【談話室】▼▽まず井上ひさしさんが登壇した。その日の講師で、作家仲間の大江健三郎さんを紹介する段取りだろう。そう思って聞いていたら、ややあって井上さんが告げた。大江さんが日取りを勘違いして、着いていないという。▼▽2008年の秋、山形市の複合文化施設で一部始終を目撃した。突然だったにもかかわらず、井上さんは即席で大江論を語った。東大生だった大江さんの小説を読み「参った」と感じたこと。個人的な悩みから希望を生み出し、人類を励ますのが大江文学の本質であること。▼▽講演の実現に向け主導した井上さんならではの対応だった。大江さんにとっても強烈な体験となった。「お客さんに迷惑をかけた」と自宅書庫に1週間引きこもり、仕切り直しの講演会で山形を訪れた際は、自戒を込めて自著に「注意深く」とサインした本を聴衆に贈った。▼▽井上さんが死去した13年前、大江さんが弔辞を読んだ。改めて勘違いに触れ「当意即妙のスマートな計らいで私は救われた」と友情に感謝している。「大江さん、あの時の代役は大変だったんですよ」。今頃、井上さんはそう言って天上で大江さんを出迎えているだろうか。(山形新聞 Yamagata News Online・2023/03/15)

大江さんの訃報「余韻」とでもいうようなものが残り続けています。文学者として、大江さんは大きな仕事をされたという事実には偽りはない。その本領が小説にあったことも同じ様に、事実として間違いはないでしょう。残念ながら、ぼくには小説を読むという点において、著しく能力が欠けていたのは、なんとも残念であるし、情けないことだと悔やんでいます。その理由は明白です。ある時期までに「小説」を読む訓練をしてこなかったということです。たとえは悪いかもしれませんが、まるで、自転車の練習を小さいときにしなかったために、年齡が上がるときに自転車に乗っても、一種の観念的な自転車操業に終止するといった塩梅でした。小説の面白さや難しさがわかりかけたのは、もう三十にもなろうかとという頃からでした。今でも、いくつか思い当たるフシがあります。井上ひさしさんにも教えられたことがある。ここでは書きませんが、やはり「小説」というものの「思想」というか、「哲学」のようなものでした。しかし、ぼくは井上小説も、中途で断念したことが何度もあります。大江さんに対するのと同様に、井上さんの評論を懸命に読んでは「お茶を濁す」ことを繰り返したのです。

井上さんの最晩年、ぼくは、まったく事情を知らないで、自分の担当する「教室」に来ていただくように依頼の電話をかけたことがあります。その時はどなただったか、「井上は病気です」と言われた。その後、数ヶ月を経ずして訃報を目にした。じつに迂闊なことだった。
作家に限らず、ぼくはいろいろな方の「講演」を聞く機会に恵まれたと思う。もちろん、上京してからのことです。ここに名前を出すだけでも相当な人数になるでしょう。政治家、新聞人、文学者、学者、音楽家などなど、いろいろな方面の仕事をされた方々だった。講演を聴くのは簡単ではないと、その都度感じました。まず、ノートをとったり録音をするということもなく、文字通りに「受け身」で言葉を受け取るのですから、講演内容が、時間とともに消えていきます。もっと聞く練習をしておくべきだったと何度も考えたものでした。さらに言うなら、講演をする側と講演を受ける側ではまったく立場が違います。だから、講演する側の意図が記録されたものになると、ぼくはそれをていねいに読んだものです。講演を聴くと講演を読むでは、その印象や内容は、人によってはまったく別物になることがあります。(面倒なことは省きます)

本日の「談話室」の逸話(an anecdote)を面白く読んだと同時に、何かと考えさせられているのです。昨日書きそびれた事柄を少しだけ綴っておきます。大江さんの「恩師」は仏文学者の渡辺一夫さんでした。チョーサーやラブレーの研究の分野では群を抜いた人でした。また、社会的な活動に関しても積極的だった。「寛容」は、渡辺さんのライトモチーフでした。その渡辺さんと大学時代の同級生が小林秀雄さんだった。その渡辺さんの告別式で、大江さんが「号泣」していたのを横で見ていた小林さんは「彼は狂気(の人)だったんだよ」と、慰めとも付かない言葉を大江さんに語りかけたことがあったという。別の機会に、大江さんが「ピンチランナー調書」という新著を小林さんに寄贈した際、「大江くん、済まないことだったが、あれは、何ページも読めなかった」と直接語ったことが、誰の書いた文でだったか、読んだことがある。「小説とは、あんなものだろうか」という文芸評論家の大江評価だったでしょう。同じようなことが吉屋信子という作家の小説についても「ぼく(小林)は2ページも読めなかった」という表現で残されている。

