
本日は「コラム」二題、それも神戸新聞から。理由は至って単純。読んでいて言葉が届くのである。ぼくのような鈍感な年寄にも響く。それが嬉しい。五百字内外で、ある「思想」を伝える。その「思想」とは、難しい理屈の勝った文ではない。日常生活の支えになり、ヒントになり、あるいは「息抜き」になるような調べをいう。書く人の自論・持説でもなければ、なにかの解説でもなく、ある種の「心の潤い」に気づかせてくれる文章なら、いうことはありません。この「正平調」というコラム名がながく気になっていました。おおよその見当はついていたが、あえて問い合わせることはしなかった。候補は二つ。一つは南北朝時代の元号「世平(しょうへい)」であるが、この出典を調べれば、おそらく「管子」にあるはずだから、同じ出自を持っているとも考えられました。
つい先程(昼過ぎ)、思い切って神戸新聞に電話をしました。案内の女性が出られた。コラムの担当者にお聞きしたいのですが、と言ったら、「どういうことでしょう」と質問された。あるいはこの人で大丈夫かな。「実は、コラムの『タイトル』について伺いたい。どういうところからつけられたのですか」と。即座に「それは中国の…」と言いかけたので、「管子」からですか、と口を出したら、「そうです」と即答。当たり前なのか、あるいは珍しいことなのか。たいそう珍しいことだったと、ぼくは嬉しくなったのです。それで「「正平調」から二編です。余計な解説はしない。読むだけでいいと、ぼくは思った。
この「管子」はいろいろな文書が集められたもので、作者は中国春秋時代の政治家だった管仲によるとされてきたが、異説がある。時代は紀元前八世紀前。どういうわけだか、ぼくは「管仲、字は夷吾(かんちゅう、あざなはいご)」を覚えていた。どこで覚えたか記憶はないが、おそらく高校時代の漢文の授業だったろう。漢文担当教師の博学ぶりに驚いていたときでした。管仲自身については、よく知らないままでいたが、政治家であり、思想家だった点では孔子に相似ていたとも思える。そういうところからも、管仲の名が記憶に残ったのかもしれない。

【正平調】ニューヨークの地下鉄やバスで流れる朝のあいさつが変わったという記事を読んだのは、5年ほど前だっただろうか。それまでは「グッドモーニング、レディース&ジェントルマン」◆それが「グッドモーニング、エブリワン」に。ことさら男と女の性差に触れることなく、「おはようございます、みなさん」。これが世界の潮流だと強調するまでもない。兵庫でも「性の多様性」をキーワードに学校の制服の見直しが広がるのだから◆合わせて各校では多様性についての学習に取り組む。生徒たちが学んで確認したのは「大事なのは男らしさでも女らしさでもなく、その人らしさ」◆大きく変わろうとしている世の中の動きについていけないのだろうか。多様性を尊重する社会の実現を掲げる首相だが、国会で同性婚について質問されると「社会が変わってしまう」と否定的な考えをぽろり◆続いて側近の秘書官が「隣に住んでいたら嫌」と暴言を口にした。若い世代では賛成が広がっていますと指摘されると「何も影響が分かっていないのでは?」。さすがに言語道断と更迭されたが、言葉は残る◆兵庫や大阪の性的マイノリティーの当事者と教員たちがつくった教材「性別思い込みあるある」を官邸に送りたい。勉強になりますよ。(神戸新聞NEXT・2023/02/07)
「大事なのは男らしさでも女らしさでもなく、その人らしさ」という兵庫県の中高生の到達点ですね。そのとおりだと思います。さらに言えば「その人らしさ」は誰が決めるのか、本人か、他人か。「これが自分」というのではなく、「自分らしさ」とは?あるいは「それは君らしくないね」と他人に指摘されて気づくこともあるが、別の人は、また別の見方(人物評)をするでしょう。なんだか、難しいですね。
この「らしさ」には強烈な思い出があります。小学校三年生ころの担任(男性・五十歳前後だったか)が「らしく」と墨書して、それを学に入れて教室の黒板(教卓)の上部の壁にかけていた。きっと「男らしく」「女らしく」という教訓だったろう。その言おうとするところ(真意)がなかなかわからなくて、その後の長年にわたって、「らしく」だけが記憶に留められた。「~のように」ということだと気がついだのは何十年も後のこと。「男は男らしく」という言い方は変わらないが、「男」観は時代とともに変わってきました。「女」観についても同様です。とすると、中身が変わるけれどもそれを押し留めてきた制服なり髪型でしか「らしく」を表現できなくなったというのが実際のところでしょう。言葉に拘るのではない、「らしく」という枠や箍(たが)が通じないほどに、社会における通説・通念が古びてしまい、萎びてしまったということです。「同性婚は嫌だ」というのも選択肢(判断)ですし、反対に「同性婚、ええやん」というのも選択肢。どちらを選ぶか、それを選ぶのは「当人」ですね。求められるのは、「異次元の結婚対策」だな。
同性婚が認められると「社会が変わる」「家族が変わる」というのも一意見です。現総理は「異次元の少子化対策」を標榜している。でも、まずできないね。「同性婚、嫌だ」と言っているようではまったく無理だ。未婚の母や未婚の父を積極的に支援するところに頭が向かないところに、どうしようもないダメさ加減がある。「家族が変わるの嫌だ」と言っているようでは、ね。
● 【正平】せいへい=心が正しく平安であること。〔管子、心術下〕凡そ民の生や、必ず正平を以てす。之れを失ふ所以の者は、必ず喜楽哀怒を以てす。(字通)
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【正平調】秋田に住む見知らぬ人から郵便が届いた。封を切ると「菅江真澄研究」という冊子が出てきた。40余年の歴史を持つ研究会の機関誌らしい◆真澄は江戸時代後期の旅行家。30歳で古里三河をあとにして北へ。76歳で没するまで旅に身を置き、人々の営みを書き留めた。なかでも秋田は30年近くを過ごした懐かしい土地だった◆この旅人に魅せられ、およそ200年後に同じ道を訪ね歩いたのが神戸の詩人、安水稔和さんだ。「西馬音内(にしもない)」「異国間(いこくんま)」「久遠(くどう)」「有珠(うす)」…。地名を冠した詩集や散文集など、安水さんが残した「真澄の本」は10冊を超す◆送られてきた冊子には、昨夏亡くなった安水さんを悼む言葉があふれていた。東北各地での真澄研究会へ欠かさず足を運び、これほど慕われていたとは。神戸の私たちが知らないもう一つの顔を見た気がした◆2001年の本紙文化面に、安水さんはこう書いている。〈さまざまの生を受けとめていとおしむその細やかな視線は、私たちが共生の二十一世紀を生き抜くための励ましとなるにちがいない。真澄を知ることが私たちの今を考えることにつながる〉◆21世紀に入ってはや23年目。今の社会はさまざまの生を慈しんでいるか。真澄の、そして安水さんの言葉に、耳を澄ませてみる。(神戸新聞NEXT・2923/02/05)

