
週のはじめに考える 柳のようにしなやかに 【社説】「奇跡の柳」と、勝手に呼んでいます。職場近くの歩道に植わる街路樹なのですが、ご覧の通り、立っているのが不思議なほどの老木=写真。幹はあらかた朽ち落ちて、隙間だらけ。木の向こうの様子がほとんど見通せるほどです。/ 以前に街路樹を管理する名古屋市に聞いたところでは、元々は高さ十二メートルもあろうかという立派な柳でしたが、二十年以上前に幹上部が折れて裂け、朽ちたのだといいます。残った下部も年々衰え、今は骨だけ、というより皮だけでどうにか木としての体裁を保っている、といった風情です。/ しかし、それでも、です。今年もまた、折れた幹からいくつもの細い若枝が生えだして、気がつけば、青々とした葉がいっぱい伸びている。いやはや。昔の映画のタイトルではありませんが、まさに『どっこい生きてる』。生命力の強さに感じ入ります。(⤵)
「攻撃しない」防衛戦略 もっとも、そもそも柳という木は「強さ」で知られています。決して堅いわけではなく、むしろ柔らかいからこその強さ。例えば、強風も剛直に受け止めるのではなく、逆らわずしなやかに曲がって力をいなす。ですから<柳に風>の慣用句は、外力をかわして柔軟に事に処する姿勢を表し、<柳に雪折れなし>は、手元の辞書によれば「柔軟なものは堅剛なものよりもかえってよく事に耐えることのたとえ」となります。/ さて、昨今、わが国には周辺国から安全保障上の厳しい風が吹きつけている印象があります。ウクライナ侵攻という信じ難い蛮行を続けるロシアや、国民の苦境を尻目に指導者がミサイルを乱発する北朝鮮、さらには、経済力を武器に覇権主義的な言動ばかりが目立つ中国。中国指導者の発言などから「台湾有事」を心配する声も上がっており、漠とした不安を感じている人も少なくないでしょう。(以下略)(中日新聞・2023/03/26)

随筆家の岡部伊都子さんの著書に「弱いから折れないのさ」という一冊があります。自らの生き方を語ったエッセー集です。岡部さんは「学歴はあらへんけど、病歴はいっぱいある」と広言していたほどに、いろいろな病気を重ね、ついには「弱いから折れない」という心境に達した人でした。ぼくは成人してから岡部さんを知るようになった。それ以前も、京都の鳴滝に住んでいることは聴いていた。まだぼくが小学生の頃のこと。さらに年を取ってから、ぼくの担当している授業に五回も参加され、若い人々の前で「授業」をされた。見るからに弱そうな、繊細でもあるのですが、そんな風貌をした女性でした。
しかし、彼女が深く関心を持ち、身をもって体当りした問題群は、単に虚弱なだけでは太刀打ち出来ないものばかりでした。沖縄問題、ハンセン病問題、朝鮮半島問題などなど、文字通りに岡部さんは「身を挺して」問題の核心に入っていかれたと思う。それには深い理由があったと言われる。婚約した男性が招集され、やがて中国で戦死した。入隊前だったか、「この戦争は間違いだ」と男性が語ったとき、岡部伊都子は「私なら、天皇のために死ねるのに」と言葉を返した。それが今生の別れになった。男性は二十歳すぎだった。「私には戦争責任がある」という懺悔の想いが、その後の岡部さんを縛り続け、戦争に発する諸問題に向かわせたのでした。弱さの中の芯には、戦争への悔み切れない後悔の念が渦巻いていたでしょう。
その意味では「評論家」などという知識人などではなく、自身の経験しか語らなかった「文筆家」「随筆家」だったと思う。肩書なんか、どうでもいいことですね。ここで、岡部伊都子論を綴ろうというのではありません。「弱いから、折れない」というように、人間の「強さ」は武力や富や名声で鎧(よろ)うがゆえに得られるものではなく、「私は弱い」という濁りのない自覚・意識からのみ身につけられるのだということです。弱さ(欠点・短所)を十分に知ることによって、その「弱さ」は克服されるのではないでしょう。自分は弱いという、偽らない自己認識は、自分の弱さを隠すという、誤った自己評価を質して(正して)くれる。その点においては、「単に弱いのではない」という感覚・体質が生まれてくるのではないでしょうか。岡部流の「弱いから」という自己把握は、ぼくの目からすれば、ある種の「怖いものなし」に映りました。「弱い」という自覚があればこそ、無分別に行動することもないし、分を超えた振る舞いをも自制できるのです。

岡部伊都子さんの振る舞いは、身の丈にあったものだったと思う。おのれを知っていたから出来たことだったでしょう。それがある時期から「弱いから、折れないのさ」という逆の「強さ」「勁さ」になっていったのかも知れません。柳のしなやかさ、麦の強靭さ、それらの意識が欠けているのがほとんどの人間だという感じを持っています。「弱さ」は「柔軟さ」であり「しなやかさ」であるとき、驚くほどの勁さを発揮するのです。「柳に雪折れなし」「柳に風」などという表現は、「弱さ」の核心をついているとも、ぼくには思われます。見せかけ、偽装で、他人も自分も騙(だま)すことは可能でしょう。自分を騙すという境地に至れば、立派な非道徳の世界に入ることになります。他人は騙せても、自分を騙せないという限界点を失えば、人は、鬼にも悪魔にもなれますね。
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ここまでが「序説」です。落語の「まくら」みたいなもの。言いたいことは、すでに「序説」にある。身の丈にあった「国防」論、「国防費」がどこかに消えてしまったままでは、防衛論ではなく、ただの暴力論であり、殺戮を含む「戦力」至上論です。第一、これだけの膨大な国防・軍事予算をなりふり構わずにゴリ押しするには、誰もがとは言わないが、一定の割合で、具体的な「戦前」を杞憂(心配)する人がいるはずです。さらに肝心の「敵国」がどこで、どんな状況にあるかが、少なくとも明らかでなければならない。敵がどこかを国民に「知らせない」で戦争を煽るのは、この国の性格には合わない。過去の無謀な「戦争」には、さかんに「鬼畜米英」と煽りに煽ったではないか。膨大な軍事予算は、表面的には「国防」のためと言っているが、実際は某戦争大好き国の命令一下だったとは、いくら愚か者でも明らかには出来ないのでしょう。

