氏より育ちか 批判を拒絶する体質

 政治政党としての「共産党」は嫌いではない。そんなに好きでもない。天秤計りで言うなら、針が、一グラムほど「嫌いではい」に触れるというところか。京都の共産党員が「委員長公選制」を主張して「党から除名」処分を受けた。よくわからないが、党紀違反に当たり、党の問題を外部に出したというのがその理由。滑稽というか、可笑しいね。まさか、地下組織でもあるまいに。現委員長は在職二十年。不思議に思うのは、嘗ての党勢は消滅しており、いっかな国民の支持率が上らないままで、委員長在職何十年というのは、ぼくには、志位ではなく、奇異に映る。つまり、共産党は「何より現状維持」派であり「正真正銘の保守」党、いやもっと率直に言えば、「長老支配」である、ということにならないか。▼前F委員長が健在の頃、毎年ぼくのところへ、委員長のメッセージが届いていた。ぼくは党員ではなかったが、選挙ではほとんど毎回のように共産党候補に入れていたし、大学時代の先輩教員が共産党の講師団の一員をしており、彼が退職する時、ぼくに「組織(昔風に言うなら「細胞」)の代表をしてくれ」と、とんでもない依頼をされたこともあったけれど、ぼくは共産党以外の政党には魅力を感じなかったのは事実だが、無条件に深入りするのはぼくの姿勢に反したのです。先輩教授の依頼を、もちろん、ぼくは引き受けなかった。▼ 個人の心情として、ぼくは組織に属することは好まなかったからだ。(この先輩教授は高名な共産党シンパだった、彼がぼくの名前を党に伝えていたらしい)

「除名処分」を受けたM氏の(日本記者クラブにおける)講演を聴いたが、しごくまっとうな、組織人としても、見ごとな感覚を持っている人だと、ぼくには思われました。当然組織内には、これを観葉にも許容する柔軟性があれば、党は現状に停滞するようなことにはならなかった。だから、卑見としてはどう考えても、当幹部の判断は不当な過誤であり、大時代的な振る舞いだと強く感じたね。逆に、党員の活動の自由度をあまりにも認めすぎるなら、組織の質は変わらざるをえないのは言うまでもない。党の在り様を現実に合わせるのか、その反対か、選択肢は、しかしまず残されていないようです。(余談です。前委員長の父親の上田庄三郎氏は好きだったし、彼の仕事(土佐における教師時代と上京後の教育批評家の仕事ぶり)を、ぼくは高く評価していた)▼ 結党以来百年も経つと、あちこちに「澱(おり)」や「淀(よど)みができる。霞を食っているのではないから、当然だと思う。ここらで、気分一新「女性代表(委員長)」が出ないものか。候補者は豊富だと見えるし、同僚議員に「パワハラまがい」の狼藉を働くぼんくら幹部に名を成さしめていていいのか、余計なことだが、このことを強く感じる。断るまでもなく、ぼくはいかなる政党にも属していない、一人のノンポリ、高齢化した孤児でしかない。

 共産・志位氏、党員除名の妥当性をあらためて主張 朝日新聞社説は「あまりに不見識」 共産党は6日、志位和夫委員長の長期在任を批判し、党首公選制導入を求めた党員で元党職員の松竹伸幸氏(68)について、言動を「重大な規律違反」として除名処分にしたと発表した。松竹氏は同日、日本記者クラブでの会見で「党員には憲法が保障する表現の自由が許されていない」と非難し、処分を不服として党側に再審査を求める意向を示した。/ 松竹氏は1月、党運営の透明化を訴える著書を出版。志位氏の長期在任を「国民の常識からかけ離れている」と公言するなどしていた。/ 松竹氏は会見で、分派活動との除名理由に「こじつけに過ぎない」と反論。「処分が覆らなければ、党は衰退の道をたどる」と指摘した。(共同通信・2023/02/06)

 「除名処分は異常」共産の党首公選求めた松竹伸幸氏、京都の地区委員会の処分に反論 共産党トップの委員長選出を巡り党員投票による党首公選制の導入を主張している現役党員の松竹伸幸氏(68)について、所属する地区委員会が党規約で最も重い「除名」処分としたことを受け、松竹氏が6日、東京都内の日本記者クラブで会見し「除名処分は過去の歴史からも異常。党の改革がますます必要だ」と反論した。/ 松竹氏は共産党政策委員会の安保外交部長などを歴任し、かもがわ出版(京都市上京区)編集主幹を務める。/ 京都府委員会南地区委員会に所属していた1月に松竹氏は著書「シン・日本共産党宣言」(文春新書)を出版。同月19日、東京都内で記者会見を開き、党トップである志位委員長の在任期間が20年以上であることを「国民の常識からかけ離れている」と批判し、党員投票による党首公選制を導入するよう訴えた。これに対し地区委員会は2月5日、除名処分を決定。京都府委員会が処分を最終調整している。/ 松竹氏はこの日の記者会見で、除名について「分派はこじつけにしかすぎない。ただ本を出すことが分派活動なら、憲法の言論や表現の自由が党員には許されないも等しい」と訴えた。/ 共産党機関紙「しんぶん赤旗」は21日付で、藤田健編集局次長名の論説で「『党の内部問題は、党内で解決する』という党の規約を踏み破るもの」などとして松竹氏の言動を問題視した。(松竹氏講演・日本記者クラブ:https://www.youtube.com/watch?v=nOYb3w7zSFo&ab_channel=jnpc

 花も嵐も踏み越えて、日本共産党は百年党になった(1922年創立)。だから「老舗」「名門」であり、やっぱ凄いとか、「やったあ」というのではありません。この百年の間には「功罪」相拮抗するか、いや罪の方がはるかに勝っているという気もするのです。その共産党が敗戦後も八十年近く経過するうちに、ついには焼きが回ったというか、本性がむき出しになったというべきか。「生まれ本性」ついに違わずと言ったらどうでしょう。「昔の名前で出ています」とクラブのママみたいなことを宣っている間に、党は歴史的存在になりつつあったのです。「昔の…」で出てこられて、御年八十というのも悪くはないかもしれぬが、客は寄り付かないね。

 この駄文集録にも何度か、島社会には自民党を含めた与党(保守党)と共産党しか存在しないと言ってきました。この志位委員長の「居直り」「居座り」会見を聴いていると、独断専行、実に「独善的(self ritghteous stance)」で、あいも変わらず、この党も党員もついに、「保守共産党」と看板を変えたのかと思わざるを得ません。あるいは、かくいうぼくも発言を訂正しなければならないのかもしれぬ、「共産党は心底保守でござった」と。なかなかに矛盾撞着しているが、「革新保守」「伝統革新」というべきなのかもしれません。

 生まれも育ちも「共産党」という人はいざしらず、議会制民主主義という「建前」を唱っている政治形態において、議席数が嘗ての三分の一、その希少な議席数に甘んじてか、誇りを持ってか、それを受け入れるという姿勢は、まったく古典的保守派だと、「皆様のNHK」ならぬ「国民政党であるKST」と看板替えをした方がいいと、ぼくは愕然としているのだ。(言いたいことはたくさんありますが、「共産党よ、お前もか」と、伝統・十八番(おはこ)のゆるぎもない「民主集中制」の危うさ・怪しさを痛感させられた事件ではありました。さて、この先、どう転ぶか。右見て、左見て、上見て、下見て、首が疲れたという次第です)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)