「言」を食って肥るのを政治家という

「食言」考 ~ 「食言」は中国由来の表現。「書経」に見える。言わんとするのは「食言するな」であり、まともな人間として生きるなら、「前言を飲み込み、それとは違ったことを言う」、つまりは「前言」を取り繕ったり、翻してまでして、嘘を言うことは恥ずかしいことだというのです。この戒めがあるというのは、「食言」があまりにもありすぎた証拠です。「前言と違ったことをいう」「約束を破る」、つまりはそんな卑しい行いは慎めと、政治の要諦にしたのでしょう。広辞苑には、[書経湯誓]「(一度口から出したことばを、また口に入れる意)前に言った事と違う事を言うこと。約束をたがえること。うそをつくこと」とあります。「春秋左氏伝」に、ある人が「なんであいつは肥えているのか」と尋ねたら、側近いわく「是れ言多し。能く肥ゆること無(なか)らんや」(字通)と引かれています。その伝で言えば、東海の小島の総理は「食言総理」なら、大臣は「食言大臣」であり、官僚たちは「食言官吏」というべし。顔色一つ変えずに、平気で「嘘をつく」のは政治家の根本の「脂質(資質)」だと思う。ぼくがこれまで、遠近問わず見てきた政治家は、距離に関係なく、一見してわかった。まず「脂ぎって」いた、やがて肥え出す。何処から見ても政治家だと、誰にもわかるのは「言を食っている」からだ。政治家に「公約(膏薬)」はつきもの。なんでもある。どこにでも張り出す。真偽も信義も、一切不問。こんな連中が挙って、「食言」し、あまりの肥大・肥沃化の結果、その「重量」で国は滅びる運命にある。つまりは「嘘で滅びる」国というわけです。この小さな島国は、大小問わずに、人民の多くはまぎれもなく「政治家」です。その得意技は「食言する」「前言を翻す」「約束を反故にする」「嘘をつく」「欺く」「騙す」というピン芸で、これには長々とした歴史と伝統があるでしょう。もちろん、そのピン芸に乗せられる「国民」は不可欠です。その点でも、この小島には条件は揃っていますね。

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 右の記事は読売新聞(2010/05/11)「食言」は左派右派を問わない。どの内閣であれ、大臣であれ、とにかく「食言」したくてたまらないのだ。「言葉が軽い」のではなく「言葉に内容がない」のであり、その言葉を使う人間(政治家)に思考も思想もない証拠ですね。右の新聞コラムの内閣や首相などの固有名を誰に変えても、記事の指摘が立派に通用するというのですから、不思議の国の「セイジ」ですね。下の新聞は毎日新聞(2022/08/27)。ぼくは世論調査とか内閣支持率などは一切信用していませんから、どんな数値が出ても驚きはしません。ロシアの「大統領」の支持は岩盤ですか。それとも、別の要因があって、いつまでも高い支持率を誇っているのでしょうか。彼 P のお家芸は「名代の食言」にあるのではないか。

 どんなに「食言」を詰(なじ)られたところで、いっかな辞職も謝罪もしないのは、攻める側の「力不足」なのか、攻め(責め)られる側の「攻められられ馴れ」なのか。一時代前とは言いませんが、ある時期までは「失言」「食言」が指摘されれば、即刻、自ら辞任や辞職をしたものです。自腹を切るのは、ある種の「責任」の取り方でした。時代が変わったということもあり、辞職するばかりが能ではないという雰囲気もあってか、だらだらと、むだな時間稼ぎに終止している間に、追求も止んでしまうのです。ぼくが、政界は共産党を除いて、すべて「与党」だと言っている意味がここにあります。そして、「食言」問答を繰り返しているうちに、時間切れになるという寸法です。国会は「お気楽天国」ですな。

 世に一言居士は数えられないくらいにいますが、それにも負けず「二言居士」もなかなかに多士済々ではないですか。ことに政治の世界では「二言(にごん)」の主が引きも切らないのは、一言では足りず、二言三言で商売が繁盛すると踏んでいるからでしょう。「前に言ったことと違うことを言うこと」が二言の中身だとすれば、一言では足りないというか、それでは言いたいことが尽きないというのではないかとも考えられます。要するに、政治家の多くは「クチから出任せ」と、無意味な単語を吐き出しているだけという風にも思われます。誠意の欠片も感じられないのはそのためでしょう。

 簡単な英語表記で「二言(にごん)」をみると、「〔うそをつく〕be double-tongued」「〔約束を破る〕break one’s promise」とあります。二枚舌ですね。「double-dealing」「double-tongued」です。どうして、閻魔さんに手数をかける輩を「支持する」のでしょうか。支持者(有権者)もまた、二枚舌だったりしますかね。「矛盾したことをいうこと。うそをつくこと」、それなのに、矛盾を矛盾と受け取らない、嘘を嘘と見ぬかない、それがデモクラシーを標榜する選挙における「候補者と有権者」の契り合いなのですかな。嘘や欺瞞を超越してつながるというのは、まるで「☓☓一家」「●●組」のごとしで、揺るぎない「絆」に結ばれたご縁なのでしょう。この「絆」を、ほとんどの人は誤解しています。実に気分・気持ちのいい言葉だと受け取っているんですから、手に負えないですよ。きずな(絆・紲)はまた、「ほだし」といいます。「ほだされる」などというでしょ。「情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる」(デジタル大辞泉)というように、実に困った繋がりです。あるいは牛や馬を柵につなぐのを「絆(ほだ)す」という。馬や牛からすれば、束縛され、自由を奪われることであり、人間の場合には、冷静な判断力が失われることを指します。絆されたい、絆したい人ばかりが多いのはいいことなんでしょうか。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)