言うこととやることが違う時、どっちを見るか

 「女性としてつらい」 “性暴力”判明のフォトジャーナリスト 沖縄の写真展に抗議相次ぐ

 性暴力加害が判明しているフォトジャーナリストの広河隆一氏(78)が7月5日から写真展を開くことが明らかになり、会場の那覇市民ギャラリーに抗議の電話が相次いでいる。ギャラリー側は広河氏と対応を協議したい考えを示している。/ 写真展に関する電話は6月29日午後6時までに9件あった。「女性としてつらい」「開催は絶対に許さない」「反省が見られないのに活動再開を認めるのはどうか」などの批判や、開催の事実確認があった。/美底清順館長は取材に対し、展示作品自体が公序良俗に反しない限り通常は利用を許可しており「特別扱いしたわけではない」と説明。抗議の動きを受けて「広河氏に連絡し、協議することも含めて対応したい」と述べた。/抗議の電話をした「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の高里鈴代共同代表は「写真撮影と同時並行で性暴力を重ねてきたことが分かっている人物。写真展の開催は、全ての被害者を傷つける」と批判した。(編集委員・阿部岳)(沖縄タイムス・2022年6月30日 )(ヘッダーは:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/96260?page=6)

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 本日は何か涼しくなるようなテーマがないかと、昨日からいろいろと探りを入れていました。沖縄ならさぞかし、と沖縄タイムスをみて、「私のウクライナ」写真展開催に対する抗議の記事に遭遇しました。非難の的である広河隆一氏に関してはささやかな因縁もあり、早い段階から注目していたし、彼の作品も、それなりに観てきたのでした。ある時期から、いろいろと「噂話」も耳にし、それはホントかと疑念を持ったことは事実でした。ちょうどそのころ、高名なジャーナリスト(ルポライター)とかかわる一女性と知遇を得た。というか、「この女性をどうにかしてくれ、付きまとわれて困っている」という先輩ジャーナリストの言い分もあってのことで、ばかな役回りを買って出たという塩梅でした。以後、彼女とは何度かあった(話を聞きました)。ぼくの話がうまくいったかどうかわかりませんが、それ以降、彼女のつきまといはなくなったと聞いています。激しい時は、どこで講演会(集会)をやろうが、かならず先に待ち伏せしていたとも聞いた。実際に、二人の間に何があったか、ぼくには関心がなかったから、話はそれで済んだと思っていたところ、昨年、広河氏(から見れば)の「醜聞」が大々的に報道された。こういうことをやりながら仕事をしていたのか、仕事をしながら、こういうことを繰り返してきたのか。いったい、どっちが仕事なんだ、と訊きたいね。

 よく知っていた報道(戦場)カメラマンだったが、その「醜聞」は確かだろうとぼくは直感したのでした。詳しいことは省きますが、当初訴えられた「内容」を彼は全否定したし、あろうことか、「相手も喜んでいた」などというたぐいの言辞も漏らしていたとされます。伊藤詩織さんのケースでも、訴えられた側の男は「全否定」「合意」などと言っていたが、裁判では伊藤さんの訴えが認められています。ぼくはきれいごとを言う人間ではないし、他人の問題を、これ見よがしに非難や批判をしようとは思わない。しかし、「言っていること」と「やっていること」が背反していれば、それは悔しいけれど、やっていることは認められないこともないけれど、人間として「信が置けない」と、ぼくは考えているのです。「男と女の関係」「男女の情交」などといいますが、どんな関係であれ、嘘を言い募り、相手をさらに辱めることになるなら、それは何をおいても、まず人間として認められないのではないか。人間である以上、いろいろと間違いや過ちを犯します。ぼくなども、その繰り返しだったと白状しておきます。しかし、自分がやってしまったことを「なかったこと」にはしたことはないといえる。つまりそのことに関しては「嘘はつかない」ということを「掟」のようにして生きてきたといえるからです。

 自分の間違いや過誤を棚に上げて、広河氏を糾弾するのではないのです。彼が、報道された段階で話したことが「弁解」ではなく「虚言」であったということに関して、まことに残念としか言えないし、自分がしたことを「反省し」「謝罪し」たから、活動を再開しますという、その厚顔さに、ぼくは「人間を舐めている」「不真面目そのもの」男の顔つきを見るのです。謝罪したふりをして、二、三年謹慎した格好を取れば、あとは好き放題(無罪放免)と考えているなら、度し難い悪漢だと思います。優れたカメラマンだったとしても、それは別の問題であり、誠意とか誠実というものが無ければ、人として欠けていると、はっきりというべきでしょう。仕事がよければ、すべて免罪という、そんな「世界」にぼくは住みたくないな。

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 以下に、この問題に関して、同じ写真家でもある長倉洋海氏の記事が出ていました。アフガンその他のすぐれた作品に大いに啓発された人間として、ぼくはこの問題に関してまっとうな、いや当たり前の発言をされているのに大いに首肯したのです。広河氏は、侮辱した女性ばかりでなく、取材の対象になった人々まで裏切ったのではないかという長倉氏の指摘は正鵠を得たものと、ぼくな真正面から受け止めています。

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 広河隆一氏“性暴力”に写真家が直言 「カメラの前に立った人々の思いを踏みにじった」 ~フォトジャーナリストを目指す人へ~ (長倉洋海)

 今回、広河隆一氏が引き起こした一連の問題について、写真で伝えることを仕事としている者として感じたことを記したい。/ 昨年末に週刊誌「週刊文春」で7人の女性が広河氏を告発した。その記事内容に「そんなひどいことをしていたのか」と驚愕した。ただ、そのことについてコメントを求められることもなかったし、自分からしようとも思わなかった。その、ほぼ1カ月後の1月末、同じ週刊誌で別の女性からの告発記事が発表された。広河氏が海外取材に女性を連れていき2週間にわたる性的虐待を加えていたという内容だった。そのあまりのおぞましい内容がにわかには信じがたかったが、広河氏と彼の弁護士からいまだに反論がないということは、内容がほぼ真実だと判断していいだろう。

