国家が嘘をつくのか、人間です、嘘つきは

[大弦小弦]西山太吉さんの胆力 メディア界を追われて30年近く。再び表舞台に立った西山太吉さんは、エリート記者のプライドや振る舞いを身にまとったままだった。ペンを折り、親族の会社で働いた日々をどう過ごしたか▼沖縄復帰前年の1971年、西山さんが突き止めたのは政府の裏切り。国民に隠れて米国が負担すべき費用の肩代わりを密約していた▼西山さんが逮捕、起訴された72年、問題視されたのは取材過程。密約暴露に慌てた権力は、西山さんが外務省の女性事務官と「ひそかに情を通じて」資料を入手したとわざわざ起訴状に記した▼「記者逮捕は知る権利の侵害」などという論調は雲散霧消した。優れたノンフィクション作品が独立した男女の関係を伝えたが、世の非難は西山さんに集中した。情報源を守れなかった西山さんは黙して語らなかった▼米公文書が西山さんの報道の正しさを証明したのは2000年代になってから。取材を受けるようになり、再びペンを執った西山さんは身をもって経験した権力の犯罪と恐ろしさを指弾した▼13年、特定秘密保護法の成立直前は、こう教えてくれた。「情報が取れなくなり、記者の気力、胆力がなくなる。自棄的になる。それが権力の一番の狙いだよ」。西山さんが旅立った今、権力はますます強くなっている。記者の気力は、胆力は、足りているか。(阿部岳)(沖縄タイムスプラス・2023/02/27)(ヘッダー写真〈普天間基地〉も・2022年8月28日 14:22)

<金口木舌>密約事件は終わっていない 毎日新聞記者だった西山太吉さんが沖縄を語る時、いつも「見せかけ」という言葉を使った。返還協定は「国民をあざむくための見せかけだ」というように▼沖縄返還に絡む密約を報じ、罪に問われた。「沖縄返還密約事件」である。それがスキャンダルとして扱われ、当時は「西山事件」などと呼ばれた。事件の歪曲(わいきょく)にメディアも手を貸した。敏腕記者は筆を折った▼2000年以降、密約を示す米公文書が明らかになり、西山さんは密約文書開示を求めて国を訴えた。闘いを多くの同志が支えた▼元記者の不遇に思いを寄せる人がここにもいた。05年秋、西山さんを招いた那覇市での集会。県祖国復帰協議会の事務局長だった仲宗根悟さんは声を震わせ「沖縄から力になれなかった」とわびた▼西山さんの訃報に接し、20年前の取材を思い出す。眼光は鋭く、身ぶり手ぶりを交え、まくし立てるように話した。今も政府は密約を認めない。そればかりか、基地負担軽減に名を借りた新たな「見せかけ」で県民を惑わせる。「返還密約事件」は終わっていない。(琉球新報・2023/02/27)

● 沖縄返還密約【おきなわへんかんみつやく】=日米両政府が,1971年の沖縄返還協定締結の際に,米軍が負担するはずだった土地の原状回復費などを日本側が肩代わりすることなどを取り決めたとされる密約。当時,毎日新聞記者だった西山太吉が,この交渉に関する外務省機密電文を省職員に持ち出させたとして国家公務員法違反で有罪判決を受けた。日本国政府は国会などで密約の存在を否定したが,2000年,この密約を裏付ける内容の米公文書が発見された。2005年,西山は,国家による情報隠蔽・操作を問題として,国家賠償請求を地裁に提訴したが,東京地裁は密約の存在にはふれず,賠償請求の除斥期間を過ぎており請求の権利がないと訴えを棄却。日本国政府はその後も一貫して密約の存在を否定し続けていた。2008年,情報公開法に基づき,作家・研究者・ジャーナリストらが,密約文書の開示を外務省・財務省に請求,両省は文書の不存在を理由に不開示を決定,作家らは提訴した。2009年,この訴訟に関連して証人として出廷した元外務省アメリカ局長吉野文六は,密約の存在を証言,また一方,同年政権交代を果たして発足した鳩山由紀夫内閣の岡田克也外務大臣は,沖縄返還時の協定を含む日米密約の存在の調査と情報開示を外務省に指示した。さらに,沖縄返還交渉当時の首相佐藤栄作の私邸から核密約に関わる覚書が発見されるなど,密約が存在したことは確実となった。2010年4月,密約訴訟について東京地裁は外務省の非開示処分を取り消し,文書開示と原告に対する損害賠償を国に命じた。外務省はこの判決を不服として控訴している。(マイペディア)

西山太吉さん死去 沖縄返還密約を報道 沖縄返還での日米密約を報道し、一九七二年の外務省機密漏えい事件で有罪が確定した元毎日新聞記者西山太吉(にしやま・たきち)さんが二十四日、心不全のため死去した。九十一歳。山口県出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は長男正人(まさと)さん。/ 毎日新聞政治部記者だった七二年、外務省の女性事務官に沖縄返還での日米密約に関する機密公電の漏えいを働きかけたとして、国家公務員法違反容疑で警視庁に逮捕され、起訴された。東京地裁は七四年、無罪判決を言い渡したが高裁で逆転有罪となり、七八年に最高裁で確定した。/ 二〇〇〇〜〇二年に密約を示す米公文書が相次いで見つかったのをきっかけに〇五年、違法な起訴や誤った判決で名誉を傷つけられたとして、国に謝罪と損害賠償を求めて提訴。〇八年に最高裁で西山さんの敗訴が確定した。/ 〇九年には原告の一人として、密約文書の非開示処分取り消しを求めて提訴。東京地裁は一〇年、密約の存在を認定して国に関連文書の全面開示を命じ、原告一人当たり十万円の賠償も認めた。東京高裁で逆転敗訴し、一四年に最高裁で確定した。 /外務省機密漏えい事件の一審判決後に毎日新聞を退社。北九州市で親族の青果会社で働いた。05年の提訴後は安全保障問題や報道の自由について講演などで積極的に発言。著書に「記者と国家 西山太吉の遺言」「沖縄密約 『情報犯罪』と日米同盟」など。作家の故山崎豊子さんの小説「運命の人」のモデルになった。(東京新聞TOKYO Web・2023年2月26日 07時19分)

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 戦前も含めて、国家権力はどれだけ「嘘」をついてきたか。ぼくの感覚では「政治家は嘘つき」なのではなく、「嘘つきが政治家」だと信じているところがある。もちろん、誰も彼もが嘘つきだというのではなく、政治権力にありついた人間は往々にして「大嘘つき」だというのです。西山さんの生涯のある部分は、国家権力のつく嘘を暴(あば)いたという明の部分と、それを理由に人生を棒に振る他なかったような権力の仕打ちに敗れた暗の側面があるでしょう。政治家を引退した後に、大変な買収工作をして「ノーベル平和賞」を掠め取った S 元首相は、その政治歴の中で幾多の嘘を付き続けてきました。こと沖縄に関しては「西山事件」とされた「沖縄返還密約」問題であり、他は「沖縄への核持ち込み」密約であります。それを外務省の官僚をも騙してまで、アメリカの言いなりになったことは「売国の極北」ここに尽きるというほかないような、犯罪だったと思う。それが「ノーベル平和賞」でした。西山さんがもたらした波紋は、今もなお続いています。この問題を巡って幾つもの疑問がぼくには拭えないのです。国家という入れ物は、誰のものなのか、誰のために存在しているのかという、何処まで行っても尽きない疑問です。(それはまた別の機会にします)

