【日報抄】春耕の季節が近づく。田畑の土を起こし、水路を開く。地面を掘って、水を通す道を溝と呼ぶ。水で田畑が結ばれるから「相互に通じさせる」という意味を含む一方、水路は耕地の区切りにもなるので「隔てる」ことも指す▼隔てる方の溝が埋まらないという。前首相の新会員候補の任命拒否に端を発した日本学術会議の組織見直しを巡り、政府と学術会議の議論が平行線をたどっている。政府は会員選考に、産業界などからのメンバーを含む委員会の声を尊重するよう義務付ける制度改正案を打ち出した▼学術会議は、制度が改正されれば政府や政治家の意に沿わない会員が生まれなくなり、科学で社会に責任を負うという使命を果たせなくなると危惧する。歴代ノーベル賞受賞者らも、学術の独立性を損なう恐れがあるとの声明を出した▼科学的に議論すべき場に政治の風が吹いたのではと思わせる事例を先日も小欄で取り上げた。原発の長期間運転を可能にする政府の新制度案を原子力規制委員会が検討した際、委員の1人は政府側に議論をせかされたと述べた。反対を貫いた委員もいたが、新制度案は多数決で了とされた▼政治の影響力が強まれば純粋に科学的な議論をするのが難しくならないか。科学の真理を見極める道のりに政治の計算や打算が入り込むのは危うい▼学術会議の組織見直しについて政府は「選考の透明性を高めるため」と説明しているが、発端となった任命拒否の理由は明らかにしていない。どういうことだろう。(新潟日報デジタルプラス・2023/02/25)(ヘッダー写真は「kubota」:https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/rice/germination/tilling_01.html)

春耕とは…「〘名〙 春、農作物を植える準備のために田畑を耕すこと。《季・春》」(精選版日本国語大辞典)
劣島は東西に長く、梅雨前線や桜前線などの「北上中」と謳(歌)われるように、「春耕(しゅんこう)」も地域によって時間差があります。房総の中央部は、すでに「春耕」は始まっている。これを人力や牛馬を駆使してという、如何にも労働しているという光景は流石に絶えて見られません。トラックに耕運機を積んできて、田畑のすぐ近くに降ろし、それを老人(ぼくの目にするのは、殆どが老人)が一人で運転して春耕に励む。便利といえばこんなに便利な機械はない。これまで何日も何人もが取り掛かる大仕事だったのが、今では半日・一日仕事になっている。ありがたいことというべきかもしれない。
表題の龍太氏の句の風景も、農業人口の激減とともに、子どもたちの多忙を理由に、まず見られなくなった。朧気ながら、ぼくは能登半島で「農耕」に接していた記憶がある。近所の牛を引いて行き帰りを楽しんだし、土で汚れた牛の体を川(用水)に入れて洗ったことも鮮明に覚えています。農耕の土をいじる時、いつも「弥生時代」を思う。不思議でもなんでもなく、この島の「文化」は悠久の歴史に彩られているといえますが、とりわけ農耕(稲作)はその感が深い。富安風生氏の句に「千年の昔のごとく耕せり 」があります。佳句かどうかは問わない、それほどに連綿とバトンリレーが行われて、今の農業があるということでしょう。実に神妙な気持ちになるのです。法隆寺が千数百年前に建てられたというのも感激者ですが、この農耕生活が二千年以上も続けられているという、その歴史に「弥生人の末裔」を自覚させられるというわけです。

コラム氏は「溝」の両義性に筆を執り、現下の「学術会議」問題に焦点を当てています。学術会議なんかどうでもよく、というつもりはありません。「学術と政治」という政治問題というのでしょうが、問題は複雑ではない、学問研究の徒に、職業政治家顔負けの方々がおられるのに反し、政治家には「学術の徒」はまず見られないところから、只今の不幸せ・悲劇は起こっているのだし、いずれ、政治的に事は収束するのでしょう。学術の政治的管理とか利用というのは、何時の時代にもあったし、もちろん今日でも多用されている。不用意にか用意周到にか、政治権力に近づく研究者が多すぎるという感想をぼくは以前から持っています。でも、今はそれには触れたくない。むしろ「春耕」に象徴される「農業」に的を絞ります。そうはいっても、農業と学術はまんざら無関係ではないどころか、むしろ、実に近しい関係にあるとさえ言っておきたい。
明治以降に「アグリカルチャー」を「農耕」と訳したものですが、そのアグリカルチャーとは「荒野」、つまりは「荒れた土地」を耕すこと、まさしく耕作・栽培を言い表す言葉でした。「カルチャー」は「文化」と翻訳されたもので、教養とか修養などと同義でした。学術も、面倒を言えば際限がありませんけれども、要するに「教養」「知識」の集積ですから、間違いなしに「文化」の営みです。学術には人文・社会・自然の各分野に分かれて理解されるべき「諸科学」とされますが、広い意味では「文化」です。科学は普遍性を持っているというのは誤解であり、広くはパラダイムという名称で呼ばれる、ある一定の期間最有力な「宇宙や自然の解釈(定説)」にほかなりません。時代や社会によって変容せざるをえないものです。「科学」もまた、一つの思考形式にほかならないのです。