自らのゆがんだ欲望に負けたのか 当初は氏の資質の問題と考えていたが、事件は広がりを見せ、ジャーナリストとは何なのか、雑誌編集部や編集長はどうあるべきなのかということも含めて、私たちも問いを突きつけられている。世間では、フォトジャーナリスト、あるいはジャーナリストは表では正義を叫びながら、その裏で何をやっているかわからないという目も向けられているように感じる。/ ただ、この事件によって、「フォトジャーナリストを目指したい、そのような仕事をしたい」と願っている人たちがフォトジャーナリズムの世界に不信感を持ったり、将来への不安を覚え、道を閉ざしてしまうことのないように念じている。/ 最初に言いたいのは、氏の行為は多くの人を傷つけたが、そればかりか、パレスチナやチェルノブイリ、福島などの地で、「この地の問題に光を当ててほしい」と願い、彼のカメラの前に立った人々の思いを踏みにじってもいる。さらには、「大手メディアが伝えない真実を伝える」という姿勢に共鳴し「DAYS JAPAN」の購読・寄付を続けた人々、そして、実際にフォトジャーナリズムに触れてみたいと集ってきた人々の思いをも裏切った。(以下略)(アエラ・2019/02/12)(https://dot.asahi.com/dot/2019020800082.html?page=1)

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 どんないいことを言ったり書いたりしても、やっていることがその反対だったら、その人をぼくは信じられない。世間(他人)を騙せるなら(他人に知られなければ)、それでいいじゃないかという人もいるかもしれない。ぼくたちは、ほとんどの場合、他人を知るのは書かれた本を読んだり、話された内容を知ってからでしょう。だから本や話に「真実味」があれば、この人は「いい人」だと簡単に判断してしまうかもしれない。でももし、その当人が何かのきっかけで、やっていることが、それとは正反対だったとしたら、その段階で「これはアカン」となるのではないか。ぼくはいつでも、他人を騙すのは難しくはないけれど、自分を騙すのはかなり難しいと考えてきた人間です。でも、それはぼくだけであって、他者は、いとも簡単に自己を偽れるのかもしれない。なんだか淋しいというか悲しいことですが。

 広河氏が「謝罪」して、直後に(間を置かず)活動開始というのはどうでしょう。彼は自分のしたことをその程度の「つまずき」ぐらいにしか認めていないからかもしれない。つまりは「人の噂も七十五日」とね。あるいは「謝罪してほしい」「謹慎しろ」「反省しなさい」と、あちこちから言われたから、自分なりにそうした(ふりをした)だけで、心底、自身の犯した行為を受け止めていない、たぶんにその懼(おそ)れが強いと、ぼくは勝手に判断している。だから、広河氏は許せないとか、何にしても彼にも生活があるとかいうのではなく、人生の途次で、大きく傷つけられた「被害者」の痛みや苦しみを知れば、もっと違った「再生の道」があったのではないでしょうか。自分がしたことを「矮小化」というんですか、まちがって肘が当たったという程度の捉え方だったかもしれません。「痛かったとしたら、御免なさい」ねと、済ましてしまう。生まれ変わる覚悟など、そんなことを期待しているから、君はダメなんだと、誰かに言われているような気がしています。「ダメ」で結構、でも自分を偽らず、もちろん他者にも気を配りながら、ささやかな生活を送っていきたいと願うばかりです。

 一人を殺せば、殺人犯として断罪される。 しかし何千、何万の殺戮を敢行すると、その人は「英雄」「名宰相」となるという。ホントかね、ぼくはそんなものは断じて認められないですね。一人や二人の女性を犯せば、「性的加害者」、あるいは「性犯罪者」となるだろうが、たくさんの「凌辱された女性」を生みだすなら、その人は「名カメラマン」となるんですか。繰り返します。「アホか」と言いたい。人間は間違いを犯す、しかもなん度でも。でもそのたびに、自らを生まれ変わらせるという「覚悟」「態度」がなければ、それは失敗や過ちではなく、それ自体が、当人の生活になっているんですね。女性を「凌辱」しておきながら、いい作品を生むというのは、何なんですか。この問題については、さらにていねいに言わなければならないことがありすぎますので、稿を改めて。(本日も「酷暑」に見舞われています。ネコも人間も、生きとし生きるものは)

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 「私」のままで生きていけない、仲間が要る

 「学校教育」私論(同じようなことをこれまでも言ってきたし、ここでも述べ、これからも述べるでしょう)

 根っ子にある経験

 ぼくにとって、「教育は私事」であって、断じて国事ではない。このことは何度でもいいたい。(まるで道交法よろしく、「おい、右へ行け」「止まれ」「反対に向かって歩け」と命令される言われなないのです)もちろん、そういったからといって国家は学校教育の管理権や支配権を個々人に返しますと言うほどしおらしいわけでもなく、だから、そこにおのずからなる「公と私の闘い(みたいなもの)」が生まれてくることになります。それは当然の成り行きであります。でも、この「公私の戦い」というところに、この社会の未熟さが表れているという意味では、十分に考えなければならなところなんですね。

 ぼくは、「私」として生まれ、「私」として育つ、法令によって、満六歳になったら学校に入る。しかし「私」として入学するのです。学校は公的機関、公的制度と言えそうですが、もう少していねいに考えると、ぼくが入学した学校は「公立」であって、「国立」ではなかったから、むしろ完全に国家の機関であるともいえないのです。これは「私立」学校についてもいえることです。急いで言うと、「私(プライベート)」という個が複数人集まってつくられるのが「公」です。つまりは「パブリック」ということ。それを「ステート」とは言わない。学校の教師は「(全体)公共の奉仕者」であって、国家の番人(番犬)なんかではないんです。

 自分がどのような教育を「受けて(受けさせられて)きたか」という、その体験は貴重な意味をもっているとおもうのです。ぼくはおおくのひととある点では同じような、ほかの点では異なる「学校教育」を経験してきました。これはぼくだけの体験です。そう、オンリーワンというやつです。学校教育というものに対する姿勢は私流のものであって、だれの体験とも似ていないということができます。したがって、それを敷衍するというか、一般化することはかたく禁じたいとかんがえてきました。まあ、そんなに立派なものではかったからでもありますが。私的領域と公的領域は、「私的存在」が共有するというか、共同で生み出すもので、その外側、その横か上に「国家」(という機関)があることになります。