 銃弾に倒れた元総理は、口から出ると「嘘」という致命的な「性癖」を持っていた。話せば嘘ではなく、嘘しか話せないという代物だったと思う。こんな輩が国家権力の中枢に座り続けていたということ事態、国家という空虚な入れ物の、虚構性をつくづく感じざるをえないのです。人間は弱い存在だというのは、自分を偉く見せたい、大きく見せびらかしたいという態度や行為によって知られますが、政治家というもの、おしなべてそのような品性・資性を持っているがゆえに、大きな「虚栄」には、政治に関心を示す者にとって、ある種の憧(あこが)れがあるのではないか。だからこの「名代の嘘つき」は「最長不当(不倒)総理」を記録したのでしょう。大嘘つきであったがゆえの勲章だといえます。だからこそ、この社会の風紀や品性を著しく劣化させた報いとしての「国葬」だったと思う。

 現在の総理はどうか。彼には誠意も真摯さも探したくともないと言っておく。自らの進退をかけて政治判断をすることがどういうものかを知らないで、政治家三代目だ。「唐様で書く、三代目」の現代版の典型だともいえます。彼ほど「傀儡(かいらい)」が身についた政治家も稀有だと思う。取り巻きは、あるいは「くみしやすし」と北叟(ほくそ)笑んでいるだろう。神輿に担ぎ上げられて「浮足立つ」だけではない。彼は、この国の総理大臣ではなく、米国の下僕でしかないと言わなければなるまい。見識もなく、見通しも持たないで、誰かが運転する車(神輿)に載せられて暴走するばかりです。口から出任せといいますが、彼の場合は、「出任せ」ではない、ことごとくが「食言」だと言い換えたほうがよろしい。「食言」とは「名](スル)《一度口から出した言葉を、また口に入れてしまう意》前に言ったことと違うことを言ったりしたりすること。約束を破ること」(デジタル大辞泉)です。いちいち例を上げない。須(すべか)らくが「食言」ですから。それは「飾言」に重なる。聞いていられず見ておれず、です。第一、支持率がいくらかとは言え、ある事自体が恥ずかしい限りと、ぼくは言いたくなるのです。とどのつまりは「政治とは、嘘で塗り固めた食言の羅列であり、結局は「金(税金)配り」だと、彼は心得ているのだ。

 国家が嘘をつくのではない。あくまでも、その主語は人間です。権力の座にある人間は「国家そのもの」ではなく、一種の政治制度や機関の「運転手」であり、「車掌」です。その限りでは、人品骨柄はともかく、人間です、その人間が「国を騙り、嘘をつく」のです。このところの国家機関側の「情報秘匿」は目を覆うばかりであり、公開されたものが真っ黒の墨だらけとは、「情報公開」の名に値しないばかりか、「知る権利」を有する人間事態を蹂躙・罵倒していることになるのです。

 この点に関しては、これまでにも繰り返し言ってきました。何度言っても足りないほどに重要なものです。ある事実を「曲げて話す」という情報操作もまた「知る権利」の侵害であり、人権を踏み躙(にじ)ることにいささかの「痛痒」も感じられない輩が政治家を名乗っているのは、ぼくたちの時代の恥辱であり、ぼく自身が辱めを受けているようなものです。ここ数年、西山さんは精力的にネットの番組に出られて発言を残された。その一つ一つを訊きながら、「国家の犯罪」という名の、権力に巣食う人間たちの「獰猛さ」に思いを馳せている。国家を「騙る」人間(政治家)の素性を暴いた彼を、断じて認められない有象無象がいるのもこの社会の実情です。以て瞑すべし、とは断じて言えない、この社会の惨状ですよ。

 国家権力と(新聞)報道の問題は何時でも問われ続けています。その報道も、今日では「体制」派が圧倒的で、おいそれと国家権力の腐敗や虚飾を追求することができなくなっています。もちろん、半世紀前だって事情は変わらなかった。だから一西山記者が必要以上に拡大投影されたのです。西山さんが特別のことをしたと受け止められるほど、それほど報道はその姿・役割を、権力の前で消し去ってしまったのです。いうも恥ずかしいが、記者会見で、質問に見せかけて、自分(自社)を売るようなハレンチ行為が目に付きすぎる。「何々を教えてください」「そのことについて、ご所見をお伺いします」と言うのは、質問なんかではないですね。教えを乞う言われが何処にあるのでしょうか。権力を撃つ・打つ・討つという気概というか。気骨が失われてしまえば、後は権力に抱きかかえられることにしか興味がなくなるのです。西山氏が特別の記者だったのでしょうか。そうであるともそうでないとも言えそうで、そもそも、そういう迷いこそが「報道」の頽廃であるということではないでしょうか。

【地軸】国家の嘘 家のガス灯が暗くなった。ところが男は誤認だと言い張り、「自分の感覚を信じるな」と妻を心理的に追い詰める。そんな戯曲を語源とする「ガスライティング」は、自らの利益のために他人を著しく誤解させる行為を指す。米国の辞書出版社が昨年、検索が急増した「今年の言葉」に選んだ。▼フェイクニュースや陰謀論の氾濫が関心を高めたという。ウクライナを「非ナチス化」、市民虐殺は「デマ」―根拠のない理屈を国家が言い募る。そうして侵攻を正当化するのを世界が目撃するさなかである。▼「国家のうそ」は、しかし遠い話ではない。沖縄返還の際、政府は米軍用地の原状回復補償費を肩代わりする密約を交わしながら、米公文書や元外務省局長の法廷証言で動かぬ事実となるまで、否定を続けた。▼先日死去した元毎日新聞記者の西山太吉さんは返還前、記事でその存在を示唆した。だが、機密公電を渡すよう働きかけたとして逮捕。起訴状で女性事務官と「ひそかに情を通じて」入手したと記された。外交問題は男女関係にすり替わり、事件は隠蔽(いんぺい)から漏えいへ変質。西山さんは孤立して記者を辞めた。それでも最後まで追及した。▼個人に犠牲を強いてうそを通す。似た構図は、財務省職員が決裁文書改ざんを苦に自殺した森友学園問題でも疑われる。権力の宿痾(しゅくあ)なのか。▼西山さんには報道機関が連帯して追及しなかったとの思いもあった。私たちの重い宿題である。(愛媛新聞ON LINE・2023/02/27)

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 弱さを隠さない、それが強いことの根拠だ

【金口木舌】ザ・ドリフターズのリーダーを務めたいかりや長介さんのドラマでの台詞(せりふ)である。「人間は元々弱い生き物なんです それなのに心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする」▼定評ある名脇役だった。台詞にも力がある。強くなると自分の痛みに鈍感となり「人の痛みにも鈍感になる」。そして「自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃」する▼自分を過信し、鈍感になったのか。市民団体などが杉田水脈衆院議員のブログ記事などを「差別扇動のヘイトスピーチ」と認めるよう国へ求め、5万筆以上の署名を添えた▼読み返すたびに胸が潰(つぶ)れる。2016年に国連女性差別撤廃委員会へ参加した女性らを「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさん」と投稿。18年には性的少数者らを「生産性がない」と雑誌へ寄稿した。今も差別と認めていない▼いかりやさんの台詞はこう続く。「弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい」。人を傷つける空疎な強さは社会を荒(すさ)ませてしまう。国民の代表が勘違いしてはいけない。(琉球新報・2023/02/23)(上写真は毎日新聞)