この駄文集録のどこかで、ぼくは真澄のことに触れています。本名白井秀雄、その名前からして、ぼくは惹きつけられた。大学生の頃。「真澄遊覧記」は何度読んだか知らない。芭蕉などはまるで「赤児」に見えてくる、旅に病んで異国の地に墓碑を刻んだ人として、ぼくには忘れがたい。恥ずかしながら、その真澄研究の泰斗ともいうべき安水稔和さん、そのお名前だけはかすかに記憶にとどめていた。さぞかし、真澄の足跡をためつすがめつ辿ったであろうことが見えるようです。いつの日か、その研鑽のいくばくなりとも三拝九拝したいと、強く思った。
真澄については、もう一度丁寧に書いてみたいと強く思っています。
●菅江真澄(すがえますみ)(1754―1829)= 江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。本名白井秀雄。三河国(愛知県)岡崎か豊橋(とよはし)付近の人。菅江真澄を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵(かもまぶち)の門人植田義方(うえだよしえ)(1734―1806)に国学を学ぶ。各地を旅行して、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した『真澄遊覧記』50冊余(1783〜1812)は、近世の民俗誌的価値がきわめて高い。真澄は、1783年(天明3)30歳で旅立ち、信濃(しなの)、越後(えちご)、出羽(でわ)を経て津軽に入り、1788年松前に渡った。その後、下北(しもきた)に3年間滞在し、津軽では各地の文人・医師らと交わった。この間、弘前(ひろさき)藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。一方、秋田藩の地誌の編集にも従事した。津軽関係の著作としては『津軽の奥』『外浜奇勝』『津軽のをち』、南部(なんぶ)関係では『奥の浦うら』『おぶちの牧』『奥のてぶり』、秋田関係では『月の出羽路』『花の出羽路』などが代表的である。これらの紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。秋田仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で没し、秋田の寺内に葬られた。(ニッポニカ)

● 安水稔和 (やすみず-としかず)(1931-2022)= 昭和後期-平成時代の詩人。昭和6年9月15日生まれ。神戸大在学中からおおくの詩誌に関係,のち「歴程」「たうろす」同人。昭和30年第1詩集「存在のための歌」を発表。ドラマ作家的な目と耳で現実の皮相をはがし,詩を摘出。38年多田武彦作曲の合唱組曲「京都」で芸術祭奨励賞,平成元年詩集「記憶めくり」で地球賞。11年「生きているということ」で晩翠賞。17年「蟹場まで」で藤村記念歴程賞。評論集に「歌の行方―菅江真澄追跡」など。兵庫県出身。(デジタル版日本人姪大辞典+Pulus)
「詩集「生きているということ」「春よ めぐれ」など、阪神・淡路大震災の記憶を刻んだ作品で知られる詩人の安水稔和(やすみず・としかず)さんが、8月に亡くなっていたことが分かった。90歳。神戸市須磨区出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。/1931年、神戸市須磨区に生まれ、兵庫県立第四神戸中学校(現・県立星陵高校)在学中の45年に神戸大空襲で被災。疎開先の県立龍野高校で詩作を始めた。神戸大学文学部に進み、詩誌「ぽえとろ」を創刊。喜志邦三の「交替詩派」や小島輝正の「くろおぺす」にも参加した。/ 松蔭女子学院中学・高校教諭を経て神戸松蔭女子学院大学教授。55年に第1詩集「存在のための歌」を刊行。58年に詩誌「歴程」に参加。60年に「蜘蛛」、84年「火曜日」を創刊して詩作に励む一方、「神戸の詩人たち」や「兵庫の詩人たち」を編集し、郷土の詩史を体系づけた。(以下略)(神戸新聞NEXT・2022/10/09)(https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202210/0015710499.shtml)