社会が変わるのがどうしていけないの?

 「同じ穴のムジナ」ダラケーの「社会」の末期 ~「(同性婚制度の導入について)社会が変わる」「秘書官室もみんな反対する」「隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などとオフレコ会見で首相秘書官が発言、それを知らされて現総理は「言語道断」と即刻首にした。「火の粉」が降りかかるのを恐れたから。自身が「同性婚」を認めれば「社会が変わる(から反対だ)」といったのにさ。この御仁が当問題に関心を寄せているはずもなく、彼のスピーチライターだった秘書官の自説・持説だった。「オフレコ会見」を取り囲んでいた「記者」も同意したか、言いたい放題の野放し、恥ずかしいね、記者諸君。記者の中にも「同性婚」に与する者がいただろうに。官邸も報道陣も、国民を愚弄するという点において「同根」「同穴」で、連中は地下や奥の奥ではくっついている。首相も「隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」という組だ。▼「高位高官症候群」に取り憑かれた輩が「位人臣を極める」(この表現は、言い得て妙で、トップになりたい者には、腐るほど用意されている「塵も積もれば山となる」の天辺(てっぺん)のようなもの)と、どんなことになるか、国も人心(人情)も破滅・破壊しなければ止まないという退廃と堕落の極地をたどる。何度も何度も、誰かが歩いた道だったね。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 「天網恢恢疎にして漏らさず」というのではなく、「疎にしてダダ漏らし」という為体(ていたらく)。本音を隠して息をひそめているが、いつかきっと大きく息継ぎをしなければならぬ。それが「本音を吐く」という政治家・官僚の息継ぎ法なんだな。阿吽(アウン)という呼吸の綾も「阿」(呼気)で嘘偽り(自分の本心とは違うこと)を吐き、「吽」(吸気)で本音(同性婚者が隣りにいるのも嫌だ)(同じ空気を吸いたくない)と大息(息継ぎ)する。これ(阿吽の呼吸)ができなければ、一人前の政治家にも官僚にもなれぬと言う「掟」があるんですかな。

 (ぼくは呆れて(ばかり)いるのではない。泣きたくなって(ばかり)いるのではない。こんなに多くの「愚図」や「ヤクザ」が政治・行政を牛耳っている、根本・初発に「教育・学校」の退廃があると、落第教師として自覚しているから、慙愧・後悔の念が尽きないのだ。これに関しては、ぼくにも「前科」があると言えば言える。「学校から脱出・逃走しなかった」という咎罪ですね)

 (この小国のどこを見ても「高位・高官症候群」に罹患・感染することを何よりも推奨(慫慂)する「教育の玄理」「学校の基盤」がある、この気分の持つ恥ずかしさ、卑しさをこそ爆破しなければ、何事も始まらない)(尺取り虫ならいざしらず、点取り虫の世間知らずを「排出」「生産」することが使命だと根っこの部分で腐っている「学校教育者」の自省と自制がなければ、こんな場違い・お門違いの人間が、きっと立ち往生するばかりではないですか)(とはいうものの、それは「百年河清を俟つ」という悠長かつ有難き精進かもしれぬ)(まず足元を掘る、つまりは、一から始めればいいのさ)

 同性婚に賛成か反対かと問われたら、あなたはどう答えますか。「あなたも同性婚(に賛成)しなさい」ではなく、「…反対しなさい」でもなく、単に「賛成か、反対か」と問われたらどうでしょう。個人の思想信条の自由の問題であるレベルでは「どっちでもいい」と判断する人が、仮に法的に認められるなら、そんな結婚制度には「反対」という人がいるのも当然です。問題は、「法的に同性婚」を認めようという傾向がこれまでになく拡大してきている、その傾向をどう見るか。これについて、根本的には個人の意見が尊重される(べき)でしょう。しかし、それが政治や行政の側にいて、法律の制定に関与できる人物が、「見るのも嫌だ」「隣に住んでいるのも嫌だ」といったなら、それは心得違いだと言うべきだし、いくらオフレコであろうが、好き勝手な意見を非公開で述べる「公人」が存在すること自体、ぼくには解せないことなのだ。 

 荒井勝喜首相秘書官に対する3日夜の首相官邸での取材は、録音や録画をせず、発言内容を実名で報じないオフレコ(オフ・ザ・レコード)を前提に行われ、毎日新聞を含む報道各社の記者約10人が参加した。首相秘書官へのオフレコ取材は平日はほぼ定例化している。3日の取材では、岸田首相が1日の衆院予算委員会で同性婚の法制化について「社会が変わっていく問題だ」と答弁したことについて記者から質問があり、荒井氏は首相答弁の意図などを解説した。その中で「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」などと発言した。現場にいた毎日新聞政治部の記者は、一連の発言を首相官邸キャップを通じて東京本社政治部に報告した。  本社編集編成局で協議した結果、荒井氏の発言は同性婚制度の賛否にとどまらず、性的少数者を傷つける差別的な内容であり、岸田政権の中枢で政策立案に関わる首相秘書官がこうした人権意識を持っていることは重大な問題だと判断した。ただし、荒井氏を実名で報じることは、オフレコという取材対象と記者の約束を破ることになるため、毎日新聞は荒井氏に実名で報道する旨を事前に伝えたうえで、3日午後11時前に記事をニュースサイトに掲載した。これを受けて、荒井氏は3日深夜、再度、記者団の取材に応じ、発言を謝罪、撤回した。2回目の取材はオンレコで行われた。(以下略)(毎日新聞・2023/02/04)

