
こだわるつもりはないのですが。「春一番」という名の風はどこにでも吹いている風とどこが違うのか。それは一月一日という日が「元日」と名付けられ、ぼくたちの生活に「特別の日」という「呪(まじな)い」を与えるのに似ているでしょう。誰にも、きっとそんな「一日」があるはずで、それとは関係のない人や、無関心な者には「いつもの二十四時間」にすぎないのですが。それを「春一番」と呼ぼうが呼ぶまいが、何の変哲もない「春の風」だと受け取っておけばいいことでもあります。元来は「その年の立春から春分までの間に最初に吹く強い南寄りの風のこと。通常は日本海で低気圧が発達することによって生じる風であるため,海難事故,融雪洪水,なだれ,日本海側の地方ではフェーン現象で大火などを引き起こすことがある。気象庁の定義は,(1) 立春から春分までの間であること,(2) 日本海に低気圧があること,(3) 強い南寄りの風(風向は東南東から西南西まで,風速 8m/s以上)が吹くこと,(4)気温が上昇すること,である。石川県能登地方や三重県志摩地方から西の各地で昔から使われている。長崎県郷ノ浦町では安静6(1859)年2月13日(新暦 3月17日)に長崎県五島沖に出漁した漁師 53人全員が,春の強い突風で遭難した。これ以後,郷ノ浦の元居地区では,春の初めの強い南風を「春一」または「春一番」と呼ぶようになったといわれている。一般に広く普及したのは 1960年代前半で,1963年からは一般新聞紙面の天気図欄に掲載されるようになった」(ブリタニカ国際大百科事典)というものらしい。何処にでもこの時節には「春一番」は吹いているのです。

春であれ、夏であれ、突風がいきなり襲えば、人々の生活に何らかの被害や支障が起きるのは当たり前。それなのになぜ「春一番」だけを特別扱いするのか、そんなことをいえば、なんだって文句をつけたくなりますな。ぼくの「春一番」は、1976年発売されたキャンディーズの「もうすぐ春ですね!」という呼びかけでした。もう半世紀近くも前になりました。ラン・スー・ミキの3人、スーちゃんは早くに亡くなり、残るお二人も結構いい年になりました。「古希」寸前ですから、月日の立つのも夢のうち、ですね。なお、余談ですが。「春一番」が気象庁で大事な「季語」(のようなもの)になったのは、この3人組のおかげだという。詳しいことは省略しますが、全国的に「春一番」を気象庁の専断で発表するようになったのは、この曲の大流行がきっかけだったという(約五十万枚売れたそうです)。年齡に関しては、他人のことは言えません。この曲が流行していた時代、ぼくは三十代に入ったばかりでした。どう言おうと、「若い」というのは怖い時代です。恥も外聞も持たない「傍若無人」の一時期があればこそ、人生に深みが出るのかもしれない。ぼくは、今でも、若いときの振る舞いを激しく悔いている。と言って、とんでもないことをしたのではないが。人生に「老人期」と「青春期」が存在するというのは、考えてみれば恐ろしい定めのようです。「若気の至り」って、どういう意味で使われるのですか。それに相当するのが、「老いの一徹」なんでしょうかねえ。
(キャンディーズ「春一番」:https://www.youtube.com/watch?v=RTipNzw4CiI&ab_channel=dominickex)
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徒然日乗(CXV ~ CXXI)

◯ 2023/02/19・日 = 朝から強い風が吹いていました。この強風は季節柄「春一番」といってもいいのでしょう。しかし、気象庁の「定義」では東京都心(気象庁のある場所)で、平均8メートル以上の風が吹くことという条件があり、それに従うと、関東沿岸地方は都心から外れているので「春一番」宣言は出ないということらしい。ならば、房総半島は「春一番」で、都心とはそうではないということでも構わないが、東京中心主義はこんなところにも居座っているのですかな。関東より広い面積を持つ九州地方では「春一番」が吹いたというのですから、なんだか、実にいい加減ですね。それでもかまわないというのは、気象庁の「宣言」とは無関係に風が吹いたり降らなかったりするのです。その自然の成り行きを追っかけるのに、莫大な金をかけて「予想」ではない「予報」の精度を上げてきたんですね、気象庁は。気象観測にも資するH3ロケットは「打ち上がらなかった」という事態が生じましたね。「失敗」ではなく「中止」という。「打ち上げ」るつもりはあったが、発射直後(瞬間)に「中止と決めた」ということか。(徒然日乗・CXXI)

