
暴言/放言/失言のオンパレード。どの内閣に限らず、問題発言をしても、それのどこが問題なのかを自覚していない総理や閣僚が後を断たたないのは、無自覚な能天気ばかりが「政治家」をしている報いだということでしかない。その発言の根っこの部分に「国民愚弄」の発送や大度が見て取れるのも、ほとんどの政治家の「選良意識」の裏返しじゃないですか。大きく言うなら、学校教育の退廃が人間の堕落を呼び、ひいては社会(集団)の汚染をもたらすという「退廃の連鎖」ではないでしょうか。ぼくはしばしば、誰々を指して「のう‐てんき【能天気/能転気】」(ときには「脳天気」と)という語を使います。これは差別語ではないと想えばこそです。「[名・形動]軽薄でむこうみずであること。のんきでばかげていること。また、そのさまや、そのような人。「―な人物」(デジタル大辞泉)彼/彼女は政治家だという時、たいていは「能天気」な人物だと言うに等しい。すべての政治家ではなく、「大抵(たいてい)は、十中八九は」です。
軽薄で馬鹿げていることやさまや人たちを言い当てる言葉。ぼくは特別に政治に興味・関心はない。でも当たり前に生きていると、否応なしに「能天気」が耳目に入るのです。目障り耳障りになる。いちいち付き合っていてはまともに息もつけないほど、「問題発言居士」が引きも切らないのは、どうしてかと愚考してみる。昨秋から「閣僚」が「失言」や「問題行動」で辞任・更迭が連続してきました。さらに続くと思われていたら、こんなところ(官僚)に顔を出したという程度の受け止められ方ですね。(左図は朝日新聞・2023年2月4日)(https://www.asahi.com/articles/ASR247348R24UTFK00T.html)
「失言」したご当人は、総理の最側近であり、この更迭で、総理は、大事な支えを失ったという報道が見られます。「この程度の、ぞんざいで横柄な存在が重要人物だったとは」と、ぼくのほうが愕然とします。必要以上に自分を大きく、偉く見せようとするには、一種の技や工夫がいるでしょう。その技や工夫を駆使して、「俺は男・女だ」と見えを張っていた人物は、ぼくの周りにもたくさんいました。背が低いことは悪いことでも恥ずかしいことでもないのに、ズボンの裾下には高いヒールが見えたことも実際にはありました。あるがまま、それに我慢できなくなると、何処かで無理をするんですね。まるで「ふぐ」ですな。敵を威嚇する際に、河豚(ふぐ)は「膨れる」らしい。

「しつ‐げん【失言】=〘名〙言うべきでないことを、うっかり言ってしまうこと。また、そのことば」(精選版日本国語大辞典)とある。今般、「失言」した人は「言うべきことを、うっかりいってしまった」という自覚があったのかどうか。おそらく、当たり前に考えれば、それは先刻承知していた。頭の中にしまっておいて、言ってはいけないことだとわかっていたから「オフレコ」にしたのでしょう。でも取り巻きの記者氏の中に「オフレコのルール」(どうもあるらしい)を知らなかった、あるいは知っていたが、ルールを守る以上にそれを報道すべきだという選択をした。だから問題の「失言」は公然とした事実となった。事の次第はそうだったでしょう。ぼくにすれば、何だつまらない、そんな感想しか湧かない。
(記者の中に、「発言に異議あり」と指摘するものがいなかったこと、それは「失言」以上に危機的な状況ではないですか)(おそらく全員が「大学教育」を経験しているでしょう。大卒が、その程度でしかないということを考えると、ぼくは発狂しそうになる、いや発狂しているね)
では、それ(「同性婚は嫌だ」)は「言うべきでない」と決めるのは誰ですか。政府です、といえるはずもない。政府はグルになって、「失言」を繰り返しているではないですか。全員一岩となって(といえば大袈裟すぎますが)、「同性婚、気持ち悪い」とかなんとか言ってきのではないでしょうか。政府でないとすれば、警察ですか、あるいは裁判所ですか。どうもそうではないらしい。言っていいか悪いか、その判断を下せるのは「当の本人」しかいないとぼくは言っておきたい。「言いたのだけれど、言うと怒られるから言わない」というのも一つの態度ですが、上等ではないですね。いかにも、下等ですよ。怒られなければ、いけないことであっても、言うでしょう。つまり一人の判断力がまともな感受性(これを人権感覚と言ってもいい)を持たないと、交通法規みたいに「見つからなければ」交通違反にはならないというだけの話。問題の核心にはいささかも触れられないのです。

