
【正平調】春の陽光に包まれた寺で、藍染めの衣の尼僧が深々と頭を下げて出迎えてくれる。寝そべる猫の傍らで話すのは難しい仏教や法事のこと…ではなく、世俗に生きる私たちが抱えるさまざまな苦悩について◆姫路市網干区にある臨済宗の禅寺、不徹寺。1688(元禄元)年、丹波出身の俳人田(でん)ステ女(じょ)が建てた不徹庵(あん)から始まり、代々尼僧が守り続けてきた◆「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」。庭が見える本堂で、松山照紀(しょうき)住職がほほ笑み、悩みを抱えて訪れた人を諭す◆そんな松山住職が、求められて著書「駆け込み寺の庵主さん」をしたためた。学生結婚、多くの死を見つめた看護師時代、そして出家。激動の人生を振り返って、読者に「失敗もいいことも、一つ一つが今の自分を構成している。胸を張って!」とエールを送る◆出版の影響もあり、今では毎日のように、対話や電話で誰かの相談に乗る。「それが頭をそっている者の努め。残された時間全てを費やしても惜しくない」。穏やかな声に、一瞬熱がこもった◆〈雪の朝二の字二の字の下駄(げた)の跡〉。積雪の情景を6歳で俳句にしたステ女。目に映ったそのままを表現した素直さは、松山住職が「ありのままでいい」と説く心の姿とも重なる。(神戸新聞NEXT・2023/03/27)

「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」、その心は? なんとかなるものだ、ということでしょうか。「人生の成功」、あるいは「人生の失敗」とは何を指していうのか。同じようなことでもありますが「成功した人生」、または「失敗の人生」とも。それも、ぼくにはよくわかりません。人生の成功・失敗は「宝くじ」に当選するかしないかのようなものではないのは、誰もが認めるでしょうが、でも、案外それに近いような運不運を尺度にしているようなところもあるように思います。この松山さんの「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」というのは経験談でしょうか。なんとかしたい、なんとかしなければという「焦り」が、人間をさらに窮地に追い込むのでしょう。その「窮地」は、冷静に考えれば、自分が掘った穴かもしれない。
この住職が歩かれた波乱の軌跡が「ありのままでいい」という、精神の落ち着きを与えているようにも、ぼくには感じられます。ぼく自身は、「あるがまま」「ありのまま」を心情・信条にしたいと願ってきたし、そのためには誰かと競争しないこと、優劣比べという戦線には加わらない、それをある時期から固く誓って生きてきました。大声を上げて、「これがぼくの生き方だ」などと宣言したことはない。それもまたぼくの「ありのまま」だったと今では考えている。「今を生きる」というが、その「今」には、昨日もあれば明日も含まれている。「現在」とは過去と未来につながる場と時です。ぼくたちは、いつだって「今を生きている」「現在に生きる」のであって、過去も未来も、その現在に潜入(侵入)しているにちがいないのです。だから「現在は永遠の鏡」だと言ってみたりしました。いつでも「今、現在」を生きるのが「いのち」というものです。はるかな過去や見通せない未来を視野にいれることは不可能ですし、それをすればするほど、「今を生きる」ことが疎かになる。足場を失い、浮足立つことになる。
「失敗もいいことも、一つ一つが今の自分を構成している」と言われる、この指摘には、これまでに犯した過ちもまた、自らを作っている要素であり、それを否定することからは、なにか生まれるものはないということでしょう。「失敗は成功のもと」とはどういう教訓でしょうか。しばしばエジソンの言であるとも言われてきました。〈 Failure is a stepping stone to success. 〉過ちの経験を活かすということは、過ちを犯したという記憶を失わないという意味でしょう。「成功」とはあくまでも比喩であり、過ちを繰り返さない歩き方(生き方)は、誤った地点まで立ち戻ることです。この道を選んだのは間違いであったと気づく、それが別の道を歩く(同じ間違いを侵さない)要諦になるということでしょう。「過ち」という経験は、そのような意味合いで、自らの歩く道を選ぶための大切な導き(教え)として生きているのです。これとは反対に「成功は失敗のもと」を地で行く人が多すぎるような気もしている。目標の大学に合格することが「成功」だというのですから、少しどころか、大いに悲しむべき過誤ではありますね。

「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」というのは「そのままでいい」ということ。無理になにかを求めてもダメなものはダメ、「待てば海路の日和あり」ということです。ぼくの好きな「教え」ですね。荒天のときに、無理に船を出しても事故に遭うのが落ちです。一日二日を惜しんで、あたら「いのち」を失うこともないでしょうに。無理をしない、焦らない、まるで一休さんのような言い草ですね。「なんとかしよう」「なんとかしたい」という焦燥感は、ある種の「人生観」や「価値観」に急かされてのことではないでしょうか。ぼくは、いつも「今日できることは、明日もできる」という、とても不真面目な態度を一貫してきました。もちろん、自分自身に限られた事柄においては、です。「絶対」「必ず」などという強迫観念はまず持たなかった。〈 must 〉ではなく、〈 may 〉の姿勢を保って歩きたかった。「ねばならない」ではなく、「かも知れない」で、ということです。
学校には行くべき、行かねばならないという、一種の正義感はとても苦手だった。いつだって「嫌なら行かなくてもいい」という中途半端な態度だった。「右か左か」「あれかこれか」と強いられるのはいちばん苦手でしたね。右でも左でも、どっちだっていいじゃん、そんな横着な生き方が性に合っていました。松山住職の「諭し」とは離れているのかも知れません。でも、「雨天を呪うな」と言われている気もするのです。まだ小学校に入る前だったか、親戚の叔母に「天気に文句を言わないこと」と聴いた。雨が降るからと、天候に文句を言っても始まらないじゃないかということだったでしょう。その指摘が理解できるようになるには、十年も二十年もの年月が必要でした。「雨の日には笑え!」「悪い天気には、いい顔を!」 この「格律」は、天候にも効き目があるが、人間ならもっと効果覿面でしたね。不平や不満、怒りや悲しみをうまく抑制してくれた。


