〈受験子を励ます背ナをどんと押す〉(久保晴子) 

 

 大学入試のシーズン闌(たけなわ)と言いたいところ。でも、すでに半分以上は決着がついた頃でしょう。一般入試以外の「特別入試」というのか、様々な形態があり、それぞれを駆使しなければ「必要な学生数」を確保できないところにまで大学はきているということです。ぼくの感覚では、三十年ほども前に「大学売り手時代」は終わっていると考えている。(あるいは、そもそもの初めから、大学は「人に使われる人材を養成していたのだから、一種の養鶏場か養豚陽のような機能しか持たなかった。学者・研究者養成ははまた、別の機関が担ったとも言える))まだ現役の教師まがいのさなかで、毎年、入試の雑務に駆り出されていた。ぼくはある期間の数年間にわたって、受験生の高校時代の成績(五段階評価)を丁寧に見ていて、幾つかの発見をしました。別に大したことではありません。入試は「偏差値(学校の成績)競争」のように考えられていますが、そうではなく、まぐれ当たりで合格する人が相当にいるとわかったのです。いわば「傾向と対策」で準備ができれば、かなりの率で合格するというものでした。まして、マークシート式の導入はその傾向に弾みをつけた。(ヘッダー写真は近所の喫茶店「ブルーム」です。素敵なご夫妻が週一で営業という飛んでもないと思わないでもない「サテン」です。昨日、犬を連れた(犬が連れていた、か)店主さんとすれ違いました。コロナ禍のためか?この数年は「閉店中」です)

 ぼくが所属していた大学・学部ではかなり前までは女性の受験生が圧倒的な「高偏差値」を誇っていて、五段階評価ではほぼ「五」の人が上位に連なっていましたが、三十年前頃にはそうではなくなっていた。二段階や三段階の数値の「受験生」がかなり合格していたのです。それで問題があるというのではありません。それでいいのではないかと言えそうですね。でも、…、という疑問は残る。それから競争率も、以前は、勤め先の大学・学部は軒並みに十倍を超えていたようですが、三十年前ころからは競争倍率は五倍を切って行くようになります。定員千名では、合格者は二千名程度は発表しないと、十分に定員を確保できないわけで、したがって、実質倍率は三倍程度ということになっていた。

 要するに、進学率は十八歳年齡の五割を超えていたと言われますが、その実態はかなり「危ういもの」だったのです。進学率や競争率を文科省はご丁寧に発表します。けれどもいっかな「中退率」は発表されないままです。ぼくは何度か、その発表を文科省等に注文したことがある。教室で、ぼくは「大学生」の実像を篤と観る・観察することができていました。ぼくの印象や記憶では、大学という教育機関の「昔日の面影」も「今日の実態」も、あまり変わり映えがしないと言っておきたいですね。「君は大学を出たにも関わらず、どうしてそんなに賢明なんだ」ということが冗談ではない時代が続いています。いや、本当は「大学にかなかったにも関わらず、なんでそんなん愚かんだ?」と言いたいところですね。

 この社会を、寄ってたかって滅ぼす主役や脇役のほとんどは「高学歴」と偽証・詐称されている輩によって独占されています。その時代はいよいよ「佳境」を迎えるというのは間違いで、すでに「終幕」に近い、いや「幕切れ」寸前でしょう。しかし、幕が下がっても、いつまでも「舞台」は残ります。まるで歌舞伎や文楽のように、無形文化財として保存されるのかもしれません。(今でも疑問です、どうして、試験というものは「なにか、ものを見てはいけない」「暗記力を試される」のですか)

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「徒然日乗」(119~125)

