
【地軸】梅と受験 きょうから2月。旧暦名では如月(きさらぎ)といわれるが、梅見月の異称もある。それを知らせるかのように、松山城本丸広場で梅が開花期に入ったとの記事がきのうの本紙に掲載されていた。▼10日ほど前に出向いた時は、まだつぼみの木が多かった。このところの寒波にも負けず、いち早く春の到来を告げてくれる。今月中旬ごろまで楽しめるそう。▼りんと咲く姿に心ひかれたのであろうか。梅をこよなく愛したといわれるのが学問の神様、菅原道真。大宰府左遷の際に自邸の庭で詠んだ和歌「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」が知られる。受験シーズンの今、天神様はさぞ忙しいことだろう。▼福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮が総本社として有名だが、道真を祭る天満宮、天満神社は全国に約1万2千もあるという。先月、松山市の履脱(くつぬぎ)天満宮を訪れた。▼不思議な名称は、大宰府に向かう途中でしけに遭った道真が履物を脱いで滞在したことにちなむとか。さすが、愛媛にもゆかりがある。境内では梅が開花を待ち、梅の柄入りの絵馬もあった。「○○ちゃんが志望校に合格できますように」。親が子を思う文言が何げなく目に入った。▼これから本番を迎える受験生は多かろう。道真が詠んだ梅は主人をしのび京から大宰府まで飛んでいったという「飛梅伝説」もある。最後は神頼みと、託した思いが全国で飛び交っていよう。努力が花開くことを願って。(愛媛新聞・2023/02/01)(右上は北野天神、左下は太宰府天満宮)

「今日から2月」と多くの書き出しは始まる。1月1日は、すでに「元旦」「元日」などと、言うまでもないこととして人口に膾炙(かいしゃ)しているのに対して、他のどの月よりも「二月」は「出立の日」の感触が強いのではないか、ぼくは勝手にそのように考えている。今日から6月、本日からは8月などというよりも、「今日から如月」と口にするとなにかあらたまった気分がするのですから、不思議ですね。この「如月(きさらぎ)」ですが、なぜそう読ませるのか、あるいはいかなる理由で「如月」という漢字が当てられたのか。よくわかりません。通説では中国における「二月」の異称が「如月(じょげつ)」だから、それを「衣更着(きさらぎ)」とした本邦の異称に重ねたということです。この二月には、他に沢山の呼称がありました。仲春とか梅見月とか。あるいは雪消月や木芽月など、如何にも「新春」を寿ぐ意味合いがあるのではないでしょうか。
この二月を象徴するような春立つ月を「令月」と呼んだことは、如何にもその季節にふさわしい明るさをこめていたともいえます。ぼくたちよりも遥かに多感で優美で、自然に包(くる)まれている喜びや悲しみを感じ取っていた「古人(いにしえびと)」を想い、わが同胞(はらから)の「季節を迎え送る」心情にうたれる。(参考までに。十二月にも多くの呼称や異称があるが、この「如月」と同じ音読みで「除月」というのもあります。詳細は省略)
「恵風(けいふう)」などという洒落た呼び名もあります。「1 万物を成長させる、めぐみの風。春風。2 陰暦2月の異称。3 君主の恩恵が広く行きわたるのを風にたとえた語」(デジタル大辞泉)つまりは、二月(きさらぎ)は待望の春到来を喜ぶ趣を籠めた季節であり、そのためにたくさんの「呼称」が残されてきたのでしょう。この数日、ぼくは、年初に戴いた「年賀状」への、月遅れの返信を書いていました。ぼくの正月(新年・初春)は「立春」であると宣言して、もうかなりの期間、この勝手な振る舞いをしてきました。年内に「賀状」が書けなかったのは大昔からで、だから、しばらくは年明けに(それも松の内の間に)、返信を書いていましたが、なにしろ、もっとも貧乏な時代、つまりは暇なしだったので、いっそのこと「寒中見舞い」にしてやろうと、いや、それならもっと遅らせ、「立春」に重ねて出しましょうということになったのです。賀状をくださった方には「興冷め」の仕業だと思われた方はたくさんおられると思います。そででも感情の赴くままに「虚礼」ではない「ご挨拶」をと、この悪癖を続けている。

