Doctor Do Little が少しでも増えるといい

 朝からの快晴に誘われたわけではありませんが、いつもどおりにウォーキングに出かけ。一時間半ほど歩いた。帰宅するやいなや、かみさんいわく「猫の手術の予定を忘れたでしょ、病院から電話があった。すぐにかけて頂戴」という。冗談ではない。そんな約束はしていないと、病院に電話。「まず♀の抜糸を済ませた後で、♂の手術に取り掛かるつもり」と、医者にも伝えておいたはず。「カレンダーに手術の予定が入っている」との電話だったが、ぼくは「本日、手術をしてもらう約束はしていません」と、自信を持って言う。ひょっとして「約束したんだ」、ついに「ボケたか」というまさかの「疑い」は一切ない。(追記 ここまでいい切っていたのに、あるいは?と疑念が湧いた。医者が手術の日程を、勝手に決めるだろうか、と言う疑問。それを思い出したんで、ぼくの「勘違い」というか、記憶違いが明らかになった。つい先程(午後五時ころに「抜糸」病院へ行き、経緯を抜きに、ひたすら謝罪しました。平身低頭。ヤバいですね)「5時50分に記す)

 それはともかく、八つの猫の手術の段取りだけでも大変で、猫たちはなかなか当方の言い分を聞いてくれない。でも、あんまり「猫」にばかりかまっていられないという心境で、少しはゆったりと散歩でもと、歩きだしていたのだ。十一時すぎに帰宅したら「猫たち」は一斉に外出中でした。天気がよくて、爽やかだなと感じるのは猫だって同じ。人間以上に天気具合には敏感かもしれません。雨降りや寒い日、風の日は、猫たちにもストレスは溜まるのがよくわかります。イライラして、お互い喧嘩腰でいがみ合っているのだ。

 本日の駄文のテーマは何にしようかと、漠然と考えながら歩いていた。あまり愉快でないことばかりが続いている気もするので、気分一新と思っていたのだが、なかなかアイデアは浮かばなかった。きっと、本日のコラムは、「この話題でもちきり」と踏んでいたら、案の定そうでした2月22日で「ニャン・ニャン・ニャン」と「猫の日」だ。先刻承知でしたが、あまりいい気分もしない。ぼくはダジャレは大好き人間、ダジャレしか言えない人間ですけれども、この手の「語呂合わせ」は好まない。きっとたくさんのコラムが触れるだろうと見ていたら、なんと、ぼくが目にした地方紙も含めて十指(紙)に余るコラムがその話題を書いていた「ニャン・ニャン・ニャン」と。いかにも陳腐という他ない。

 「正平調」氏が書かれている養老さん。ぼくは時々、彼の YouTube を見る。「へそ曲がり」なことを喋っているわいと、小型の「へそ曲がり」が納得するという趣があります。もちろん、養老さんのすべてが「正しい」というのではないし、全部を受け入れるというのでもない。やはり、ぼくには異論があるといいたくなる養老さんの話に興味をいだきます。養老代先生と肩を並べる気も能力もありませんが、「世の中に右に倣え」を拒否するところは大首肯ですね。彼は当たり前を信じないし、むしろ拒絶する。それが面白いというか、なるほどという気になります。彼の猫にまつわるトークを参考までに。(「養老孟司の部屋」:https://www.youtube.com/watch?v=iXlvL6dYuJk&ab_channel)(ぼくのところは、「十九」ですよ、「まる、一人」と桁が違うね。

