人間は何からできているか

【斜面】言葉の貧困 戦時中、おなかをすかせて「一つだけ、ちょうだい」とねだる幼子がいた。父の出征の見送りでおにぎりを全部食べてしまってもせがむ。父はごみ捨て場のような所でコスモスを一輪摘み「一つだけ」「だいじにするんだよ」と渡した◆今西祐行さんの童話「一つの花」。戦争の知識がない子どもには伝わりにくい話だが、ある学校の授業で児童がこんな解釈をした。「騒いだ罰として汚い花を食べさせた」「お金もうけのため花を盗んだ」=石井光太著「ルポ 誰が国語力を殺すのか」◆受け止めはそれぞれ自由とはいえ、あまりに作意から離れてしまうと授業が成り立たなくなる。極端なケースなのかと思いきや、県内の教員も「似たような体験はある」と明かす。言葉を表面だけでとらえ、語られない部分の意味をつかみ取る力が弱まっていると感じる時がある◆「ウザ」「キモ」「エグ」。SNSのような短い単語ばかりで話す世代では会話がすれ違ってトラブルが起きると同書は指摘する。言葉が足りないと、他者とのつながりは浅くなる。言葉は自分と向き合う手段でもある。質も量もおろそかにはできない◆多発する暴力事件にも言葉の貧困の広がりが関係しているのだろうか。ルポによれば、劣悪な環境で育ち、罪を犯した子の多くは、怒り以外に自分を説明する言葉を持たないという。少年院では言葉の獲得が更生のための出発点となる。どの子にも、豊かな言葉に満ちている場所が必要だ。(信濃毎日新聞・2023/03/02)

◯ imply  音節(im • ply)(発音implái)1〈人・態度などが〉…を暗示する,ほのめかす,それとなく伝える≪that節≫ Silence often implies resistance.無言はしばしば反抗を意味する 1a〈事実・出来事などが〉(必然的に)…を意味する,示す≪that節≫;…の存在を意味する,示す 2〈考え・行動などが〉…を必ず伴う,含む 語源[原義は「編み込む」]◯ implication 音節 im • pli • ca • tion 発音ìmplikéiʃən 1(…という)含み,言外の意味,暗示≪that節≫;《論理学》含意((プログレッシブ英和中辞典)

 しばしば「辞書で意味を調べなさい」といったりいわれたりする。どうやら、「辞書」というものには「意味」が出ていると思われているらしい。では、その「意味」とはなんでしょうか。わかりそうでわかりにくい単語(言葉)ですよ。改めて、「意味」とはなにかと訊かれると、ぼくなんかは答えに窮する。ある辞書には「 言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の―を調べる」「愛を―するギリシャ語」  ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の―で一席設ける」「―ありげな行動」「沈黙は賛成を―する」  価値。重要性。「―のある集会」「全員が参加しなければ―がない」(デジタル大辞泉)と書かれています。意味とは「内容(実質)」だというのです。簡単ではなさそうですね。

 コラム氏が紹介しています、「言葉を表面だけでとらえ、語られない部分の意味をつかみ取る」言葉が持つであろう内容、あるいは表には見えない、隠された部分、それが、強いて言うなら「意味(含まれている部分)」というものでしょう。見える部分を成り立たせている「見えない部分」こそが大事なもの・ことであり、それがわからなければ、何をわかったことにもならないのではないですか。どんな「もの」にも「影」ができます。物があってこその影なんですが、ぼくたちは往々にして「影」を本物と見てしまう。

 明かりが灯っていれば、その明かりが映す影ができます。ほとんどの場合は、「影」を見て「実物」と錯覚している、その「影」が「意味」だというらしい、多くの場合は。影をつかむことはできないのは、シャボン玉を握ることができないのと同じ。世に流通している「言葉まがい」は。この「シャボン玉」なんじゃないですか。「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」「屋根まで飛んで、こわれて消えた」という歌に出てくる「シャボン玉」のような言葉が横行しています。あるいは「意味不明」と言われるような、そもそも何を言いたいのかが明らかではない「単語の羅列」を発言と勘違いしているのです。表があるというのは、裏によって支えられているからです。裏ではなく表をこそ、いや、実際は表を成り立たせている裏にこそ、大事な部分が宿されているのです。それを、ぼくたちは掴もうとしなければならない。

