ある番組を観て、何時まで経っても「いじめ」に対して、教育者や教育行政家は「子どもの辛さ」を理解しようとしない体質を持っていると、嫌になるほど感じてきたものを、さらに改めて確認させられました。人間が作る、人為的な集団ではかならず、きっと「いじめ」は起こるという。ぼくも、それを否定する根拠は持たない。いじめは自然現象だから、どうにも手の打ちようがないのだということではないでしょう。京都と大阪の二つ「いじめ問題」を番組では扱っていた。京都の場合、クラスで男の子が、数人の女子から「集団イジメ」を受けていた。教師はその事実を知っていたが、なんとかしようとはしなかった。一人の同じクラスの女子が担任に伝えて、なんとかしてほしいといったが、教師は「世間ではどこにもいじめはある。だからそれを認め、て耐える(我慢する)事が大事だ」と言うばかりで、何もしなかった。それを聞いて、その女子児童は「学校に対する不信」を募らせ、ついには登校拒否(不登校)になり、それが何年も続いているということでした。

大阪のケースはやはり「いじめ」にあっていた男児が不登校になり、親ともどもに「転校」を求めたが、学校は許可しなかった、というより、それを聞かなかった。「とにかく、学校に来るように」の一点張りだった。(子どもが学校に来なくなると、教師たちは、「自分が否定された」と感じるのでしょう)まもなく、その男児は「自死」した。その後に及んでも学校や教育委員会は積極的に善後策を取らなかったばかりか、クラスの子ども達に「自死」の事実さえも知らせなかった。ぼくも教師稼業の真似事をしていた時、何度も同じような問題に遭遇したり、相談を受けたりした。そのとき、ぼくはまず、「学校には、どうしても行かなければならないということはない」ということは最初の段階で話した。もちろん、それが解決策であるという確信なんかなかった。でも、なにかの理由で「学校に行けない」「行きたくない」というのだから、その理由が学校やクラスにあるとするなら、問題はそちらにあると考えたからです。江戸以前は、ほとんど学校なんかなかったし、行かなかった子が大半だったという歴史事実を考えるといいでしょう。
この「いじめ事件」の報道と同じ時期に、ぼくは youtube で高名な解剖学者の講演会の模様を見た。そこの講演会にはいろいろな大学からの学生が参加していた。おそらく五十人以上はいたかもしれない。はじめ、参加者の表情を見て、「中学生?」と思ったほど、如何にも幼い顔が並んでいた。Y氏は予め、参加者にアンケートをしていて「今、あなたは幸せですか。その理由はなんですか」というような質問に答えてもらっていた。アンケートの結果について講師は話した。参加者のすべてが「自分は幸福である」と答えていたことに驚いたという。「幸福の理由」の大半(あるいは、すべて)は、友人に恵まれている、家族と上手くいっている。困った時に相談する大人がいる」といったようなことでした。もちろん、不登校に悩んでいる「大学生」はこんな講演会には出てこないでしょうし、たった一人で講演会に参加するというのではなく、動員がかかっているような雰囲気があったから、この場には「自分は不幸です」という人は参加していなかったのでしょう。

それはともかく、Y氏は「幸福と感じる根拠がすべて人間関係なんだ」と驚いたと言っていました。この「人間関係」を別の表現で言うと、「社会」です。あるいは「社会集団」です。幸・不幸の理由(根拠)が「人間関係」であるというのはどういうことでしょう。ぼくたちは、幾つもの集団に属しています。家庭・幼稚園・小中高校・大学・企業・サークル等々、そのすべては、社会集団として人為的に作られている組織です。もちろん、ボランティアの集団もありますし、趣味の集団(サークル)もある。でもそれらも、非公式ではあっても「人間関係」に支配されているのではないでしょうか。幸福や不幸の原因・理由の殆どが人間関係に依存しているとはどういうことか。この関係が上手く行っていたとしても、何かのきっかけで、一瞬に崩れる危険性があります。学校(クラス)を例に取れば、誰にも思い当たる節(ふし)があるはずです。
昨日まで「上手く行っていた」のが、なにかの拍子で「仲間はずれ」に会う。「いじめ」を受ける。ぼくたちが幸福であると思い、不幸であると悩む、あるいは思い余って「自殺」することさえある、その境界というか、基盤は実に「脆(もろ)い」というほかありません。人間存在の根拠が、他者のたった一言によって左右されるというのは、どうしたことですかね。いじめを受けた子ども、その子どものいじめを、なんとかしたいと思い悩む同級生(クラスメート)、そのどちらに対しても担任教師や学校当局、あるいは教育行政側は、何をしなければならないか、(釈迦に説法)でしょうから、ぼくは言わない。言っても無駄という気もします。