【社説】杉田水脈政務官 差別容認議員、なぜ起用 性的少数者(LGBT)への差別や偏見をあおる投稿や、性犯罪被害を訴える女性を「うそつき」呼ばわりする発言をしてきた自民党の杉田水脈(みお)衆院議員(比例中国)が、先日の内閣改造で総務政務官に起用された。/ 社会人としての資質さえ疑われる人をなぜ、内閣の一員にする必要があったのか。岸田文雄首相の掲げる「多様性を尊重する社会」にも逆行している。/ 疑問や批判の声が上がるのも当然だろう。岸田政権は差別発言を容認している、との印象を国内外に与えかねない。深刻に受け止める必要がある。 / 性的少数者差別の寄稿は2018年、月刊誌に掲載された。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもをつくらない、つまり『生産性』がない」と持論を展開した。/ 性的指向や性自認にかかわらず、誰もが人間として尊重されなければならない。それを否定するのは、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と変わらない。/ 20年には、性暴力被害に関する党の会議で「女性はいくらでもうそをつけますから」と述べた。謝罪と議員辞職を求める署名集めがインターネットで広がり、短期間で10万筆を超えた。強い批判の表れだろう。/ 同年の衆院本会議では、夫婦別姓を選べず悩む男女の例を紹介した野党の質問に「だったら結婚しなくていい」とやじを飛ばした。/ いずれも、国民の「選良」としてふさわしい言動とは到底言えない。さらに問題なのは、本人に差別意識や反省が乏しいことだ。先週の総務政務官の就任会見でも「過去に多様性を否定したことも、性的マイノリティーの方々を差別したこともない」と白々しくも言い切った。

 自民党の甘い処分が増長させているのではないか。「生産性なし」寄稿の際、当時の二階俊博幹事長は「人それぞれ政治的な立場、いろんな人生観がある」と事実上の不問に。「うそつき」問題でも、発言の5日後にようやく、下村博文政調会長が口頭注意しただけだった。政府や党の見解とは食い違う発言にもかかわらず、なぜ厳しい処分は下さなかったのだろう。/ 安倍晋三元首相との近さが指摘されている。中国比例ブロックで厚遇されたのも、それが理由だろう。もともと日本維新の会や次世代の党の所属で、その時から「女性差別は日本には存在しない」「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想だ」などと主張していた。/ 内閣のメンバーで資質が疑われるのは杉田氏だけではない。文部科学副大臣に起用された簗和生(やな・かずお)衆院議員は昨年、自民党の会合で性的少数者に関し「生物学上、種の保存に背く。生物学の根幹にあらがう」旨の発言をした。多様性尊重の政権目標が薄っぺらに見える人事だ。/ 日本政府は、性的少数者への差別を法律で禁じるよう国連から14年にも勧告された。しかし進んではいない。欧州連合(EU)全加盟国や米国の多くの州で、性的少数者への差別禁止法が制定されているのに比べ、対応の遅れが際立っている。/ もはや、差別容認発言をした議員個人の問題ではなくなっている。問われているのは、岸田首相の見識や任命責任だ。今すぐやめさせるべきである。(中国新聞デジタル・2022/08/23)(上写真はNHK)

杉田政務官が辞表 「年末の節目」総務相「本人が決断」 松本剛明総務相は27日、総務省内で記者団の取材に応じ、性的少数者を巡る過去の不適切な表現が批判された杉田水脈総務政務官(衆院比例中国)が辞表を提出したと明らかにした。8月の就任後、過去の差別的な言動が波紋を広げ資質が問題視されていた。/ 松本氏は「政府の一員として迷惑をかけてはいけないと考え、判断したという報告だった。本人の決断を受け止めた」と述べた。/ 杉田氏は省内で記者団に「2022年度第2次補正予算が成立し、年末の節目というタイミングで辞表を提出した」と話した。(中国新聞デジタル・2022/12/27)

 本日の駄文を綴る発端はコラム氏が書かれているチョーさんの「セリフ」です。「人間は元々弱い生き物なんです それなのに心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする」、強くなったつもりになると、自他の感情に対して鈍感になる。「自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃」する。本当に強い人間は他人を攻撃なんかしないのに、です。ぼくは腹の底から「自分の弱さを隠さない」「自分の弱さを自覚する」ということを徹底しようとしてきました。まだまだ不十分だという自覚がある、だから「弱い自分」に見合った生き方をしようと精進しているつもりです。そこからの結論というものでもありませんが、「自分の弱さを知り抜いた、その事実(感覚)が、その人の強さなんだ」と言いたいですね。弱いこと、足りないところがあること、欠点いっぱいの人間だと知れば知るほど、それを矯(た)めしたいという意欲が湧いてくるといいのですが。弱さに堪えきれずに、多くの人は弱さを隠す「代用品」を探し、求めるのでしょう。まるで「虎の威を借りる狐」みたいに。狐は自分で、虎は「権威」なんだな。

 その第一は「高学歴」というか、世評に高い学歴を得ることに賭けます。悪いことに学校教育はその「高学暦競争」に拍車をかける。評価の高い学歴を得たら、同じ自分に変わりがないのに、自分が偉くなったと「錯覚」するのは避けられない。第二に、「高い身分」に就くことで、自分は偉くなったと大きな誤解をするのも避けられない。「高い身分」といいますが、今は身分社会ではありませんから「高い(とみなされている)地位」といえばどうでしょう。多くは「☓☓長」と呼ばれる地位です。会長・社長・村長・市長などのように。それから「先生」と呼ばれる職に就くことが、第三です。「(議員)先生」とか「校長先生」と、他人から呼ばれると(どうだ、偉いんだぞ)という気になりやすい人が実に多い。先生は偉くもなんともない。単に早く、先に生まれただけの人。それだけのことです。だから、ぼくの前には無限・無数の「先生」がいる。年上(年長者)である「先生」に対して、ぼくは後から遅れてきたものです、それを「後生(こうせい)」という。先生と後生、これが実際の意味です。先生まれと後生まれ。「子曰、後生畏るべし。焉(いづく)んぞ、來者(後世の人)の今に如(し)かざるを知らんや」(論語、子罕)

 そして、チョーさんの決め台詞「弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい」もちろん、これは芝居のセリフだから、間違わないように。問題は「偏見と差別」問題でした。「差別発言」をした。それを追求され、撤回し謝罪する、これで一件落着か。発言を取り消したけれども、発言した「事実」は消えない、これをどうしますか? しばしば差別発言と指摘されても撤回しない輩がいます。これを確信犯というのでしょう。ここまで来ると、その発言は犯罪行為だし、取り消しても済まない性格のものといえます。杉田某の場合はこれに当たる。手に負えないとはこのこと。彼女には、ある種の使命感、弱者を打ち叩くという使命があり、その役割を果たしている限り、身は守られる(仲間が支える)という直感があるのでしょうよ。またこの女人を推挙したのは故元総理。(散々のことをしでかして「どうだ、俺は偉いのだ」と虚勢を張っていたと思う。「弱い犬ほどよく吠える」というのは嘘、弱かろうと強かろうと「吠える」のが犬です。そこへ行くと人間は違う。「弱い人間ほど、自分を偉く見せたがる」「弱いから、強がる」のだ。こんな連中が寄って集って「政権の座」を死守している。件の杉田某は、その典型です。彼女は弱い、弱すぎる、だから虚勢を張りすぎるんですね。