 ぼくは一切やらないから、その酷さ、下等さはわからないが、SNS などの、稔りのない隆盛は、言葉不毛の時代にマッチしているし、言葉が不毛の土地(世間)だから、その荒野にこそ、寸足らずののSNS による「言葉遊び」が流行るのですはないですか。「言葉が足りないと、他者とのつながりは浅くなる。言葉は自分と向き合う手段でもある。質も量もおろそかにはできない」「多発する暴力事件にも言葉の貧困の広がりが関係しているのだろうか」というコラム氏の指摘する部分は、正しくそのとおりだと、ぼくには同感の思いです。言葉がないから手が出る、暴力が飛び出すのです。「問答無用」というのは、まったく言語不要を言い当てる名言だと言いたくなります。言葉があれば、言葉で返す、少なくとも語り合う、その必要性を認められないから、「問答無用」なのであり、問答がいらないから、代わりに「暴力有用」となるのです。

 人間は何からできているか、そう問われれば、何時だって、ぼくは答えます。「人間は言葉からできている」と。その人間を作り上げている言葉が家庭においても学校においても、つまりは社会において有効性を持たないようなら、それに取って代わるのは「暴力」です。この「言葉の重要性」については、これまでに、嫌になるくらい語ってきました。教師、あるいは親は「言葉のタネをまく人」であってほしいと。そして、親も教師も、子どもとともに「言葉のタネを育ててほしい」とも。時代は、猫も杓子も「SNS」でしょ。言葉ではなく、単語の、それも細切れが飛び交っていて、果たしてそれで何が伝わるのか、伝えたいのか。意味もなく、ひたすら感覚を刺激するばかりの「単語ゲーム」が席巻している時代と社会、そのようにぼくには思われてなりません。メンデルスゾーンに「無言歌(Lieder ohne Worte)」というピアノ曲があります。その中でも、もっともポピュラーになったのは「春の歌」(作品62-6)です。言葉のない歌というのは、一種の逆説です。リズムとメロディがあれば、それにテンポや強弱が付けば、立派な「歌」になると作曲者は自信をのぞかせたのです。(https://www.youtube.com/watch?v=eB6mZckKwEA&ab_channel

 パスカルは「腕のない人は想像できる。でも頭(思考する力)のない人間は想像さえできない」と言っている。「思考は言葉による」のであれば、思考しない人間は言葉を持たない人間と同義です。次のように考えたらどうでしょう。「暴力」という語を、「言語」と対置させましょうか。「暴力」とは「乱暴な力・行為。不当に使う腕力。「―を振るう」 合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」(デジタル大辞泉)参考までに、「violence」とは「(行為の)激しさ,荒々しさ」「冒涜ぼうとく;(事実・意味などの)曲解,歪曲わいきょく,(字句の)改ざん」「激情,猛威,(言葉の)激しさ」「(事の程度の)はなはだしさ」(デジタル大辞泉)暴力は言葉(言語)と対極にあります。もちろん、言葉そのものが暴力(武力)に化すことがあるのはいうまでもありません。よく「文武両道」などといいます。その文武とは「文化」と「武化」を指して使われる言葉でした。「文事と武事。学問の道と武芸の道。文化的な面と軍事的な面」(同上)等と便宜的に言われるものです。詳しくは触れませんが、「文王」「武王」という中国古代の君主の統治・政治の方法からきているものです。

