持ちつけぬものを持つと、とかく人間は…

 今でも覚えている方が多いと思います。かなり前に一人のトラック運転手が、銀座だったかの路上で拾った風呂敷包みの中に「一億円」があったということで大騒ぎになりました。その後、落とし主も現れず、大枚は拾い主のものになった。それ以降、紆余曲折があって、拾い主の大貫さんは六十二歳の生涯を終わられた。この金の持ち主がだれだったか、いろいろと想像がたくましくされましたが、当時、永田町において肩で風を切っていた「政界の暴れん坊」の金だったとされています。つい最近、これは別の話。札幌のゴミ収集車が集めた中から「一千万円」が出てきて、早速「自称・落とし主」が十人も名乗り出たという。とかく、天下の周り物ですから、どこでどう動くかわからないもので、さまざまな人生模様がそこに描かれるのでしょう。(事実は小説より奇なり)

 <あのころ>大貫さん1億円拾得 落とし主現れず  1980(昭和55)年4月25日、東京・銀座の道路脇で会社運転手の大貫久男さんが風呂敷包みを拾うと、中には何と現金1億円。拾得物として警察に届け出た。ミステリーじみた臆測も乱れ飛んだが落とし主は現れず、半年後に現金は大貫さんのものとなった。(共同通信・2022/04/25)(右写真は、拾得当時の大貫さん)

 金に限らず、多くの人にとって「持ちつけないもの」が突然(幸運にも、時には不運にもなるが)手に入ったら、それはどう使われるのでしょう。あるいは場合によっては人生(観)が変わることもあるかもしれない。あまりいい比較ではありませんけれど、「権力」が転がり込んできたらどうするか。その実生活辞典が「政界」というところではないでしょうか。能力も人品も決して優れていないと、自他ともに任じていた人が、ある運命のめぐり合わせで、思わぬ政治力学の中に引きずり込まれる。詳細は省きますが、上に出てきた大貫さんのように実直な生き方を続けられるとは限らず、その後の人生を地道に歩けなくなるのも頷けます。誘惑が絶えないんですね。

 以下に、例によって新聞のコラムをいくつか引用しました。何が問題か、読む側の主観で判断されるべきでしょう。当時の首相補佐官が「放送法」の政治的公平性問題に関わり、(自らの出身母体でもある)所管官庁の官僚に圧力をかけたとされるものです。権力の側近を匂わして、強引に法律(の解釈)を捻じ曲げようとしたのは、時の総理への「胡麻すり」であり、自己顕示の欲望を「権力の側近」という看板で示したもの。このような虎の威をかるような「馬鹿」が肥大するとどうなるのか楽しみではないが、国会への復帰を虎視眈々と狙っている。かかる有象無象の拡大再生産、だからいつまでも永田町は変わらない。この元補佐官は、中学以来、柔道をよくしたという。得意技は「内股」「体落とし」だと自認されている。「寝技」も入るんじゃないかな。技をかけるのは畳の上とは限らなかった。故元総理の最側近を任じた人でもある。

 当時の総務大臣は、「行政文書と公認された」ものを「捏造」と断定した。ちょっと待て、「信号は確認してから、渡りましょ」といいたいところですが、図星を付かれると人は脇目もふらずに「嘘をつく」のですよ。交通事故の絶えないのも当たり前。当時の総務大臣が、部下(の官僚)が作成した「行政文書」を「捏造」という。それをして「監督不行き届き」というのではないですか。これだけで「辞職」に当たりませんか。「私は無能です」と世間に向かって告白したも同然(言うまでもなく、知る人ぞ知るで、この大臣は夕刊(勇敢)を装っている朝刊(長官)のようで、時を弁えていませんね。神輿に担がれたいだけの「虚仮威し」だと思う。「愚か者を感心させる程度のあさはかな手段。また、見せかけはりっぱだが、中身のないこと。また、そのさま」(デジタル大辞泉)。あるいは「bluff(おどし)」「showing off(みせびらかし)」に過ぎない。このような「悪徳」の性は男女に差はないといえますね。政界は「男女共同参画社会」なんですね。

