、一体、誰がそれを信じていたか。ぼくに言わせれば、自衛隊そのものが国民には「ステルス」だったのです。

 情報操作といい、世論誘導という。マスコミもこぞって、「防衛省の世論工作」の危険性に警鐘を鳴らしているつもりでしょう。しかし、これを言い換えれば、マスコミはまぎれもない「マッチポンプ」です。マッチで「火付け」しておいて、当人が「火消し」に走るという、ここに長谷川平蔵が存命だったら、なんとしたでしょう。といって、いかに「鬼平」であろうと、防衛省や他省庁の「マッチポンプ」にはお手上げだろうと、ぼくは推定する。池波さんがいたらなんというか。ぼくは確信しているのは、この島社会は、第二の「北朝鮮」になるだろうということです。人民の生活は苦しく、子どもを産めないどころか、結婚したくもできないほどに夢のない社会になっているし、長生きすれば、まだ生きているのかと嫌な目で睨まれ、税金食い虫と詰(なじ)られる。それでいて、ミサイルだ爆撃機だ、潜水艦だステルスだと、まるで大声を上げて「市中に火を放っているような狂態」を演じている政治家や軍関係者、いかにも額に青筋立てて興奮しているのです。とにかく、武器の中身は何でもいい、先ず金額だと防衛力倍増のために軍事費倍額をむしり取るという、火付けよりも悪質です。

 殆どのマスコミは、大本営発表を垂れ流し、国民は「軍事力増強」に反対しない。やむを得ないと言っていながら、日常生活を直撃している物価高を嘆くのです。一体この小さな島は、さしあたって、どこと戦争状態に入るのでしょうか。まさか北朝鮮と一戦を交えるなどと、誰が考えますか。第一、北朝鮮は、表向きではあれ、日本には見向きもしない。では、中国ですか。「台湾有事は日本有事」だと白昼寝言を垂れていた元総理がいました。中国と台湾は同族・同胞ですよ、他国の介在はありえないというのが、中台の意向です。アメリカは中国と事を構える気はいささかもない。戦えば、互角か、あるいは負けるか。戦争をしないけれど、その「体制」を整えるためにステマもするし、軍備をととのえる、それで「儲かる」連中がいることこそが、ステマの本当の主人公なんですよ。政治家はその主人公のおこぼれに与るだけの存在です。日本だって同じです。防衛費倍増というが、それは国防のためではなく、アメリカの指揮命令があるからです。アメリカのためなんです。ある種の「戦争ごっこ」をしている限り、身の安全は保てるし、金は回ってくるという話です。つまりは「世界中はマッチポンプで満杯」だということですね。

 この島の「国力」(この言葉は嫌いです)を測る、いろいろな指標は日に日に世界の奈落に落ちています。上位である必要はありませんが、一日を暮らし、明日も暮らせるというわずかばかりの「安心感」を得たいにもかかわらず、生活は困窮し、軍備は世界第三位になろうという、この魂消た「先軍国家」を、誰もが嘲笑しているのではないでしょうか。人民は泥を舐めても、ミサイルを飛ばし核を保持しようと狂奔している、第二の北朝鮮という所以です。そのために【ステマ」作戦を防衛省は展開しようというのでしょう。

● 先軍政治=朝鮮人民軍の最高司令官、国防委員長でもある金正日(キム・ジョンイル総書記の指導理念。「軍隊は人民であり、国家であり、党である」とする軍・軍事を最優先させる統治方式。労働党の機関紙・労働新聞によると「革命と建設のすべての問題を軍事先行の原則で解決し、軍隊を革命の柱にする政治方式」だという。(知恵蔵)

 「将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ」という。今日、この島の要路に立つ人々にとって、「将」はだれで、どこにいるんですかと、訊きたい。どこにいるかわからない「将」は後回ししに、先ず「馬」です。「馬」は誰だとおもいきや、ひょっとして「国民」だったのか。そいつらを騙し、誘導し、何よりも攻撃能力は不可欠だと言わしめたいのでしょうが、無駄というより、二番煎じです。わざわざ、防衛省が直々に出る幕はありません。そのための「マスコミ」ではないですか。当局が期待する以上に「忖度」しまくっているではないか。総理大臣や幹事長などの「記者会見」を見たり聞いたりしていると、腹が立つというか、怒りを通り越して、わが社会の学校教育は「見事な成績」をあげたと嘆息するばかりです。あたかも「枢機の方」に伺いを立てる趣がありましたね。わざわざ身を隠してまでの苦心はいらない、白昼堂々と「嘘八百」を垂れ流したとして、確実にそれを一字一句変えないで「報道」してくれる、おかかえの「広報」がいるではないですか。

 「日本の政治家に哲学者ニーチェの警句を届けたい。〈怪物と闘う者は、闘いながら自分も怪物とならぬようにするがよい〉」とコラム氏は書かれる。なるほどと頷いた上で、さらに「報道機関の方々」にも、と書き忘れてはいけないでしょう。そのような時代や時期があったかどうか、ぼくにはわかりませんが、「新聞(マスコミ)は第四の権力」と言われていた。実際に「第四権力」だったのではなく、そうであることが願わしいということじゃなかったでしょうか。既成の「三つの権力(六法・司法・行政)」をいつでも監視する存在(watching dog)でなければならないということで「第四の」とされたのだ。いまは違う。これまでも違っていた。自分たちは間違いなしに、三権力に並ぶ「第四権力」だと大きな錯誤を持ちつぢけてきたし、今も、本体(国家および自社)が壊れそうになっているにも関わらず「第四権力」と自称(詐称)しているのです。

● だいよん‐けんりょく【第四権力】=ジャーナリズムのこと。国家三権である立法・司法・行政に次ぐ影響力をもつことから。(デジタル大辞泉)

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