 問題は、学校教育は「公人」を作るのか「国民」を作るのかという根本問題に触れなければならないことです。パブリックの集合体によってはじめて、公的社会(空間)が成立します。そこには「国民」が要求されることはないのです。もっと言えば、人種・性別・信条・国籍などによって選別されない、人間集団という「水平社会」を指すことになります。しかし、この「公人(パブリック)」を誤解してか、あるいは無視してか、「日本人」や「日本国民」を作ることが「学校教育の目的」になっているのです。今なお、この誤解というか狭量な「国家主義」から解放されていないというのは、何とも情けない状況にあるというばかり。

 ぼく自身は、どんなことがらにせよ、自分がしてきた体験をくりかえしかんがえ、その体験とむきあうところから生まれてきた感情(?)を根拠にして、教育に対する態度・姿勢(ひとつの見方であって、思想などといえないかもしれない)を作ろうとしてきたといっていいでしょう。だから、教育に対する考え方の根底に自分流(自分だけ)の体験があるという意味では、「私」一個に足をおいたかんがえであり、意見です。この足場からはずれて、カントの思想に立脚してとか、デューイの教育論がぼくの教育の原点なんだというスタイルはとりたくないし、とらないし、とれそうにありません。そのかぎりではまったくアカデミックではありません、幸いにして。

 いまでは滅私奉公という言葉は表だって使われなくなりましたが、しっかりと生きています。装いをあらため、あるいは厚化粧をほどこして大通りを闊歩しているのがすけて見えます「新しいこーきょー」などは、まさしくそれに当たるのではないですか。そして声高に「メッシホーコー」を叫んでいるひとたちは、どうみても「私欲」をすて、「私情」をまじえず「公」に身をゆだねようとしている風にはわたしの目に映らないのはどうしたことでしょう。そうとうにわたしの目が悪くなったのかもしれません。

 公的部分(パブリックの集合体)が成熟しなければ、そこは「官(行政官)」の独壇場になるでしょう。今も各地にある町内会(あるいは自治会)を想像してみます。地域に住んでいる住民は、個々人の遺志で「町内会(パブリック)」に入会します。ここでの仕事はさまざまですが、地域生活の改善や向上を図るために、住民の意思を聞き出して、それを行政に届けたり、申し出たりする。ここで初めて「官」というか「国家機構」が顔を出すのです。肝心なところは、自分たちの生活環境を自らの判断で改良していくことです。しかし、その役割を十分に受け止めなければ、たんなんる「行政の末端機関」「官の下請け機関」になり下がるのです。おそらくこのような状況に置かれているのがほとんどでしょう。それにもいくつか理由がありますが、「町内会」に入らない人が増えてきたことが一因しているでしょう。(あくまでも「私」に閉じこもって、「公」に加わりたくないというのです。その隙を狙って、「行政」が「公」の顔をして、這い出して来るのですが、それはまぎれもなく「官」そのものでしかないのです。どこまで行っても「私」を捨てきれない状況が、どんなに深刻な「社会危機」「生存危機」を生み出しているか、いやになるほど、ぼくたちは知らされています)

 この社会には「民主主義」は未熟、いや腐熟だとされるかなりの部分はここにあります。もっというなら「私」はあってもそれが、外にでて「公の一翼を担う」べき「個」というものがじゅうぶんに成立していないことではないでしょうか。「我」のままに生きて、公にならない、なれない「私」の瀰漫・横溢こそ、もっとも大きな時代社会の危難を生み出しているのです。学校教育よ、何と答えるか?

 根っ子の「私」から

 学校教育のもっともよくないところは、教育を「受ければ受ける」ほど自分(私)を失ってゆくところです。もちろんそれがねらいなんだというだれかの声が聞こえてきそうです。それも「自分を失え」などとは言わないで「素直であれ」とか「従順であれ」と口うるさくだれかがいうのです。素直=「おだやかで人にさからわないこと。従順。柔和。」このようにいうのは広辞苑です。(おだやかと、さからわないとは同じじゃないとおもいますが。素直ではないか)

 もちろん、これだけが「素直」の説明でないことはとうぜんですが、学校が子どもに求める第一の態度はこの意味で言われる「素直」でした。さからわない、従順、これを貫徹すると「順序が狂わず、正しく従うこと」(同上)になり、長幼の序といううるわしい秩序が保守されることになります。一時はこの国でも「長幼の序」は盛んでしたが、だからこそ往時をなつかしがるむきが勢いをましてきたのでしょう。はたして、いいことなのかどうか。  滅私も奉公も姿形は同じで、もちろん中身も変わらず、装いだけを一新させて生き延びていたのです。「公共の精神の涵養」などという言葉を中教審はさかんにこねまわしています。「国家は公」というのは本当のようで、実は虚構なんだ。

 「私」だけで存在することはできますが、それ(「私」)が社会性を持つとなると、「私」からの脱皮が必要です。寝間着姿で、街中を歩くのはどうか。だっぴというのは「私」を脱ぐことであり、孵化するように「個」になることを意味します。その「個」と「「個」がであって、初めて「社会」ができるのであり、「私」だけでは社会は生まれず、ひたすら「私」だけの境涯に縛られるのです。今日の社会に粗油字ている現象の一端が、ここに発しているようにぼくには思われる。

 (この部分は続く予定)(今は、各地で「レンゲつつじ」が咲き誇っているでしょう。昔、美ヶ原や霧ケ峰高原で群生地に迷い込んで、すっぽりと囲い込まれたことを懐かしく思い出しています)

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 「屈服させられることに我慢できなかった」

 【談話室】▼▽コロナ禍が少し静まってきたことから久しぶりに仕事で東京に出かけた。都内で電車に乗ると週刊誌の中づり広告は姿を消し、デジタルの広告が目立った。昼間でも結構混雑している。大抵スマホに目を落としている。▼▽ある詩を思い出した。満員電車を舞台に乗客の娘の心模様を描いた酒田市出身の吉野弘さんの「夕焼け」。娘は立っていたお年寄りに相次いで席を譲ってあげる。また別のお年寄りが近づく。3度目は譲らなかった。だが表情は曇り下唇をかむ。美しい夕焼けも過ぎていく。▼▽この光景について吉野さんはある対談で語っている。東京・丸ノ内線で実際見たシーンが基になっているそうだ。後楽園から池袋の方へ出ると左側に富士山がパッと見えて夕焼けがきれいだったという。郊外の沿線風にして自宅ですぐ書き上げた。その娘を褒めたかったと。▼▽作者は、優しい心の持ち主を「受難者」と表現する。人の辛(つら)さに敏感な娘は席を譲るのをやめたことで持ち前の優しい心に責められたか。そんな解釈が過(よぎ)った。今は多くがスマホを使う。座って下を見ながらも、娘のように席を譲るべきか悩んでいる人もいるのではないか。(山形新聞・2022/06/14)