【正平調】世に愛猫家は多いが、まず思い浮かぶのは解剖学者の養老孟司さんだ。ネコに学んだことを問われ、答えている。「なまけること、手を抜くこと、欲を出しすぎないこと」。ニャるほど◆近年、ネコの人気がイヌを上回るようになった。日本ペットフード協会の最新調査によると、全国の飼い猫は約900万匹で、飼い犬より2割ほど多い。コロナ禍で自宅時間が長くなり、さらに増えたという◆「ネコ型社員の時代」(新潮新書)の著者、山本直人さんは「先の見えない世の中で、現状肯定的なネコの生き方が共感を呼んでいる」と語る。確かに周囲を見渡せば、うん十年前に比べネコ型社員は増えたかも◆かつて「イヌ型上司」に吠(ほ)え立てられ、鳴りやまない電話に悩まされた身にはありがたくもあるが、みながこう優しくなっては心配にもなる。時には「ワン!」と吠えられてこそ、人は育つのではあるまいか◆「モーレツ社員」という言葉が生まれたのは高度成長期だった。自分も家庭もかえりみず、がむしゃらに働くサラリーマン。電通総研の2015年の調査で、その言葉を知っているのは2割だったという。死語になる日は近いかも◆きょう2月22日は猫の日。ニャン、ニャン、ニャンと3回鳴いて、世の行く末を考える。(神戸新聞NEXT・2023/02/22)

【談話室】▽もしも動物と話せるならどんなに楽しいだろう―。子どもたちの多くが憧れるであろう特殊な能力を持った医師が大活躍する児童文学作品といえば、ご存じヒュー・ロフティング作の「ドリトル先生」シリーズである。▼▽長く読まれるのは生き物と意思疎通する難しさの裏返しに違いない。この感覚は古くからあったようだ。例えば、16世紀のフランスの哲学者モンテーニュは「私が猫と戯れているとき、ひょっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか」と記している。▼▽媚(こ)びるようにまとわり付いてくるかと思えば、急につれない態度を取ったりする。そんな自由で気ままな猫と関わっているうちに哲学者は主客転倒の感を覚えたのかもしれぬ。猫好きの中には、言葉を交わせないにしても、互いに通じ合っていると確信している方もいよう。▼▽亡くなった漫画家松本零士さんもそうだった。生涯で20匹以上の猫と暮らし思い入れの深い「ミーくん」は「銀河鉄道999」などの代表作にも登場。「永遠に一緒にいたい」と描いた思い出は単行本にもなった。今は“家族”との再会を喜んでいよう。今日は「猫の日」。(山形新聞・2023/02/22)

 「Do Little Doctor」=ドリトル先生は、井伏鱒二の訳で随分昔に読みました。動物語を話す医者の物語。作者は軍隊時代に「射殺される馬」に遭遇し、心を痛めた経験を元に、このシリーズを書き出したという。翻訳者の井伏さんは、もちろん「黒い雨」「山椒魚」などの小説を書いた人。彼は無類の猫好きというか、反対に猫が井伏さんを好きになったのではないかと思われます。愛猫家という語があるようですが、ぼくは使わない。好きか嫌いかではなく、「猫と暮らす」という道をぼくは選んだと考えているからです。近年、イヌよりも猫を「買う」「飼う」人が随分多くなったが、それだけ、離縁され、捨てられる猫が増えたということでもあるでしょう。「殺処分」される犬や猫に向けて、ぼくたちに何ができるか。何をしなければならぬのか、そればかりを考えている。「ペットショップ」は一日も早くなくなってほしいね。「売れ残った」犬・猫たちはどうなる・されるのでしょうか。それを考えるだけでも、即、動物売買は禁止してほしいな。

 「猫の日」があるのだから、当然「犬の日」もあるでしょう。ありましたし、むしろ「犬の日」が制定されたので、そのついでに「猫の日」が決められたと言われます。「11月1日」(ワン・ワン・ワン)。これを制定したのは「ペットフード工業会(現在の一般社団法人ペットフード協会)」で、1987年のことでした。商売が絡んでいましたね。当たり前というのかどうか。「ペット」という語も使わないでほしいねえ。おもちゃじゃないんだ。

●1ペット,愛玩動物 2お気に入り(の人);大事[大切]なもの;〔呼びかけ〕((英略式))ねえ,あなた,いい子(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)