
本日は「立春」にあたっています。旧暦では新年、新春を迎えるという時季・時候を言います。まさに「春立つ」日です。さらに、この日から、次の節季の「雨水」までの十五日間を三等分して、それぞれ「東風解(はるかぜこおりをとく)」(「初候」・二月四日~二月八日頃)、「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」(「次候」・二月九日~二月十三日頃)、そして「魚上氷(うそこおりをいずる)」(「末候」・二月十四日~二月十八日頃)と呼んできました。いわゆる「七十二候」です。いずれにしても、「立春(旧暦)」は年明けの季節というわけで、とりわけ「新春」の喜びが様々な行事に関係づけられてきました。立春から数えて「八十八夜」「二百十日」「二百二十日」などと、それぞれの季節(農業)の節目にもしてきたのです。
● 立春(りっしゅん)= 二十四節気の一つ。立春を迎えて太陰太陽暦の新年が明け,春の季節が始るとした。すなわち立春は正月節 (1月前半) のことで,太陽の黄経が 315°に達した日 (太陽暦の2月4日か5日) から雨水 (太陽の黄経 330°,2月 19日か 20日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。この頃は春風とともに寒さがやわらぎ,万物が春の装いを新たにする時期で,昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (東風解凍,蟄虫始振,魚上氷) に区分した。これは,東風が吹いて氷が解けはじめ,地中に冬ごもりした虫が動きはじめ,水中に休止していた魚が氷を出てくる時期の意味である。(ブリタニカ国際大百科事典)

● にじゅうし‐せっき ニジフ‥【二十四節気】〘名〙 陰暦で、太陽の黄道上の位置によって定めた季節区分。初期の陰暦では一年を二十四等分した平気(へいき)であったが、後に黄道を二十四等分した定気(ていき)を採用した。立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒。二十四気節。二十四気。二十四節。二十四時。(精選版日本国語大辞典)

● 七十二候(しちじゅうにこう)=中国の暦で二十四節気(にじゅうしせっき)の各1気をさらに3等分して、1候をほぼ5日の3候とし、1年を72候とし、そのおのおのに太陽があるときの季節に相応する名称を付して、これを七十二候という。たとえば春分2月中の第一候を玄鳥至、第二候を電乃発声、第三候を始電という。日本でも具注(ぐちゅう)暦には記載されたが、仮名暦の頒暦には一般に記載されなかった。初めは中国渡来のままの名称で暦に記載されたが、これでは日本の時候に適合しないので、渋川春海(しぶかわはるみ)は1685年(貞享2)「貞享暦(じょうきょうれき)」施行のとき、日本に適するような名称に改めて「新制七十二候」を制定した。さらに1755年(宝暦5)宝暦(ほうれき)改暦で土御門(つちみかど)(安倍(あべ))泰邦(やすくに)によっていくらか改められたが、以後改訂もなく用いられてきた。1873年(明治6)太陽暦施行後も1883年まで略本暦には記載された。(ニッポニカ)

「現在、日本を含め多くの国で使われている暦は、古代エジプトを起源とするグレゴリオ暦で、太陽の運行をもとにした太陽暦です。地球が太陽をひと回りする周期を1年とするもので、季節の流れに忠実ですが、月のめぐりとは無関係に進むので、月のめぐりに影響される潮の動きや動植物の変化がわかりにくいのが難点です。/ 日本で太陽暦が採用されたのは、明治6年(1873年)。それまでは、太陰太陽暦を長い間使っていました。そこで、新しく採用された暦を「新暦」、古い暦を「旧暦」と呼ぶようになりました。/ 旧暦の太陰太陽暦は古代中国を起源としており、7世紀に日本に伝えられ、何度も改良が重ねられました。幕末から明治にかけて使われていたものを、天保暦といいます。/ 太陰太陽暦には、太陽と月のめぐりの両方が取り入れられています。月の満ち欠けをもって1か月となりますが、月が地球の周りを一巡するのは29.53日なので、12か月で354日となり、太陽暦より11日短くなります。すると、月のめぐりだけの太陰暦では季節がずれてしまい1月なのに夏の暑さになってしまうこともあるので、太陰太陽暦は32~33か月に一度うるう月を入れて13か月とし、そのずれを解決しています。(以下略)(「暮らし歳時記」:https://www.i-nekko.jp/)

