
病室 中三 青木茂美 病室に入るとどこかで 鶯の声が だれかが笛でも吹いた様に鳴いた 静かな病室の室にも 明るい暖かい春がしのびよっている 私は冷えびえとした病室にたゝずみ じっと父を見守った 父はいたむ手に ぎっしりとホータイをまいている ベッドに寝たまゝ私を眺めて微笑んだ きっとわたしの元気になる姿が 父にとってはうれしかったでしょう 父は病む やわらかい光が ベッドを照らして居た 静かな朝だった (「愛星」昭和二重六年五月号)

多磨全生園の一人の職員から忝ないはからいを受けて、ぼくは長年にわたって、入所者が出して居られた機関誌「多磨」を送っていただいていました。また、それ以前からは、何人かの入所者の方々との知遇を得、多くの学習の機会を持つことができました。また、これもいかにも奇遇というか、不思議な御縁だと思ったのは、恒星社編の「ハンセン病文学全集」を購入して大切に一巻一巻を紐解いていた、ちょうどその折、ぼくの勤め先に恒星社の編集者が訪ねて来られ、いろいろと話を聞く機会を得たことがあった。どうして、ぼくが「全集」を購入したのを知ったのか、わざわざ購入者を訪ねてこられたのでした。この全集は、今でもなお、手元に置きながら、折に触れて、その内容に胸を打たれている。「ハンセン病」にかかわる問題については、駄文集録の中で二、三度触れています。詩人の塔和子さんの生涯を一編の映像にまとめた「風の舞」を授業で紹介したおり、宮崎信恵監督と(塔さんの詩を朗読された)吉永小百合さんにも来ていただき、いろいろと話を伺った。(ヘッダー写真は「好善社」・大島青松園「風の舞」(合同墓):https://kozensha.org/sanatorium/sanatorium08.html)

今では遠い記憶に沈んでしまったようでいて、決して消え去ってはいないどころか、「病室」の詩のように、ある時、突如蘇って、思いを新たにするのです。この国がここまで来るために、それこそいろいろな事柄が出来(しゅったい)した。そのかなりな部分は国家や社会にとっては大きくないことであったかもしれないが、その「歴史を一歩ずつ生きてきた人々」の生の叫びは、声の大小を問わず、ぼくたちにはっきりと届いているのです。歴史を学ぶとは、その魂の声を聞き届けることでもあるのです。
眼前に繰り広げられる「人間喜劇」を侮辱するつもりはありません。それもまた、程度の低い「歴史」のひとこまですから。今生じている「歴史の現場」に立つことも重要でしょうが、自らの人生を照らしてくれるのは、すでに表舞台から消えたと思われる人々の姿を、想像力を逞しくして、みずからの視野・視界のうちに取り入れたときではないでしょうか。


「ひとはかかわることからさまざまな思いを知る / 略 / そして人は、人の間で思いを削り思いをふくらませる / 生を綴る / ああ何億の人がいようとも / かかわらなければ / 路傍の人 / 私の胸の泉に / 枯れ葉いちまいも 落としてはくれない」(塔和子作「かかわらなければ」)
人はだれもが孤独を託(かこ)つ。だからこそ、「かかわりたい」と願う。でも、かかわったがゆえに「患しい思い」を懐き、恨みや悲しさを知る。幸も不幸も「かかわること」から生まれる。その繰り返しが生きることだと塔さんは唱う。かかわらなければ路傍の人。

● 塔和子 とう-かずこ = 1929-2013 昭和後期-平成時代の詩人。昭和4年8月31日生まれ。昭和18年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠みはじめ,のち自由詩の創作をはじめる。36年第1詩集「はだか木」を出版。「第一日の孤独」「聖なるものは木」がH氏賞候補になり,平成11年第15詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。愛媛県出身。(デジタル番日本人明大辞典+Plus)
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