「不徹寺としての思い 心のゴミを捨てる場所として / 不徹寺は、日本の中でも女性が創建し、代々尼僧が守り続けるお寺としては / 唯一のお寺です。/ そして、女性の修行ための築300年を経た禅堂を持つお寺は当山しかございません。/ 創建より、女性によって女性の自立・学び・精神修養を自らの手で作り上げてきたという歴史があります。/ このような流れをくんで、現代を生きる女性が出家如何を問わず / 自分自身を見つめ直す場所として開かれたお寺にしようと考えております。/ 複雑化する社会や人間関係・恋愛・結婚・家庭・育児・介護などで抱えた / 心のモヤモヤを気軽に捨てに来ていただきたいと思います。/ この青葉の清々しい写真(⬆)のような気持ちになっていただきたいなと願ってやみません」(https://www.futetsuji.com/blank-3)
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「木」という漢字。言わずと知れた「き・もく」ですね。それには「すなお。飾り気がない」という意味が付けられています。素のままに育った木をさしていうのでしょう。また、「朴・樸」(ぼく・はく)という漢字を当て、「愚樸(ぐぼく)」「質朴(しつぼく)」「などという熟語をつくっている。「素直」などとも重なる意味合いがありますね。その「素直」は「ありのままで、飾り気のないさま。素朴」「物の形などが、まっすぐで、ねじ曲がっていないさま」(デジタル大辞泉)と解説されていますが、それをまた「従順」と受け取ってきたきらいが、ぼくにもありました。「素直をは従順でもある」、と。でもやはり違いますね、そう受け取るのは誤りだと気が付きました。「従順」とは素朴ではないし、「ありのまま」とは反対の場合もあるでしょう。素をうしない、自分を捨てることから、「従順」「従属」という行動様式が生まれるのでしょう。

この「素直」につながる言葉として「正直」があります。それはもっと明確に「ありのまま」を言い当てているように思います。さらには「率直」ということでもあります。素直も正直(率直)も、ねじ曲がっていないこと、「ありのまま」「あるがまま」であることを表すものとして受け取るべきでしょう。自分が窮地に陥っているともがいているとき、「齷齪しなくていい」「そのままでいいのよ」と言われたら、言われた当人はどうでしょう。「迷妄のさなかにいる」、そのままでいいんですよ、と言われて、「迷妄に閉じこもる」人がいるでしょうか。いったい、人はどうするのか。肩肘を張っていたり、汲々と焦っている状態から解放されることはないでしょうか。「どうにもならないことは、何とかしなくてもいいんじゃない?」と声をかけられたら、どうでしょう。
ぼくたちは、生きていく中で、身の回りにたくさんの「不用品」を抱え込んでいます。もちろん気持ちの上でも、捨てられないと思いこんでいる「不用品(ゴミ)」を背負っている。この「不徹寺」の歴史は「ゴミ捨て場」としての機能を果たす歴史でした。「不徹」という寺号は言い得て妙ですね。「迷妄不徹」ということだったかもしれない。

禅宗の言葉に「閑不徹(かんぷてつ)」という語があります。解釈は多様ですけれども、約言すると「どこまでも閑寂」「閑そのもの」、そういうことです。また「歓喜不徹」という語は、「歓喜に耐えない」「喜びにあふれる」ということだとされます。それゆえに「不徹」とは徹底していないというのではなく、「この上なく」という形容辞でしょう。だからこそ、この寺の境内に入れば、悩みも憂さも放棄して「ありのまま、この上ない」「あるがまま、そのままで行こうじゃないか」という歩き方の作法を得られる場所ということになるでしょう。これがお寺本来の努めだと、ぼくは真面目に考えてきた。
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ここまで綴ってきて、ぼくの脳裏には「Let it be ♬」がメロディを伴って想起されています。場違いも甚だしいという感覚はありますが、松山住職に加えて、十歳の頃に亡くなったとされるポールの母(Mary)、この二人の女性、現世の「メアリー」とも言えそうな松山尼さん、あるいは、聖母「マリア」に位置づけられた亡き母の〈Whisper words of wisdom〉を耳にしているような気がしています。「そのままでいいの」「あるがままにね」という「知恵に溢れることば」を囁く人はいつの時代にも、どの場所にもおられるのですね。(この部分は続く)
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Let it be When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be And in my hour of darkness She is standing right it front of me Speaking words of wisdom Let it be Let it be let it be Let it be let it be Whisper words of wisdom Let it be(Omitted below)
(https://www.youtube.com/watch?v=QDYfEBY9NM4&ab_channel=TheBeatles-Topic) ( https://www.youtube.com/watch?v=u6T5C-jzSH0&ab_channel=whoevertrevor)
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