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 その「夕焼け」です。詩の情景を載せ走行していた「丸の内線」は、ぼくが上京以来、ほぼ毎日のように乗っていた地下鉄(電車)でした。そのほとんどは本郷三丁目から銀座・赤坂・四谷・新宿方面でしたが、ごくまれには「池袋方面行き」に乗ることがありました。後楽園・茗荷谷・池袋への乗車時間はものの十五分ほど。ぼくは、この茗荷谷あたりから江戸川に向かって、しばしば歩いたものです。東五軒町や石切り場し、あるいは大曲に賛同坂など、それなりに歴史を感じさせる街々をよく歩きました。本郷から大学まで、一時間くらいはかかったか、大塚や関口町などを通りながら、はるか新宿の高層ビル街の彼方に消えかかる日没風景は、何とも幸せな気分させてくれるのでした。今から六十年近くも前になりますから、都内といっても「長閑」なものだった。(それ以降、急速に都会の人情が荒(すさ)んでいきだしたのは「東京五輪」(64年開催)直後からで、その荒び方は一向に改まることはなかった。吉野さんの詩も、おそらく、その時期の作品ではないでしょうか。この時期、殺風景な首都高速道路建設が佳境に入っていた。よく、鴎外の「普請中」という小説を頭に浮かべていました。

 お年寄りや身体の不自由な方に席を譲りましょう ー このような「標語・運動」がいつ頃から始められたのか、記憶に残っていません。ぼくが都電(厩橋線)や丸の内線に乗り出したころはまだ始まっていませんでした。この「小さな(でも、いらない、余計な)親切運動」が導入されたとき、多くの人はあるいは何でこんなことをするんだという感想を持ったと思う。ぼくはある時期には電車に乗っても、決して座らないと決め込んでいた時がありました。「何でお前が座ってるんだよ、席を譲れ」といいたそうな人々が溢れかえっていたからだと思う。この何年間は、まず電車に乗りませんから、どういうことになっているのかわかりませんが、「どうぞお座り下さい」と席を譲られることがあるだろうか。それを、ぼくは感謝しつつ受け入れることがあるかどうか。まず、それはないと確信しています。誰だって座りたいから座っているので、わざわざ席を譲れよ、この野郎といわぬばかりの社会的分断を促すような風潮は感心しませんから。街中のいたるところに、「老人を大切にしましょう」という看板が張り巡らされている町は、いったいどんなところでしょうか、地獄の一丁目かなあ。

 八十や九十でも立っていたい「老人」もいるだろうし、若くても座ることが必要な状態にある人もいる。だから、まるで交通標識のように、立て・譲れ・座れというような指図は、実はおせっかいの極みのような気もするのです。これは「道徳」「倫理」のごく初歩問題であって、交通ルールの範疇には入らないのだ。一旦停止、左折禁止、あるいは、あおり運転禁止などなど、まるでそんな状態が社会の人間の住む中心で起こっているような気配です。やがて席を譲らなかったから、減点一の一万円の罰金だとか。いやだねえ。「相身互い身」をここでも持ち出したくなります。「お互いさま」という厚情がなくなったから「席を譲りましょう」ではなく、「年寄りや身体の不自由な者に席を譲れ」という押しつけがましい社会通念が横行したから、「お互いさま」という「厚情」は顔を赤らめてどこかに行ってしまったのだ。

 運動の初めは「席を譲りましょう」「少しばかりの善意で、他者も幸せに」程度でしたが、やがてそれは「優先席」になり、「専用席」となっているところもでてきました。そしてついには「(社会的弱者専用)指定席」となるのはお定まりです。いやな風潮と再び言いたいですね。「やさしい心の持ち主は いつでもどこでも われにもあらず受難者となる」と吉野さんは「娘」の側に立つ。どうして「やさしい心の持ち主」を「受難者」にしてしまうのでしょうか。ここまで来て、ぼくはたんに席を譲る、席を立つという問題ではなく、その根底にもっと深い、入り組んだ人間の感情がさまよっていると考えてしまいます。「優先席」と書いてるから、あるいは書いてないから、どうだというのか。たかが「座席」一つではないですか、とぼくは気持ちが昂るのを抑えられなくなりました。「年寄りは座るもの」で、若者は「立つべきなんだ」という、暗黙の了解でもあり、公然たる社会ルール(規範)にもなっている、その織り合わされた糸の目から、何かざらざらした砂のようなものがこぼれ落ちてゆくようです。

● 吉野弘(よしのひろし)(1926―2014)=詩人山形県酒田市生まれ。酒田市立商業を卒業、石油会社に勤める。1952年(昭和27)『学』に載った『I was born』で注目される。これを機に『(かい)』に参加。1957年、第一詩集消息』を刊行。以後『幻(まぼろし)・方法』(1959)、『感傷旅行』(1971)、『(ひ)を浴びて』(1983)、『夢焼け』(1992)などの詩集を出した。詩はやさしい文体で日常のなかの生の不条理、またそれへの愛を歌ってナイーブ。機智(きち)にも富む。エッセイ集『詩への通路』(1980)や詩画集『生命は』(1996)などの著書もある。1971年(昭和46)『感傷旅行』で読売文学賞、1990年(平成2)『自然渋滞』(1989)で詩歌文学館賞を受賞。[安藤靖彦]/『『吉野弘詩集(現代詩文庫12)』『続・吉野弘詩集(現代詩文庫119)』『続続・吉野弘詩集(現代詩文庫123)』(1968、1994、1994・思潮社)』▽『小海永二著『現代詩の鑑賞と研究』(1970・有精堂出版)』▽『清岡卓行著『抒情の前線――戦後詩人十人の本質』(1970・新潮社)』▽『『吉野弘詩集 陽を浴びて』(1983・花神社)』▽『『花神ブックス2 吉野弘』(1986・花神社)』▽『『詩集 自然渋滞』(1989・花神社)』▽『『詩集 夢焼け』(1992・花神社)』▽『『吉野弘全詩集』(1994・青土社)』▽『谷口幸三郎・絵『詩画集 生命は』(1996・ザイロ)』▽『八木祥光・写真『そしえて写真詩集 木が風に』(1998・そしえて)』(ニッポニカ)

