これが別れではないですよ

【正平調】詩人の茨木のり子さんが少女の頃、自ら会いに行った俳優の言葉を「汲(く)む-Y・Yに-」という詩に書いている。「人を人とも思わなくなったとき堕落が始まるのね」◆少女にかける言葉にしてはなかなか厳しい。だが茨木さんはしっかりと受け止めて、後にこう語った。「たかをくくるな、なめてかかるな、ということを教えてくださった気がします」◆俳優は山本安英(やすえ)さん。「夕鶴」の主人公、つう役で知られる。堕落するな、たかをくくるな。そう諭す山本さんの姿に先日、訃報に触れた奈良岡朋子さんが重なった◆30年前のインタビューで俳優について問われ、答えている。「役者が最終的に問われるのは日常を含めた人間性なんですね」。そのままの姿勢を貫き舞台で、映像で輝きを放った◆井伏鱒二作の「黒い雨」の朗読を聞きに行ったことがある。声に、たたずまいに、それこそ奈良岡さんの人間性がにじみ出ていた。空襲体験を交えながら、とつとつと語る声をラジオで聞いたのも同じ頃だったか。「私は理屈じゃなく感覚で戦争を憎みます」◆生前に残した別れのあいさつから。「向こうへ着いたらすぐに宇野(重吉)さんを訪ねます」。もう一度、あの厳しい演出を。乞われてはにかむ宇野さんの顔を思い浮かべる。(神戸新聞・2023/03/31)

【余録】新聞で「悲しい酒」を好きな曲にあげたことを機に美空ひばりさんと交流を深めた。ブランデー持参で自宅を訪れたひばりさんから「姉貴として付き合ってほしい」と頼まれた。その後は本名で「和枝さん」と呼んだ▲石原裕次郎さんとは1959年に映画で初共演し、兄嫁を演じた。撮影中、遅刻した裕次郎さんから「不肖の弟で申し訳ありません」と謝罪され、それからも「お姉さん」と呼ばれた▲93歳で亡くなった俳優の奈良岡朋子さん。昭和の大スターに慕われたのは傑出した演技力と人柄ゆえだろう。吉永小百合さんとは映画で何度も母子になった。「おっかさんに頼みたい」と請われ、結婚の保証人になった▲テレビ世代には朝の連続ドラマ「おしん」など知的で落ち着いた語り口のナレーションも印象深い。タクシーの運転手には「奈良岡さんですね。声でわかります」とよく言われたそうだ▲15歳で東京大空襲を体験し、52年の映画「原爆の子」で戦争の傷痕が残る広島ロケに参加した。70歳を過ぎてから戦争の記憶を語り始め、晩年は井伏鱒二作「黒い雨」の朗読がライフワークになった▲「デコ」の愛称の名付け親は劇団民芸の先輩、宇野重吉さん。生前に残したメッセージで「昔のデコじゃないですよ」と新たな旅路での再会を願った。「裕ちゃんや和枝さんと思いっきり遊びます」とも。民芸で同期の大滝秀治さんとは「継続は力なり」と芝居を続けることを約束し合ったという。その通り、役者の道を貫いた人生だった。(毎日新聞・2023/03/30)

 昨夜九時ころ、久しぶりに京都の友人から電話が来た。10日ほど前に、新著「生と死 ある在日の断層」というご本を戴いていた。そのお礼も言わなままだったから、きっと電話があると思っていました。ぼくはとても無礼な、いやけしからん人間で、これまでにたくさんの友人や知人、あるいは先輩や後輩から著書を送ってもらった、ところがめったに「お礼」を言ったことがなかった。もちろん、飛んでもない無作法だという自覚はあるが、口先のお礼は言えないたちだから、非難は覚悟の上のことでした。何度も、「感想」くらい言ったらどうだ、「無礼者め」という詰問を掛けられたこともしばしばでした。「どうもすみませんでした」というほかない。

 京都の友人も、同じような非難(あるいは怒り)を持っていたのは間違いない。寄贈されて迷惑だというのではない。だから、「ご著書、戴きました」「ゆっくり読ませてもらいます」と一言添えれば、事は済むのかもしれないが、不調法な人間にはそれが出来なかった。と同時に、昨晩の電話には、ぼくは愉快でない気分に襲われた。これを書くのは気が許さないから止めておくが、長く離れていた奥方となんとも不味い関係が続いていて、もはや耐えられないという雰囲気だった。彼は悲観主義の塊(かたまり)だと日頃から思っていたし、そうも、ご本人に伝えていたが、その「主義」が手に負えないくらいのところに達していると感じたので、返す言葉もなかった。端的にいうなら「死にたい」「生きていても、どうしようもない」という。慰めようがないし、なんでぼくが慰める必要があるのかという気もする。「言っても始まらなのはわかっている」と友人は言う。でもぼくに言わせると、言えば、慰められるから、あるいはそれを期待して電話をかけたということです。そんなことはないと、即座に否定するのは偽りであると、分かる。ぼくには、そのような状況に襲われたことがないから、なんとも言葉がありませんでした。

