【日報抄】目は見えず、耳も聞こえず。最近は嗅覚もかなり怪しくなってきた。わが家の同居犬である。動物病院に掲示してあった人間の年齢への換算表によると、とうに100歳を超えている。単純に人間と比べられないのかもしれないが、かなりの高齢であることは間違いない▼ペットの世界でも高齢化が進んだと言われて久しい。先日の本紙には、老犬の介助グッズについての記事があった。うまく歩けなくなった犬の散歩を助けるハーネスなどを紹介していた▼高齢のわが相棒は食欲が旺盛で散歩にも出られるが、後ろ足が徐々に弱ってきた。視覚や嗅覚が衰えたせいもあってか、少しの段差を乗り越えるのも一苦労だ。近いうちに介助用品のお世話になるかもしれない▼史上最高齢の犬は30歳であるという。ポルトガルで暮らす雄犬がギネス認定された。写真を見ると、大型の部類に入る犬のようだ。一般に大型犬は小型犬に比べて短命だというから、桁違いのご長寿犬といえそうだ▼ペットも人も高齢化している昨今だが、犬や猫を飼っている高齢者は飼っていない人に比べて介護費が半額に抑えられているという研究結果が発表された。世話のために責任感を持ち、規則正しい生活になるのが活力につながるらしい▼わが家の犬も、飼い主の健康維持に貢献してくれているのだろうか。そうだとすれば、ずいぶんと飼い主孝行をしてくれているではないか。この先、犬に介助や介護が必要になったとしても、喜んでお世話させてもらわねば。(新潟日報・2023/02/12)

九時半過ぎから、随分久しぶりに歩いてきました、というほどのことではありません。それだけこのところ、まったく家に閉じこもっていたという証拠でもあります。約七十分程、いつもどおりのコースをゆっくりとたどりました。あちこちの田んぼでは「土起こし」が始まりかけていました。昨年の田植え頃はしきりに歩きましたから、もう、そんな時期かと驚いている。田んぼ道を歩くのは楽しみでもありますが、場所によっては、昨年までは稲を植えていたのが、田起こしもされないままで放置されていたりすると、「減反政策」の名残りかと思って、がっかりしたり、こんなに放棄地が増えていいのだろうかと心配になります。いろいろと面倒な手続きがあるのでしょうが、米余りが続くなら、麦やその他の穀類を植えたらと、余計なことを考えてしまう。食糧自給率が極端に低いことは、決して褒められたことではなく、生死の決定権は外国にあるという、かかる状況から抜け出る算段が必要ではないか。七割近くの食料を他国に依存しながら、国防だの防衛だのと騒いでいるのは、なんのお祭りかと甚だ訝しくなるのです。

それはともかく、人間とともに、犬や猫などの「ペット」も長生きだという主題について、駄文を綴ろうとしていました。「早起きは三文の徳」といいます。徳は得でもあるということ、それだけの意味ですね。今流の「時給」論で言うなら、単位あたりの報酬が同じなら長く働けばそれだけ多くの収入が得られるということです。朝早く起きて働けば、それだけ「得」をする。そんなことかと思われますが、早起きをするためには早寝が必要だし、きっちり朝ごはんを食べて、元気に働けば、それだけ健康にもなるという、そういう面でも「徳」に恵まれるのでしょう。
そんなにうまくいくかどうか怪しいものですが、こんな「ことわざ」めいたものが残されているということは、それだけ、世間には「宵っ張りの朝寝坊(ほとんどは百姓・農家や漁業ではないという意味)」が多いということの証明でもあるようです。いずれにしても、これと同じような意味合いで「長生きは三両の得」と言えるかと訊かれれば、「それはどうかな」という実感がこもった反応が出てきそうになります。むしろ、長生きは「得より損」と言えませんか。よほどの人や境遇でないと、ろくなことになりません。(右は日経新聞・2022/12/23)
「人生百年時代」と、まるでそれが目出度いことのように言いふらしたのは誰だったか。実際は「いつまで行きているつもりか」という軽侮の誹(そし)りに出会うばかりの「長命・長寿時代」だと、ぼくは考えているし、実感もしている。政府の予算案を見ると、いつだって「社会保障」関係予算の突出ぶりが続いていますし、如何にもそれが軛(くびき)となって、本来実施しようとする計画ができないのだと、「老人医療費」「国民年金」などが槍玉に上がるのでが日常の嫌な風景です。
まさしく、「少子高齢化」が早い段階から目に見えていたにも関わらず、今頃になって「高齢化」は国家財政の危機をもたらすなどという「あらぬ嫌疑」をかけて「高齢者イジメ」が社会内で深く静かに、いや浅く大騒ぎで遂行されているのです。言いたいことただひとつ。