 弱い人間が弱い人間を差別したり攻撃してどうするんですか。「目くそ鼻くそ」(「目糞鼻糞う」「汚い目やにが、鼻くそを汚いと言って笑う。自分の欠点には気がつかないで、他人のことをあざ笑うたとえ」(デジタル大辞泉)、「五十歩百歩」(《戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わりはないという「孟子」梁恵王上の寓話から》少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり」(同上)「大同小異」といいたいし、「どんぐりの背くらべ」じゃありませんかと言ってみたくなる。実につまらんことですが。。

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 もちろん、この駄文には結論はない。弱いものが、もっと弱い存在とみなすものをイジメてどうするんですか。170センチが168センチを「ちび」と罵るような「哀れさ」がありますが、要は、それが「哀れだ」と気がつくかつかないか。気がつかなければ、いろいろと算段して気づかせることでしょうね。「偏見と差別」が政治の領域に生じ易いのは「権力」と関係しています。政治権力に近けれな近いほど「強い」という錯覚も大きい。だから、どうするか。ぼくは徒党を組むことが大嫌いです。一人は弱い。そんな弱い人間が「夫婦」になっても、弱さは減らない。弱いからこそ、いがみ合うのでしょう。でも弱い人間が百人集まって「徒党を組む」と、弱い一人ひとりは強くなったという錯覚に陥る。ここが肝心なところでしょうね。人間関係は数学の計算ではありませんから、「弱い(マイナス)」と「弱い(マイナス)」を足しても、掛けても「強い」(プラス)にはならないんだということ、これを忘れないことですな。「偏見と差別」にかかわる特効薬はない。自分は「無知」であるという自覚があればこそ、少しでも賢くなろうという気も起こるというもの。それがなければ、手に負えません。仮に、人間が強さを得ることがあると言えるなら、それは自分の欠点(弱さ)を隠さないこと、それ以外に「強さ」はないね。自分が弱い人間であることを知るにはどうしたらいいか。Do Little.ですね。

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 弱者を「弱者」に閉じ込めるのは誰か

【余録】2016年のカンヌ映画祭で最高賞を獲得した「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、病気で失業した大工、ダニエルの苦境を描く。公的支援を得るための手続きがあまりに冷淡で、尊厳を傷つけられていく▲無収入の身に物価高は容赦ない。高額の電気代を払うため、亡き妻との思い出が詰まった家具を売る。ダニエルを絶望から救い出したのは、かつて彼が手を差し伸べたシングルマザーのケイティだった▲2人の子を育てるケイティも無職。空腹に耐えかね、フードバンクでもらった缶詰をその場で開けて手づかみで食べる。「みじめだわ」と泣く彼女にダニエルが「君は何も悪くない」と声をかける場面に胸をつかれた▲ケン・ローチ監督は、弱い者に不寛容な社会を告発してきた。綿密な取材に基づいた展開には説得力がある。フードバンクの場面も実話だそうだ。「映画を通して社会の構造的な問題を解決したい」とインタビューに答えていた▲今の日本にも多くのダニエルやケイティがいる。今年は食品だけで1万品目もの値上げが予定され、光熱費も右肩上がりだ。一方で給与は伸び悩む。正規社員が半数に満たないシングルマザーには、賃上げの恩恵も薄い▲国会では岸田文雄首相が「次元の異なる少子化対策」のために当事者の声を徹底的に聞くと語った。「まだ聞いてなかったの?」と驚いた。閣僚席には、のりの利いたワイシャツを着た人々がずらりと並ぶ。映画で「聞かない力」を発揮していたお役人も同じ格好だった。(毎日新聞・2023/01/30)

「イギリスに生まれて59年、ダニエル・ブレイクは実直に生きてきた。大工の仕事に誇りを持ち、最愛の妻を亡くして一人になってからも、規則正しく暮らしていた。ところが突然、心臓の病におそわれたダニエルは、仕事がしたくても仕事をすることができない。国の援助を受けようとするが、理不尽で複雑に入り組んだ制度が立ちはだかり援助を受けることが出来ず、経済的・精神的に追いつめられていく。そんな中、偶然出会ったシングルマザーのケイティとその子供達を助けたことから、交流が生まれ、お互いに助け合う中で、ダニエルもケイティ家族も希望を取り戻していくのだった。/ ダニエルには、コメディアンとして知られ、映画出演はこれが初めてのデイヴ・ジョーンズ。父親が建具工で労働者階級の出身だったことから、何よりもリアリティを追求するケン・ローチ監督に大抜擢された。ケイティには、デイヴと同じくオーディションで選ばれた、『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』のヘイリー・スクワイアーズ。どんな運命に飲み込まれても、人としての尊厳を失わず、そばにいる人を思いやる二人の姿は、観る者の心に深く染みわたる。/ これはもはや遠い国の見知らぬ人の話ではない。ダニエルのまっすぐな瞳を通して、ケン・ローチが教えてくれるのは、どんなに大きな危機を迎えても、忘れてはいけない大切なこと」(映画「わたしはダニエル・ブレイク」公式サイト:https://longride.jp/danielblake/

 イギリス生まれの映画監督ケン・ローチ。月並みのキャッチフレーズを使えば「社会派」でしょうか。ぼくはこの「わたしは…」を観た時に、拙い感想を何処かで書いておきました。以来、イギリスは言うまでもなく、この小島国においても事態は悪化の一途を辿っており、まるで「死にもの狂い」で生きている人々を、政治も行政も嘲笑(あざわら)っているようにしか想えない。一昨年の東京五輪、当初は「七千数百億円」で開催と人民を騙し、終わってみたら三兆円、四兆円も浪費していたと言われ、未だ(永遠に)に全額は公表されず、賄賂や不正経理で消えた金額も空前の額に上ると見られます。かかる疑獄に関わっていた大半の関係者は「大学出」だった。まるで、大学は不実で不正な人間を養成している「授産場」ではないですか。この堕落や横領は、何も劣島国に限りません。政府か行政か(それに準じる民間でも同様)、そんな名前の付いた組織や制度は、構造的に「公金」を搾取する仕組みを作り上げているのです。イギリスでも事情は同じ。だからこの映画に、ぼくたちは怒りや悲しみを湛えながら大きく共感するのではないでしょうか。(右の「赤字文」はローチ監督が映画制作への動機を語っている)

 ぼくは、何時とはしれず、「趣味は寄付することだ」と親しい仲間に言い続けてきた。少しでも寄付病に感染する人を増やしたかったから。もちろん、有り余る金があるわけではない、親子四人と猫数匹がなんとか糊口をしのげればいいという貧乏根性からでした。つまりは、「貧困」「ひもじさ」と隣り合わせの生活を続けてきた人間には、その苦しさに押しひしがれている人々の感情は、自身の感情でもあるという強烈は思いがあってのこと。野良猫(捨て猫)を見ると、「捨てられているのはぼくだ」という気分に襲われ、それを見過ごすことができなかった。慈善でも福祉でもなく、生きるための算段は、ぼくも猫もいっしょじゃないかという、同病相憐れむ心情が根っこにあったと思う。金をほしいとは考えない。必要なら身を粉にして稼ぐだけという、「貧乏哲学(poverty philosophy)」がぼくにはあった。