 もともと「同性婚」の是非などは多数決で決める問題ではない。それは「正義」「道徳」などの問題を決めるのにはもっともふさわしくない方法であるのと同じで、民主主義は「多数決」そのものではないということです。人間の権利=人権の問題であるという視点から、これを捉えるべきです。現行憲法では「両性の合意」とあるから、それを「両者の合意」にと変えることから始める必要があるでしょう。(そもそも、民主主義は「多数決」という原理原則で機能するものではない。それを認めなければ、何時まで経っても終わらない議論を終わらせる、一時しのぎの、程度の低い方法だと思うね)(右上図は朝日新聞・2021/03/22)

 同性婚の法制化について、岸田文雄首相は衆院予算委員会で否定的な考えを示した。自民党はもともと消極的だが、首相はその理由として「社会が変わってしまう」ことをあげた。いまは同性カップルへの理解が深まり、多くの自治体が同性パートナーシップを公証する制度をもつ。首相の認識のズレに反発が強まっている。立憲民主党の西村智奈美代表代行が法制化を求めたのに対して、首相は「極めて慎重に検討すべき課題だ」と述べた。その上で「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題だからこそ、社会全体の雰囲気にしっかり思いをめぐらせたうえで判断することが大事だ」と強調した。  現実の社会はむしろ、同性カップルへの理解が深まる方向に変わってきている。朝日新聞の世論調査では、1997年には同性愛を「理解できない」が65%を占め、「理解できる」の28%を大きく上回っていた。2021年には同性婚を「認めるべきではない」は22%にとどまり、「認めるべきだ」は65%にのぼった。  こうした世論に押されるような形で、現在では250以上の自治体が同性パートナーシップを公証する制度を持つ。人口比率にして6割をカバーするほどだ。同性婚を認めない民法などの規定について、札幌地裁は違憲と指摘する。  首相発言に立憲の安住淳国会対策委員長は2日、記者団に「すでに社会、世界の意識は変わっている。古い制度に固執するから社会がおかしくなっている」と批判した。SNS上でも「本来認められるべきことが認められていない」「当事者への想像力も、人権への配慮もない」といった反発が相次いでいる。(朝日新聞・2023/02/02)

 右の動画はニュージランドの国会議員で「同性婚」賛成派の演説です。この問題については、すでにこの駄文集録でも触れています。(https://www.youtube.com/watch?v=-RK82Q8bVP8&ab_channel=TBSNEWSDIGPoweredbyJNN)   

 ぼく個人の意見では「同性婚には賛成」で、でも、ぼく自身は「同性婚はしない」と考えてきた人間です。同性婚はしないが、他者の同性婚には賛成(反対ではない)です。それだけのことじゃないですかというと、反対する人々は不服かもしれない。しかし、異性間の結婚も家族制度も、普遍的であるかどうか、怪しい。国家という単位を考えると「国民」の存在を前提にして成り立つのであって、いずれは変形せざるをえない制度なんですね。それを無理にでも維持しようとすれば、いろいろな面で不都合が出てくるでしょう。異性同士の結婚が認められる(国家公認という意味)なら、「同性婚」も認められてしかるべき、それが法律の前に考えなければならない「人権尊重」という価値観に基づくものではないでしょうか。(この問題については、これからも考えていくつもりです) 

 同性婚を「法的」に認める認めないにかかわらず、「社会」(つまりは人間集団)は変わるもの。それは不易ではなく、流転し流行してゆくものです。それを否定したところで、変わりゆくものだと、どうして見る(認める)ことができないのかな。「同性婚を認めてたところで、明日も太陽は東から昇る」といったのは、ニュージーランドのモーリス・ウィリアムソン議員でした。そうなったとしても「天変地異」が特段に増加するのでもない。

 社会は変わらなければならないんじゃないですか。時には小さく、時には大きく、です。そういうことの繰り返しで、「今の今」があるのですね。こんな言い方は可笑しいでしょうけれども、社会が変わることの意味(価値)を知ってもらうために言っておきます。ぼく個人にとっては好ましいことではありませんでしたが、この劣島社会が変わってきたからこそ、「岸田さんは総理大臣に」なったんじゃなかったか。自分の利益だけは確保しておきながら、他者の権利を阻止しようというのは、なかなか見上げた「狭窄症」ではないかと、ぼくはいいたいね。社会が「よく変わること」を否定して、どうするんです?

___________________________________ 

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)