九条の会や反原発活動に関しても、大江さんや井上さんは、積極的に参加されていた。サルトルに倣ったような「文学者の社会参加」(アンガージュマン)のようでもありました。大江さんの卒業論文は「サルトル研究」ではなかったか。「アンガージュマン【(フランス)engagement】= 参加。特に、知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、社会運動などに参加すること」(デジタル大辞泉)そのことで思い出すのは、ミッシェル・フーコーです。彼の活動は徹底していた。過激と言う他ない行動で積極的に動いていたからです。逮捕されたこともあった。フーコーについては、この駄文集録の早い段階で書いています。「もし、アメリカで黒人暴動がなかったら、黒人解放はなかったろう」とまで言っています。そこまでの過激さはなかったが、大江さんは積極的に反権力への闘いに参加されていた。ぼくにはできないことでした。
【斜面】大江さんの揺るぎなさ 大江健三郎さんは故安江良介さんとともに信州の恩人だ。1994年にノーベル文学賞を受賞した翌年、岩波書店社長で本紙夕刊「今日の視角」執筆者だった安江さんと松本で講演した。この催しが須坂で続く信州岩波講座につながる◆安江さんと広島を訪ね、「ヒロシマ・ノート」(65年)を著した大江さん。講演では「作家は主題によって選ばれる」という海外作家の言葉を引き、核の時代というテーマが自分を選んだ―と述べた。「時代に参加、コミットメントし、与えられた主題を一生書いていくことになった」◆福島の原発事故から2年後に信州岩波講座に登場する。人間らしさを自由に討論する仏ルネサンスの精神を紹介し、人はつくったものの奴隷や機械の一部になってはいけないと訴えた。原発に運命を握られて、人らしさを考えない日本を批判した◆憲法を守る活動では「九条の会」の呼びかけ人となった。信州でも呼応して各地に会ができた。発足10年の2014年、都内で講演した。戦争を容認する改憲には「日常生活のあらゆる手段で反対する」「皆さん一緒にできるだけのことをしましょう」◆戦後文学の旗手は現実の世界と正面から向き合って、迷いなく語り、行動した。自身の思想と倫理のみに従う強じんな精神ゆえだろう。ノーベル文学賞の記念講演は「あいまいな日本の私」だった。あいまいさが極まる昨今の政治を見るにつけ、88歳で逝った大江さんの揺るぎなさを思う。(信濃毎日新聞・2023/03/15)

八十を超えてなお、社会活動に参加されていた。「(憲法改正には)日常生活のあらゆる手段で反対する」「皆さん一緒にできるだけのことをしましょう」という呼びかけは、多くの人に届いていたでしょう。ぼくはたったひとりで「デモ」をしてきた。車の後部に「反権力」と表示して走ったこともある。ロシアのクリミア侵略(2014年)に抗して、書庫の屋根を「黄色と青」のペイントで塗りつぶし、人に知られず反抗してい(るつもりで)いました。「人はつくったものの奴隷や機械の一部になってはいけない」「原発に運命を握られて、人らしさを考えない日本を批判した」とされます。年を取ってから、あえて辺鄙な土地に移住し、便利を手放し、不便を日常にすることをぼくが実行してきたのも、そんな背景があってのことかもしれません。大江さんに代表される「知識人」の行動を無条件に評価するのではない。いろいろな意味で、自分ができる範囲で、不義や不誠実。、あるいは暴力を黙認しない姿勢をつらぬくこと、それを、ぼくは大江さんたちから学んできたと言いたかったのです。井上さんや大江さん(に限らず)、いくつかの面では、同意できない部分があるのは当然です。それ(欠点)を含めて、「まるごとの人間」として、ぼくは先輩たちから教えられてきたし、教えられている。
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