【有明抄】慣用読み憧憬に「しょうけい」とルビを振った小欄を見た女性から「ずっと『どうけい』と読んでいた」と電話をもらった。広辞苑で「どうけい」を引くと、〈(正しくはショウケイ)あこがれること〉とある。「どうけい」は慣用読みで、現在はどちらも使われている◆同じように、慣用読みが浸透した言葉に「捏造(ねつぞう)」がある。広辞苑は〈(デツゾウの慣用読み)事実でない事を事実のようにこしらえること〉と解説している。いまは「ねつぞう」が一般的で、高市早苗経済安全保障担当相も「ねつぞう」と何度も口にした◆放送法の「政治的公平」に関する総務省の行政文書を巡り、国会では真贋(しんがん)論争が続いている。文書は2014~15年、当時の総務相だった高市氏が法解釈の変更に関わっていた状況が記載されている。政治的公平が政治の介入でどうにでもなるなら、自由な言論は危うくなる◆不都合な文書を捏造で片付けることは許されないし、高市氏の主張通りならば行政の信頼が揺らぐ。高市氏は「信用しないなら、もう質問しないでほしい」と開き直って注意を受けたが、関与を全面否定する主張は変えていない◆事実はどうなのか。森友・加計学園や桜を見る会など、釈然としないまま過ぎていく問題が多い。こうした幕引きが慣用になれば、憧憬どころか政治への失望ばかりが広がる。(知)(佐賀新聞・2023/03/21)(ヘッダーは「メリーゴーランド」:https://adventure.lotteworld.com/jpn/enjoy/attrctn/view.do?detailsKey=1189)

「憧憬」は「しょうけい)でも「どうけい」でもかまわない。「憧」は強くあこがれることで、「憬」にも似たような意味がある。二つ合わせて強くあこがれるの意となるでしょう。「しょう」は「憧」の漢音、「どう」は呉音です。中国の時代色が出ているのが、この島の歴史です。どちらに読んでも間違いではなく、それをどれか一つに決めるのは、余計なことだし、言葉を弄ぶものというべきかもしれない。「ことば」に関して言わねばならぬことはありますが、ここでは割愛。「どうけい」とよんでいたのが、「しょうけい」によみかえて、はたしてその人の感覚・感情が変わるものでしょうか。(この手の二重読みの「字」「辞」は腐るほどあります)
漢字の読み書きをテストして「◯✕」をつけるというのは、愚かしいですね。突飛ではなく、それなりに読み書きできればいいんですよ。
さて、本題です。「捏造」流行りですね。「捏造」の「捏」は「デツ」と読み、「ネツ」とも読ませる。訓では「つくる」「こねる」とある。その意は「(土などを)手でこねる」から、「こじつける」や「でっち上げる」などにつながる。粘土を「捏(こ)ね上げる」などという。あるいは、コンクリートを作るとき、砂とセメントをかき混ぜ、水を加えて「一つ」になるように繰り返しこねることを指します。「造」はつくる。ご丁寧にも、繰り返し捏ね上げて、まったく違うものを作り上げること、つまりは「でっち上げ」です。捏造は「でつぞう」と読んでいた。その初源を尋ねれば、一つの読みであったかもしれないが、いずれも陶器を作る際の手作業を指して、デツ・ネツと言われています。「こねる、にぎる、おさえる、ひねる、みな土器の器形を作ることをいう」(「字通)参照)とあります。

ぼくは国会での論議を何度かネットで見ています。この「放送法」の「政治的公平」問題に関し、すでに早い段階(発覚した初日に)で「事実をまげて、事実でないと『捏造』しているのは大臣だ」と書いています。「親分」がいなくなったので、これさいわいとこれまでの「うさを晴らす」(憂さ晴らし)、官僚たちの魂胆が見えていました。おのれの部下である官僚に「忌み嫌われた」のかもしれない。それ程に「居丈高」の「女丈夫」を装っていたのかもしれませんし、それに楯突けなかった積年の恨みや辛(つら)みが官僚たちに山積していたのです。
放送法の要は、これも当たり前の判断でいいのであって、「政治的公平」を破る、破りかねないのは政治権力だから、放送人は夢々、油断なさるなということです。それ以外に解釈の余地はない。憲法は「権力の横暴・暴走」を制止するための、人民が用いる「制御装置」ですが、それを知ってか知らずか、権力の側にいる輩が、自分の都合のいいように「改正する」と言い出す始末。野球の審判が「自分はルールブック」であると宣言し、好き放題に野球の試合を牛耳るようなもの。笑止千万の域を超えて、付ける薬がないほどの「最低政治」「傍若無人政治」が罷り通ってきたのです。その付着物・寄生虫のようなものが「捏造発言」大臣だった。問い詰められて、その挙げ句に「私が信じられないなら、もう答弁しないでくれ」というお粗末。これをそのまま見逃す手はないでしょうに。この場面を中継で眺めながら、権力亡者はクズだし、それには「性差」はないと痛感した次第。

個々の政治家を評価する興味も能力もない。壊れかかっている、わが脳細胞を無駄に使いたくないのです。残り僅かを、細心の注意を払って維持したいのに、こんな不埒な問題に引っかかりましたな。足を取られ、手を取られ、目を奪われ、最期に脳細胞を無駄に費消していしまいかねないので、この問題も、ここでうち止め。この某女性大臣が辞めても、代わりはいくらでもいるのですから、浜の真砂か五右衛門かと言いたくなります。
政治の舞台は、洋の東西を問わず「茶番」です。「底の見えすいた、下手な芝居。ばかげた振る舞い。茶番劇」(デジタル大辞泉)ロシアの大統領に「逮捕状」が出たという。誰がどのようにして捕まえるのかという「茶番」。いや、実は捕まえられないのだという「大茶番」だ。米国の前大統領が「逮捕」(本日)されると、当人が告知。助けるために再度の「議会襲撃」を煽りはしないか。思いつきの「戦争ごっこ」には「殺戮」がついて回っているのだから、とにかく「逮捕」を願うばかりですね。米前大統領は「売春疑惑」で逃げ切れていない。支払いに選挙資金を使ったとかいう疑い。現大統領親子にも、何かと疑惑がついて回っている。
究極の政治は、困っている、助けを求める人々に「救いの手」を差し伸べること、それだけのことなのに、国防費に「四十兆」を遥かに超える税金が、なぜ要るんですか、と愚問を発したい。嘘で始まり、嘘で終わる人生もつまらないだろうし、政治家だって、時には誠意をもって事に当たりたいだろうに。そう思うのは素人の証拠か。政治にカネがかかるんだ、誰もがそういうから、きっとそうなんだろうと「諦め」る有権者が選挙で政治家を選ぶんですから、どうしたらいいんだろうね。「この世は全て茶番だよ」と、マツコがいうか。君も「茶番」か。「猿芝居」ってのもあるし、さ。
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