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 この「席を譲ろう」運動を見ると、ぼくは一人の女性を思い出します。詳細は省きますが、アメリカの黒人女性・ローザ・パークス(1913-2005)です。アメリカにおける「公民権運動の母」とも讃えられる人でした。黒人は白人に「無条件に」席を譲らなければ、逮捕される時代があったのです。今だって、その「残滓」「名残り」は消えていないのがアメリカです。繰り返し言っているように「いかにしてアメリカを人権国家にできるか」「デモクラシーはアメリカに育たないのはどうしてか」、その問題のルーツはいたるところにあり、いまだに根を張り続けているのですね。

 「Black Lives Matter」は決してアメリカだけに生じている出来事ではないし、その問題を抱えていない社会はいまだ地上に存在したことはないのです。

 以下はWiki.からの引用です。吉野さんの「夕焼け」とは趣がまったく異なりますが、どうしても触れてみたくなったのです。「黒人だから、そこをどけ」というのと、「年寄りに座席を」という問題は趣旨は違っているようでいて、実態は変わらないんじゃないですか。ある時代の、ある社会の特定の観念や価値観の「強制」であり、「押し売り」です。制度や法律になじまないものを決めるのは「社会的多数」であり「権力側」であることは間違いないでしょう。席を譲るという、たったそれだけのものを、「権利(譲られること)」や「義務(譲ること)」にしてしまう時代や社会は貧相であり、人権感覚は皆無といってもいいでしょう。(本日は吉野さんの素敵な「夕焼け」で一丁上がりと行きたかったのですが、何よりもローザ・パークスについて語りたくなったのです)(「夕焼け」やその他の吉野さんの詩については、後日に)

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 「当時、アラバマ州はじめアメリカ南部諸州にはジム・クロウ法Jim Crow laws)と呼ばれる人種分離法が施行され、あらゆる場所で黒人と白人は隔離されていた。公共交通機関のバスでも人種隔離が実施され、黒人席と白人席は制度上明確に分けられていた。1955年12月1日18時ごろ、当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した。(右上写真ローザ。左の男性は若い時のMartin Luther King Jr.氏)

 1987年に放送されたテレビ番組で、ローザは「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」と述懐している。/ 1992年に出版された『My Story(『ローザ・パークス自伝』』においても、ローザは「疲れていたから立たなかったのでは」との指摘を「普段と比べて疲れていなかった」と否定し、「年寄りだったから立たなかった」「若者に対する差別だったのでは」との批判に対しても「まだ42歳で若かった」と反論。「屈服させられることに我慢できなかった」から席を立たなかったのであり、単なるエゴではなく人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだと述懐している。(Wikipedia)

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 黒人だから白人に席を譲るのが当然だという理不尽さ。それに比べて「老人や体の不自由な方に席を譲りましょう」というのは、法律でも条令でもなく、各個人の「善意(というものがあるなら)」に委ねられた「親切さ」「互譲精神」だったといえそうです。しかし、やがて運動が広まれば、「席を譲らないのはけしからん」となるのは見え透いています。そこへ「標識」「表示」が掲げられているのですから、「おい、この看板が見えないのか」といいたくなる人が続出するのも肯(うなず)ける? 彼女の「屈服させられることに我慢できなかった」人間としての誇りを侵害されたため席を立たなかったのだ」という「矜持」、いや「自尊心」というべきですが、そのような「プライド」はどこから出てきたのか、彼女の中でいかにして育っていたのか。彼女は母親に育てられた。苦労して学校に通い、彼女はいつでも職業についていた。二十歳過ぎに理容師だった男性と結婚、彼の「人権」意識も大きな影響を彼女に与えたはずです。夫のレイモンド・パークスは「全米黒人地位向上協会(NAACP)のメンバーだった。(詳細は「自伝」等を参照してください)

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 このことについても、どこかで触れました。アメリカ社会で「黒人暴動」「黒人暴力」が起こり続けなければ、アメリカは今よりももっとひどい状況に苦しんでいたのではないでしょうか。「暴力」は、理由の如何を問わず認められないと、いったい誰が言うのか。暴力が事態を変えることはどこにでも見られたことだし、その暴力こそ、実は人間の「最後の砦」だともいえるのです。(あえて誤解されそうな言い方をします)力を持たない、無力な人間たちは、権力の意向に従う限りで、生きるための最低限の「生存」をしか認められてこなかった。人間らしく生きるというのは、途方もない願いであった時代は、ある種の社会層に属する人々に、いつでも認められる、尊厳を踏みにじられる状態だったのです。

 パークスは「黒人用」の最前列に座っていた。そこに白人が乗り込んで、その席を譲れと命令された。「当時42歳のローザは、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車した。白人専用の席はバスの前方にあり、その次の列から後方が黒人の席だったが、運転手は境界を後方に移動することができた。法にはなかったが、白人の座席が足りないときは境界を移動して、黒人を立たせるのが習慣だった。ローザは黒人席の最前列に座っていたが、次第に乗車して来る白人が増え、立って乗車せざるを得ない白人も出てきた。このため、運転手ジェームズ・F・ブレークは境界を一列ずらし、座っていた黒人4名に立つよう命じる。3名は席を空けたが、ローザは立たなかった。ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問し席を譲るよう求めたが、ローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否した」

 「着席したままだった私に気付いたブレイクがなぜ立たないかと訊ね、(私は)『立ちません』と答えました。するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言ったので、私は『どうぞ、そうなさい』と答えたんです」「ブレイクは警察に通報し、ローザは市条例違反で逮捕された。ローザは「どうして私が連行されるのか」と質問したが、警官は「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答した。警察署での逮捕手続きが終わると一旦は市の拘置所に入れられたが、即日保釈され、やがてモンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告される。」(Wiki.)