テレビ番組のなかで、亡くなってから七ヶ月後に教育行政担当者が児童宅を訪れた。大阪泉南市だった。最初はしおらしく「遅くなったが、お悔やみを」とかなんとか言っていたが、「息子はなぜ亡くなったのか」「どうして、転校を認めてくれなかったのか」「クラスの子達に自殺したことを、なぜ知らせなかったのか」と、そのこの母親から、幾つもの質問を投げかけられた。ぼくはここまで堕ちているのだ、と驚愕したのは、その問いただされたことごとくに「お答えは差し控えさせていただく」というものだった。お悔やみを述べるため(弔問)に、「霊前」にぬかずいていたのに、根っこでは、自殺した子どもいのちに一分の「哀悼の意」もなければ「尊敬心」の欠片(かけら)さえなかった、とぼくは直感した。役目上、仕方なしに「割の合わない立場」だという不平さえあったかもしれない。そして、教育委員会は「第三者(有識者)委員会」を立ち上げて、真相の究明に当たるということだった。なんで、自らが責任を持ってことに当たらないのかな。「学校なんか、消えてしまえ」と叫びたいね。

ぼくも教師の端くれをしていた自覚はあったし、メシの種だったから、仇や疎かに仕事を考えていたことはないと、今でも言える。ぼくにとって、学校は「教室」の一つではあっても、すべてではなかった。何事であれ、学ぶことができる場、それが学校だった。人間関係が「人生のすべて」などと、どうして幼い子どもたちは考えさせられてしまうのだろう。学校に行けない子は「だめな子」だと、なぜ教師はいいたがるんだろう、この疑いというか不信は、ぼく自身も小学校から持ち続けているものです。「教師に近づきすぎるな」「学校とは距離を取れ」、その反対に「教師に不信感を持つ方がいい」「学校の餌食になるな」と、飽きることなく言い続けてきた。理由は単純です。学校だけが「社会」ではないからです。もっというなら、社会という人為的な制度や組織に自分を預けると、潰されることだってあるぞ、そんな気を持つ方がいい考えるから。自分の「幸福、不幸」の決定権を「人間関係」が握っている、そんなことなんかありえないんだ。そう思い込まされているだけ。「人間関係」や「社会」というものは、自分を殺さなければ、いつかきっと復讐される危険性をつねに孕(はら)んでいるのですよ。

人間関係、あるいは社会だけが、一個人の行き場なんかではありません。もっと大事な、自分自身もその一部である「自然」というものを、忘れてほしくないですね。こんな事を言う時、ぼくは何時だって、何人もの人々(ほとんどは先輩です)を想起している。まず、映画監督の羽仁進さん。羽仁さんは幼児の頃から強度の「吃音」だった。言いたいことはスムースに出てこない。だから人との交わりが苦手で、いつもで「昆虫」と遊んでいたという。この事実は、ぼくにはとても大きな示唆を与えてくれました。羽仁さんは「昆虫と自分」という(共同体」を作っていたし、そこで命を育んでいたのです。後に、彼は映画製作に取り組み、素晴らしい昆虫の世界をぼくたちに教えてくれました。さらに、画家の熊谷守一さん。この人については何処かで触れています。画家として、さらに人間として実に「純粋」だったと思う。だから、ありや蝶々や猫や、その他の昆虫たちが気を許したんだろうね。
人間関係だけで「幸福・不幸」を決めるようでは、人生の大切な宝物の半分以下しか見ていないことになります。「自然」というものを、人間が身ぐるみ預けてもいいものとして、ぼくたちはもう一度再発見しないか。犬でもいい、猫でもいい。メダカでも、花々でも、何でもかまわい。人間社会の網の目に入らない「自然」から「幸福感」を得られると本当に嬉しいね。(いつも通り、お粗末の一編でした)
学校がなくなっても人間は生きていけます。でも、自然がなくなれば、その一分である人間も当然、消えてしまう。「昆虫との社会」を作ろうと、件の解剖学者は言っていたように思われましたよ。
_______________________