
月々の電力使用料金がハンパじゃない高騰ぶりを見せています。高騰の理屈はどうにでもつけられますが、本当に値上げが必要かどうか、少なくとも電気料金に関して、ぼくは大いに不信の念を持っています。どこかで触れましたが、まず、必要支出の総計を出した上で、電力料金を決めるのですから、基本的には「赤字」は起こらない。現今のように「突発的要因」が重なれば、当初設定の料金では賄えない支出が出でるので、「赤字」は当然です。面倒は大嫌いですから、簡略に言いますと、電力は地域独占企業であり、競争相手はいないに等しい。近年「新電力」が進出していきましたが、送電網は既存電力会社のものを借用するのですから、思ったほどの安い電力料金は設定されていない。
それはともかく、現政府は既存原発の運転期間を「原則四十年」、「最高六十年」とする原子力規制委員会の決定を受けて(実際は、受ける以前に決められていて)、法改正に乗り出した。(まるで陰謀論めきますが、この島社会の原発問題もまた、米国の差し金というか、一存で決められて生きたし、げんにその本質は変わらないといえます。少し長い歴史を話す必要がありますが、ここでは止めておきます)
この政府系諮問委員会や独立(偽装)委員会や審議会は、お飾りにもならないし、承認機関にもならないもので、せいぜいが「(民意を聴いたという束の間の)アリバイ証明用の委員会」というべきか。あらゆるところで、このミエミエの底の薄い「詐称委員会・審議会」が多用されている。軽くて薄い政府の命綱なんだね。その政府の眼目は「国民愚弄」に徹することです。聴いたふりをして、委員会をでっち上げ、審議会を悪用する。許せないですな。
以下に、昨日と本日の各紙のコラムを三本出しておきます。上げればキリがないくらいに関連報道はありますが、何処も似た者同士、八百長相撲にクレーム(いちゃもん)をつけるだけの、それだけが仕事と言えば言えるようなコラムです。と言って、決して無理難題をぶつけようというのではない。この程度の内容のコラムを書くだけでも、大した「お仕事」と言ってみたくなります。それぐらいに、腰が引けているのです。「お上」が怖いのだ。電力料金の値上げ反対と書いていながら、その電力会社の電気を使っている。どんな批判や非難が新聞やテレビから出ようが、痛くも痒くもないのが政府権力者です。何をしても、まったく恐れをなすことをしないで済むのですから、政治というのは、なんとお気楽な稼業かというのでしょう。新聞紙代は8%の消費是で収められています、政府の力添え、いや手加減で。

【明窓】「豊かな暮らし」と電気 高度成長期に入った1955年ごろ、豊かさの度合いを七つに分ける家庭のランク付けが話題になったそうだ。目安にされたのが、主に家電製品の保有の有無。電灯しかない家庭が一番下の第7階級。ラジオとアイロンがあると第6階級といった具合▼第5階級はトースターと電熱器、第4階級はミキサーや扇風機の有無が指標。さらに洗濯機があると第3階級。冷蔵庫を備えた家庭は第2階級で、テレビと掃除機があれば最上位だったという。電灯のみの家庭に比べ、一番上になると家電製品がいくつも増える。当然、電気代も違っていたはずだ▼今の家電製品の保有状況なら、大半の家庭が当時の最上位クラス以上。エアコンなど保有する種類も台数も増えている。当時は約1900万世帯。今はその約3倍で、世帯数と部屋数や保有台数をかけ算すれば、電気の使用量は飛躍的に伸びているだろう▼高騰する電気代の軽減策として政府は、今月検針分から電気の使用量1キロワット時当たり7円を肩代わりする。9月までは続けるようだが、大手電力7社が値上げ申請しているため、4月以降は順次、恩恵が帳消しになる恐れもあるらしい▼ただ電気がもたらす快適さや便利さを我慢するのは容易ではない。そんなタイミングで政府は原発の最大限活用に舵(かじ)を切った。「豊かな暮らし」を続けていくには原発に頼るしかないのか-ここは考えどころだ。(己)(左写真:農家の家族そろって視線を向けるのは居間に据えた白黒テレビ。洗濯機、冷蔵庫とともに家電品の「三種の神器」が神武景気に乗って普及し始めた=1956(昭和31)年9月(山陰中央新報デジタル・2023/02/17)

