人に歴史あり、その歴史を抹殺すると?

 【正平調】心に残る言葉を三つ、紹介する。いずれも本紙の紙面から。さて、語ったのはどなただろう◆「人形といっても、いろんなものがある。デパートで売っているような人形をつくったら、生活はしやすいだろう。でも、お金にはならなくても、難しい創作人形にかけた」◆「人形制作は、まず目から入る。人形がなにを思い、どんな形を望み、どんな着物を着たがっているかが目に現れる。つり上がった細い目は日本人の特徴だろう。ほら、平安時代から引き目鉤鼻(かぎばな)と言うじゃない」◆「人形をつくっていると、人々が感情表現を失いつつあるとよく分かる。人形ですらほとばしる感情を表現できる。生きた人間が、なぜ感情を豊かに表さないのか。考えてみる必要があるんじゃないかしら」◆お分かりだろう。89歳で亡くなった人形作家、辻村寿三郎さんである。銀髪世代にはカタカナ名「ジュサブロー」が懐かしいだろう。NHKのテレビ人形劇「新八犬伝」や「真田十勇士」で、妖しさをまとった人形群を生みだし、一気に名前が知れ渡った◆たくさんの芸者を抱える料亭育ちだ。物心がついたときには、端切れや割り箸で人形をつくっていた。今もどこかで、お気に入りの端切れに埋もれているかも。楽しいひととき、ありがとう。(神戸新聞NEXT・2023/02/16)

 

プロフィール 本名、辻村壽三郎(つじむらじゅさぶろう)人形師、着物デザイン、舞台、映画等の衣裳デザイン、演出、脚本、アートディレクター等多岐に渡り活躍。1933年11月、旧満州、錦州省朝陽に生まれる。少年時代を大陸で過ごし、終戦の1年前の昭和19年に広島に引き揚げ、広島県三次市で終戦を迎える。22歳、母の死をきっかけに上京、前進座の河原崎国太郎氏の紹介で小道具制作の会社に就職、26歳で独立、幼い頃よりの趣味であった創作人形を一生の仕事と決意、1974年NHK総合テレビ「新八犬伝」の人形美術を担当、一躍注目を浴びる。その後数々の創作人形の発表、人形芝居の上演、舞台衣裳のデザインなど、精力的な活動は人形の世界にとどまらず、総合的なアーティストとして各方面より大きな注目を集めている。2023年2月広島県三次市にて永眠。(辻村寿三郎公式ホームページ:http://www.jusaburo.net/prof.html)

 どんな人間も、ある時代、ある社会が刻んでいる歴史の中で生きている。それが人間の歴史です。時代や社会を飛び越えることはできない。そしてそれと同じことが「人に歴史あり」という表現になるのでしょう。ある人の歴史は優れているとか、ある人の歴史は汚れているというのは、一種の価値判断であり、一本の木にも歴史があるというのと同じように、善悪や是非は問わない、それが人の歴史です。「世間の評価」と一人の人間の生死は無関係ではないけれども、優劣は決められないと、ぼくは考えている。「死んだら仏」というのはこのことを指すのかもしれません。「人に歴史あり」というテレビ番組がありました。「人の世の潮騒の中に生まれて、去り行く時の流れにも消しえぬ一筋の足跡がある」と番組担当の八木治郎アナウンサーが語る。東京12チャンネル(現、テレ東)制作(1968~1981)。この番組のことはいまでもよく記憶しています。優れた番組だったからではなく、そこに登場する「著名人」の生涯が、誰とも異なる色合いを帯びて描かれ語られていたからだと思う。東京12チャンネルがテレビ東京と名称が変更されるに伴い、番組は終了した。なにか、テレ東の(堕落の)歴史が、そこにはあるように思われてきます。後発(後進国)は、先発(先進国)に追いつけ追い越せとばかり、まるで「前車の轍」だけを踏んで追いかけるのでしょうか。追いついた途端、前車よりも汚れや退廃が凄いことになっている場合が多い。「経済開発」に見る「後進」「先進」の例に告示しています。著名人でなくても「人に歴史あり」と言いたいだけです。

 人形作家、辻村寿三郎さんが死去 「新八犬伝」「真田十勇士」 NHKテレビ人形劇の「新八犬伝」や「真田十勇士」などの作品で知られる人形作家の辻村寿三郎(つじむら・じゅさぶろう)さんが5日午後11時27分、心不全のため広島県三次市の病院で死去したことが13日、分かった。89歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。葬儀は関係者で行った。  11歳で大陸から引き揚げ、広島県で終戦を迎えた。演劇を志し、前進座の河原崎国太郎を頼って上京。その後、人形制作を本格的に始めた。  NHK「みんなのうた」の人形制作を辻村ジュサブロー名で手がけた。その後、同局のテレビ人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」が大ヒット。妖気漂う独創的な作風で知られた。(以下略)(共同通信・2023/02/13)

 辻村さんの仕事に、目を開かれたのは「新八犬伝」でした。人形の醸し出す「妖艶」「人間臭さ」さとでもいう雰囲気に魅了されていた。毎回熱心に見ていたのではなかったが、辻村作の「人形」にだけは心を惹かれ続けました。辻村さんは旧満州の地に生まれ、敗戦直前に広島に帰国。やがて三次市に住む。上京後、俳優を志したこともあったが、やがて人形作りに専心。その後の活動は広く知られています。

