【談話室】▼▽「鬼平犯科帳」の作家池波正太郎さんに「男の作法」と題する随筆集がある。豊富な人生経験を基に、生きていく上での常識や素養を語っているロングセラーだ。食通で知られた筆者だけに食べ物に関する助言が多い。▼▽「鮨(すし)屋へ行ったときはシャリだなんて言わないで普通に『ゴハン』と言えばいいんですよ」。要は“通”ぶらないこと。また刺し身はその上にわさびをちょっとのせて醤油(しょうゆ)をちょっとつけて食べればいい。そうしないとわさびの香りが抜け醤油も濁って新鮮でなくなる-と。▼▽粋な食べ方や作法は格好いいが、こちらはいただけない。非常識な迷惑行為が動画で拡散され問題となっている。他の客が注文したすしにレーン上で勝手にわさびをのせる。卓上の醤油差しの口をぺろり。自分が使ったつまようじを容器に戻し交ぜる。あぜんとさせられる。▼▽消費者は不快だし、客離れで経営への影響が懸念される店側はたまったものでない。店内に監視カメラを設置し“抑止力”を強めるなど対策に追われる。損害賠償の請求もあり得るだけに、幼稚な行為の代償はあまりにも大きい。常識と自制心を持った人間になってほしい。(山形新聞・2023/02/07)

● 池波正太郎(いけなみしょうたろう)(1923―1990)= 小説家、戯曲家。東京・浅草生まれ。下谷(したや)区(現、台東(たいとう)区北部)西町小学校卒業後、株屋に勤め、第二次世界大戦後、都庁に勤務するかたわら新国劇のために、『鈍牛』『檻(おり)の中』『渡辺崋山(かざん)』『剣豪画家』などの戯曲を執筆。のち、長谷川伸(しん)に師事。1960年(昭和35)『錯乱』で直木賞を受賞。1977年には、『鬼平(おにへい)犯科帳』(1967~1989)、『剣客商売』(1972~1989)、『仕掛人・藤枝梅安』(1972~1986)などの連作を中心とした作家活動に対して吉川英治文学賞が贈られた。『真田騒動――恩田木工(おんだもく)』(1956)、『錯乱』(1960)、『真田(さなだ)太平記』(1974~1983)など、真田一族への関心を示す作品もあるが、浅草に生まれ育った庶民感覚と戯曲で鍛えた会話の妙味を生かした世話物の短編集『おせん』(1978)に真骨頂がある。1988年、菊池寛賞を受賞。没後、『完本 池波正太郎大成』(全30巻・別巻1)が刊行された。(ニッポニカ)

もう三十年近くになるでしょうか。担当していた「演習」の学生が話したことがとても気になった。彼はアルバイトで、都内目白にある有名なホテル「TZS」のパーティ係かなんかの手伝いをしていた。「先生、あそこの『野菜サラダ』は食べないほうがいいですよ」という。滅多に行かないところだったから、つい聞き逃しそうになり、「捨てたものを洗って、再び盛り付けて出しているから」というところで眠気が冷めたのである。以来、そこには娘の結婚式や、卒業生が開いてくれた、自身の退職記念の会を含めて、数回言ったことになるが、つねに「野菜サラダ…」を思い出していた。ぼくの知り合い(先輩)に高級志向(趣味)の主(医者だ多かった)がいて、しばしば、どこそこの「天ぷらが美味い」、どのホテルの「ステーキは最高」などと聞かされていた。ぼくも、閏年のようで何年かに一回、誰かに連れられて、都内の高級と言われるホテルのレストランで食事を御馳走になることはあったが、決して高いからというだけではなく、ここは「オイラの趣味には合わないな」という姿勢は変わらなかった。表向きは「高級」で、裏側は「世間並み以下」だという偏見が拭えなかったのです。
庶民(学生)の街そのもののTBBで、友人(生物学者)の行きつけの呑み屋(スナックというのかしら)に何度か誘われたことがあります。閉店になり、一生に何処かでメシでも食べようということになり、店の経営者や雇いの女性もいっしょに行こうという話になった。店のママが「ちょっと待ってね。片付けるから」と言って、水割り用の「天然水のボトル」を逆さまにして余った水を捨ててから、「見ないでね」とかなんとか言って、水道水を満杯にして「冷蔵庫」に入れたのです。照れくさそうに、「毎日やっているのよ」「営業秘密なんです」とか言っていた。そんな店は、とっくに潰れたろうが。

街中の寿司屋に入るようになったのはいつ頃からだったか。もちろん、給料取りになってからだったが、そんなにおいそれとは通えなかった。品書きもなければ、値段もわからない店が多かったと思う。一軒の店に、足繁く通うようになたのは四十すぎから。ほとんど毎日のように出かけた。でも、寿司屋では酒ばかり飲んで、寿司を食わない客は「上客」ではなかったらしい。ぼくは「握り」はまず食わない。刺し身を「肴」に、もっぱら「左党」だった(「左党」とは左手、つまりは「鑿(のみを持つ)手、呑み手)。長っ尻の寿司食わずは嫌われたそうです。池波さんはどのように言っていたか。「野暮」とか「無粋」と言ったに違いない。恥ずかしい振る舞いなんですね。寿司屋に酒を飲みに行くやつがあるかって、ね。(ぼくの経験した限りでも、まだまだ「美しくない振る舞い」が主客で演じられていたのです。まさに「知らぬが仏」というのでしょうか。「蛇の道は蛇」でもあるでしょう。
池波さんは小学校卒で、日本橋だったかの株仲買人に奉公に出た。母親に芝居見物に連れられ、よく寿司屋にも一緒したそうです。その日の一番うまい魚(ネタ)で飲んで、ゆっくりと食べることが母の、最高唯一の趣味(贅沢)だった。それを池波少年は学んだろうし、奉公先の先輩たちにもたっぷりと「男の作法」を学び、薫陶を受けたはずです。池波小説には「手作り料理」が満載されています。ぼくは、そんなところはあまり熱心には読まなかったが、秋山小兵衛やなんかの何気ないセリフや振る舞いには、ある種の「美」を感じたものでした。でも、それは小説の中だけの話、現実には、明治に入ると「男の作法」もぞんざいになっていくのは仕方がなかった、だから池波さんは小説を書いた。