1955年頃、ぼくは十歳過ぎでした。自宅は間借りのバラック(荒屋)で、電気製品はなんにもなかった。やがてラジオが部屋の箪笥の上に据え付けられた程度。それでもこのラジオで、ぼくは多くのもの(文芸・演芸・歴史・民謡、その他諸々)を聞き知った。切れ切れに聞こえてくるラジオはぼくの「学校」「教室」でした。その学校(教室)は戦争を知らないで育った子どもに、戦時中の列島軍部や政府の行状を、今よりも遥かにあけすけに教えてくれた。その多くは、今でも鮮明に記憶にとどめている。毎日の「麦入りの米」は薪で焚いていた。それはぼくの仕事。洗濯も手洗いでするのが当たり前の時代だったから、貧乏とか貧困という観念はなかった。夜の十時にはきっと寝ていた。早寝早起き、健康第一。
コラム氏が書くような「豊かな暮らし」とは縁遠いものだったが、ぼくの経験は、もっとも豊かとは言えなかったが、なんの恥も外聞も感じなかった。「電気製品」と「豊かな暮らし」は、ぼくに関する限りは直結していなかった。家や学校でする以外に、ぼくには大きな意義のある「山歩き」があったし、歩き疲れて家に帰れば、十時には寝ていたのです。比較はできませんけれど、今よりは「人間」の生き方に相応していたという思いは強い。ぼくは野蛮で野生育ちの子どもだった。これより数年後に、初めて自宅を立てたが、その建築代が車(カローラ)一台分でした。記憶では六十万円だった。
【斜面】事実を無視する政治 「実際の政治は事実を無視することで成り立っている」。米思想家のヘンリー・アダムズ(1838~1918年)による鋭い批判だ。残念ながら当てはまる例は多い。原子力規制委の変節もそんな政治をまた許してしまうに違いない◆東日本大震災の過酷事故は原発政策で最も無視してはいけない事実だ。事故後に生まれた規制委は「人と環境を守る」を使命とし、高い倫理観で最高水準の安全を目指す―と高らかに理念をうたった。活動原則の最初には「独立した意思決定」を掲げる◆ところが原発回帰へかじを切る政権に歩調を合わせた。原則40年、最長60年の運転期間の延長は「政策判断だ」と自ら所管を手放す法改正を認めた。「安全側への改変ではない」と反対者が出て議論を延長した末、異例の多数決となる。政権はそれさえ待たず方針を閣議決定した◆政治の思惑の外から、事実を無視しないよう導くのが規制委の役目だ。委員は職責を理解しているのか。「じっくり議論すべきだった」と政治サイドにせかされた恨みを口にした委員もいる。それならなぜ賛成したのか。使命も理念も忘れているのでは◆きのうの国会で岸田文雄首相は「規制委で丁寧な議論がなされた」と平然と言った。委員長を替え、結論をせかし、組織の根幹まで侵した張本人が、さらに事実を無視する。日本学術会議、日銀、NHK、内閣法制局―。人事を通じて独立性を奪おうとする狡猾(こうかつ)で危険な政治が止まらない。(信濃毎日新聞デジタル・2023/02/16)

この「斜面」を再読三読していただきたいと強く思う。近年の「日本の政治」のグロテスクさと国民を愚弄する程度の激しさを、実に活写していると読めます。まず「原子力規制委員会」という名称そのものが、著しく真っ当さから外れている。安全や安心を担保するために「規制すべきは規制する」ための委員会と、愚かな国民は考えるだろうが、なんという浅慮かと、政府官僚及び、委員会委員の大半は思っているのだ。「原発は危険だ」「さまざまな杞憂を晴らさないで原発を稼働させるのは許せない」という愚民の諸々の反対や批判を政治的に「規制する」ための委員会だったのだ。腐臭が臭いだしてこないか。この委員会の委員になれば「勲章もの」とされるが、それがために人民の「いのち」を、自己顕示欲しかない政治権力者に売り渡したのです。同じ穴の貉(むじな)という。(こんなところに使われるなんて、という「貉」よ、許してほしい)
「岸田文雄首相は『規制委で丁寧な議論がなされた』と平然と言った。委員長を替え、結論をせかし、組織の根幹まで侵した張本人が、さらに事実を無視する。日本学術会議、日銀、NHK、内閣法制局―。人事を通じて独立性を奪おうとする狡猾(こうかつ)で危険な政治が止まらない」と、信毎記者は「臍を噛んでいる」のでしょうか。あとを受けて、どうして「即刻辞めろ」と書かないのでしょうか。
現総理は「傀儡」だとぼくは確信している。「私は総理の器だ」という自己認識が、もう相当にイカれている「(旧称)痴呆症」ではないですか。自分の言葉を持たず、他人が書いた文を読むが、内容は皆目理解していないし、なによりも関心がないのだ。息子を総理秘書官に任命した際、その理由は「適材適所」といった。言葉を知らないというのは、恥を知らないことと同義だと、天下に晒した。総理大臣が「狡猾で危険」な政治をしているのではない。彼は単純細胞、木偶(でく)の坊でしかない。この木偶の坊を使って歩かせる道の行きつく先は危険そのものの崖っぷちです。まだ引き返せるのではないか、もうだめなのか。彼は大学出だと言うが、冗談でしょうと言いたいね。出身大学の名を知りたいと言うまでもなく、汚職の権化「神の国総理」しかり、「親分から派閥を乗っ取り総理」はヤクザの「褒め殺し」にあった、いわくつきでした。「君、国を売り給うことなかれ」と、絶叫したいばかりの面々が、その大学を出たというのです。大学とその教育には大きな罪がありますね。大学入試も、いまなお盛んにけんでんさsれています。でも、大学へ行かないことをぼくはおすすめしたいね。賢くなり、馬鹿になりたくなければ、大学は鬼門です。「大学は終わった」は、この島社会だけに限りません。