 一人のローザがいなかったら、おそらく、別の時代、別の場所で「もう一人のローザ」が現れたはずです。不条理な、あるいは理不尽な社会的決定(慣行)に対して、たった一人で「異を唱える」、その「たった一人」の存在は、その他にたくさんいることを示しています。きっと、ローザ・パークスは歴史のめぐりあわせで、注目を浴びたのでしょう。しかし、一人のローザがいたということは無数の「ローザ」がいることを明示している、それが歴史の教えるところです。「現状」「体制」にはいくつもの問題点がある、それを不条理ととらえることができるかどうか、どこに分岐点があるのか、そんな問題として、ローザ・パークス問題を、ぼくは考えてきました。「夕焼け」の一人の娘さんの「受難」につながる問題ではないでしょうか。

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 ボクシングへの情熱で、生活費を稼ぎました

 闘う相手は貧困と性差別 ベトナム初の女子ボクシング世界チャンピオン(AFP2022年5月22日 11:00)

【5月22日 AFP】女子ボクサーのグエン・ティ・トゥ・ニ(Nguyen Thi Thu Nhi)選手(25)は、貧困と性別に基づく偏見を相手に闘い、ベトナム初の世界チャンピオンとなった。/ 昨年10月に行われたWBO女子世界ミニマム級タイトルマッチで、挑戦者のニ選手は王座防衛に臨んだ日本の多田悦子(Etsuko Tada)選手と対戦。予想を覆す勝利を収め、プロとしてわずか5試合目で世界王者の座に就いた。/ ベトナムでは女性のスポーツ、とりわけ格闘技への参加は嘲笑されがちだ。そんな保守的な社会で、恵まれない境遇から立ち上がったニ選手の勝利は、画期的な偉業だった。/ ボクシングを始めたのは、13歳の時だ。ホーチミン(Ho Chi Minh)の貧困地区の小さな家に家族9人で住んでいたニ選手は、コーチに素質を見いだされ、トレーニングにすべてをささげると決心した。「もっとお金を稼ぎたかったので、一生懸命練習しました」と話す。

偏見と闘う ニ選手は自分の求めているものが分かっていた。家族を養う足しにするため必死に働いて1日数セントしか稼げない生活から抜け出すことだ。/ 「路上で宝くじ券を売ったり、飲食店で働いたり。家計の足しになることは何でもやりました」/ 対戦した多田選手は自分より身長も高く、プロとして20勝4敗3分けの記録を持つ経験豊富な王者だ。だが、ジャッジの判定は全員一致でニ選手の勝利だった。多田選手はもとより、ニ選手本人にも衝撃だった。/ 「勝ったことが信じられませんでした。チャンピオンベルトをベッドで横に置いて、一晩中眠れませんでした」

■岐路 共産主義と儒教の伝統が混在するベトナムではスポーツをする女性に対する偏見が根強く、ボクサーとしての道を歩むニ選手はばかにされてきた。/ 「近所の人たちはいつも祖母に、なぜ私に男の子みたいなボクシングをさせるのかと質問していました」とニ選手は言う。/ 「私が選んだ道が自分に合っていることを彼らに示すために、精いっぱいやってきました。私はボクシングへの情熱で、生活費を稼ぎました」/ 王座獲得から半年がたった今、ニ選手は岐路に立たされている。プロとして試合に出るか、アマチュア大会に出場するかだ。/ ニ選手によると、WBOの王座は180日以内にタイトル防衛戦を行わないと剥奪されてしまう。だが、トルコで開催中の国際ボクシング協会(IBA)のアマチュア女子世界選手権に、すでにベトナム代表として出場を決めている。/ ニ選手はWBOのチャンピオンベルトを失うことに未練はないと言う。/ 「今の目標はトルコでメダルを獲得することです。そして、アマチュアとプロ、どちらでもやれるのをみんなに示すことです」とニ選手は語った。(c)AFP/Tran Thi Minh Ha(ヘッダー写真はサバの棚:「https://www.his-discover.com/vietnam/sapa/)

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 いつも言うことですが、ぼくには「偏見」があります。しかも、いくつもある、というか、偏見の根や源が、ぼくの内部にあって、そこからさまざまな事柄に対する偏見の「枝葉」が育つのかもしれません。勝手な言い分ですが、きっと偏見とは無縁な人はいないのではないかと、思い続けてきました。自分は「偏見」から解放されたいという願いがあるのは事実で、これまでには人知れず、偏見との戦い・闘いの生活(人生)であったと、ひそかに思ったりしています。ここで、本日の「女性ボクシング」に対する私見(=偏見)ですが、男対女という構図で見るとき、ある種の運動(スポーツ)では、いずれ女性が男性を凌駕する(記録的にも男性に遜色ない)ところまで行くのではないかとみています。(既にそうなっているものも、あるかもしれません)一例は「マラソン」です。細かいことは省略しますが、最高記録の出方が、男性のそれよりもはるかに短時日のうちに記録更新されています。これにはいろいろな理由や背景が考えられますが、一番の問題は、女性の運動能力の伸長でしょう。なんといっても「女性は強い」「底力がありますな」ということにつきます。「女・子ども」などとエラそうな言い方を男たちはしてきましたが、それはどんな状況に陥ろうと、そんな「奴ら(女子ども)」に負けるものかという「強がり」が言わせていた口ぶりでしたね。ところがどうでしょう、今や、いろいろな分野で「男、何するものぞ」という女性が続出しているのです。いいことですね。もっと「女性解放」が進むといいもとろん、。悪いことは、男と競争しなくてもいい、男に任せておくに限ります。

 こういう話をすると、きっと、そんな馬鹿なことがあるかという男が出てきます。ならば、何でもいいから女性の選手と試合(勝負)をしてみるといい。必ず負けるに決まっています。柔道・レスリング・短距離走、水泳などなど、大半の男性は女性選手に手もなく負けるでしょう。それは「練習」量が違うからだというなら、男も同じように練習してみるといい。世界的なアスリートの多くは、男性選手と合同で練習しています。それを見ていて、つくづく考えたりします。もっと早く、運動競技が女性に開放されていたなら、ぼくの「偏見」は霧消していたことだろうと思う。(そうなっていたら、今とはまったく「逆」のことを、ぼくは言っているでしょう)「男社会」「男尊女卑」「夫唱婦随」などなど、なんでもいいが、とにかく「男を立ててきた」歴史が、いずれの社会においても長く続きました。それはいいことではなかったのは、現実の諸相を見れば一目瞭然です。