 こんなことをいくら言っても意味のないことで、だから言いたくもないのです。しかし、そうだからと放置しておけば、腹の虫がおさまらないから、それを宥(なだ)めたい気もする。電話一本で「数千万円」を老人から搾取したり、いきなり他人の家に押し込んで「暴行を加えて(時には生命まで奪って)、金品を略奪する」、どうせその金も「溝(どぶ)に捨てられる」運命にあると考えると、そんな金を私有していないで、「貧者の一灯」ならぬ、富者の恵み金(寸志)として寄付すれば、どれだけ気分がいいか、助かる人もかならずいるのだし。そんな埒もないことを考えたりしているのです。

 この「わたしはダニエル・ブレイク」のように、役場にでかけると、ぼくはきっと「余計な一言」を口にする。役場の吏員が憎いのでも、意地悪されたからでもない。とにかく「公務員」「全体の奉仕者」という意識に欠ける人が多すぎるからです。弱い者いじめや営業妨害は、ぼくのもっとも嫌うところで、だから、住民の感覚で公務をしてほしいという願いだけで物を言うのですが、それがなかなか通じない。公務員とは〈a whole servant〉のことです。

 学校の教師も同じですね。困っている、苦しんでいる子どもに「救いの手」を差しのべるために存在しているという「教育公務員(私立学校教員でも同様)」が皆無とは言わないが、驚くほど少ない。昨日の駄文でも書きましたが、イジメから逃れるために?、切羽詰まって「自死」した子ども宅に、七ヶ月遅れで「弔問」に赴き、「我が子はどうしていじめられたのか」と泣いて問いただす母親に「お答えは差し控えさせていただく」とほざいた教育公務員。ぼくは少々のことでは驚かない人間であると思っていますが、ここまで国会議員の堕落が蔓延・瀰漫・感染していることを知り、底なしの悲しさと、怒っても無駄だけど、だからこそ「腹の底から怒る」必要性を感じたのです。怒るだけ無駄と、いいたくなる人は多い。でも、だ。無駄が必要なときもあると、考えるぼくのような人間(愚人)もいる。

 ダニエル・ブレイクは劣島のいたるところにいるし、ケイティ(母親)も日々生活に押しつぶされながら、健気にいのちの尊厳を捨てない。そのような「人生の機微」を写(映)し撮ろうとしたこのささやかな雰囲気を持つ映画は、どんなに大掛かりな見せかけで作られる映画よりもぼくたちの心を捉えるのは、ここに、「現実がある」「誰にも優しくなれない現実がある」からでしょう。役所の吏員を演じた役者たちの演技は完璧でした。常日頃から見なれているんですね。助ける気持ちはありながら、助けようとすればするほど、自分自身が矛盾に陥ってしまうという「(政治や行政の)仕組み」のなかで藻掻いているのは彼や彼女たち、役人かもしれません。汚職に奔るのも役人だし、それを断じて認めないのも役人です。二人は別人であると同時に、同一人物の二つの表情かもしれないと、ぼくは痛感している。

 それにしても、この島の政治の酷(ひど)さと言えば、卒倒するばかりで、昔日の姿を想像しても、いまや見る影すらない。ここまで堕ちたというのですが、どうしてそうなったか、毎日の積み重ねでこうなったとしか言いようがないのです。「誰ひとり取り残さない」という甘いささやき、その本心は「一人だって救ってやる気はない」ということの言い換えに過ぎません。国民のためという口上は、政治家の枕詞で、ほとんど意味がないことの証しです。「青丹よし」といってなんか重い意味も、深い意味もあるのではない。掛詞、枕詞という他に、受け止めようがないのですから、歌人には「困った時の枕詞」というらしいのとかわらない。多分「前口上(嘘っぱちが始まるという合図)」でしかないのでしょう。嘘つきは政治家の始まりであり、終わりですね。貧困問題は「政治家」の不作為に尽きる。

 (「わたしはダニエル・ブレイク」予告編)(https://www.google.com/search?

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 これからもずっと、これが私の人生です

 

 猫にまつわる話題を。新・旧聞の二件、あるいは三件かも。一件目はイギリスの街の一家の「猫シェルター」生活の一端の報道を。猫が百匹以上というと「101匹ワンちゃん」どころの話ではなくなります。どこかで触れておきましたが、ぼくは野良猫の「保護」活動をたった一人で始められた舞踊家の長嶺ヤス子さんに学んだつもりでした。最近の状況がわからなくて心配している。彼女は早い段階から、都内で野良猫の保護を始めた。近所の不満や非難もあり、房総半島にて本格的的な活動をされていた時期もありました。そこも諸般の理由から立ち退き、福島に腰を据えて再開されたところまではよく知っていたのですが、やがて、連絡も取れなくなり、やきもきしているところ。一方で、本業(舞台など)の方は、精力的な活動を展開されています。(左下「雪女」一日舞台の案内」

 イギリスの方(かた)は「一家総出」の活動で、とにかく半端ではないちからの入れ方です。洋の東西を問わず、この問題には、簡単な解決策はなさそうで、ある意味では「篤志家」の出番を待つ他ないような頼りなさがあります。問題解決のために求められる幾つかの選択があります。その一つが始まりました。遅まきながら、フランスではペットショップでの犬猫等の販売を禁止(2024年から)するという話で、それに刺激されて、この島社会でも、ペット販売から足を洗った業者が少なからず出てきました。別の問題として、「猫カフェ」なる商売も、ぼくには気になりますね。商売道具(商品)扱いしていること事態、動物虐待ですから。

 猫100匹以上と生活 英国の家族、全財産手放し自宅をシェルターに  イギリス・ノース・ヨークシャー州ファイリーという海沿いの町で、ある一家が100匹以上の猫たちと暮らしている。/ 始まりは、新型コロナウイルスの最初のロックダウンのあと、行き場のない猫を引き取ったことだったという。/ 以来、迷い猫を助けるなどし、去年1年間で猫の数が急増。自宅をシェルターに改造した。さらに、慈善団体「ファイリー・キャット・レスキュー(Filey Cat Rescue)」を設立し登録した。/ 猫を救うというミッションにはものすごく費用がかかる。それを賄うため、ティナ・ルイスさんと家族は、事業を売却し、車を処分。ティナさんの結婚指輪まで手放したという。/ 「これからもずっと、これが私の人生です」。ティナさんはそう話した。(BBC NEWS JAPAN・2022年11月16日)(https://www.bbc.com/japanese/video-63620760

 犬と猫がペットショップから消える日 半数以上の家庭がペットと暮らすフランス。この動物好きが多い国はいま、大きく揺れています。/ 再来年から、ペットショップで犬や猫の販売が禁止されることが決まったのです。

・ペットショップなどで犬や猫の販売を禁止する
・動物のショーケースでの展示を禁止する
・インターネットで一般の人が犬や猫の販売を行うことを禁止する(以下略)(NHK・2022年1月21日 18時07分:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220121/k10013442041000.html