中日新聞(東京新聞の親玉)の「社説」は更に続きます。「さて、昨今、わが国には周辺国から安全保障上の厳しい風が吹きつけている印象があります。ウクライナ侵攻という信じ難い蛮行を続けるロシアや、国民の苦境を尻目に指導者がミサイルを乱発する北朝鮮、さらには、経済力を武器に覇権主義的な言動ばかりが目立つ中国。中国指導者の発言などから「台湾有事」を心配する声も上がっており、漠とした不安を感じている人も少なくないでしょう。/ でも、だからといって、です。国内総生産(GDP)比2%へ、いわば「異次元」の防衛費拡大方針を掲げ、歴代政権が自制してきた敵基地攻撃能力を保有して「専守防衛」をかなぐり捨てようとする岸田政権の姿勢にくみすることは到底できません」と、いかにも紳士的・淑女的でです。もっとはっきりといってほしいという気もする。沖縄県石垣島にミサイル基地が作られる。
「沖縄の骨」という著書が岡部伊都子さんにある。早い段階から沖縄問題に関心を持ち続けた中で生まれた一冊でした。「沖縄から」、それが岡部さんの出発点だった。ぼくたちは気軽に沖縄に出かけます。でも、その沖縄のどこに足を踏み入れても「人の骨が埋まっている」という実体験が岡部さんにあった。先月24日に亡くなられた西山太吉さんの、記者時代スクープで明らかになった沖縄返還に際しての「密約」は一つや二つではなかった。沖縄に米軍基地を置くことはアメリカにとって「国是」だった。核持ち込みは当然の権利とアメリカはみなしていた。そのアメリカの野望(無謀)は中国の台頭(覇権)を阻止することにあった。だからこそ、あの手この手で、日本の保守政権を抱え込んで放さなかったのだ。日本が中国を敵国にまわすとは想えないし、ましてや北朝鮮もそうだ。両国ともに、「日本」を攻撃してもいかなるなり利益もないのだから、仮想敵国視する日本の権力の構想(空想)は米国に唆(そそのか)されたものと考えるほかない。第二次大戦で、日本はアメリカに完敗した。その「敗戦状態」はなお続いているのです。たしかに「進駐軍」はいなくなったけれども、アメリカ軍に属する自衛隊があらたな「進駐軍」として存在している。

「憲法九条の精神に基づく「専守防衛」を単なる理想論とみなすのは誤謬(ごびゅう)というものでしょう。安全保障担当の内閣官房副長官補を務めた経験がある柳沢協二氏が語るように「(専守防衛とは)日本は国土防衛に徹し、相手の本土に被害を与えるような脅威にならないと伝え、日本を攻撃する口実を与えない防衛戦略」(東京新聞Web)なのですから。/ どこの世界に、主人公の刑事が銃を構えたままで、人質をとった立てこもり犯の説得に向かうアクション映画があるでしょう。「銃は持っているが撃たないから」が通じるはずもなく、撃たれると考えた犯人が、先に銃撃してきたとしても不思議ではありません。要は構えた銃は、相手の「攻撃する口実」になり得るわけです」(「社説」)
すでに「米中」の鞘当はとっくに始まっています。アメリカが中国を敵国視するのは、世界における自らの地位(覇権)を奪われることを恐れているからです。日本はアメリカの属国であるがゆえに、自主性も自尊心も持てないままでいます。「自分は弱い」という自覚をこそ、今は持つべきだし、そこからしかこの島社会の延命する方途はないのではないですか。「美濃国に生まれた江戸後期の禅僧で、洒脱(しゃだつ)で哲学的な絵や狂歌で知られる仙厓は、こんな歌句を添えた、風になびく柳の絵を残しています。/ <気に入らぬ風もあろうに柳かな> / 蓋(けだ)し、時に、日本が望まない方向から強風が吹いてくることもありましょう。だとしても、剛には剛でなく柔で−。柳のようにしなやかに、そして、したたかに対処していけたらと思うのです](社説)

自覚を持たない「弱いもの」は強いふりをする、したがる。あるいは、虎に接近して、自分は虎のように強いと思いたがるという、不埒千万の思い込み(錯覚)があります。虎でも豹でもかまわないが、強さ比べをしていては身がもたないのが実際です。「先進国」だの「経済大国」だのという偽りの看板を、この際、はっきりと降ろす必要があるでしょう。強さ比べではなく、あるいは、強がり競争から降りて、自分の頭で考え、自分の足で歩くことを肝に銘じるべきであろうし、自他の心身中に「一寸の虫、五分の魂」のような気丈さを育てたいですね、もちろん他者には、勇気を持って親切でありたいという惻隠の情も、忘れないで豊かに育てたい。
「柳は緑花は紅」という。どのようなものでも「自然」がいいということかもしれない。あるがままで、ということでもあるでしょう。「強がりは寄せ」「嘘はつくな」、と。それは個人でも、国にあっても、同じ真理(あるいは真実)を突いているようにも思われます。
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