時間の測定に「標準時」があるように、暦にも標準暦を設けて、地球上の各地域に妥当するように用いられてきたのが「太陽暦」です。地球の各地域の行き来(交流)がよく見られなかった頃は、それぞれの地域が独自の暦や時刻を用いていたといえます。この島社会に「太陽暦」が導入されたのは「明治六年」、万国共通という「標準」の採用だったでしょう。それで便利になったものもあれば、従来の「尺度」が激変したので混乱を来たしたものもあります。年齢の数え方はその一つです。あるいは時間の数え方にも尺貫法にも、同様の変化が強いられてきて、いまあるように、「一時間は六十分」、「一メートルは百センチ」と万国共通になったのです。なんでもないことのようでいて、実は、そこには大変な変化・転換が生まれ、あるいはようやく、世界は一つになるためのきっかけができたともいえます。
立春(本年は二月四日)が特別の日でないことはいうまでもありません。明治以前の人々にとって「新春」はこの日を始めとするという習わし(感覚)があったことは、今なおその痕跡というか、足跡が見て取れるし、残された文芸などにも、いまもその印が濃厚に刻まれています。その代表が「季語」と言われるものを詠み込んできた「俳句」でした。立春を詠み込んだ俳句は無限のごとくにありますが、なかなか、今日の「正月」「新春」の理解の仕方からは、感覚的に実感するのが困難な場合が多くあります。以下の二句に「新春の佇まい」が読み取れるでしょうか。時節がうまく符合しているかどうか。
・春たちてまだ九日の野山かな(芭蕉)
・寝ごころやいづちともなく春は来ぬ(蕪村)
IIIIIIIIIIIIIIIIII

今日でも、地球規模の「温暖化」が季節(の変化)を狂わせ、その季節によって、さまざまに成長する生物植物を狂わせているのですから、ことは単純でも素朴でもなく、実に大きな危機的状況に、ぼくたちは置かれているでしょう。このような事柄にかかわると、「人事」(「人間社会の出来事)も不省に陥るとしなければならないし、人事に対して「自然」はなんとも麗しいし、厳しいなどと言っていられなくなります。ぼくたちが「自然」だと思っているもののかなりの部分が「人為」「人工」に染め上げられてもいるのですから。「水は低いところから高いところへ」「夏の食材を真冬に収穫」「春先の花々が、何時でも手に入る」、こんな四季のそれぞれの役割を一切無視した人間行動の横暴は、もはやこの小さな惑星を完膚なきまでに疲弊させてきたのです。
昔、興奮を抑えられないで読んだ本に「収奪された地球」というタイトルのものがありました。化石燃料や天然の鉱物資源など、あらゆる方法を駆使してこの限られて資源を掘り尽くし、「地球からの収奪」を重ねてきた人間社会の獰猛さを教えられたのでした。今もその「愚」が続けられている「経済成長」という蛮行を指摘したものです。その収奪による破壊は、いまもなお留まることなく続いています。往時の島の民衆が迎えた「立春」とはどういう心持ちのものだったかを思いつつ、翻って、我らの時代の「立春」はどうなっているのか、あるいはどうなって行くのかと、少しばかり「懐旧」への浅からぬ情と未来への不安、この二つが綯い交ぜになった気分を感じ取っているし、その感情の思いそのままを駄文に綴った次第です。
*松任谷由実:「春よ、来い」(https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao&ab_channel=high_noteMusicLounge)
_____________________