
午前一時過ぎに起こされ、今これを綴っています。(四時です)特に寒い日には「トイレ」が我慢できない猫が幾つもいる。小さい子は家の中の備え付けのトイレ(三箇所)でするが、一歳を超えた子たちは、必ず外に行く。その他に、お腹が空いたので寝ていられない子もいる。だからほとんど朝四時、五時くらいまでゆっくり寝ていることはない。食餌をやり、トイレや飲水の入れ替えをしていると、時間はあっという間に経ってしまう。二度寝する気もなくなってしまうのですな。仕方なしに、なんだかんだと、駄文です。
「徒然日乗」などと気取っていますが、なに、単なる駄文・雑文のタネの撒き散らしに過ぎません。その「タネ」は、集めるのに事欠かない。次々に当方によってくるから、応接に暇(遑)(いとま)なしというところ。(拙宅にいる猫たちは、こんな(右上写真のよう)に行儀はよろしくない。それぞれが好き勝手な場所で食べる。食べるものも好き勝手。時間を一応は決めているが、遅刻の常習者もいる。つまり、(管理教育」は最初から放棄しているのである)(ぼくは、昔からしつけられるのもしつけるのも大嫌いだった。そのためにいろいろと苦労が絶えなかったし、今も苦労している)

「同性婚嫌いだ」発言は、考えるまでもなく、重大な発言(失言)で、この社会の政治や行政の中枢に位置する人間たちが、いまなお古式床しい(どころではないのだが)「伝統文化」の衣をまとった「旧慣」を墨守するのに体を張っている(振りをしている)状況を照らし出す。この国の屋台骨がどこにあるか知らないが、それが政治や行政の中枢になるとするなら、随分と「焼きが回っている」と言わねばなるまい。つまり「焼入れ」の初歩・初手が間違っていたんだね。百年前、五十年前なら「同性婚は趣味(好き嫌い)」の問題で済ませられたでしょうが、今となれば「偏見とそれに基づく差別」問題そのものということになる。この変化こそが「社会が変わる」ということだ。なのに、総理は「社会が変わるから、同性婚は嫌だ。見るのも嫌だ」と言っているに等しい。いかに物事の筋や骨格が、つまりは全体がわかっていないかを、天下(世界中)に晒しているのだ。どんな偏見を持っていても(それは誰にもきっとある歪んだ思考から生まれる。その歪みは社会集団の「常識」から生まれてくる)、持つことまでは禁止されないし罰せられない。でも、それを口に出して広言するとどうなるか。首相秘書官の「更迭」がそれを語っています。「失言」というのでしょうが、口にしなければ「失言」ではなかったのに、この官僚氏は思慮が足りなかった。だから「現在完了」なんだね。しかし、問題の根は深いのは、こんな考えを広言して憚らない人間たちが、国家政府の「枢要の地位」に蝟集していることがなんの恥じらいもなく、(羨ましげに)認められているということ。「失言」は取り消せば済むのか、「殺人」も「訂正して、お詫びします」で終わるのか。

二年ほど前に、都内のある区議会議員が「同性婚を認めたら、この区がなくなる」と発言し、頑として発言を取り消さなかった。立派なバカと思っていたら、直後に発言を撤回し謝罪(するふりを)しました。(でも、心の内ではその発言はまだ生きている。「心中の思い」を糾弾することはできない。要は、自らが問題の根っこに降りてゆかなければ)。この手の「議員」はどこにでもいる。一都一道二府四十七県のあらゆる議会議員さんには格好の「軽蔑の対象」となっているし、以外に、その「軽蔑」に産生するものが射るから、何事も一筋縄ではいかないのです。この議員連中は、とっくに「社会の変化」においていかれている。完全な「時代遅れ」なんだね。「社会」は変わるもの。この「社会」とは、人間集団の「地位(役割)と地位(役割)セット群」をいう。一例として、「社長と部長と課長と係長と社員」(という地位とそれについている役割の総計したもの)それら地位と地位の関係が「社会関係」です。(「あなたとわたし」は個人関係、「夫と妻」は社会関係)サッカー場に集まる集団は「観客」「群衆」とは言えても、社会集団とは言えない。ゲームが終われば消えてしまうから。まるで信号待ちの「塊(かたまり)」です。信号が変わるまでの瞬間の集まりでしかないのです。社会が乱れるというのも、この社会関係が崩れることと同義だと、ぼくは考えている。崩れる必要も、時にはあるんだね。壊される必然性があるね、「人種差別」などはその典型。社会が変わらないことを願う連中は、これをどう考えるのか。ちっとも考えてはいないかもしれぬ。
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「徒然日乗」(CI~CVII)