 二件目です。こちらもイギリス在住の方です。長く行方不明になっていた猫が、ある日、予告もなしに帰ってきたというハッピーな出来事でした。昨日報道されたものです。拙宅の猫も、一昨年だったか、夜間、家を出たきり帰ってこなくなった子がいた。あちこち探したが、そこら辺りにいる気配がなかった。なんと、十日後に帰ってきた。探し回ったが心当たりもなく、途方に暮れたし、諦めかけていた、その時に、帰ってきた。その少し前に、この子を生んだ母猫と、やはりその子どもの黒猫が、ほぼ同時期にいなくなり、今もって帰っては来ない。事故の形跡もなさそうだし、実に不思議な事件でした。どこかで生存しているとして、親猫は未だ「避妊手術」をしていなかった。なにせ、五つ子を生んで、二週間ほど経った頃(授乳中)の出来事でしたから。ひょっこり顔を出すのではないかと、淡い期待を持っている。こんな経験をしていた矢先の、イギリス版「猫、帰る」でしたから、その動画に、見入ってしまいました。

 失踪した飼い猫と74日ぶりの再会、監視カメラがとらえ 失踪してしまった猫が74日ぶりに家に帰り、飼い主と対面した瞬間が、自宅に設置されていた監視カメラに映っていた。/ 英ヨーク在住のアマンダ・アップルゲートさんが飼っている猫のロディーは、昨年10月13日に家からいなくなってしまった。/ しかし12月26日、ロディーが自宅の庭に戻っているところをアップルゲートさんが発見。74日ぶりの再会となった。/ アップルゲートさんは、監視カメラがその瞬間をとらえていたことについて、「今見返しても涙が出てくる」と語った。(BBC NEWS JAPAN・2023年1月24日)(https://www.bbc.com/japanese/video-64382757

IIIIIIIIIIIIIII

 家出をして帰ってこないからと、簡単に諦めてはいけないという実話です。昨年の五月、神戸で実際にあった出来事です。最近は怠っている「散歩」、そろそろ開始しようと考えています。上述した「行方不明の親子猫」、最近も、散歩途中であちこち、探し回っていました。保護猫のたまり場が近所にあり、そこにも時々「キャットフード」を持参しながら見てはいたのです。行方分からずから、二年もたっての再会、さぞかしと、まるで我がことのように嬉しくなりました。こんな猫たちを見るにつけ、虐待され、「処分」される猫のことを思うと、寒気が止まらないですね。犬や猫(だけではない)が不憫に扱われている環境で、人間が穏やかに暮らせるはずもないのです。「いのち」のつながりを、さらに突き詰めていきたい、ぼくごときに、できることはしれてはいるのですが。

「家出猫」と2年ぶり再会、きっかけはインスタ 法要済ませ諦めていた飼い主は号泣  「◆2年ぶりにうちの子が」-。12日付本紙朝刊「イイミミ」(一部地域は11日付夕刊)に、こんな見出しの記事が載った。家出した飼い猫が2年ぶりに見つかったとの内容だった。喜びの声を寄せたのは兵庫県丹波市の主婦、足立鈴子さん(74)。「まさか」の再会を果たした愛猫チャコは約1年半、保護猫として育てられ、命をつないでいた。(真鍋 愛)/ 大の猫好きで、迷い猫を保護しては自宅で飼っていた鈴子さん。チャコは約9年前、三木市に住む長女の孝子さん(47)が知人から譲り受け、鈴子さん宅にやって来た雌猫だ。/ チャコは鈴子さんや夫の保夫さん(78)が他の猫をかまうと、「ネコパンチ」をお見舞いするほどの焼きもち焼き。散歩が大好きで、朝5時には、眠っている保夫さんの肩をたたいて「窓を開けろ」とせがんだ。気が済むと家に戻り、ご飯を食べて眠るのが日課だった。(以下略)(神戸新聞NEXT・2022/5/18 )(https://www.kobe-np.co.jp/news/tanba/202205/0015309195.shtml)

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 人の命を奪うことも、暴力も許されない

 一月十日、「元総理銃撃」の廉で山上徹也容疑者が起訴されました。この件については、これまでにも何度か触れた。事件の概要というか大筋は、大方の見方が一致しています。「犯行の動機は、宗教団体である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への積年の恨みだった。山上被告の母が入信し、総額約1億円を献金したとされる。自身は家庭崩壊の中で大学進学を果たせず、不安定な人生への強い不満もあったようだ」、このような解説・解釈が流布している。それが間違いだという確証がぼくにあるわけではありません。しかし、いささかの不信の念は拭いきれないのです。ほとんどの報道の根拠は「警察発表(容疑者の供述内容とされるもの)」で、いわば大本営発表です。それが間違いであるとぼくには言えませんし、「当たらずと言えども(雖も)、遠からず」でしょう。真相に付き当たっていないにも関わらず、事件の「筋書き」(因果関係)は明瞭に意図されて描かれていると思う。

 もう一つ、報道の側面に見て取れるのは、一見するとまっとうな「勧善懲悪」主義です。「どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」という、堂々とした信賞必罰ともいえるものです。お説、ご尤もというほかありません。でも、本当にそうですかと、違和感を覚えることも事実です。「どんな理由があっても、殺人はいけない」と言うけれど、それには例外があると、明確にしないのはぼくには不可解で仕方がない。なぜならば、国家による「殺人」には一指も触れていないからです。「死刑」制度は例外であって、それとこれを混同するのはよろしくないと言うに等しい。「死刑」問題は不問に付すというのですか。ぼくは人の命を奪うことは許せない行為であるということを認める点では人後に落ちないつもりです。しかし、個人にせよ集団にせよ、国家以外の者の殺人行為は断じて許されないという主張が断定的であればあるほど、国家の「殺人」には妥当性も合理性もあるから問題にならぬと言う思考が根底に、無条件に存在しているのです。国家意思の発令としての「戦争容認(敵対する側の兵士(人間)の命は抹殺していいい)」が明らかに認められます。

 この「元総理銃撃事件」については、さまざまな議論がありましたし、今後の裁判の過程でも同じような論調が飛び交うことでしょう。容疑者は、いわゆる「宗教二世」とされます。その母親の信仰の対象である「教団」は、宗教の仮面をかぶった「カルト集団」であることは明白であるにも関わらず、宗教法人としての認証を与えていたのが国です。その経過に深く関与していたのが「元総理」だったことも判明しています。本来、「宗教行政」の管理権からして、この団体を「宗教法人」に認定することは誤りだったと認めることが、なによりも先決だったのに、「宗教二世」の「思い込み」による、あるいは「逆恨み」による犠牲者になったのが「元総理だった」と、大方はその線で一致している。この凶行は「民主主義への挑戦)とまで言われた。だが、ぼくに言わせれば、民主主義を破壊(しようと)したのはだれだったか。決して容疑者を弁護するのではない。犠牲者を「祭り上げる」、その魂胆に、由々しき国家本位の教義が漂っていると言いただけです。この犠牲者と加害者の天秤のかけ方、それが、ぼくには十分に受け入れられないところです。(ここで、その理由を述べることはしません。いずれ、裁判の過程で明らかになるでしょうから、その段階で愚見を述べるつもりです)(文中の引用は(中國新聞「社説」(2023/01/14)から。末尾に掲示)

 引用に及んだ「社説」は、事件の概要と、その問題点を巡って、実に意を尽くしたものだとぼくは読みました。その上で、でも、それはきれいごとに過ぎませんか、信教の自由といい、政教分離の問題といい、あまりにもきれいごとで片付けようとしているきらいがあると、ぼくには映るのです。事件の因果関係は、おそらく裁判においても争われましょうが、明確に判断は下せない代物だと思われます。容疑者の困窮や苦悩の原因は、母親に対して理不尽な献金を強制した教団の行為にあるが、その教団に深く関与し「政治的に便宜を図っていた」という、団体と権力の関与に関しては明確な一線が引かれていて、それに触れないのは不自然ではないでしょうか。仮にそうであるなら、事件の解明に必要な光が届くことはないように思われるからです。