一例を出します。小学生が学校で「イジメはいけない」ときつく教えられた。誰かに「いじめは悪いことですか」と問われて、「ハイ、いけないと思います」「どうして?」「学校でいじめはいけないと、教えられたから」いたるところで、このような痴愚問答が繰り広げられているし、実際にいじめ問題に教育の成果は上げられていない、根本的な理由はここにあるとぼくは見ているのです。いまでも時々看板を見かけます、「誰か見てるぞ」という防犯啓発の一コマ。自分以外の誰か(監視カメラ)が監視しているから止めるというわけだし、それがいなければ罪を犯す。いや、見ていようが構うものか、欲しい物を盗るだけだと、劣島縦断強盗事件が多発しています。自分以外の他者ではなく、いいか悪いかの判断を下すのは「当人の意識」です。難しく言うなら「良心」となるでしょう。

当節は「良心」がない人が増えているのでしょうか。「自分にも良心があるということを知らない」、そんな「人間まがい」が増加しているのでしょう。
更迭された(と言われている)官僚氏は、複数人いる総理秘書官の一人でした。大時代的な比喩を使うと、彼は総理の「影武者(shadow warrior)」だった。その一人が影武者だったから、総理近辺は周章狼狽この上なく、みっともないくらいに「同性婚、嫌だ」発言の経緯を取り繕っているのです。同性婚を認めれば「社会が変わる」と総理は言った。その発言の本当の主は「法務省」ではなく、総理(のアドリブ)だったと。社会が変わるから、「同性婚は嫌だ」と言わせたのは更迭秘書官ではなかったと言いたいらしい。「家族観や価値観、社会が変わる」から、「私は反対だ」といったのは総理の「アドリブ」だったと、官房長官が会見してまで念押しをしたのです。笑うべき「喜劇」、いや悲しむべき「悲劇」、いやいや、悲しむべき「喜劇」なのかもしれぬ。そうこうしているうちに、この島社会は「奈落」のそこへ。(右の写真は朝日新聞・2023/02/07)
こんな発言しかできない総理や秘書官、隣に住むだけで嫌だ。こんな愚かしいことが続けば、島を出る人が相当出てくるでしょうね、といってみても始まりませんな。

この社会はどん詰まり(袋小路)に来ているように思われます。この先は、あるにはあるでしょうが、墜ちるところまで墜ちるプロセスを見せつけられるでしょう。その頃、ぼくはもう存在していないけれど、この敗戦(「人権尊重」を踏み潰そうとした権力の戦い(独り相撲)(腐敗堕落)を言う)による打撃は相当に長く続くと思う。何と言っても「人間を人間として認められない権力」とそれを支えてきたのが国民の過半だったのだから。

追記 〈同性婚「社会が変わってしまう」は岸田首相自身の言葉 G7で認めないのは日本だけなのに…〉(東京新聞・2023/02/07、右の表も)「同性婚」も「夫婦別姓」も認め(たく)ないし、男子直系の「天皇制」は是が非でも続けたいし、死刑制度は死守すべきであると、いかにもこの小島社会は「特異」であり、「異質」であり、戦勝国の尻馬に乗りながら、尻にも敷かれる、なんとも「絶滅危惧種国家」だなあという慨嘆を深くします。それでいて、「核のない世界」をと、どの口でいうのでしょうか。この嘘を、嘘だと自覚していないから「能天気」は怖いのだ。時と場合にによっては 、C 国に対して「事変」を起こすか、「宣戦布告」しかねないという虞がある。
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