
【日報抄】文化勲章を辞退し、伝達式当日に笹神村(現阿賀野市)で講演した。作家でノーベル文学賞受賞者の大江健三郎さんである。1994年のこと▼講演後の記者会見では戦後民主主義について語り、勲章を受けずに地方で語る意味を「民主主義の基本は市民。市民より上の価値を持つ国の機関というものはない」と訴えた。こんな発言もあった。「日本の中心の中心、皇居で素晴らしいものを頂くより、地方で一般のお母さん、若い学生諸君に話している方が幸せ」▼新潟とは、ほかにも講演を巡る因縁がある。2002年に三条高校の創立100周年記念として予定されていた講演を辞退した。校長が「政治的な話題についてはご配慮を」という手紙を送ったことが引き金になった▼三条が恩師の仏文学者、渡辺一夫ゆかりの地であったことから、当初は講演を快諾していた。講演のテーマは「自立した人間」だった。そこに届いたのが校長からの手紙。自由に話すことができないと判断した▼「寛容」「人間らしさ」といった思想を日本に伝えようとした渡辺のことを話すつもりだったという。本紙に寄せたコメントでは、辞退について「抗議する気持ちはない」とした上で渡辺がよく発した「致し方ありません」という言葉を「私もつぶやくのみです」と記した▼大江さんの訃報が届いた。新潟での講演の逸話は戦後民主主義の根本理念と民主主義が内包するもろさを物語る。世界が混迷する中、まだまだ書いて、語ってもらいたかった。(新潟日報デジタルプラス・2023/03/14)
大江さんは大変に偉大な作家であり、あるいは存在としても大きい人だったということが、この間の「訃報」報道に如実に現れています。ぼくは、それらを超えて何かをいうことはないし、大江文学の評価などできるはずもありません。二十歳すぎの頃、何を血迷ったか小説を書こうなどというヤクザな考えを持ち、その頃に小さな物を、二、三書いたことがありました。独り身の気安さが犯した大きな過ちだったと、その後に思い当たります。二十五前後に、ぼくは何度か大江さんの文学論を直に聞く機会を得ました。講演会のようでもあり、勉強会のようでもある、小さなサークルのことでした。彼は、その時、ちょうど水泳を始めた時期だったと思う。在学中にデビューした頃の「青春作家」のひ弱さはいささかも感じられず、むしろ肩幅がやけに広く、首周りも異様に太く、まるで「格闘技」の選手かと思ったほどに逞(たくま)しかった。

ボソボソと話す、その話が誠に面白かった。面白くなるように、大江さんは話したのでした。そのユーモアというか冗談にこそ、彼の本領があると、若いぼくは考えたり感じたりしました。その勉強会から、何かは学んだでしょうが、小説家になるなどという不埒な考えはどこかで消えていました。それはよかったことだったと、今では思う。その後、都内の某大学に勤めるようになった。その大学で、ある授業で「部落差別(発言)事件」が発生し、大学は対応に苦慮しました。ぼくも大学の末席に座る一員でしたから、この「差別問題」にいたく心を痛めた。そのことがきっかけになって、大江さんに授業に来てもらうことになりました。大きな教室でありました。司会者に紹介されて、「大江健三郎です」と名乗って、話を始められたことがとても印象的でした。三十年以上も前のことだったでしょうか。主題は「差別」で、長男誕生及びその後の経緯(「ヒロシマノート」あたりまで)を話し、その後の大江さんの姿勢(思想)(「沖縄ノート」くらいまで)が語られました。兄がいじめに会うといけないので、妹さんは、いつも「自転車のチェーン」を懐に忍ばせていると、なかなかのユーモアを交えながら、困難な問題を語られた。「障害者」の権利に関して、ぼくは目を開かれたと思う。

ぼくは大学に入ってからすぐに、小林秀雄という人に圧倒された。60年代の中頃です。手に入る者は何でも読んだ、と思う。その小林さんは、旧帝大の文科(仏文学)に入学していた。担当教師は辰野隆(ゆたか)や鈴木信太郎たちでした。同級生にいたのが渡辺一夫さん。その渡辺さんのクラスにいたのが大江さんだった。この3人には、何かと因縁があり、ぼくには興味が深かった。(以下省略)
「小説」の読者としては失格でした。でも大江さんの書く「評論」にはいつも刺激されてきました。繰り返し読み、実際にメモを取り続けていたものでした。その意味でも、稀有な人だったと、改めて思う。彼は冗談が大好きだったといえますが、ぼくのようなダジャレなどではなく、そこにはやはりフランス文学で鍛えられた「知性に裏打ちされた」冗談があったのではないでしょうか。
いろいろなこと(問題)を、長い間にわたって与えてくださり、生きる方向を教えてくださった大江さんに感謝のみ。((合掌)

本日の「日報抄」、いろいろと考えさせてくれますね。大江さんの講演を拒絶した校長の態度(「政治的な話題についてはご配慮を」)はどうでしょうか。人間の生活範囲で、政治的でないことがあるのでしょうか。晩飯に何を食わせるか、二時間目の国語の授業で何を教えるか、それだって「政治の問題」ですよ。「教育の政治的中立性」と言うけれど、それは政治権力がやたらに教育問題に介入してはならぬという、それを戒め懲らしめるぞということです。「教育」でも「放送」でも、その中立性を犯すのは「政治権力」なんだと、多くの校長さんたち(議員さんたち)はおわかりになっているだろうか。きわめて怪しいですな)
(余談です 恥ずかしながらの告白です。ぼくは下書きなんかはいっさいしないで、いきなり書き殴ります。書き下ろしなどという「上品」なものではありません。つい先程まで、つまらない雑文を書き殴っていたのでしたが、PCに不具合が生じて「更新されませんでした」とサインが出ました。小林さんと渡辺さん、渡辺さんと大江さん、そして小林さんと大江さんに関する駄文です。それがすっかり消えたので、書き直そうという気が起こらないのです。また、晩年の大江さんが取り組まれた「社会活動」(九条の会・反原発運動)についても書いてみたのですが、それも消えました。ぼくは「九条の会」や反原発活動に、しばしば誘われましたが、一切参加しなかった。理屈はありますが、年寄りの出る版ですか、そんなことをいつも感じたからでした。そういえば、大江さんを始め、加藤周一さん、むのたけじさん、鶴見俊輔さん、その他の方々は、死の間際まで積極的に活動されていました。ぼくにはそんな芸当はできないのです。また、「文化勲章」を拒否し、「ノーベル賞」を受けたときの、ぼくの印象も書いてみました。「文化勲章は国家につながる賞だから」と拒否された。彼は国家が経営している「大学(旧帝大)」で学んだんですね。そこにぼくは、ある種の不審感を懐きました。そんな、埒もないことも書き殴ったものの、「更新不可」と出ましたので、素直に、それを受けて、本日はここまでにします。あるいは、気を取り直して、いつか綴る気になるかもしれません)
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