 単に、「教団と元総理」の関係だけでなく、この島の政治勢力に深く食い込んで「宗教活動」という名において「政治勢力」を伸ばそうとしていたのがこの集団でした。しかし、実際にはこの問題には殆ど触れられてこなかったし、当然のように、当該党派も通り一遍のアリバイ作りをしただけで、真相解明にはまったく消極的でした。もちろん、政権党ばかりではなく、他の政党にも便宜供与を介した関係は広がっていましたし、中央政界以上に各自治体の議員に深く浸透していたのも明らかになっています。単純率直に言うなら、この教団の「宗教行為」は国権の侵害であり、人権の抹殺ではなかったか。しかし、そこにまで問題の追求が及ぶという徴候はなさそうです。いわば、「認証取り消し」まがいの政治判断で、一件落着を図る意図が着々と進められています。

 「人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」というのは「道徳の問題」です。誰の「いのち」に対しても、「汝、殺すなかれ」「汝、撃つなかれ」という道徳律は妥当する、いや妥当させたい。しかし、いかに厳しい罰則が伴うような犯罪であろうと、それを犯す者が絶えないのは、人間は理性的である以上に情動的な存在であるということの証明です。「理性」と「情動(剥き出しの感情)」との葛藤においてこそ、人間の根拠が認められるのです。間違いを犯してたまるか、そのような自制心があってこそ、ぼくたちは、かろうじて「人間である」ことが可能になるのでしょう。

 繰り返し、ぼくは言ってきました。罪を憎んで、人を憎まず(hate sin, don’t hate people)」と。罪を犯した、その「情動(自制心を失わせるほどの憎む感情)」は責められるべきだが、その情動に突き動かされた人そのものは。いわば感情の「被害者」でもあるのだから、憎むものではないと、解きほぐせばそういうことです。もちろん、このような捉え方に異論や批判があることは百も承知している。それこそ「どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」ということの理由です。

 犯罪を犯した人間の行為は罰せられるべきであると。でも、「情状酌量」ということも、ぼくたちは否定できない。その葛藤(矛盾)を受け入れるために「裁判」があるのではないでしょうか。犯された犯罪を裁くのが裁判である、でもそれは、「罪は裁く」が「人は裁けない」ということでもあるのではないか。(この部分は、説明をさらに要するところです。稿を改めて述べてみたい)「悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない」という姿勢(思想)を持って、裁判官たる者は法廷に臨むべきであるというのが、この言葉を残したとされる孔子の姿勢(思想)だった。しかるに、彼の国でも、この国でも犯罪を犯した人間は、人間性そのものをこそ裁かれるべきであるという、実に強権的で非道徳的な「報復的教義・教条」を看板にして裁判が執行されるようになっている。

 「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」というのでしょう。「その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが憎くなるというたとえ」(デジタル大辞泉)有徳であるべき僧侶が、その徳に反する行為をしたときには、直ちに人間性そのものまで否定されるという例えです。「罪を憎んで、人を憎まず」という表現には「人間存在」の複雑性(矛盾)というか二律背反的な側面を容認している一面があると思うし、「坊主憎けりゃ、…」は、「非」があると、そのすべてを否定しなければおかぬという、ある種の「勧善懲悪」「報復主義」の意図が剥き出しになっている。

 裁判の成り行きに注目はしますが、ぼくにはその結論が、今から見えているようだといいたい。「罪をこそ憎む」立場か、「袈裟まで憎む」立場か。今はどちらになるかは言わないでおきます。しかし、現段階でもはっきりと言えることは、元総理の行為やこのカルト集団に便宜供与をしていた政治勢力は、おそらく裁かれないままで終わるという点です。裁判には限界があることを承知で言うなら、その限界という「自己規制」を打破して、真相を解明する姿勢が政党や政治家になければ、同種の事件や事案は繰り返されるでしょうし、このカルト集団の一件ですら、「事件の表面」をなぞるだけで、有耶無耶に終わらせてしまうでしょう。かくして「政治と宗教」ではなく、「政治と教条主義集団」との関係は、この後も切れない。そんな政治が、この国では伝統というか、しきたりになっているといいそうになります。

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(*参考資料)

元首相銃撃で起訴 背景の解明、まだ足りぬ 安倍晋三元首相の銃撃事件が半年前、日本社会に与えた衝撃は今も収まらない。奈良地検がきのう殺人と銃刀法違反の罪で山上徹也容疑者を起訴した。/ 参院選で演説中の背後を襲った衆人環視の事件であり、起訴事実は大筋で揺らぐまい。私たちが知りたいのは、なぜ事件が起きたか、にある。/ これまでの供述などによると山上被告は容疑を認めている。犯行の動機は、宗教団体である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への積年の恨みだった。山上被告の母が入信し、総額約1億円を献金したとされる。自身は家庭崩壊の中で大学進学を果たせず、不安定な人生への強い不満もあったようだ。/ 旧統一教会を恨んだ末の矛先がなぜ政治家に向かったのか。なぜ止めることができず、最悪の事態に至ったのか。裁判員裁判では、単に量刑を決めるだけではなく、社会的な背景に踏み込んだ解明を求めたい。/ 動機に関しては、安倍氏を狙った経緯が焦点だろう。旧統一教会のトップ襲撃を検討したが、断念したという。供述では祖父の岸信介元首相と旧統一教会との密着ぶりや、安倍氏が教団の友好団体の集会に寄せたビデオメッセージを知ったことで関係が深いと考えたようだ。/ 背景の掘り下げも重要だ。旧統一教会自体の問題点である。宗教法人としての解散命令を視野に国による調査が進んでいる。公判では家族や教団関係者の証言を求め、山上被告も自らの言葉で説明すべきだ。(⇘)

 事件後、自民党を中心に国会議員や地方議員と、旧統一教会との密接な関係が明らかになった。政治家が人手や金、票を当てにし、宗教団体が社会的な信用を得る手段にした構図だ。悪質な霊感商法や献金の問題があるのに、対策は後手に回った。/ 密な関係がどれほど悪影響を与えたか分かっていない。世論の求めに反し、政権は安倍氏の件をはじめ本格的な調査を避けている。責任逃れをさせないためにも解明は不可欠である。/ 山上被告の置かれていた境遇にも注目したい。旧統一教会による高額献金に伴う生活困窮と、そうした信者を親に持つ子どもの深刻な状況は、もっと早く社会問題にすべきだった。山上被告のツイッター投稿や伯父の話からは、職を転々として貧困に陥り、孤立を深めた様子がうかがえる。こうした格差や生きづらさは、今の社会に広く横たわっているのではないか。/ 思い出されるのはオウム真理教事件の裁判である。当時の教祖に対し死刑判決を下した。しかし、教祖の不可解な沈黙で公判は打ち切られ、大勢の若者を巻き込み、宗教を盾に犯罪を起こした真の問題点は解明できなかった。あれほど重大な事案だったにもかかわらず、社会をよくする手掛かりを十分もたらした裁判だったとは言い難い。/ 今回の事件でも背景の解明をうやむやにすれば、似たような事件を防ぐことが困難になる。/ 気掛かりは、旧統一教会の問題を表沙汰にしたとして、山上被告を英雄扱いする一部の主張だ。どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない。私たちの社会も問われている。問題に向き合ってこなかった足元を見つめ直す視点こそ必要である。(中國新聞デジタル・2023/01/14)