◯ 2023/02/18・土 = 本日も動物病院へ。四匹目の♀猫を引き取りに。今更言うのではありませんが、とにかく猫の世話は大変だということ。それは猫に限らないことで、生き物を育て守るというのは、大変であることを痛感している。陽気の加减は正しく春の訪れと言ってもいいほどに長閑(のどか)でも、少し視野を広げてみれば、時代も社会も、実に多難という気がしてくるし、他端という思いが深い。この社会は今、「坂の上の雲」を見上げているのではなく、むしろ「坂の下の雲」に向かって降下しているという、寂しそうな風情が漂っています。わざわざ、大きな犠牲を払って坂などに登らないでいればよかったのにと嘆いても始まらない。だからこそ、ささやかな日常を壊されないような、地に足の付いた生活を送りたいものだとしきりに考えてきた。(徒然日乗・CXX)
◯2023/02/17・金 = 午前中に動物病院へ。昨日手術した子を引き取り、本日手術する子を預けるため。帰宅後、灯油を買い出しに。一体どれくらい灯油を使っているのだろうか。レシートは保管してあるが、計算はしていない。月ごとの電気料金及びガス料金に加えると、かなりの金額になるだろう。贅沢な生活というのではなく、無駄遣いに流れている生活の態度を改めなければならないと強く感じている。(徒然日乗・CXIX)
◯ 2023/02/16・木 = 残りの♀猫を病院へ。避妊手術のためです。これで三匹目。残りはひとつで、これは明日。先に避妊手術を、その次に去勢手術を予定している。♂組も四匹。来週辺りになる予定。何度も言いますが、この作業が終わらないと、なかなか安心できない。この病院だけではないかもしれませんが、規則のようなもの(管理)が厳格で、手術前は前夜半から一切の食餌摂取はだめ。避妊手術は一日一匹(去勢は複数でもかまわない)。その他諸々、人間のケースよりも手厚いというか、厳格というか。いいような悪いような、そんな感想をいつも持つ。(徒然日乗・CXVIII)

◯ 2023/02/15・水 = カミさんの友人の死去を考えています。彼女は自宅で布団の中で亡くなったそうです。今では、むしろ稀なことかもしれない。自宅で生まれ、自宅で亡くなるのが当たり前のようだった習慣が、今では九割以上が病院で生まれ病院でなくなるというのです。出産も死亡も(病気」ではないというのに、病院で生まれ資するというのは、奇妙な気がします。何でもない変化のように見えますが、あるいは深いところで、この社会の人々が持つ「死生観」に静かだが、決定的な影響を与えているようにも考えられます。▼ ぼくのもっとも古い記憶は「弟の誕生」の瞬間でした。能登半島の荒屋(あばらや)の自宅で生まれた、その傍らにぼくは座っていたという記憶だけが、その瞬間だけのものとして残っています。弟とは四歳違いです。▼ どこで生まれるかも当人にとっては大事でしょうが、どこで亡くなるかもなかなかに大切な事柄だと思う。もちろん、人生の「始まりと最後」は当人には意識がないのですから、当人には大事であるとは言えませんが、少なくとも「一人の人生」を考える上では、どうでもいいことではなさそうでだとぼくは考えている。(徒然日乗・CXVII)

◯ 2023/02/14・火 = この地区の「生ゴミ回収日」は火・木・土です。ほぼ毎回、ぼくはゴミ収集場まで、車で持参する。ある時期までは徒歩でした。約2百メートルの坂道。それが猫の数が多くなりだしてから、トイレ用猫砂の回収のために「燃やせるゴミ」の中に入れることにしたから、とても重くて、仕方なく車でということになった。だいたい、週三回、きっと「燃えるゴミ(生ゴミ)」は出すことにしている。毎回、早いときは、午前六時過ぎ、遅くとも七時前には出すようにしている。さらに月に一回、第三水曜日には「ビン・カン」の回収日です。これもペットボトルと猫缶の量が半端ではないので、前日のうちに集積場所まで持っていく。もちろん、これも車で。▼ したがって、本日は、午前中には「生ゴミ」で、午後は「ビン・カン」でした。この地に越してきた当座は、相当に溜めておいて、ゴミ処理場(約十五キロ先)に持ち込んでいた。もちろん、有料でした。午前中に少し歩く。小一時間程度。以前に何度か入った喫茶店が閉店になり、店はそのままで、寂しい雰囲気が漂っていました。▼ 先日亡くなった友人の葬儀にかみさんが出かけた。二人は同年だった。ぼくは数年前に、一、二度会っただけでした。八十歳を超えていたけれども、とても若く元気そうでした。朝起きてこなかったので、見に行ったら、布団の中で亡くなっていたという。不謹慎ですが、なかなか真似のできない「最期」という思いがしきりにします。(徒然日乗・CXVI)

◯ 2023/02/13・月 = ほぼ終日雨模様でした。買い物があるときは、大抵は開店前(九時とか十時に)に店に入ります。人混みが嫌だということと同じことですが、レジなどで並ぶのが大嫌いですから。変な習慣ですが、あまり繁盛していない店を選ぶことが多い。品物の値段がどこでもほぼ同じですから、混雑している店(大半はスーパー)でないほうが、ぼくには好都合です。というわけで、本日も猫の食料の買い出しです。猫缶と乾燥フード、それに最近は煮干しやきびなごなどの小魚を買うようにしています。値段は人間でも食べられるものですから(ときには「魚屋」で仕入れます)、猫も好んで食べますね。いろいろと値段比べをした結果、猫缶に関しては、現在はあるメーカーのものが、近所のスーパーで扱っているので、どうしてもそこへ行くことになります。(徒然日乗・CXV)
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