● 如月(きさらぎ)= 陰暦2月の異称。「衣更着」とも書くが、これは平安末期の歌人藤原清輔(きよすけ)がその歌論書『奥儀抄(おうぎしょう)』に、「正月のどかなりしを、此月さえかへりて、更にきぬを着れば、きぬさらぎといふをあやまれるなり。按(あん)ずるに、もとはきぬさらぎ也(なり)」というように、「更に衣を重ね着る」という意に解したことによると考えられる。江戸中期の賀茂真淵(かもまぶち)は、「木久佐波利都伎也(きくさはりつきなり)」と説き、草木が芽を張り出すという意からできたことばとするが、ほかに「気更に来る」の義とし、陽気の盛んになることをいうとする説もある。俳句作法上、2月とは異なった点を十分に理解する必要があるむずかしい季語とされる。(ニッポニカ)

小学校唱歌で、もっとも好きなものは?と聴かれると返答に困ります。あえて言うなら「早春賦」を上げておきたいですね。これについてもは、昨年も触れました。作曲家や作詞家についても触れています。なかなか雅趣がありますが、「詞の表現」は難しい。作詞は吉丸一昌さん(1873~1916)、大分の人。作曲の中田章さん(1881-1936)は中田喜直氏の父。吉丸さんが長野県の安曇野地方に出かけた折に、その印象を詩に書き留めたものが素になったとされる。日本の学校唱歌に大きな力を発揮したのは長野出身の多くの音楽家でした。中でも、学校に唱歌を導入した第一人者が長野は高遠出身の伊沢修二だったことの影響がとても大きいといえます。
「早春賦」は1913年発刊の「新作唱歌第3集」に。*NHK東京放送児童合唱団(https://www.youtube.com/watch?v=n_vWpnYv2FA&) *佐藤しのぶ(1958~2019)(https://www.youtube.com/watch?v=ZN7TmRk9Xe0&ab_channel=SopranoChannel)(佐藤しのぶさん、今少し活躍の時間が欲しかったとつくづく思っています。このような「唱歌」にも、いささかの手抜きもない歌唱態度、それが、あるいは彼女の寿命を縮めた一因であったかもしれないと、募る哀悼の念は更に深くなります)

● 伊沢修二【いざわしゅうじ】= 教育家。信州高遠藩の藩士の家に生まれる。大学南校に学び,米国留学後,東京音楽学校(現,東京芸術大学),東京盲唖学校,東京高師(のち東京教育大学)等の校長を歴任。その間,西洋音楽の導入,日本最初の国定小学読本の編集,台湾総督府学務部長として植民地教育の定型化,国家教育社の創立,吃(きつ)音矯正事業等に従事。主著《教育学》。なお,弟の多喜男〔1869-1949〕は革新官僚で民政党系の黒幕。(マイペディア)
この厳冬の「季語」は「値上げ」であり「音上げ」ではないでしょうか。いろいろな情勢が作用している「物価高」と言われているし、実際にはそうなのでしょう。でも、これを千載一遇の好機と、便乗値上げに奔る不届き業者もいると思う。中でも今般の物価高の筆頭は「電力会社」。値上げの背景や理由はいくらでも捏造できますが、この業界の「値上げ」は「御社も大変ですね」といって諸手を挙げて認めることはできないものだと、ぼくは言いたい。面倒は言わない。電力料金の設定は、どう転ころんでも「損をしない」ような仕組みになっています。発電から送電、果ては人件費まですべての「コスト」なるものをまとめて「電力料金」の中に組み入れられます。他企業や他業界では人件費が下げられ、設備投資もままならないなかでのやりくりですが、この業界だけは政治と結託して、儲けが出る、損しない「料金設定」が罷り通って来たし、いるのです。さらに悪質なのは、全国の電力会社の中で、現在「原発停止状態」の地域の料金は、そうでないところよりも割高になるように企まれている。あからさまな、原発稼働、新増設方針の好例です。原発再稼働も新増設も、できるものならやればいいのではないですか。やれないことをやれると強弁するには、必ず裏があるのだね。
ごく一般家庭の電気料金が異常な金額になっています。さらに、オール電化住宅は、地域差はあるものの、軒並み十万円台を記録しています。異様ですね。異次元の高額。さらにこれまで盛んに宣伝に努めてきた「深夜電力割安」の絡繰(からく)りも、現下の状況で化けの皮が剥がれて、なんとある電力会社では「深夜電力料金は二倍超」になると、手のひら返し、詐欺まがいの商法を展開しているのです。くだらないことはいいたくないけれど、政府お抱えの電力会社がこれまでどれだけ、政治力に「庇護」されてきたかを想えば、どの面下げて「値上げは心苦しいけれど」と言えるのか。「心苦しい」と口ではいいながら、とんでもないことを考えているのだから。