◯ 2023/02/05・日 = 首相秘書官の「同性婚、見るのも嫌だ」発言について考えている。各紙の論調はおしなべて均一で、「断じて許せない」「G7の中で同性婚を認めていない唯一の国」「あってはならない発言」などというもの。この問題へのラディカルな問いは殆ど見られなかった。さもありなん。偏見や差別の問題は、社会通念と微妙に、しかも強固につながっているもので、少し前までは誰もが当たり前に言ったり聞いたりしていた事柄が、時代や社会の変化とともに、それは「差別である」となる、それが社会が変わるということであり、もっと言うなら「好き嫌い」の問題から「個人の権利」の問題へと捉え直しが行われたからである。「社会が変わる」とされるのは、これを指す。しかし現総理は「社会が変わるから、同性婚には慎重に」と、自分は反対であると言ったに等しい。総理も反対だし、自分がそれに異を唱える訳にはいかないと、この秘書官は忖度したか、いや、彼は確信犯的に「反対論者」で、それに総理が動かされた形跡がありあり。だからと、ぼくは思った。「政府の方針に逆行する」「言語道断。断じて許せない」と、鈍間(のろま)で愚図(ぐず)の総理にしては「早々の尻尾切り」をしたのだ。ところがどっこい、トカゲの尻尾は「生えるために切る・切らせる」のだから、これで終わりにならず、終わりの終りが近づいているということ。(徒然日乗・CVII)
◯ 2023/02/04・土 = 終日在宅。まったくじっとしていてパソコンの前に座っている。なにかいい知恵が湧いてくるでもなく、物思いに耽るでもなく、漠然と息をしているというべきか。意識しているのではなく、おのずから呼吸が続いているだけのこと。それが、そもそもの「生き(息)ること」だと思っている。庭に出て「紙屑」などを燃やしている。これもやはり、何をするでもなく、という風ですね。寒い日が続くが、時にはあっと驚く春麗(うら)らの一日もあります。気候に誘われ、陽気に駆り立てられて、また散歩(ジョギングではない)に出る気になっています。(徒然日乗・CVI)
◯ 2023/02/03・金 = 書き損じたハガキを、一枚五円の手数料で交換してもらいに郵便局に出かけた。これまでもたくさんの書き損じや印刷ミスが出て、そのたびに交換してもらってきた。今回は、印刷ミスで、印刷面が表面ににじみ出てしまったので、とても汚くなった。これまではインクジェットハガキでなくても大丈夫だったのに、ぼくの判断ミスだったかもしれないと、新規にインクジェットハガキを頼んだ。それはそれ。ちょっと気になったので、局員に質問した。「高齢者は、一定額以上の金額は、身元の確かな介添がないとここでは扱えないのか」と。先日、友人が「NISA」に関して銀行員から「お子さんと一緒に来てください」と言われたと憤慨していたので、郵便局でもそうかと尋ねたのだ。ここでは答えられないので、地区の本局へいってくださいという。振り込め詐欺などの犯罪の被害者になる人、大半が高齢者だろう、それが後をたたないので、「高齢者」は、保護者同伴でないと何事も判断できないと(老婆心を働かせて)、先手を打ったつもりだと思う。一回の取引も何万円以下ですと、これは年齡に関係なくそういうことになっている。詐欺に合わないための「親切」だと疑わないが、別の方法で詐欺を防ぐくらいの知恵を出してほしいね。第一、気分が悪いさ。(徒然日乗・CV)