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 密かな囁き、小さな怒り(の如きもの)

 昨日は朝から動物病院通いでした。昨年8月に、家の隣の林で生まれた猫たち(八つ児)が五ヶ月を過ぎたので、まずはワクチン接種。その後に猫エイズ(HIV)や白血病の検査を経て、最後に「避妊・去勢」手術という段取り。その発端の手続き(ワクチン接種)を、昨日開始しました。午前中に猫(四つ)、午後に猫(2つ)(残りの2つは、本日の予定)。この界隈は雑木林や竹林ばかりで、ノラたちも結構いるようです。できれば、その「野生猫」も「保護(あまり好ましい用語とは思えない)」したいけれど、いまのところ、そこまで手が回らない。家にいるものだけで、もう手一杯です。なにか社会的に役に立つ活動をしているというつもりはない。家にきてしまった猫たちだし、誰も面倒を見ないなら、やれる範囲で引き受けよう、それだけです。

 「猫が好きですか」とよく訊かれる。でも答えはいつも同じ。好きでやっているのでない。もちろん、見るのも嫌だというわけでもないから、結局は「誰もやらないなら、やれる人間が世話をする」それだけの心積もりです。これが近所の人の目にも奇妙に映るのですかね、「よくやりますね」といわれている。きっと、ぼくはたくさんの罪を犯してきたから、勝手な言い分で「罪滅ぼし」というところなのかもしれない。その意識(自覚)はないが。

 昨日の病院、家から車で十分程の距離にある、その医者に「これらを、みんな飼うのですか」と尋ねられた。仕方がないというのでもなく、好き好んでというのでもなく、誰かが面倒を見なければ、と言ったら、半ば呆れたような表情で、「大変ですね」だって。この病院には数年前からずいぶんと世話になっている。その他に、二箇所の動物病院を利用中。

 この地に来て、初めての「野良くん」の診察を断られた病院もあった。野良の親が産んだ児で、生後2、3週間くらいで、ずいぶん衰弱していた。立てなくなってもいた。近くの病院を探して連れて行ったら、ひと目見ただけで、「これは駄目です、これ以上、持ちません」と言われた。「お前に言われなくとも、こっちでもわかるさ。でも、万が一…」と思って、「連れてきたのだ」といいたかったが、止めておいた。念のために、幾つかの猫の「(避妊・去勢)手術をお願いできるか」と訊いたら、即座に、「半年先まで予約がいっぱいで、とても引き受けられない」、そのように即座に断られた。この人は「嘘をついているな」、とぼくは直感した。待合所には、たくさんの愛犬家や愛猫家がいたし、連れの「ペット」たちは驚くばかりに「偉そう」、「高価そう」な「品物」に見えたし、駐車場には外車が並んでいた。ぼくは「ダンボール」に入れていたから、実に白い目で見られた。「あんたたち(死にかけの猫とぼく)の来るところじゃないよ」と、除け者扱いにされる雰囲気があった。嫌なところに来たなと後悔した。

 「この猫、もうだめだよ」と一言、触りもしなかったのに、初診料と診察代金と称して三千円ほど収奪された。やりきれない思いで帰宅、二時間ほど後でその子猫は亡くなった。二年前のことでした。今は裏庭で、他の仲間といっしょに「眠っている」。(この病院のHPには「飼い主さんとのコミュニケーションを大切にし、心を込めた一生懸命の獣医療を提供します」と謳ってある、いまも。死にかけの野良猫を連れてくる「飼い主」とはコミュニケーションは取らないし、心を込めた「獣医療は提供しない」と言われたんですな)(それでも、ぼくは営業妨害はしない・していないつもりの人間です)

 存(ながら)えぬ想いを残し猫の塚(無骨)

 人間の新生児(だけではない)が粗末にされ、捨てられる時代(世の中)です。熊本県の慈恵会病院の「赤ちゃんポスト」に関して、その経緯を調べたことがあるし、早くからその病院に関係していて、ぼくの担当クラス(ゼミ)で、「赤ちゃんポスト」問題に関する「卒業論文」を書いた学生(熊本出身)もいました。何十年も前、平安や鎌倉・室町時代の「子どものいのち」を、幾つかの文献などに当たりながら調べて、小さな本に載せたことがあります。子どものいのちは、何時だって「危機にさらされて(子殺し、子拐い、子売買など)」いたのでした。いまだって、いのち(生命・命)がとても大事にされる半面で、いとも簡単に葬られるという状況を考えれば、猫といえども、その生命(尊厳)を粗末にしないという気持ちで、ぼくは「面倒を見られる人、世話ができる人が、なんとかする」、そのような、ささやかな心がけのようなものが必要なのだと思うばかりです。大事(おおごと)ではなく、大したことなどでもない、ささやかな、わずかばかりの心遣い。それが欠けているのは、今の時代だけではないようにも思えます。田舎で暮らした少年時代を想ってみると、その当時の方が、もっと「生命の繋がり」があったようにも、感じられてくる。その反面で「野犬狩り」「犬捕り」などという仕事もあった。(中学時代の担任教師は「犬捕り」という渾名(あだな)がついていた。大変な暴力(体育)教師だった)

 犬や猫をペットにするのではなく、生命のつながりを実感するというのか、その「感受性」が、もし失われてきたとするなら、この先、なにかにつけ、明るい展望はないように悲観してしまう。街に出る街道筋に「柴犬専用ショップ」がある。「赤柴入荷」とか、「小柴、八十万円」、「大安売り」などという幟(のぼり)やチラシが堕してある。いずれ、このような動物売買店はなくなるだろうし、その一日も早い到来を願っている。高い金を払って買ったのに、飽きたからなどと、飼い主の都合で捨てられる犬や猫(だけではない)がたくさんいる。近所の女性と相談して、住んでいる地域を、「保護動物」の安住の場にしようと、行政に働きかけることを考えている。何ができるか、期待はしていないし、それだから「頭にくる」ということもない。やる気があり、やる必要があれば、とっくにやられている事柄(仕事)だから。

 ペットとしてではなく、愛玩物扱いでもなく、生命の尊厳(大袈裟ではなく)を感受しながら、ささやかな暮らしを、猫たちと送りたいと、ぼくは念じている。人間の弱さや愚かさを知るため、忘れないためにも、ぼくは猫といっしょに暮らそうとしているのだ。「生き物係」って、どんなことをする係なんですか。かけがえのない友人、それは猫や犬なのかもしれない。他の人には他の生き物が「無二の友人」となっているでしょう。生き物は、仲間だというと、変に誤解されそうですが、かけがえのない友たちですよ。

 「児童虐待防止法」「高齢者虐待防止法」動物愛護管理法」などという名称の法令が定められている社会は、どのような社会なんでしょうか。かかる法律が有名無実になるように、犯罪が起こり得ないような社会なのか、それとも、法令があっても、なきが如しという「犯罪社会」の実相を活写しているというのでしょうか。ぼくがいつも歩くコースにはリゾートホテルや、今流行りのグランピング場があり、森や林に恵まれている、そんなところに、左のような「ポスター」が至るところに貼られています。リゾート探訪後に「御用済みペット」を放棄しに来る輩がいるようです。「日帰り旅の恥もかきすて」社会んですかねえ。

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