回転寿司には何度か、それもごく初期に行ったきり、その後は行かないことにしています。理由は簡単、美味しくないから、です。この山の中に越して、週一でかみさんと寿司屋に出かけていた。天津小湊出身の経営者の店です。毎日いい魚があるということだった。それも、コロナ禍で、この三年間は足が遠のいている。回転寿司について、このところの店における「(心ない悪)ふざけ」に関しては何もいうことはありません。バカにつける薬はないし、馬鹿は死ななきゃ治らないという、それに尽きますね。昔も、当然のこと、不届き者がいましたが、今の時代と決定的に違うのは、スマホを使った「動画」に誘惑される馬鹿の時代ではなかったということです。なぜ動画にして公開するのか、「馬鹿さ比べ」か、「馬鹿のコンクール」をしているつもりなんでしょう。時代が悪いのではなく、やるほうが悪いに決まっています。コンビニで万引きが絶えないのは、盗るほうが悪いのではなく、取られやすい店の陳列の仕方が悪いと言う人もいました。最悪。アイスボックスにバイトの店員がまるごと入って、動画をネットに出す、これも一時はやりました。今回は「客」だというだけの違い。バイトは店側、そのバイトのようなノータリンが回転寿司の「客」になっただけ。どこから手を付けますか。かかる「悪ふざけ」を見るものかと念じていたら、なんと二、三日前、YouTubeのショート版とかで「(一瞬だが、)見てしまった」が後の祭り、ケッタクソ(卦体糞)悪かったね。

何年か前、日本料理の名店だとかいうところで、食べ残しを次の客に出していた事件がありました。いま、その名店(老舗とかいうらしい)は倒産したという。料理屋ではなく、詐欺商売だったのだから、致し方ない。内部告発したら、「日本料理」のセールスポイントは使い回しの「再生料理」ということになりかねないですね。「再生回数」を稼ぐんですね。客が悪いから、というのも正しいし、店も悪いというのも間違いではない。「安かろう、悪かろう」の横行が行き着くとろくなことにはならないという話だし、「高かろう、不味かろう」が横行すれば、いずれ倒産の憂き目を見る。
あらゆる段階で「嘘や誤魔化し」が罷り通り、税金を懐に入れるために会社があるような経済社会を作ってきた、ぼくたち一人ひとりの「不始末」の行き着く先だったんじゃないですか。「いまだけ」「かねだけ」「じぶんだけ」という奈良時代以来の「三だけ新興宗教」は、世の荒波に鍛えられて幾星霜、実にしぶとく人心を蝕んでいるんですね。「劣島、いまなお墜落中」であります。
「Polite」 という単語があります。それには多様な解説が成り立ちますね。「思いやりのある,礼儀正しい,行儀のよい」「儀礼的な,社交辞令の,おざなりの」「洗練された,教養のある,上品な;〈芸術などが〉優雅[高雅,高尚]な」(プログレッシブ英和中辞典)いつだったか、仏語の本を読んでいて、この単語が出てきた。「ていねいな」「礼儀ただしい」という意味で用いられていた箇所だったが、それには「Politics」と同義だという説明が語られていました。

Poloticとは「思慮分別のある、 ((古))〈人が〉賢明な,思慮深い;ずるい,抜け目のない 〈計画・応答などが〉便宜的な,時宜を得た;妥当[適切]な 政治上の」(同上)などなど。大まかに言うと、「政治」とは「礼儀」だというのです。ぼくは感心しましたね。この文を書いていたのはアランという思想家でした。「政治的」とは「礼儀正しい」、政治家とは資料分別のある、そんなところになるでしょう。そういうことだったのかと、ぼくは本当に感動すらしました。逆に言うと、「権謀術数」だとか「覇権争い」「虚偽」「捏造」が「礼儀」に成り代わって「政治の座」を占めた結果が、あらゆる「戦い・闘い」の始まりだったでしょう。
今の時代、政治に礼儀を求める、政治家に礼儀正しさを求めるのは、誕生直後に「天上天下唯我独尊」といった破戒僧の言のように、未曾有の事柄ですね。ぼくの感覚で言うと、政治は誰か特別の人種の占有物ではなく、特定の人種が政治家であるのでもなく、誰もが当たり前に「政治を行う政治家」なんですね。大本の政治や政治家が「よって件のごとし」だから、回転寿司屋で何をやろうが、マッチングアプリで誰と誰が引っ付こうが、何の驚きもない、感動もしない時代です。聞き捨て、見捨て、ごみの山ですよ。それでもなお、誰もが、誰かに見られたい時代なんだろうね、きっと。だったら、「もう少し…」とは言わない。とにかく、「ご破算で願いましては」となるしかないでしょう。
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