「長生きは辛いよ」ということです。「健康長寿」とかなんとかいいつつも、「不健康長寿」を忌避・排除するが如き風潮があからさまではないでしょうか。長く生きるということは、どこかしらに故障(病気)が生まれるという意味でしょう。物忘れが「認知症」などという症例名をつけられ、もうお終いの人生だと「烙印」を押す。認知機能が衰えることを「老齢化」というのに、如何にもそれは病気なのだから「介護」の対象だとするのです。
介護保険が始まって三十年も経つでしょうか。この保険が法案化される段階では、こんなに「介護保険料」が高額になるとは考えられなかった。老人医療費もそうです。つまり、過剰介護であり、過剰診療であるという側面に「大鉈を振るう」作業をみすみす見逃しては大騒ぎをするのです。この点を問題にすると際限がないほど面倒になりますので、ここで中止。参考までに言っておくと、介護保険開始時の保険料は月額2千円でした。それが今、ぼくは後期高齢者ですが、なんと十倍以上になっています。(現在、各国で、ワクチン接種済みの人と未接種の人では、死亡率が未接種のほうが高いというデータがではじめています。(ワクチン」を巡る大騒動は何だったんですかね、薬を飲むより飲まないほうが治る率が高いとなると、いったい、医療とはどういうことになるのですか)
つい先日、かみさんの親友が亡くなった。八十四歳。年齡はともかく、朝、なかなか起きてこないので息子さんが見に行くと、すでに亡くなっていたという。これを「見事な最期」というのかどうかわかりませんが、願わしい寿命の収め方だと思う。自宅で生まれ、自宅で亡くなる。何とも自然、詳しくは知りませんが、彼女は病気が悪化してなくなったのではなさそうです。年齡の長短はありますよ、でもそれを「寿命」と見れば、まさに「天寿をまっとうする」というのは願わしい生き方(死に方)ではないか、ぼくはそう考えている。数年前に、二度ばかりお目にかかったことがあります。心身ともに健康そうでした。

今日、「寿命」という考えがどれほど理解されているかわからない。しかし、前もって定められた、人生の長さと見れば、それをまっとうすることはさいわいだともいえます。「生命の存続する期間。特に、あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さ。命数」(デジタル大辞泉)天寿といい、天命とも言うように、人智の及ばない力によって、予め差配されている「命数」というものがあるという思想です。命数が尽きるとか、寿命が尽きるというのは、「生と死」という人生の発端と終末は、人間の分際ではいかんともしがたいということでしょう。それを「如何ともしよう」というのが、介護であり、医療の中核にある思想(教条)ではないでしょうか。
「ペットも人も高齢化している昨今だが、犬や猫を飼っている高齢者は飼っていない人に比べて介護費が半額に抑えられているという研究結果が発表された。世話のために責任感を持ち、規則正しい生活になるのが活力につながるらしい」というコラム氏の指摘は、もっと受け入れられていいのではないでしょうか。認知症や老人病を防止したり、遅らせたりする効果の点でも、動物との共棲は大きな意味を持っていると言いたいのです。ぼくたちは、この社会における望ましい「人間関係」を渇望し、却って、その「人間関係」に、多くの人は苦しめられる。若い人に限らず、自らの人生の幸不幸は、他人との「人間関係」の具合によるとされます。その人間関係も、よく見れば、人間と人間という「未知(不定)数」同士です。だから、どんなに上手く行っていたとしても、時には交流・友情に大きな齟齬をきたすことはいくらでもある。ぼくは結婚して五十年です。かみさんを熟知しているつもりでしたが、年々歳々、「未知の部分」が顕現…露出します。それ故に、文字通り「未知との遭遇」の繰り返し。この人はこういう人、そのような受け止め方はしていますが、細部においては「謎」だらけです。その未知の部分に出くわし、調和を失って日常性が破綻する。その「未知」であり「謎」の本体は、少し離れた自分の部屋で、昼食の「握り寿司」を食べている(午後1時過ぎ)。

かみさんとの間で、こんなことをどれだけ繰り返してきたことか。ストレスが蓄積され、疲労も溜まる。そんな時に「ぽち」や「たま」がいてくれれば、どれだけ救われるか、自慢じゃないけれど、実感そのものですよ。犬や猫にしても、仲間同士では飽き足りない部分があり、その埋め合わせに「人間」がいるとわかれば、自分の生き方が、さらに開かれるんじゃないですか。あるいは猫や犬であることがどれほど幸せか、人間(関係)の惨めさを見て、深く悟ると思う。コラム氏にも見て取れますが、高齢化した「同居犬」に対する、優しい優越感、これを抱くことができるだけでも、犬や猫と同居することは大事でしょうね、人間にとっては。高齢の人間は「犬・猫」の世話をして、役に立っているのだと手応えを感じるからこそ、元気で生きるということに張り合いを持つのでしょう。猫や犬は、どう思っているか、今度ゆっくりと聞いてみたいな。(もっとも、拙宅みたいに、猫に乗っ取られてしまっては、どうにもならない。ぼくやかみさんは配膳係であり、トイレ掃除係であり、食料調達人でしかない)
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*余談 「介護保険」「老人介護」などという言葉をぼくは好まないし、使うことをしないできました。「世話」といういい表現があるではないかと思っている。「年寄りの世話をする 子どもの面倒をみる」という、両方に共通する付き合い方は「Take care of the elderly Take care of children」です。「世話をする」という当たり前の感情に基づく「注意深い関わり」を、「世話(care)」という語が言い当てているようにぼくには思われる。「介護」とか「介助」という言葉よりも、もっと「近づいた付き合い方」を示しているのではないかと考えたりしている。多様な使い方がされますが、要は「面倒をみること。尽力すること」(デジタル大辞泉)です。ついでに言うべきではないでしょうけれども、一言。「老人ホーム」という名称。「人間の家」「人が住んでいる家」とどうして呼ばないんでしょうかか。「老人ホーム」は「施設」だと言うそうだが、何のための施設ですか。老人しかいない施設なんかではなく、老人も中年も若者もいる「住宅」ということがどうしてできないのか。(「天邪鬼・へそ曲がり」ですかな)(「施設」でもなんでもいいけれど、虐待や暴力は根絶していほしいね)
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