 「私は馬鹿です」と看板をぶら下げて「虚仮威し」に現(うつつ)を抜かすのを「権力の行使」と錯覚している輩がのさばるのは、やはり「この御仁・大将」がいたからだと言わずばなるまい。森友事件という「超格安国有地払い下げ」に、「私と妻が関係していたなら、総理大臣も議員も辞める」と内心ビクつきながら宣った瞬間をぼくは忘れない。結果的には「ソノ言やヨシ」だったのは不幸であり、不憫でした。この「小心者の嘘つき」とされた存在がだんだんに「大心者」になるのは時の勢い。時勢です。当人の人格や能力とは無関係。神輿を担ぐ人、担ぎたがる人は、きっと「自分も神輿に担がれたい」と懇望しているはず。あんなのが担がれるんなら、俺だって、私だってと錯覚をしてしまう。多くの担ぎ手に「錯覚させた功績」は故元総理だった。この点においてこそ、彼は「勲章もの」でした。時勢というものは「はだかの王様」をいつでも生み出すという、人民にとっては迷惑至極の人為かつ自然の現象です。

 持ちつけない金が懐に入ると、多くの人は濫費したがる。だから「悪銭身につかず」というのですな。「不正な手段によって得た金銭は、むだなことにつかわれがちなので、すぐになくなってしまうものである」(精選版日本国語大辞典)というように、「悪権力」もまた「身につかず」だと言いたい。八年近くも「ABEについていたじゃないか」と反論されそうですが、なに、神輿の担ぎてから担がれたい奴が出てこなかった幸運に過ぎない。その証拠に、彼はなにか国民のためになるような「善政」を敷きましたか。持ちつけない刀を持ったら、それを振り回したくなる、切れ味を試してみたくなる、そんなものでしょ、愚か者の所業や思考というものは。「悪銭身につかず」と同様、「悪政人民のためにならず」でした。ルールを破り、権力を好き放題に「私物化した」だけだったのが、故総理だったといえます。

 「放送の公平性」問題も然りだったから、今回のスキャンダルを招いたのです。でも、とぼくは考えている。小心者の権力者は、小心だけに、他人から「悪口」を言われることが許せない。度量が浅いのは避けられない。「君は無能だ」と言われることを極度に恐れている、あるいは言われたくないから、誰かに言われたら、それに恨みを持つ、恨みを晴らす、その仕打ちが「俺は権力者」だと、当人を眩(くら)ませるのです。なぜなら、それは本当の話だから。「君は馬鹿だ」と言われたら、「馬鹿」は怒るんですね。それ故に、こいつは「小心者」と、ぼくは考える。ここに、もっとも肝心な「主役」が顔を出さないのは、なんとしても腑に落ちない。誰かが庇(かば)ってるんですね。マスコミですか? あるいは…。

 統一教会問題でも表に出ることはなく、今のところは逃げ果せている。近年の事件やスキャンダルの背後には、実はこの国の政治・政策を売った人間がいた。あるいは学術会議の会員問題でもあからさまな「悪政」を志向とした人物です。長年に及んで故総理を(官房長官の地位にあって)操り、自らも総理に就いたが、表に出てはいけなかった存在だったことが証明された。今回の総務省スキャンダルの根っこも、この「闇政治家」にあるんじゃないでしょうか。この見立ては「寝言」ではないと思っている。いずれ明らかになります。

