地震と戦争、それは「似て非」なるものか

 トルコとシリアの国境付近で大地震が発生した。昨日(十二日)現在で、死者は3万3千人を超えたとの報道。発生以来一週間過ぎても、なお生存者が救助されている。時間との闘いだと言われるが、どれほどの人々が崩壊した建物に閉じ込められているのだろうか。戦争以上に、自然災害は残酷だ。敵味方なしに襲撃するし、発生は時間も場所も(人智では今のところ把握不能だから)選ばないのだ。トルコとシリアという、これまでにもなにかと紛争や争いの種になってきた地域だ。

 数万におよぶ被害者が出ている現実に、それをよそに見て「ウクライナ戦争」が続けられている。被害者には言葉もないほどに残酷な状況であるが、これを引き起こし、長引かせている政治家や軍人は、何を思って「人殺し(殺戮)」を続けているのだろうか。自然災害発生時には、敵も味方もなく(ノーサイドで)救援や救助に奔走するのにと、どうしようもない「理不尽さ」に怒りが鎮まらないのだ。(ヘッダー写真はコロンビア大学による:https://news.columbia.edu/news/columbians-rally-support-victims-turkey-syria-earthquakes-share-insights-catastrophe)

 

 甚だ不謹慎だと我ながら感じるし、するべきではないとの誹りを受けることは必定と思いながらも、あえて出してみたいのだ。昨年の二月の「ウクライナ侵略」以来、やがて一年が経過する。ロシアの蛮行である。ぼくはどちらの味方でもないが、この「侵略」を始めたのはどちらか、そう考えれば、「戦争」を終わらせるのも、「侵略」した側にあることは当たり前ではないだろうか。時々刻々と告げられる戦争の惨禍、民間人死者の増大、これを誰も、どこの国も止められないというのはどうしてだろう。国連がどうこう言っている場合ではないのに、武器の供与がエスカレートし、いよいよ残虐な事態に向かって突き進んでいると、傍目には映るのだ。

 人間の生活を壊す、社会の営みを破壊するという点で、地震も戦争も選ぶところはないということを、上に出した二組の写真はあからさまにしている。(上二枚は今回の地震で倒壊した建物、下の二枚は攻撃で破壊されたウクライナの建物)それはどういうことを、ぼくたちに示そうとしているのか。戦争も地震も、社会の日常を一瞬に、あるいは漸次に破滅に追い込む点では共通している。しかし、自然災害は、予めの「防災」で、被害や犠牲を少なくすることは可能だし、それをやることが国の役目(義務)であろう。それに反して「戦争」は、起こさないという判断はできるのだ。戦争を始めないという賢明な知恵さえあれば。もし為政者がその知恵をいささかも持ち合わせていないなら、側近(国民)が万難を排して、かかる権力者を排除することも必要だし、ときには、人間存在の証明のためにも必須の義務となろう。  

 「地震」による社会生活の破壊現象(運動)は、一年も続かない。「戦争」は、どちらかが負けを認めなければ、終わるときがない。今回の「ウクライナ侵略」に関しては、非はロシア(P)にある。侵略に対して手を拱いていれば、ウクライナは地上から消滅するのだ。この「狂気の P 」を羽交いに締めする存在(正義)はどこにも(い)ないのだろうか。地震と戦争~ この二つの現象は果たして「似て非なるもの」だろうか。たしかに一方は「自然災害」と言うし、他方は「国と国の戦い」だという。この二つを並べて、「自然と作為」と、その昔なら言ったであろう。でも、そんなに明確に区別できるのだろうか。どちらにも「自然の衝撃(エネルギー)」が働いていないだろうか。地震は言うまでもなく、自然の衝動の発現でありながら、一面では「人為」「作為」がよりいっそう被害を凄惨で深刻なものにしていると指摘できるるのだ。戦争もまた、覇権を求める人間の「衝動」というエネルギーだし、それは自然現象だとも言えなくはない。人間が存在しなければ、そこには「災害」も「戦争」もないのだということを考えてみたかったのだが、別の機会に譲る。ロシアの「P」は「Treib・ Impuls 」そのものではないか。だから、それは仕方がないというのではない。自然に対する作為は「文化」だとぼくは考えているものであり、それを「ウクライナ侵略」の場合において深く考察してみたいのだ。

 (救援の手を差し伸べている幾つかの団体や組織があります。ぼくも微力で恥ずかしいが、一、二の団体を介して支援の気持ちをと、寄付をしました)

トルコとシリアの地震 トルコとシリアに影響を与えた壊滅的な地震の後、救援と復興を提供する高評価の慈善団体。(Earthquakes in Turkey and Syria Highly rated charities providing relief and recovery in the wake of the devastating earthquakes affecting Turkey and Syria.)(https://www.charitynavigator.org/discover-charities/where-to-give/earthquakes-turkey-syria/)

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徒膳日乗( CVIII ~ CXIV )

◯ 2023/02/12・日 = ニュースでは3月上旬とか下旬、あるいは4月上旬並というような「陽気」に満たされた天気です。まさに陽気に誘われて歩き出す。歩きなれた田んぼ道です。そろそろ「田起こし」の時季かなと思って見ると、所々で手つかずのものもあるけれど、半分以上は粗っぽく土を掘り起こしてありました。もう一ヶ月ほどもすると代掻きが始まり、そして田植えです。一体、この島ではどれくらいの期間にわたり、この稲作農耕を続けてきたのか。それを思うと、自分は弥生人の末裔なのだという微かな震えが来そうに感じてしまう。土地から離れない耕作・栽培、文字通り、それはカルチャー(culture)でした。栽培・耕作を表した、この語は長く広く各地域で用いられてきた。後年、文化とは(生活様式)などという定義らしいものが作られたが、自己流に言うなら、「自然への働きかけ」です。人間もまた、紛れもない「自然物」だとするなら、大なり小なり、それへの働きかけ(教育)も立派な文化だということになる。若い頃から、ぼくは「教育は文化だ」といい続けてきました。共棲や管理とはおよそ縁遠い営みなんだ、と。(徒然日乗・CXIV)