今朝、十時前にちょっと買い物にでかけ、帰宅するとポストに「JA 長生 ちょうせい」という名の広報誌(3月号)が入っていました(右上写真)。農協の方が毎月配ってくれます。「春耕」に誘われて、もう少し農業について駄弁りましょう。本誌の「農業バンザイ」のコーナーでは地区の営農青年のインタビューが掲載されていました。「米の価格が大幅に下落したり、肥料・生産資材の高騰により今までに経験のない苦しい状況です。そんな状況でも、時間を忘れてひたすら作業に没頭しているときがとても好きです」と語っておられます。頼もしい限りですが、その前途には暗雲が漂っていることに変わりはない。これは各地に共通する「明るくない将来」といったら語弊があるでしょうか。この市原さんという方は米農家で、全体で28万平方メートルの耕作地を所有されているという。東京ドーム、約六個分にあたります。米離れが進んでいる時代、作れば作るほど苦しくなるという矛盾を抱えての「営農」です。この社会の農業政策は、戦後に限っても酷いものでした。米作に関しては作ることを禁止された「減反政策」と、食管制度という国家による買い上げ制度によって、それこそ、文化である「農業」は破壊され、立ち直りは困難とさえ言われた時期もあったのです。米作中心では立ちいかなくなったのも、いろいろな理由がありますが、端的に言うなら、農業の自由化です。諸外国との競争原理を持ち込んだことにより、国家管理政策の破綻が明らかになった。農業者を選挙の投票(集票)マシーンにしたのがこの島の政治家でした。「票」を税金で買ったのですね。TPPなどに関してもいうべきことはあります。アメリカの手下になった結果の「農業の衰退」であり、労働の退廃でもあったのです。
そのような危機的状況から、農業というものが従来の「性格」を変えてきていることにも気付かされる。もちろん「生業」ですから、生活が成り立たなければならないのはいうをまたない。何処でも、「売り(特産)」を第一に作物を大掛かりに作る傾向があります。ぼくは、この地に越してきた当座、農協に勤める女性と知り合いになり、それ以来、毎月、「農協だより」のような印刷物を届けてもらっています(前掲)。それを暇な折に見ているとさまざまことが思われてくるのです。若い人の就農が話題になることが多いが、それも地域で期待される作物の栽培に精を出すというニュースがいつももり立てるように記事にされている。農家の「後継ぎ」「跡取り」問題は、決して看過できない問題ですが、農業を職業選択の第一位として、知識や技能を学ぶ青年たちがそれなりに生まれているのを見ると、この先は大丈夫と言いたくなりますが、そう単純ではなさそうです。国全体の食糧自給率を考え、更に個別の農産物の自給率に考えを及ぼすと暗澹たる気持ちに襲われるからです。五穀といいます。たいていは「米・麦・粟・黍・豆」をいうようですが、別の数え方もあります。あるいは、六穀、九穀などともいう。「黍」の代わりに「稗」を入れる場合もあります。ともかく「五穀豊穣」を祈り続けてきた国柄です。農業の先行きが暗いのはなぜか。そこにも悪政の手が入り込んでいたのです。(何よりも、各営農者は農協からの解放を果たす、それがこの島の農業の先行きにかかっているのではないですか。「農協」という最大級の政治勢力によって、kの国の農業は右往左往させられてきた)

戦後の「農地改革」による「農地解放」はどうなったのでしょか。再び、「地主ー小作」の関係が作られていないでしょうか。「財閥解体」は見事に復活を遂げたではないか。それもこれも、政治の仕業だとぼくは言いたい。ある種の、明白な「復古主義」の横暴でしょう。これまでにもしばしば上げられてきた「食料安保」などと自給率の低下からくる「食糧危機」の叫び声も、いつの間にか、あらゆる方面での「農産物自由化」という御旗の軍門に下ってしまいました。少し古いものですが、左に、一応の目安になる数字を上げておきます。今どき「粟」や「稗」を食料にするということは、特例を除いては考えられません。小麦や大豆の自給率の低さは驚くべき数値です。「金」にならないというか、輸入したほうがはるかに安上がりということでしょう。だとするなら、やがて、この傾向は他品目に及ぶことは目に見えています。その傾向に拍車がかかっているという状況にあるのです。食料が何時だって十分に他国から入ってくるというのは幻想です。(と、こんな調子で駄弁っていけば、終わりそうにありません)
問題の所在は明らかですね。政治家が賢くならなければ、この国は救済されないということだし、賢い政治家を見出すには有権者が、さらに賢くならなければならないということです。この点からすれば、ほぼ絶望的だという気もします。「学術会議」が官営化されるとどうなるのでしょうか。次は大学政策の「官営化」でしょう。更にいうと、権力に従属しない大学はさまざまな不利益を被るということになります。おそらく、私立大学といえども「学長」「総長」は官選に等しいものになるはずです、旧国公立大学はいうまでもありません。学問研究の自由は、政治権力の前では「画餅」です。地方知事も官選、今だってそれに近いというべきか。なんだかんだと騒いでいる間に、ものの見事に「国家総動員」体制への三段跳びが始まっているような気がしてくるのです。言っても始まりませんが、官選学術会議に関与することを潔しとしない研究者の出現を待望するばかり。学問研究の自由を根底から捉え直し、自らのよって立つ基盤を明らかにする作業が、関係するどなたにとっても求められているんじゃないですか。政府系や官庁系の審議会や委員会に勇んで蝟集する「学者・研究者」の軽薄な行動を見ていれば、この先の展望は明らかでしょう。
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