◯ 2023/02/26・日 = 本日も動物病院へ。去勢手術前のワクチン接種と白血病やエイズの検査。♂は四ついるが、ケージに入れられることを警戒して、近寄ってこない。朝から家を飛び出す子もいる。油断していた一つを素早くケージに。まだ、三匹残っている。さらに、この次には「去勢」手術、技術的にも難しくはなく、時間的にはものの五分程度という。この時期、外の猫が庭に来て、大喧嘩をして、困っている。早く「去勢」手術をして、やたらに喧嘩腰にならないようにしないと、面倒なことになる危険性がある。これまでに何度か経験済み。春は季節的には、万物、皆元気になり、結構尽くめのようでもあるが、そうでもないものもあるので、ヌカ喜びはできない。▼ 帰宅後にウォーキング。風が冷たく、あるいは「春一番」と気象庁はいうかと思っていたが。房総半島の「春一番」は先日吹き終わったと、ぼくは勝手に判断している。途中で、田んぼの畦(あぜ)作りをしている光景に出会った。作っているところを見たことがなかったので、立ち止まって見物していた。耕運機の機能は、年々歳々増えてくるし、なかなか多芸になっていると感心する。それだけ高い買い物になるのだろう。「農協」の正体がいつまでも闇の中でもなかろうが、日本の農業に果たしてきた「農協」の役割とは何だったかと、ときに熟考することがある。ある時期までは「最大の集票マシーン」「最強のロビー活動群」だった。こんなにすべてが機械懸かりになれば、これでは、小学生でも農作業ができるだろうし、どこかではそういう具合に進んでいるかもしれない。(徒然日乗・125)

◯ 2023/02/25・土 = 本日も簡単なウォーキング。歩くコースは幾通りかあるが、それでも殆どが歩き慣れた道。田んぼ道と雑木林がほとんどで、車の通りはできる限り避けています。それでも横断しなければならない時もあります、危険な運転者が多いし、油断も隙きもならない。風もなく、気分よく歩けた。やがて、田んぼでは代掻きが始まりそうな時節で、この稲作の繰り返し(回転)を見ていると、如何にも季節のめぐりは早いものだという感じになる。それも、機械仕掛けの農耕であれば、なおさら、文字通りに機械的に進められていくので、以前に感じたほどの「農業」という趣は大幅に減じるのだ。途中で、何本かの「早咲き」の桜の蕾(つぼみ)が綻(ほころ)んでいるのが見られた。季節は春たけなわに向かって、一気に進んでいる。(徒然日乗・124)

◯ 2023/02/24・金= それほど酷いと言うほどでもないが、花粉症の症状が目や鼻に来て、あまり気分はよろしくない。早速、普段使っている目薬ではなく、花粉症対策用(効き目にはあまり期待していない)を買ってきた。若い頃までは全く花粉症とは無関係とのんびりしていたが、四十前後から罹患しだした。おそらく、それ以前は、幼児期から育った環境に「杉・檜」製品が溢れていたので、生来「杉・檜花粉に対する免疫(抗体)」ができていたのが、都会に住み続けている間に効能がなくなったのだと思う。今は、杉と檜の林の中で暮らしているが、それほどひどくなるわけでもなく、でも、花粉症の被害は受けている。薬にはあまり期待していないので、ゆっくりとやり過ごすしかないと考えている。▼ これで終わりになるかどうか、灯油も買ってきた。18㍑×2です。一体どれだけ使ったか、計算はできるのだが、その量の多さに腰が引けている。多額の消費代金が消えていると思う。その殆どは猫の暖房用、猫たちは一部屋で寝てくれない。好みがあるのか、三部屋で寝るのである。暖房器具は三台使うことになる。当然ですが、だから、エアコンは一切使わないことにしている。十五度以上の気温が続けば、ぼくには暖房器具はいらないのだが。「もう一息!」と、叫びたくなる。(徒然日乗・123)

◯ 2023/02/23・木= 昨日は記憶違いで、失態を演じたことになる。本日、ふたたび二匹の♀猫を連れて病院へ。抜糸で。間違いの言い訳はしない。確信と言うか盲信しているから、「それ以外はない」と固く信じることになる。まるでカルト教団の信仰にハマったような感覚なんだろう。でも、ぼくはそんな頑なな姿勢は取らない。百%、こちらが正しいと思うことはできても、本当にそうかどうか、相手のあること。だから完璧なのは「人間の弱さ」の方だ。この「弱さ」とは、過失・記憶違い・勘違いなど、あるいはそこから起こる失敗や失態を指す。人間の弱さは完璧であるという自己認識がぼくには厳然としてある。だから、自分の過ちはもちろんだが、他社の過失にも寛容でありたいと日頃から念じているのだが、それはなかなかうまくいかないのは、ここにも人間の弱さが顔を出すからだろう。▼ 昨日(2月22日)は「ニャン・ニャン・ニャン」と猫の日だという。さすれば、本日は「フジサンの日」だという、それがどうしたと言いたいが。ちなみに犬の日は「11月1日」(ワン・ワン・ワン)だという、勝手にしやがれ、ねこのフン。(徒然日乗・122)

