弱者を「弱者」に閉じ込めるのは誰か

【余録】2016年のカンヌ映画祭で最高賞を獲得した「わたしは、ダニエル・ブレイク」は、病気で失業した大工、ダニエルの苦境を描く。公的支援を得るための手続きがあまりに冷淡で、尊厳を傷つけられていく▲無収入の身に物価高は容赦ない。高額の電気代を払うため、亡き妻との思い出が詰まった家具を売る。ダニエルを絶望から救い出したのは、かつて彼が手を差し伸べたシングルマザーのケイティだった▲2人の子を育てるケイティも無職。空腹に耐えかね、フードバンクでもらった缶詰をその場で開けて手づかみで食べる。「みじめだわ」と泣く彼女にダニエルが「君は何も悪くない」と声をかける場面に胸をつかれた▲ケン・ローチ監督は、弱い者に不寛容な社会を告発してきた。綿密な取材に基づいた展開には説得力がある。フードバンクの場面も実話だそうだ。「映画を通して社会の構造的な問題を解決したい」とインタビューに答えていた▲今の日本にも多くのダニエルやケイティがいる。今年は食品だけで1万品目もの値上げが予定され、光熱費も右肩上がりだ。一方で給与は伸び悩む。正規社員が半数に満たないシングルマザーには、賃上げの恩恵も薄い▲国会では岸田文雄首相が「次元の異なる少子化対策」のために当事者の声を徹底的に聞くと語った。「まだ聞いてなかったの?」と驚いた。閣僚席には、のりの利いたワイシャツを着た人々がずらりと並ぶ。映画で「聞かない力」を発揮していたお役人も同じ格好だった。(毎日新聞・2023/01/30)

「イギリスに生まれて59年、ダニエル・ブレイクは実直に生きてきた。大工の仕事に誇りを持ち、最愛の妻を亡くして一人になってからも、規則正しく暮らしていた。ところが突然、心臓の病におそわれたダニエルは、仕事がしたくても仕事をすることができない。国の援助を受けようとするが、理不尽で複雑に入り組んだ制度が立ちはだかり援助を受けることが出来ず、経済的・精神的に追いつめられていく。そんな中、偶然出会ったシングルマザーのケイティとその子供達を助けたことから、交流が生まれ、お互いに助け合う中で、ダニエルもケイティ家族も希望を取り戻していくのだった。/ ダニエルには、コメディアンとして知られ、映画出演はこれが初めてのデイヴ・ジョーンズ。父親が建具工で労働者階級の出身だったことから、何よりもリアリティを追求するケン・ローチ監督に大抜擢された。ケイティには、デイヴと同じくオーディションで選ばれた、『ロイヤル・ナイト 英国王女の秘密の外出』のヘイリー・スクワイアーズ。どんな運命に飲み込まれても、人としての尊厳を失わず、そばにいる人を思いやる二人の姿は、観る者の心に深く染みわたる。/ これはもはや遠い国の見知らぬ人の話ではない。ダニエルのまっすぐな瞳を通して、ケン・ローチが教えてくれるのは、どんなに大きな危機を迎えても、忘れてはいけない大切なこと」(映画「わたしはダニエル・ブレイク」公式サイト:https://longride.jp/danielblake/

 イギリス生まれの映画監督ケン・ローチ。月並みのキャッチフレーズを使えば「社会派」でしょうか。ぼくはこの「わたしは…」を観た時に、拙い感想を何処かで書いておきました。以来、イギリスは言うまでもなく、この小島国においても事態は悪化の一途を辿っており、まるで「死にもの狂い」で生きている人々を、政治も行政も嘲笑(あざわら)っているようにしか想えない。一昨年の東京五輪、当初は「七千数百億円」で開催と人民を騙し、終わってみたら三兆円、四兆円も浪費していたと言われ、未だ(永遠に)に全額は公表されず、賄賂や不正経理で消えた金額も空前の額に上ると見られます。かかる疑獄に関わっていた大半の関係者は「大学出」だった。まるで、大学は不実で不正な人間を養成している「授産場」ではないですか。この堕落や横領は、何も劣島国に限りません。政府か行政か(それに準じる民間でも同様)、そんな名前の付いた組織や制度は、構造的に「公金」を搾取する仕組みを作り上げているのです。イギリスでも事情は同じ。だからこの映画に、ぼくたちは怒りや悲しみを湛えながら大きく共感するのではないでしょうか。(右の「赤字文」はローチ監督が映画制作への動機を語っている)

