
二月(如月)三日は「節分の日」という。子どもが小学生になる頃までは拙宅でも「豆まき」をしていた。誰が鬼ということもなく、きわめて当たり前に豆を放り投げていたように思う。それで福は来たか。鬼は外に出たか、よくみると、ぼくの隣にいつもいた。それは悪い冗談のようでもあり、本当なんだという気もする。「豆まき」以前の「節分会」のぼくの記憶として、「柊鰯(ひいらぎいわし)」がある。これはぼくが小学校の高学年まで、家の入口の柱に「柊の枝に鰯の頭」を突き刺したのを入り口の柱にかけた。イワシを食べに来た鬼が柊の葉のギザギザを恐れて入ってこないという、民間伝承(まじない)だったでしょう。ここから、「鰯の頭も信心から」が生まれたか。これが「ことわざ」なのかどうか、ぼくには疑問ですが、ある解説では以下のようになっています。おそらく、とても大昔の人々が実に真剣にやっていた行事の名残かもしれない。鰯がどこでも、この時期に手に入ったとは考えられませんから、一定の限定版行事だったと思われます。

そもそも「節分」というものは「立春」の前日に限った言い方ではなく、残りの「立夏」「立秋」「立冬」のそれぞれの前日をさしていう習わしでした。いまはそれを面倒に思ったか、立春の前日だけをさしていう、あるいはその日に行う「行事」になりました。人間が賢くなったのか、その「まじない」が効力を失ってしまったのか、あるいは両方の理由が重なって、沙汰止みになったのかもしれません。ところが、新手の「節分行事」が流行りだしています。これも一定の地域での内々の試みだった。一説では、大阪の「海苔問屋」の売上増を図る目的で初められたものが、やがてスーパーなどがが大々的に売上伸張のために宣伝し、これが流行りだしたという。ぼくには一向に関心が湧かない「恵方巻」というヘンテコな食べ行事です。いい加減なものと言う気もしますが、商売人からしたら、大豆に比べて「大型海苔巻き」は高価ですから、宣伝にも気が入ったのでしょう。でも、今時、「縁起のいい方角」があろうはずもないじゃん。前後左右、上下縦横、どこを向いても「八方塞がり」の時代社会です。それでも「黙って、太巻きをかぶりつく」のも奇観というべきかもしれない。人情が著しくやせ衰えた時代・社会にふさわしい奇祭ではあるでしょう。その奇観に恐れをなして「邪鬼」は近づかないでしょうか、それとも…。

● 「鰯の頭」を例にあげ、まともに相手にしてもしかたがないものとして迷信を否定するのが基本的な用法です。ただし、古くは、一見つまらないものでも信心しだいでご利益があると、逆に信心を肯定的に説く用法もありました(「浮世風呂」)。相反する用法ですが、両者が容認されたのは、一方で鰯の頭をあがめるのは迷信とされ、他方で信仰の問題は人それぞれで、奇妙にみえても他人が口をはさむことではないと社会的に認識されていたせいでしょう。背景には、節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口にかざし、魔よけとする古来の風習がありましたが、江戸時代にはこれを迷信とみる人々がしだいに多くなっていたものと考えられます。/ なお、「頭」の読みは、古くは「かしら」で、江戸中期から「あたま」が散見されるようになり、今日では後者が主流となっています。(ことわざを知る辞典)

● せつ‐ぶん【節分】1 季節の変わり目。立春・立夏・立秋・立冬の前日。せちぶん。2 特に、立春の前日。2月3日ごろ。この夜、鬼打ち豆をまいたり、柊の枝に鰯の頭をさしたものを戸口にはさんだりして、邪気を払う習慣がある。《季 冬》「―や家ぬちかがやく夜半の月/秋桜子」(デジタル大辞泉)(左写真は成田山「豆まき」の図)
● 恵方巻き(えほうまき)= 節分に食べる太い巻ずし。その年の吉をもたらす方角(恵方)に向かい、黙って願い事をしながら1本を丸かじりする。巻ずしを切らずに丸ごと食べるのは、縁をきらないという縁起をかついだものである。丸かぶりずしや恵方ずしともいう。1970年代なかばに大阪海苔(のり)問屋協同組合がすし関係の団体と連携し、節分と関連づけて恵方巻きの販売促進活動を行ったことが普及のきっかけとなり、1977年(昭和52)ごろから関西圏を中心に広まった。1990年(平成2)ごろからコンビニエンス・ストアやスーパーマーケットなどで、節分の行事食として販売する動きが徐々に広がり、新しい年中行事の一つとして全国的に認知されるようになった。/ そもそもは、江戸末期~明治初期に大阪の問屋街船場(せんば)で商売繁盛や無病息災を願って食べたのがはじまりというのが通説になっているが、諸説があり、はっきりとしたことは分かっていない。(ニッポニカ)