◯ 2023/02/22・水= 動物病院から「今日手術の予定が入っているんですが」と電話があったという。ウォーキングから帰宅すると家人に告げられた。そんなはずがないと、安心して「散歩」に出かけたのに。いろいろと聞いたり思い出したりした結果、当方の勘違いだったと観念した。♂の避妊手術前のワクチン接種や検査が済んでいない子が一人。それを先に済ませるのと、避妊手術済みの♀の抜糸をしてからと勝手に思いこんでいたのだ。午後に、二匹の♀を連れて行く。もちろん、当方の勘違いは謝りました。このところ、いろいろと勘違いや過失のようなものが続いている。心配しても始まらないが、気長に、脳細胞の萎縮に相対していこうという気にはなります。それにしても、猫に振り回されている一ヶ月です。今しばらく続きそう。(徒然日乗・121)

◯ 2023/02/21・火 = 開店直後に近間のスーパーへ(猫缶の買い出し)。後でわかったが、明日から1~1.5割引が始まるという。買ってしまってから気づいたという頓馬。帰宅後に郵便局へ。トルコ・シリア地震への寄付の要請に寸志を持って答えるために。振替で送金。一体どれだけの犠牲者が出るのだろうか。まだ倒壊した建物の下に埋まっている人がいる。犠牲者の多かった地区以外、捜索は終わりになるそうだ。▼ その合間に、手術後の猫の抜糸のために病院へ連れ出したが、予定の子ではなかったと途中で気がつく。仕方なしに引き換えした。予定していた猫は遊びに出かけていなかった。つまらないミス(勘違い・ど忘れ)が連続している。ヤバいという気もするし、生活の変化(起伏)があっていいじゃんという思いも湧く。▼「ラジオ深夜便」で、俳優の山本學氏のインタビューを聞く(午前四時から)。1937年生まれ。八十六歳になる。彼はただいま「認知症」の入り口に立っている。実に明確な話しぶりに関心というか、いや感動すらしました。これまでに二度ばかり「幻視」を体験したという。ありもしないものがはっきりと見えるという現象。それを細大漏らさず表現していた。建築家だった父親が「認知症」だったのを、母親は「恥ずかしいから、人には言うな」と隠すように促した。それに違和感を覚えていたので、自分の現状をできる限り話すようにしていると語っていた。その姿勢は、なかなかのものだと、ぼくは率直に感心したのです。「よくそこまで覚えて居られますね」というインタビューアーに対して、「もちろん、ぼくはメモを取って記録しているから」と、当たり前の姿勢だというように語られていた。このような「症状」に襲われている人の話で、とても感心したし、敬意すら覚えた。山本さんは(二度目の総裁選への)安倍元総理の立候補を強力に勧めた一人でもあった。(徒然日乗・120)

◯ 2023/02/20・月= 二ヶ月振りでしょうか、京都の友人から電話がありました。積もる話なんかあるはずもなく、年を取るのは嫌だねという、どうにもならぬ話でした。長く生きていいことなんかない。でも、それもこれも「微妙」だとぼくは思ってきたし、今もその思いに変わりはない。いつまで生きるという計算(希望・予想)など、最初からないし、この年齡になって、今晩にも息が止まるかもしれないと、そんな気がしている。でも、切羽詰まった感情は一切ないといいたいようにも考えている。これまでも「齷齪」してこなかったし、今だってそう。いうなれば「出たとこ勝負」というか、「まあ、ボチボチ」、そんな気分です。こうなったら、ああならないようにと、いくら前もって心配していても「なるようにしかならない」というのか、「なるようになる」というのか。ぼくは後者(「なるようになる」)ですな。生活には設計とか計画は成り立つだろうが、人生は設計どおりにはいかないし、設計そのものが成り立っていないのではないですか。「設計」ということがいいたければ、毎日毎日、「設計」し直している、それが「今を生きている」ということだという「持論」めいたものがあるとだけは言っておく。友人は「心配症」に罹患している。あるいは「悲観主義」が趣味のような御仁だと思う。(徒然日乗・119)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)