【日報抄】自然科学の世界では、多数派の意見が正しいとは限らない。有名な例ではガリレオの地動説がそうだ。多くの人が天動説を信じる中で、動いているのは地球の方だと訴えた彼は異端審問にかけられた。現代では地動説が正しいと誰もが知っている▼20世紀後半にも、宇宙最大級の爆発現象「ガンマ線バースト」が起こる場所について、銀河系内かもっと遠くの宇宙の果てかという論争があった。学者の多数が銀河系内説を支持したが、その後の解析で宇宙の果ての方に軍配が上がった▼がん免疫療法の開発に道を開き、2018年のノーベル医学生理学賞を受けた本庶佑さんは、常に通説に立ち向かう姿勢で新たな発見を続けてきた。その背景には「科学は多数決ではない」という信念があったという▼では、この事態はどう受け止めればいいのだろう。原子力規制委員会は原発の60年を超えた運転を可能にする新制度案を多数決で決めた。山中伸介委員長ら4人が賛成したのに対し、地質学が専門の石渡明委員が反対した▼規制委は原発の安全に関わる各分野のスペシャリストが名を連ねる。意見が割れたまま重要案件を決定するのは極めて異例だ。原発の活用に転換した政府の姿勢を追認しているように見える▼石渡氏は「科学的、技術的な新知見に基づくものではない」と述べた。賛成した委員からも「せかされて議論した」という声が漏れた。政治的な思惑からは離れ、科学の視点で真理を見極めなければ規制委の存在意義が問われる。(新潟日報デジタルプラス・2023/02/16)
「有識者」というのは「有色者」と違うんですか。権力者の顔色を伺い、その場の旗色を見るに敏なる「尻軽」「無見識者」を指すのですね。どんな結果が出ようが、自分さえよければ、それが「学術経験者」の中から出てくる「有識者」、いや「有色者」なんだと言いたいね。彼ら彼女らは「知識人」ではなく、知識人を騙(かたる)る「専門家」です。あからさまに言うなら、「詐欺師」です、あえてややこしい熟語を使うなら「譎詐百端」(けっさひゃくたん)というべきです。人を裏切り、世間を騙すが、なによりもおのれの良心を偽るのです。この手の「有識者」に溢れているのが、この世間ですね。「科学は多数決ではない」というのは、そのとおり。でも政治だって、民主主義政治になればなおのこと、それは「多数決」ではないのです。政治に誠意や真実が微塵もなければ、却って、多数決は詭計を生む(売国奴の)温床になるのだし、今ぼくたちは、そのいちいちを見せつけられているのだ。

人倫に悖(もと)ることをいささかも恥としない政治家官僚の跋扈を剔抉し、お天道様が明るく輝く時代社会の曙に立つ、陳勝呉広の現れんことを、ぼくは希っている。逸材どこにでもいるものだと、歴史は教えている。(もちろん、暴力革命などではなく、長い道のりを覚悟する「革命」。それがデモクラシーなんだと言いたい。武力ではなく、言葉の正しい意味での「政治≒経世済民」の道を求めて千里の道を遠しとせず、行くのです。杖に縋(すが)ってでも、ぼくも、足手まといになろうとも、いっしょに歩きたいね)
● 陳勝・呉広の乱(ちんしょうごこうのらん)= 中国、秦(しん)の二世皇帝元年(前210)7月、陳勝(陳渉ともいう。渉は字(あざな))と呉広が、北境防備のために徴発された900人の兵卒を率いて起こした反乱。中国史上初めての農民反乱であるとともに、秦帝国滅亡の端緒となった事件として重要である。陳勝と呉広の2人は大雨のため力役の場所への到着期限に遅れたので、斬罪(ざんざい)に処せられるよりも死を覚悟して名声をあげようと兵卒たちを説得した。そのときの「王侯将相寧(おうこうしょうそういずく)んぞ種(しゅ)あらん乎(や)」ということばは、身分に関係なく力によって挙兵したこの反乱の性格をよく物語っている。陳勝は貧家の生まれの雇農であったが、民を率いて王位につき、「張楚(ちょうそ)」国を建て、部将を各地に派遣して勢力を拡大していった。当時秦の圧政に苦しんでいた人々は次々とこれに呼応した。しかし翌年12月、呉広に続いて陳勝も臣下に殺され、わずか6か月の短命の反乱政権であった。のちに項羽(こうう)、劉邦(りゅうほう)の軍が秦を滅ぼすことになる。(ニッポニカ)
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