● ナズナ(なずな / 薺)[学] Capsella bursa-pastoris Medik.=アブラナ科(APG分類:アブラナ科)の越年草。茎は高さ10~40センチメートル、下方で分枝する。根際の葉はロゼット状で羽状に深く裂け、有柄。菜葉は披針(ひしん)形で鋸歯(きょし)があり無柄、基部は矢じり形で茎を抱く。茎、葉ともに単毛と星状毛を混生する。3~5月、総状花序をつくり、白色の小花を多数開く。花弁は倒卵形でつめがある。果実は扁平(へんぺい)な倒三角形で長さ6~7ミリメートル、無毛で果柄は細長い。果実の形が三味線の撥(ばち)に似ており、果実を茎から少しはがしてくるくる回すと、「ペンペン」と音がするので、これを三味線をひく音に例えてペンペングサともいう。田畑、道端などに普通にみられる雑草であり、春の七草の一つに数えられ、若葉は七草粥(がゆ)などの食用とする。全草を止血、止瀉(ししゃ)などに用いる。ナズナ属は世界に5種、日本に1種あり、北半球に広く分布する。

● 文化史 日本では雑草だが、中国では野菜の一つで、萕菜(チーツァイ)とよばれ、葉が厚く鋸歯の浅い板葉(パンイエ)萕菜(大葉(ターイエ)萕菜)や葉の細い散葉(サンイエ)萕菜(百脚(パイチヤオ)萕菜、花葉(ホワイエ)萕菜)などの品種があり、上海(シャンハイ)あたりでは周年出荷されている。中国の利用の歴史は古く、6世紀の『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に、あつものの実に使うと載る。日本では平安時代初期の『新撰字鏡(しんせんじきょう)』(901ころ)に薺(なずな)、甘奈豆奈(あまなずな)の名で初見し、『延喜式(えんぎしき)』(927)には雑菜としてあがる。春の七草「セリ、ナズナ、オギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロこれぞ七草」の原形は、『年中行事秘抄』(永仁(えいにん)年間1293~1299に成立か)で、薺で始まり、蘩(はこべら)、芹(せり)、菁(すずな)、御形(おぎょう)、須々代(すずしろ)、佛座(ほとけのざ)と続く。江戸時代は陰暦4月8日にナズナを行灯(あんどん)につるして、虫除(むしよ)けのまじないにした。/ ナズナの語源は、夏にない夏無(なつな)から由来(『日本釈名(しゃくみょう)』)、愛する菜の撫菜(なでな)(『和訓栞(わくんのしおり)』)などの説がある。また、朝鮮古語では萕はナジnaziで、これに日本語の菜(な)がついたナジナが語源とする見解もある(小倉進平(おぐらしんぺい)『朝鮮語方言の研究』)。[湯浅浩史 2020年11月13日](ニッポニカ)


二月三日の「花と花言葉」を、例によって、ラジオ深夜便で話されていました。アンカー(担当者)は、ぼくの大好きな黒田あゆみ(現、渡辺)さんでした。「花言葉」は「すべてを捧げます」というのですから、まるで「追っかけ」の「別名」のようでもあります。またこの花には「ぺんぺん草」という、あまり風雅ではない異称があります。「ぺんぺん草が生える」とか、「ぺんぺん草も生えない」などというのです。その言うところは「家、屋敷などの荒れ果てたさまのたとえ。住む人のいなくなった家屋や、建物が取り払われ、空き地となった所の荒れ果てる様子をいう」(精選版日本国語大辞典)ぼくの家の庭にはこれが生えていますから、どういう庭なんでしょうか。ぺんぺん草ぐらいは生える庭、つまりは荒庭ということですね。
この「ペンペン」とは、この草の種が三味線の撥(ばち)の形をしているところから来ているようです。
よく見れば薺(なずな)花さく垣根かな(芭蕉)

ぼくの好む一句です。解説も解釈も無用でしょう。ぼくが若い頃に大いに啓発され、いまだにその仕事と、消えないままの面影に惹かれる大先輩(近藤益雄氏)が生涯の仕事としてやり通した「障害児(者)教育」の根拠地(園)の名前が「なずなえん」でしたので、ひときわ思いが深く残る「花」であり、その「姿形」です。近藤さんは長崎の人だった。

追記 ネットを見ていたら、MBSテレビのアナウンサー高井美紀さんが亡くなられたという。この人を、時々でしたが、とても良い印象を持って見ていたことが、急に懐かしく思われてきました。テレビの「女子アナ」とは別種の、当たり前の感覚で生きて居られた、その姿勢に、ぼくは惹きつけられていたのでした。無理をしない、無理をしているふうには見えない、実に柔軟な姿勢や態度に、これは生まれつき、育ち方からのものだと、実に羨ましく思ったものだった。企業の経営者などをインタビューした番組で、ゲストは脂ぎったり、闘志満々がやりすぎの感がしたのですが、高いさんは、実にやんわりというか、たしかな腕さばきで、ゲストが撒き散らす「臭み」や「臭い」を知らぬ間の消えさらせていました。稀有なテレビ人でした。(合掌)
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