【日報抄】きょうから2月。今冬がことさら厳しく感じるのは気温の低下が著しいからか。外を歩くと、コートやマフラーのわずかなすき間から冷気が入り込む。家にいても部屋の中がなかなか暖まらない▼寒さで体の熱が奪われ、低体温症になり命を落とすことを凍死という。室内で凍死する人が増えていることは、あまり知られていない。低体温症というと山岳遭難など屋外で起こるイメージが強いが、救急搬送された人のうち7割が屋内での発症だったという調査結果もある▼夏場は熱中症に注意せねばというのは常識のようになった。しかし2000~21年の凍死者は約2万2千人で、約1万6千人だった熱中症死の1・4倍にもなった。熱中症よりもさらに危険な存在といえそうだ▼とりわけ体温の調節機能が衰えがちな高齢者は温度への感覚が鈍くなり、寒さを感じにくくなるという。冬は多少寒いのが当たり前…とばかりに我慢していると、取り返しのつかないことになるかもしれない▼切ないのは、暖房に使う燃料費や電気代が大幅に値上がりしていることだ。命あっての物種だけど、財布が空になれば生きていくのは難しい。どちらに転んでもつらい。あまりに厳しいジレンマに、心はいっそう凍り付く▼室内での凍死が増えている背景には、高齢者の独居など孤独が深まっていることもあるという。この点では熱中症と同様だ。周囲の見守りなど、人の温かさが大切になる。社会のぬくもりの水準を少しでも上げて、冷えを防ぎたい。(新潟日報・2023/02/01)
「寒さで体の熱が奪われ、低体温症になり命を落とすことを凍死という。室内で凍死する人が増えていることは、あまり知られていない」
劣島に大流行の「闇バイト」なるものに気を奪われている間に、なんとこの小国は「ウクライナ並」の厳寒での「窮乏生活」を強いられている人々が少なからずいるということに思いが及ばなかった。中でも窮乏の果に「室内凍死」が増加しているというのです。そんなことがあるのだろうかという疑問がわくが、事実だというのですから、ぼくは「心が寒い」。熱中症よりも室内凍死者の方は遥かに多いという。これはどうした理由なのかと自問自答する。ぼくは石川県に少し住んでいたから、当地の冬の寒さ・厳しさは知っています。今から七十年前の時代で、暖房などあるはずもなかった。寒風吹きすさむ荒屋(あばらや)で、煎餅布団にくるまっている他なかったが、それでも、「しもやけ」「あかぎれ」に悩み苦しんではいたけれど「凍死」はしなかった。

コラム氏の文章では「室内凍死」は「高齢化」のゆえであるとしている。つまり、年寄は七十年前よりも「弱体化」したとも言いたいのか。「室内での凍死が増えている背景には、高齢者の独居など孤独が深まっていることもあるという」、たしかにそうかもしれない。でもそれは自然現象だろうかと疑うなら、こうなった背景には積年の「政治・行政の不在」を指摘したくもなるのです。オレオレ詐欺や侵入強盗だけが「闇バイト」ではないだろう。政治そのものが、実は紛れもない「闇バイト」だといいたくもなる。政治の私物化、権力の乱用・濫用。政治不在による、世界同時不況の始まりが起こっています。同時に、世界同時「闇バイト政治」も並走中です。益々「室内凍死」が増えるでしょう。寒いが上に寒い、本年の「如月」であり「立春」であります。
「凍死者」の出現は、室内外の低温のせいではなく、政治や経済のもたらす「弱い者いじめ」による「心の寒さ」を主因とするものではないですか。「老人は疎まれている」というのは、老人であるぼくの実感です。一人の元総理が「一体何時まで生きるつもりなんだ」と老人をコケにするような発言そしたし、いまだって、その見下した「老人刊」は変わっちゃいない。「おのれだって、老人じゃん」といってやりたいけど、ぼくは言わない。「天に唾する」愚か者になる気はないから。
「寒心」という日本語があります。「恐れや不安の念で、ぞっとすること」と「大辞泉」は説明しています。その昔、愛用していた広辞苑は「心配などで肝をひやすこと。心に恐れを抱いて、ぞっとすること」とさらに寒々しい説明をしています。政治も経済も、その振る舞いにぼくは少しも感心しない。「自分だけ」「身内ばかり」「今だけ」という、利己的刹那主義は、ますます「凍え死ぬ」人を増やし続けるのです。「電気代」の問題なんかではありません。「思いやり」という心持ちの醸し出す「暖かさ」の有無、それが問題なんだね。(右上のグラフは厚労省「令和2年(2020)人口動態統計(確定数)の概況」:https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei20/index.html)
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