 ぼくは月並みの一ファンでしかなく、特別に辻村さんに何かを見出したというのではありません。先日、辻村さんの訃報を知り、自ずと「人に歴史あり」というフレーズが浮かび、テレビ番組のことが偲ばれ、「どんな人間にも歴史あり」なんだということを漠然と考えた次第。素晴らしい業績や記録を残した人が亡くなり、「巨星墜つ」とか「天才滅ぶ」という大きな活字が踊るような新聞報道が、嘗てなされたし、時には今でもあるのでしょう。ぼくが言うのは、そういうことではない。誰だって、生きて死ぬということ、それこそが「歴史」なんだということを考えただけでした。「死んだら仏」「あいつは成仏した」と言われるように、誰彼なしに、生きた・死んだということを「一言にして表す」と、そういうことになるのです。勲章を得るとか、位を極めるということと、「人に歴史あり」ということは無関係です、ぼく個人にとっては。

 若いときにはどのように感じていたか、まったく見当もつかないことですが、このところ、たくさんの「有名・著名人」が他界されて、その報に接するごとに、幾ばくかの思いが過(よぎ)る。もちろん、歳をとったせいでもあるが、同じような時代に人生を生きたという、時代性・社会性を共有するという運命のもたらす感情でもあるのでしょう。そのような他者の訃報を耳にすると、ぼくはみずからの「死の準備」に入っているという気になります。それはまた、寿命というものの、曰く言い難い、不可避の現象をいかに受け入れるかということでもあるのでしょう。戦死、災害死、事故死、病死、その他、ありとあらゆる死の形態がありますし、どれがいいとか、好みだということはできず、いずれもが「寿命」「天命」「命数」「命脈」などと、この得も言われぬ「死という現象」に向き合った人間たちが残した言葉に尽きるように思う。自死もまた、自死もまた、寿命・命数ではないか、と考えている。

● 寿命【じゅみょう】=生物の生命が存続する時間の長さ。自然状態では捕食,栄養不良,病気などで死ぬため途中で死ぬことが多いが,理想的な環境条件のもとでの寿命を生理的寿命あるいは最大寿命と呼ぶ。最大寿命は老化と密接に関連した現象で,種によって決まっている。また,代謝量との相関があり,動物でも植物でも体の大きいものほど長くなる傾向がある。同種の個体群での出生後の各年齢ごとの生存個体数,死亡数などを表にしたのが生命表で,この表によって平均寿命(0歳の平均余命)などが算出される。(マイペディア)

 この与えられた生命が必然的に内包する、不可避の死に対して、さまざまな解釈や安心を求めた結果が、多くの宗教になったと考えてもいいでしょう。「生命の死」こそが宗教の源泉・母体です。その宗教自体が、この時代(に限りません)には「いのちを弄ぶ」似非宗教になっていることに、ぼくたちは無関心でいてはならない。救世主や絶対者の名において「死の強制・命令」が認められるからです。

 辻村さんの死をきっかけに、衰え激しいぼくの脳髄に、いろいろなことが浮遊してきただけの話です。しかし、ぼくの実感で、この時代や社会は「老人の存在」に寛容ではないということを、改めて痛感しているのです。老化は自然現象であり、なんの不思議もないと熟知しなければ、老人撲滅を粋がって叫ぶ横着な若輩の跋扈を許容することになります。すでにそうなっている。それに無関心であれば、あらゆる「劣化した生命」は危殆に瀕することになるのです。これにかかわる過去の「忌まわしい歴史」に学ぶことはないのでしょうか。「役立たずは抹殺してしまえ」というのは、単なる世代論ではなく、「ジェノサイド(genocide)」に通じる暴力であり、犯罪行為を想起させるもので、こんな極端な浄化思想がこの島の「テレビ界」に発現しているのですね。(参照「ホロコースト百科事典:https://encyclopedia.ushmm.org/ja)

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 <日本人と日本のメディアは、憎悪扇動がどんな恐ろしい効果をもたらすか、理解しているのか>現代ニホン主義の精神史的状況」藤崎剛人

 2023年1月11日ごろから、イェール大学アシスタント・プロフェッサーの成田悠輔氏が高齢化社会の解決のため「高齢者は集団自決すれば良い」という発言をしていたことが動画等で拡散され、SNS等で議論になっている。主に拡散されているのは2021年12月の『ABEMA Prime』の動画だが、その他YouTube番組や講演会でも複数回にわたって同様の発言をしていたことが分かっている。 

「メタファー」では済まされない 「集団自決」という言葉を使ってはいるが、とりあえず多くの場合、成田氏は「世代交代」の文脈で、この言葉を過激な「メタファー」として用いている。一方、「自決」という言葉のイメージ通り社会福祉カットの文脈でも彼はこの言葉を用いることもあり、その境界は未分化だ。何年にもわたって高齢者の「集団自決」あるいは「切腹」について執拗に語り続けているところをみると、成田氏はこの「持論」を単なるレトリックとしてではなく、ある程度は本気で提唱しているのではないかと思えてくる。『みんなの介護』インタビュー記事では、成田氏は当該発言を「言ってはいけない」としたうえで、「言ってはいけないとされていることはだいたい正しい」と述べている。/ 本人やこの発言を聞いた周囲がどこまで高齢者の「集団自決」を本気で考えているかはともかくとして、この発言を「メタファー」として安易に捉えるべきではないだろう。組織や社会の新陳代謝の問題はそれはそれで考えればよいが、一方でエイジズムと呼ばれるような年齢差別は解消するべきだ、というのが世界の流れで、主に雇用に関する差別をなくすよう、各国で立法化がなされている。「集団自決」発言はそれに逆行するだけでなく、特定の年齢層への憎悪表現ということもできるだろう。/ 少子高齢化などを要因とする日本社会の衰退化傾向が顕著になる中で、足手まとい・お荷物となりうる存在を切り捨てたいという欲求を持つ人が増えつつある。そうした状況下でこのような憎悪表現をメディアで行うことは、それを口に出して良いのだという免罪符を人々に与えることになってしまうのだ。(以下略)News Week(日本版)(https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2023/01/post-52.php)

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dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)