 グエン・ティ・トゥ・ニさんの試合を見たことはありません。さぞかし懸命に試合に臨んでいるのでしょう。「私が選んだ道が自分に合っていることを彼らに示すために、精いっぱいやってきました。私はボクシングへの情熱で、生活費を稼ぎました」という彼女の一貫した態度に、ぼくは昔日のこの島社会の「青春」を見てしまいます。そんな殴り合い(殴られ合い)なんか、女性のするものではないのだという「社会通念」はベトナムに限らず、さまざまな地域に厳存しています。女性は「顔を覆え」とか、「人前で肌を見せてはいけない」という、まるで時代遅れの慣習や風俗をいまだに後生大事に厳守しているところを見て、ぼくたちは「なんと古い」と笑えるのでしょうか。そんなことは、この島においてだって、つい百年前かそこらあたりまでは歴然と主張されていたのです。(左写真:アフガニスタンのテレビでは女性司会者が顔を隠さないのが普通になっていた)(写真は2013年1月)。(BBC・タリバンは「顔を覆う」ように命令を出した:2022/05/20)

 これも「偏見」だといわれると、返す言葉がないのですが、「男対女」という構図そのものが、怪しいというか、生物学的にはそんなに単純に「色分け」されない現実が明らかになってきましたから、この傾向(「男と女」という「二分法」では間に合わないという状況)はますます促進されるでしょう。

 この先五輪が続くとして、五輪種目がことごとく男女いっしょになるということは現実的ではありません。しかし、その他のスポーツでは「男女合同」を実践していたり、その一歩手前まで来ているものもあります。あえて、こんなことを言う必要もないのですが、男と女だけというのは「いかにも不都合ではないですか」といいたのです。野球にしても男女が入り混じっているケースもありますね。「人間」が野球をする、ボクシングをするということであって、それをあえて「性」で分けることもないじゃないかという気もしている。今はまだでしょうが、いずれ(五百年千年後)はそうなるんでしょうね。「ベトナムでは女性のスポーツ、とりわけ格闘技への参加は嘲笑されがちだ」という現実は、決してベトナムだけのことではないでしょうし、今からどれくらい前になるか、人前で「殴り合いをするなんて」と軽侮された時代があったでしょう。男性ができて女性ができないことには、どんなものがあるのか。まずほとんどないでしょう。その反対は?

 (余計なことながら この記事で、一か所だけクレームをつけておきます。「ベトナム初の女子ボクシング世界チャンピオン」という部分で、「女子」というのですか。これに限りませんが、「女子バレー」だの「女子水泳」だのと、「女子」が好きなんですね。これは男の責任なのか。運動競技は、「女性」ではなく「女子」がするとでもいうのでしょうか。この記事は翻訳なのだろうと思われますから、もとの言葉(womenとか)がどうなっているか、よくわかりませんが)

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 「差別」は人間(社会)の固有の病巣か

 「差別問題とは何か」「われわれが今日の現況から想像するように、古代でも朝鮮その他からの渡来、『帰化人』たちを蔑視したり、差別したと思うのは誤解である。いわゆる『蕃別』の貴族がかなり多数であったことは、『新撰姓氏録』が伝えている通りで、なかにはきわめて有力な豪族が出ていた。かれらは統率していた朝鮮人部民もあったにちがいないが、むしろ支配していた日本人部民の方が多かっだたろう。すなわち大阪の猪飼野を、必ずしも朝鮮人を賤民とした古代居住地であるとは即断はできない。むしろわれわれ日本人が古代から移住、渡来してきた異国人たちを賤民視し、差別していたと考える、その思想であろう。いわんやあやふやな想像から、デーモンがまねき寄せたなどというのは、こっけいというほかあるまい」(赤松啓介『差別の民俗学』ちくま学芸文庫)

● 蕃別(ばんべつ)=日本古代の帰化系氏族総称。江戸時代以後の学者が誤って使いはじめた語で,正しくは諸蕃という。平安時代初期の『新撰姓氏録』には,すべての皇別神別,諸蕃の3つに大別し,うち諸蕃を,百済,高麗 (こま) ,新羅任那 (みまな) の5つに分ける。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 赤松啓介さん(1909~2000)は民俗学・考古学者でした。独自の視点から庶民(いわゆる非常民)の「民俗文化」を調査研究されました。いわば、民間学の系統に属する人でもあった。柳田國男に代表される「常民研究」に対する精力的な批判者としても知られています。『赤松啓介民俗学選集』(全6巻・別巻1、明石書店刊)など。上に引用した文章が書かれたのは82年のことでした。今日からみるといくらかは状況に変化が見られますが、根本のところで「偏見」や「差別」の気質や心象風景はそれほど変わっているとは思われません。この文章のきっかけになったとみられるのは『差別の精神史序説』(77年、三省堂刊)だったようです。

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 三省堂選書25「シンポジウム 差別の精神史序説」井上ひさし・野元菊雄・広末保・別役実・松田修・三橋修・山口昌男・由良君美・横井清。「論議をよんでいる差別語の問題を、文化の構造と関連させながら精神史の問題につなげようとする初めての試み。長時間の討議の中で多面的に問題を追求した書。」(1977.8.25)(出版社による自画自賛の記述)

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 「たとえば、戸籍はいくらでも移せるでしょう。今日なんの抵抗もなく移せるわけです。なぜ、原理的にデメリットのあるとわかっている所に、戸籍を置いておくのか。自意識的に、差別への抵抗として置いておくのならわかりますよ。なぜそれをしないのか本当に理解できない」という発言に対して、赤松さんは「この程度の認識で差別の構造を解析したり、被差別部落の置かれた状況を説明しようというのは、いささか無知というほかあるまい」と、切って捨てています。いまから四十年前です。知識人と自認している人の心根がいかにも薄っぺらでした。今でも変わらないんじゃないですか。この発言は誰のものかは、今は問いません(言いません)が、「差別」の歴史とその深さを知らないからこそ言える、無知からの軽率な発言であったといえるでしょう。情けないことではありました。さらに、以下に続きます。