 使いもしないで非難するのは脳がないと思わないでもありませんが、TwitterやInstagram、あるいは Linkedin・ Facebook・ TikTOKなどの交流(SNS)方法は、知らず知らずに「問答無用」「暴力有用」の荒野を広げているように、ぼくには感じられます。必要に迫られて、時にはそれらの媒体に接近することがありますが、いよいよ「言語不要」「意味不明」の坂道をひた走っている時代の巧まざる、企まざる「暴力」を痛感します。

 「劣悪な環境で育ち、罪を犯した子の多くは、怒り以外に自分を説明する言葉を持たないという」と指摘するのはコラム氏。言葉そのものの保有量が貧困だというのでしょう。「劣悪な環境」とは単に貧乏だとか、家庭環境の条件の悪さばかりを指すのではない。この国の「政治家」の言葉の桁外れの貧困さは、度を超えいていると言わざるをえないからです。「同性婚はいやだ」と言った官僚がいました。その親分は「同性婚を認めれば、社会が変わる」と国会で言った。その中身を詳しく聴かれると、慌てて弁解する、釈明する。「そういうつもりで言ったのではない」というのは、どういうことか。質問をはぐらかし、質問を捻じ曲げ、質問者を愚弄する、それが国会議員の仕事のようになっているのはなぜでしょう。指摘されて「そんなつもりで言ったのではない」「誤解を与えたとしたら申し訳ない」と、軽薄な弁明に終止するだけの輩が「どんなに劣悪な環境で育ったか」、ぼくには手に取るようにわかります。受験にうつつを抜かし、偏差値ばかりが幅を利かせる世界、環境は、言葉の種をまく、言葉を育てる、そのための環境としては最劣悪の環境ではないでしょうか。その悪環境にいてなお、自分を失わない、自体に対して「誠意」を持ち続けられる教師や子どもにさいわいがありますように。

 政治家や経済人、あるいは芸能人や学校教師が関わる幾多の犯罪に、ぼくたちは大いなる危機感を抱く必要があります。しかし、ぼく自身にはもう手に負えない状況に現状はあると、半ば以上は、期待することを捨てているところがあります。本日の「斜面」氏の記事は、ぼくの持論そのものを言い当てていると感謝するばかりです。「言葉の貧困」とは、政治や経済で 救済できるような、そんな生半可な「貧困」ではないということに気がつく人はいるでしょうか。暴力装置を手にして、なお「言葉の貧困」から開放されると考えているとしたら、それは土台無理な話です。言葉の貧困とは、人間らしく生きるためには「致命的欠陥」を生み出すからです。「同性婚を認めたら、社会が変わってしまう。家族制度がこわれ、従来の社会秩序が既存される。だから、私は反対です」というべきところを、曖昧に、追求されれば、言い逃れをする、言葉を弄ぶという以上に、自らの責任で言語を発することができない総理は、可愛そうですけれど、「裸の王様」ですね。

 「人間はなにからできているか?」「人間は言葉からできている」「言葉というものは歴史を含んでいるのです」と、まるでこわれたラジオやレコードのように繰り返します。言葉がなければ、暴力が取って代わるのは火を見るよりも明らかです。人間が考えるのは保存している「言葉の出し入れ」「並べ替え」によってです。考えるための材料は「言葉」です。言葉がなければ考えることはできないのです。赤ちゃんはどうでしょう。「快・不快」という素朴かつ強力な感覚でしか反応できない存在です。あるいは動物を考えてみれば、この事情はわかるでしょう。人間であるため、人間であろうとするなら、何よりも、経験から得た「言葉」、おのれの「言葉」を持つことはどうしても必要なんですね。「言葉の貧困」にあえいでいる存在に近づけば、野生の虎狼のごとく、問答無用で「噛み殺される」のが落ちです。今や、世界の至る所に「言葉を持たない怪獣」が虎視眈々と獲物を狙っている。そんな「虎狼」にとって「SNS」は鬼に金棒でしょうな。あるいは、「なんとかに刃物」でしょうか。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)