【斜面】脅しすかしの補佐官政治 若いころ、街宣車に入って右翼団体の幹部に取材したことがある。冷静に話していたのに突然、色をなしてすごむ。その直後、親しげに冗談を言う。緊張と緩みの連続で相手を揺さぶり、話の主導権を握ろうとする「技術」なのだろう◆安倍晋三政権時の礒崎陽輔首相補佐官と総務省幹部らの内々の協議を記録した文書を読み、ふと思い出した。文書は、政権に批判的な放送局を萎縮させたい補佐官が古巣の官僚を従わせ、出来レースの国会答弁で法解釈を「変更」するまでの内幕を記す◆磯崎氏は慎重な官僚の説明に何度もダメ出し。〈抵抗しても何のためにもならない〉。自分で作った解釈案に「自由に意見を」と柔軟さを見せるも、修正点を示されると激高する。大臣も知らないまま、磯崎氏の意に沿った案がまとまっていった◆「変なヤクザに絡まれたって話では」。経緯を知った首相秘書官の山田真貴子氏が官僚に言った。後に高額接待問題で菅義偉内閣の広報官を辞める山田氏。この時は同省出身のメディア担当として「法の根幹に関わる」「法制局に相談したか」と筋論を述べたが、首相の意向を知り撤退◆磯崎氏は官僚を「何回も来てもらってありがとう」とねぎらいつつ、「首が飛ぶぞ」と脅しもした。官僚に人事権を振りかざす政治のどう喝。顔色をうかがう省庁の忖度(そんたく)。安倍政権下で法は幾度もゆがめられてきた。役人の正義感からこの文書が出たのなら小さな希望も残るが、果たして。(信濃毎日新聞デジタル・2023/03/09)

【日報抄】「この件は俺と首相が2人で決める話。俺の顔をつぶすようなことになれば首が飛ぶぞ」。相当に高圧的な言葉だ。政治家が官僚を恫喝(どうかつ)して自分の考えを通そうとする様子が記された行政文書が公開された▼放送法が定める「政治的公平」の解釈を巡り、総務省と首相官邸関係者が2014~15年にやりとりした記録だ。「放送事業者の番組全体を見て判断」としてきた従来解釈を見直すよう、当時の礒崎陽輔首相補佐官が強い口調で迫っている▼内容が偏っているとやり玉に挙げられた番組名も明記される。首相秘書官から「言論弾圧ではないか」と疑問視する声も出たが、安倍晋三首相も前向きで高市早苗総務相は15年5月に「一つの番組でも、極端な場合は政治的公平を確保しているとは認められない」と国会答弁した▼その後、総務省は従来解釈に変更はなく答弁は解釈を補充したものと説明したが、素直に読めば問題視できる範囲を広げたように思われる。政権の意向次第で放送事業者に圧力をかけられるのではないか▼「牽強(けんきょう)付会」という四字熟語が頭に浮かんだ。「牽強」も「付会」も都合よく理屈をこじつけることを指す。一つの番組が濃度の高い政権批判をすることはあり得る。牽強付会を押し通してでも、そんな番組を排除したい意向が見てとれる。これがまかり通れば行政をゆがめ、政権の暴走に歯止めがかからない▼政権と官僚機構との間に横たわる暗部に光が当たったのか。この問題が再浮上した背景も気にかかる。(新潟日報デジタルプラス・2023/03/09)

【余録】「ねつぞう」は慣用読みで本来は「でつぞう」と広辞苑にある。無根の事実を作り上げることを指す「捏造(ねつぞう)」である。「捏」には土などをこねる意味がある。同じ意味の「捏(でっ)ちる」という言葉もあり、こちらは「でっち上げ」の元とされる▲小紙のデータベースで検索すると、2000年代から使用頻度が増えた。旧石器発掘、医学論文、テレビのバラエティー番組など捏造が相次いで問題化した。小紙が「ねつ造」だった表記をルビ付きの漢字に変えたのが07年だ▲あってはならない重い言葉が身近になったのか。安倍晋三元首相は国会で新聞記事を「捏造」と断じ、物議を醸した。安倍内閣で総務相を務めた高市早苗経済安全保障担当相も抵抗がないようだ▲野党議員が入手した文書の記述を「捏造で不正確」と決めつけ、総務省作成の行政文書と判明した後も認識を変えていない。首相官邸の圧力でテレビの政治的公平の解釈に関する政府統一見解が事実上、変更された経緯が記された文書である▲安倍氏との電話内容などを否定しているが、当時の総務省トップが部下が捏造したと主張するなら奇々怪々だ。「一つ一つの番組から全体を判断する」という新解釈を国会で答弁したのは高市氏である▲捏造でなければ辞職するかと問われて「結構だ」と答えた。売り言葉に買い言葉だろうが、公文書の内容の立証責任を野党議員に押しつけるのは筋違いだ。報道の自由に関わる問題。ご本人から当時の経緯をしっかりと説明してもらいたい。(毎日新聞・2023/03/08)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)