◯ 2023/02/02・木 = 午前中に生後半歳の猫たちを動物病院へ。避妊と去勢手術の事前検査として、ワクチン(二度目)と白血病及びエイズの検査でした。いずれも問題はなく、二月の半ばから順々に手術に入ります。今日連れていけなかった猫(いずれもオス)は、後日に。同じ検査とワクチン。その後に手術の予定。とにかく、これが済まないことには気が休まらない。たくさんの猫がいるのも、好きだからではなく、野良が子どもを生んで拙宅に連れてくるからで、それを放置しておけないから、ある意味では始末に悪いんですね。夫婦のどちらかが「猫アレルギー」か何かが持病であれば、どう転んでも家に置くということはしなかった。不幸なことに、そうじゃなかったから、今のような事態になったのです。こうなれば「とことん、元気があるうちは」という気になっている。迂闊に病気にはなれないのだ。(徒然日乗・CIV)
◯ 2023/02/01・水 = 先ほど(お昼すぎ)、郵便が届いた。友人(現代日本文学研究者)の「夫(連れ合い)」が亡くなられたという。八十一歳だったとある。実に「寿命」という現象は、誰の上にも、雪や雨が降り積もり降り注ぐように、嫌でも現れてくる。(合掌)▼ 朝から何かと買い出しに出歩く。何日も出ないことがあるが、あちこち出向いて、まとめて用をたすことも、たまにある。一種の気分転換かもしれない。人混みが大嫌いだし、まして並ぶなどとんでもない話だから、なるべく「空いている」時間帯を狙って行くことにしている。たまにYouTubeで「繁盛している食べ物屋」を見ることがある。その多くは関西、しかも大阪・神戸あたりがほとんどです。如何にも「食い倒れ」やなあと、その凄さに感心するばかり。「もの喰う存在」、それが人間だと、あまり喰わなくなった人間(のつもり)が痛感する。つまり喰わなくなったら、人間とは別物ということなのだ。だから「他人の食べっぷり」に見惚(と)れるのかもしれない(徒然日乗・CIII)
◯ 2023/01/31・火 = 睦月晦日です。何をしても、しなくても一日は一日、一月は一月です。犬や猫の身の上にも、同じように「時は過ぎゆく」と言えるのかどうか。当人たちに聞いてみたい。「まったく、日が経つのは早いね」と言うとは思わない。誰が時を「発明」したのか。時間というものを、今あるように作ったのは誰だったか。もちろん人間にも動植物にも一年の周期が地球の回転と関係しているのは事実ですが、それを事細かく、時間・分・秒の単位に閉じ込めたのは人間たちだったことは間違いない。そんなことをしなくても、地球が今あるような状況になっていたか。あるいはまったく別個の球体(宇宙)となっていたのだろうか。珍しく、詰まらないことに引っかかっている。徒然日乗・CII)

◯ 2023/01/30・月=午前中から午後二時ころまで葉書を書いていました。約百枚。ぼくの年中行事の一つ、戴いた年賀状への返信です。もう長い間、年末年始の「賀状書き」はしていません。まことに酷い話で、ぼくだけの(と思う)心中の「新春」は立春が目当てです。今年は二月四日(土)で、その日に届くように返信を認めるというわけです。旧暦主義というか、人間も旧式だから、「如月の初めの頃」がぼくには時季的にもあっている気がします。江戸期を含めて、俳句の季節感はすべて「旧暦」、今よりも一月ほど遅れてやってきます。▼ 誰の句でしたか、「鱈が出て これより寒く なるばかり」とあります。これはまさに厳寒の頃を詠んだとごくは見る。鱈(たら)ちりや鱈鍋、鱈汁などなど、さらにうまい純米酒をのむ。これがある時期までの、ぼくの定番でした。勤め人時代の冬の肴は鰤(ぶり)や鮭などの鍋物がありますが、その昔は鱈でした。季節感をもしっとりと味わえるのですから、安くて旨いといったところ。お酒は(純米酒の)「黒帯」、金沢のお酒です。この駄文を綴りながら、そんな往時もあったのだと、昔日の飲兵衛時代を想起している。もう十年ほど前から、なぜだか、一滴も口にしなくなった。「呑み代が猫缶に化け春立ちぬ」(無骨)(徒然日乗・CI)
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