 「なぜ沖縄の人たちが大阪の大正区に、また朝鮮の人たちが猪飼野周辺に移住群居するのか、― 猪飼野はまさに古代の賤民居住地でしょう。だから猪を飼うという字をあてるわけです。その当初から、養猪、養豚をやっていたのですね。それが近代百年になってから、かならずしも権力の強制ではなく朝鮮人がそこに住みつくっていうことは、なにか因縁というか、一種の恐ろしさをさえ感ずるわけですけれども、土地のデーモン、地霊がまねきよせたのでしょうかね。―」(同上)

  この部分で赤松さんは「まともに論評する気もないけれども」といわれます。これを堂々と文章にするのですから、無知ほど怖いものはないというべきですね。参加者たちも出版社も、同罪ですな。「猪飼野が『猪甘部』の居住地であったことは、おそらく事実だろう。しかし部民が、朝鮮人であったという証拠はない。首領である『猪甘部首』は、天足彦国押人命の後裔というから、『皇族』つまり天皇家出身の貴族ということになる。部民は朝鮮人であったかもしれぬが、日本人であった可能性も多い。あるいは朝鮮人は飼養の技術者として待遇され、一般の日本人の部民を指揮していたとも考えられるだろう」(同上)(ヘッダー写真:猪飼野・「Holiday」https://haveagood.holiday/spots/281102)

 島根県浜田市下府町に伊甘()(いかん)神社があります。伊甘()は猪飼、鷹甘は鷹飼というように、職業を表した部民(べのたみ)()。通称は下府明神。神社縁起によれば、創祀年代は、貞観三年(861)。祭神は伊甘郷開拓の猪甘首の祖である天足彦國押人命あまたらしひこくにおしひとのみこと)。三代実録によると貞観十一年従五位上、貞観十七年正五位下、元慶三年正五位上の神階を授けられたとされる。部民の制は大化以前の「大和王権」の支配方式でした。記紀によれば天足彦国押人命は孝昭天皇の皇子となります。また、猪飼(伊甘)の猪は豚だとされます。

 (【部】大化前代、大和政権に服属する官人・人民の集団に付せられた呼称。五世紀末の渡来系技術者の品部(しなべ)への組織化に始まり、旧来の官人組織である伴(とも)を品部の組織に改編し、また王権の発展に伴って服属した地方首長の領有民や技術者集団、中央豪族の領有民(部曲(かきべ))にも部を設定し、王権に服属した民であることを示した。部による支配方式を一般に部民制と呼び、六世紀を通じて大和政権の基本的な支配構造となった。部(とも)。)(大辞林)

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 これ以上すすむと本題から離れるので、ここで詮索をやめますが、これだけみても「猪飼野はまさに古代の賤民居住地でしょう」というのはいかにもあてずっぽう、でたらめ。これが「知識人か」と、恥ずかしくなります。だから、赤松さんは「むしろわれわれ日本人が古代から移住、渡来してきた異国人たちを賤民視し、差別していたと考える、その思想であろう。いわんやあやふやな創造から、デーモンがまねき寄せたなどというのは、こっけいというほかあるまい。こうした思想ではマレビトなどの正確な理解もし難いと思うが、被差別部落についても、もう少し実態調査をやっておいての発言をするべきであろう」というのです。「思想」というよりはぬきがたい偏見、差別意識だとぼくには思われます。さて、その意識の由来は?

  「人間における『差別』という精神構造(「共同幻想」といわれるもの)が、いつ頃から発生したのか、まだ明らかでないが、われわれが想像するより、はるかに古いものであろう。『男』と『女』との存在、すなわち性的相違が、すでに差別の本源(「対幻想」といわれるらしい)であったということであれば、『差別』とは人間、あるいは人間社会の固有の病巣(共同幻想)ということになる。(「基層にある差別観念」同上)

 排除や差別というものもまた、一つの社会機能をもっており、それを再生産する構造があるかぎりけっしてなくならないだろうというのが赤松さんの立場です。だから「被差別の社会構造」を変えようとするのは無駄な努力、つまり徒労なんだということになるのかどうか。「私は、そうは考えていない」とも、赤松さんは言われる。

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 若いころからぼくは柳田国を自己流ではありましたが、熱心に(ぼくとしては)読んだと思います。その間、つねに頭の片隅にはアカマツケイスケが蠢(うごめ)いていました。彼の本も、何冊かは手に取って読んだこともあります。赤松さんは柳田さんの生まれ故郷の近くの出身で、柳田さんが、ことさらに避けていた「性」と「非常民民俗」研究に大きな足跡を残された。「柳」に果敢に挑戦する「松」という印象をぼくは常に感じていました。しかし、とにかく明治以降の近代社会史の「勉強」をするつもりで柳田研究(というのもおこがましいが)の真似事を続けていった(小さな本も書いた)。いつかじっくりと赤松民俗学を学んでみようとして、ついに果たさないままで、現在に至っているのです。

 赤松さんは、いわば在野の研究家であり、実地調査の実践家でもありました。「行商をしながら10代から独学で民俗学的調査に取り組む。戦前非合法であった日本共産党に入党し、治安維持法で検挙され収監された経験を持つ」(wikipedia)。死後に残されたたくさんの書籍は今でも読めますので、ぼくは、これからはていねいに赤松さんの「非常民の歴史と民俗」を学んでいこうと考えているところです。柳田さんよりも前にアカマツケイスケを熟読していたら、ぼくの生き方はずいぶんと変わっていただろうと思います。

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● 赤松 啓介(アカマツ ケイスケ)=昭和・平成期の郷土史家 生年明治42(1909)年3月4日 没年平成12(2000)年3月26日 出身地兵庫県加西郡下里村(現・加西市) 本名栗山 一夫(クリヤマ カズオ) 経歴昭和5年頃から社会運動に従事しつつ、民俗学考古学著書論考を発表。在野の民俗学者として関西を中心に活動。性民俗の調査に取り組み、夜這いの風習など庶民の性生活を研究・体系化したことで知られる。14年唯物論研究会事件で検挙。24年民主主義科学者協会神戸支部局長、32年神戸市史編集委員、43年神戸市埋蔵文化財調査嘱託。五色山古墳整備工事現場監督。著書に「東洋古代史講話」「民俗学」「村落共同体農耕儀礼解体」「非常民の民俗文化―生活民俗と差別昔話」「非常民の性民俗」「戦国乱世の民俗誌」、「赤松啓介民俗学選集」(全6巻)などがある。(20世紀日本人名辞典)

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