◯ 2023/02/11・土 = 午前中に猫を引き取りに。昨日午後に避妊手術をした子です。これで二匹が終わりました。連休や医師の都合等で、しばらく間隔をおいて再会。残り二匹の避妊手術は16、17日の予定です。その後に、四匹の♂オスの去勢手術の予定。昨日もそうでしたが、たまたま病院で出会った人たちが連れている多くの犬や猫たちが、「保護された」ものだったということを聞いて、もっとこの輪が広がるといいと痛感した。この社会の(今も昔も)大きな問題の首位は「人間関係」にあるという指摘は多くの人が認めるもので、非常に脆い関係に、自らの人生の重みをかけている姿が浮かび上がります。人間と人間の関係がなければ、生活が成り立たないという部分はあるけれど、それ以上に大事なのは、その「人間関係」以外にも目を向けることが大事だということだ。ぼくは、しばしば多くの人に、身近に犬や猫がいると、随分生活の潤いが違うと話してきた。人間関係によって生み出された緊張・ストレスを開放してくれるのは、人間同士よりも他の動物との付き合いの中で、ではないか。ペットではなく、仲間として一緒に生活するのだ。もちろん、花や植物、昆虫など、人間以外の「連れ合い」には事欠かないのだ。(2023/02/12・CXIII)

◯ 2023/02/10・金= 昨日の続き。二番目の避妊手術のために午前十時に病院へ。点滴等の処置をして入院。昨日手術した猫の退院。これまでで何匹目になるだろうか。半世紀ほども、今で言う「保護猫」との付き合いをしてきたが、病気や怪我は言うまでもなく、避妊・去勢の手術を施した猫の数も相当数に上る。猫ばかりが生命を粗末にされているのではなく、そのような猫(を始めとする動物)が絶え間なく生み出される社会には、(いのちそのもの)への侮辱があるというべきです。猫の手術などに付き合うたびに、このことを深く感じる。家に連れて帰ったが、まだ麻酔が冷めていないために、弱々しく痛々しい。(猫にはあいにく)雨模様なので、外に飛び出す心配は無い。約一週間で抜糸という。(徒然日乗・CXII)

◯ 2023/02/09・木= 生後六ヶ月過ぎた子猫の避妊手術のために病院に行く。八つ子の半分が♀なので、一日一匹ずつ手術をする予定。休業日なども入っているため、今月いっぱいかかりそう。これが無事に済めば、差し当たっては、これ以上猫の家族は増えることはないはず、そう願っている。(徒然日乗・CXI)

◯ 2023/02/08・水= 本日は再度、近所(約十㌔先)のスーパーに猫の食料を買い出しに。数の暴力というのか、とにかくよく食べる、びっくりするほど成長が早い。喜んでばかりもいられない。今朝早く、庭先に他所の猫が入り込んでいたので、急いでガラス戸を閉めた。分厚いガラスの入っている戸で、はずみがついて手を挟まれた。まさか骨折はしていないだろうけれども、薬指から出血し、痛みを覚えた。そのために湿布薬も購入した。えらく高価な買い物になった。さらに、猫のトイレの砂を入れるために、使い捨ての袋、これもいつも使っているものを買うことになった。あれこれ、びっくりするほど細かいものを買うハメになる。ほとんど毎日のように買い物にでかけている。(徒然日乗・CX)

◯ 2023/02/07・火= 猫の食料を買い出しに出かけたら、「店卸のために、本日休業」と張り出されていた。たしかに「店卸」の予告を見た記憶があったが、本日だとは気が付かなかった。頓馬なことでした。今どき「店卸」などという古風な商の習慣があるとは珍しいと、自分の勘違いにも腹が立たなかった。それにしても、記憶力の衰えというものは防ぎようもないものと、少しばかりは恐ろしさに震えている。 その足で、灯油を買うために、いつものGSに。昨年よりも値上がりしていて、十八㍑あたり約二千円。昨年末から、どれくらいの灯油を買ったことか。レシートは取ってあるので、計算はできるが、ここでも少しばかり怖くなってくる。巷間、電気代が月額十万円超などという話を聞くが、拙宅でも相当な金額になる。たくさんの猫が一部屋に集まって寝てくれないので、仕方がないと諦めている。(徒然日乗・CIX)

◯ 2023/02/06・月いわゆる「社会問題」について漠然と思いを巡らしている。要は、これは問題だと、誰かが声を上げれば、少なくともその問題性が認知されるのだから、誰かにとって黙って感化できないと感じたり訴えたくなれば、それに対して声を上げる必要がある。今回の「同性婚」問題も、半世紀前なら、(当事者以外)誰も関心を持たなかっただろうし、そもそも、そんな問題は社会には存在しないと「蓋」を被せられていたと思う。しかし、今となれば無視することも、蓋をすることもできないほど、世界的に問題の本質や内容が明らかにされたのである。社会の傾向として、「夫婦別姓」の認否も、LGBTQの是非も、あくまでも個人の「権利」として考えなければならないという段階に来ていると思う。政治家や官僚たちが、それを個人の「好き嫌い」のレベルで捉えているから、事態は、当事者にも政治行政の側にも悪化するばかりのように見るのである。この先はどうなるか。少なくとも法的には個人の権利として認める他ないと思う。(徒然日乗・CVIII)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)