 「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」

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 つまらないこと、不愉快なことを書いているようにも思われます。こんな不躾な駄文が綴られるのも、上に掲げた2つの(コラム」が触れている一人の「人間」の訃報を二日前に知ったからである。ぼくは奈良岡さんといかなる付き合いもないし、熱心なファンでもなかった。なんどかテレビやラジオで彼女の語りや芝居を見聞しただけでした。しかし、「この女性は何ものか」という感情をいつも持った。細かいことは言わないが、こんな印象を抱かされたのは杉村春子さん以外では初めてでした。演劇人として、その振る舞いは「秀逸」だと、鈍感なぼくですら感じさせられた。岡田茉莉子という女優が、「自分の評価」について、小津安二郎さんに質問をしたことがあった。(彼女の父・岡田時彦氏は無声映画時代の俳優で小津さんの親友でもあった)「監督、野球の打順でいうと、四番バッターは誰ですか」と尋ねた。茉莉子氏には「自分は四番」と、いささかの自惚(うぬぼ)れがあったかもしれない、そんな訊き方だった。それくらいの大胆さ(厚顔か)がなければ、俳優は務まらないのかもしれないと思ったが、小津さんは即座に「杉村さん」と答えた。意表を突かれた岡田さんは「じゃあ、私は何番?」と、不満げに訊いたので、仕方なしに、小津監督は「一番打者」と答えた(あるいは、「二番」と答えたのだったか)。その杉村さんの、後生(後継)は奈良岡朋子さんだったと思う。(左上・Photo by スポニチ)

 小津映画に奈良岡さんが出演していたなら、監督は迷わず、「奈良岡さん、実力は四番打者」と断言したでしょう。比べられないほどの「演技力」だったと、素人のぼくは思う。彼女の「朗読」もいくつか聴いたが、桁外れの深さを持った朗読だったと思う。これを書きながら、長岡輝子氏のことを思い出している。ぼくがこの駄文でいいたのは、その時代の人は「端倪すべからざる精進」を、当たり前に重ねていたということ。それは舞台裏においてであって、決して見せびらかすような不調法はしなかったということです。晩年になって、長岡さんは同郷の詩人、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を朗読されることがしばしばでした。それを聴いて、ぼくは震撼させられた。その他、いくつも賢治詩を聴いたが、「秀逸」というほかなかった。他の追随を許さなかったというべきでしょう。

 数少ない観劇や視聴の経験から、奈良岡朋子さんは「不世出」と思うほどの「役者」だったと実感してきた。そのための「精進」がどれほどのものだったか、語られなかったが、それを思わせる深さと情感を教えてくれたという気がする。杉村さんにも感じたことだったが、彼女(奈良岡さん)が出てくると、他の役者がすべて青ざめるというか、白々しい「大根」に見えてくるのだった。それはどうしようもない景色でした。

 いろいろと駄弁りたい気もするし、「一つの人生」の終止符を、それも傍から見ると、見事なといいたくなるような「終止符」を打たれた奈良岡さんへの想いが駆け巡っている。宇野重吉という稀代の演出家、役者に出会って「君は結婚してはいけないよ」と言われ、それを生涯貫いた言われます。彼女は美大を出た人で、絵心は画家だった父親譲りのものだったろう。役者の才能に「美的感覚」は不可欠だが、それは奈良岡さんには不足はなかったと思う。奈良岡さんは、舞台・映画界では「四番打者」だっただけではなく、監督としても大きな花を開いた人だと言えるでしょう。チームプレーも個人プレーも、いずれにもその存在をいかんなく発揮された役者だった。小さな役についていて、こんなに「光っていていいの」と思わせるような「わざおぎ」でしたね。残された録音録画などを、ゆっくりと鑑賞したい。(左写真・杉村春子さん)  

 「私は理屈じゃなく感覚で戦争を憎みます」(合掌)

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● わざおぎ = 身ぶり動作により神を招く意で,「俳優」の字をあてる。日本の芸能起源を示す語で,『古事記』『日本書紀』にみえる2つの芸能神話,つまり天岩屋戸の前で行なったアメノウズメノミコトの祈祷舞踊や,海幸・山幸の条にみえる模倣芸能に現れている。のちには舞踊家,芸能人を,さらには役者,演技者をさすようになり,一般に「はいゆう」と呼ばれるようになった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)