 ぼくは、何時とはしれず、「趣味は寄付することだ」と親しい仲間に言い続けてきた。少しでも寄付病に感染する人を増やしたかったから。もちろん、有り余る金があるわけではない、親子四人と猫数匹がなんとか糊口をしのげればいいという貧乏根性からでした。つまりは、「貧困」「ひもじさ」と隣り合わせの生活を続けてきた人間には、その苦しさに押しひしがれている人々の感情は、自身の感情でもあるという強烈は思いがあってのこと。野良猫(捨て猫)を見ると、「捨てられているのはぼくだ」という気分に襲われ、それを見過ごすことができなかった。慈善でも福祉でもなく、生きるための算段は、ぼくも猫もいっしょじゃないかという、同病相憐れむ心情が根っこにあったと思う。金をほしいとは考えない。必要なら身を粉にして稼ぐだけという、「貧乏哲学(poverty philosophy)」がぼくにはあった。

 こんなことをいくら言っても意味のないことで、だから言いたくもないのです。しかし、そうだからと放置しておけば、腹の虫がおさまらないから、それを宥(なだ)めたい気もする。電話一本で「数千万円」を老人から搾取したり、いきなり他人の家に押し込んで「暴行を加えて(時には生命まで奪って)、金品を略奪する」、どうせその金も「溝(どぶ)に捨てられる」運命にあると考えると、そんな金を私有していないで、「貧者の一灯」ならぬ、富者の恵み金(寸志)として寄付すれば、どれだけ気分がいいか、助かる人もかならずいるのだし。そんな埒もないことを考えたりしているのです。

 この「わたしはダニエル・ブレイク」のように、役場にでかけると、ぼくはきっと「余計な一言」を口にする。役場の吏員が憎いのでも、意地悪されたからでもない。とにかく「公務員」「全体の奉仕者」という意識に欠ける人が多すぎるからです。弱い者いじめや営業妨害は、ぼくのもっとも嫌うところで、だから、住民の感覚で公務をしてほしいという願いだけで物を言うのですが、それがなかなか通じない。公務員とは〈a whole servant〉のことです。

 学校の教師も同じですね。困っている、苦しんでいる子どもに「救いの手」を差しのべるために存在しているという「教育公務員(私立学校教員でも同様)」が皆無とは言わないが、驚くほど少ない。昨日の駄文でも書きましたが、イジメから逃れるために?、切羽詰まって「自死」した子ども宅に、七ヶ月遅れで「弔問」に赴き、「我が子はどうしていじめられたのか」と泣いて問いただす母親に「お答えは差し控えさせていただく」とほざいた教育公務員。ぼくは少々のことでは驚かない人間であると思っていますが、ここまで国会議員の堕落が蔓延・瀰漫・感染していることを知り、底なしの悲しさと、怒っても無駄だけど、だからこそ「腹の底から怒る」必要性を感じたのです。怒るだけ無駄と、いいたくなる人は多い。でも、だ。無駄が必要なときもあると、考えるぼくのような人間(愚人)もいる。

 ダニエル・ブレイクは劣島のいたるところにいるし、ケイティ(母親)も日々生活に押しつぶされながら、健気にいのちの尊厳を捨てない。そのような「人生の機微」を写(映)し撮ろうとしたこのささやかな雰囲気を持つ映画は、どんなに大掛かりな見せかけで作られる映画よりもぼくたちの心を捉えるのは、ここに、「現実がある」「誰にも優しくなれない現実がある」からでしょう。役所の吏員を演じた役者たちの演技は完璧でした。常日頃から見なれているんですね。助ける気持ちはありながら、助けようとすればするほど、自分自身が矛盾に陥ってしまうという「(政治や行政の)仕組み」のなかで藻掻いているのは彼や彼女たち、役人かもしれません。汚職に奔るのも役人だし、それを断じて認めないのも役人です。二人は別人であると同時に、同一人物の二つの表情かもしれないと、ぼくは痛感している。

 それにしても、この島の政治の酷(ひど)さと言えば、卒倒するばかりで、昔日の姿を想像しても、いまや見る影すらない。ここまで堕ちたというのですが、どうしてそうなったか、毎日の積み重ねでこうなったとしか言いようがないのです。「誰ひとり取り残さない」という甘いささやき、その本心は「一人だって救ってやる気はない」ということの言い換えに過ぎません。国民のためという口上は、政治家の枕詞で、ほとんど意味がないことの証しです。「青丹よし」といってなんか重い意味も、深い意味もあるのではない。掛詞、枕詞という他に、受け止めようがないのですから、歌人には「困った時の枕詞」というらしいのとかわらない。多分「前口上(嘘っぱちが始まるという合図)」でしかないのでしょう。嘘つきは政治家の始まりであり、終わりですね。貧困問題は「政治家」の不作為に尽きる。

 (「わたしはダニエル・ブレイク」予告編)(https://www.google.com/search?

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)