
<卓上四季>悪魔のささやき 初めから殺人者として生まれてくる人間などいない。そんな当たり前のことを教えてくれたのが、先日93歳で亡くなった加賀乙彦さんだった▼作家として死刑制度や社会問題に関する多くの著作を残した。「ある若き死刑囚の生涯」(ちくまプリマー新書)もその一つ。貧困や嫉妬などから犯行に及んだ死刑囚が、歌人となり罪と死に向き合っていく様は人のもろさと更生する強さの両面をつぶさに明かしていた▼福岡市博多区の路上で女性が刺殺された事件を機にストーカー規制法の限界を指摘する声が高まっている。容疑者が接近を禁じられていたにもかかわらず、事件が起きたからである▼加害者に衛星利用測位システム(GPS)を装着させる案も浮上するが、法令に反していない段階での装着を正当化する根拠に乏しい。万一GPSを外された場合は効果も期待できない。警察による巡回警護もおのずと人的な限界がある▼「悪魔がささやいたとしか言いようがない」。1954年に精神科医として一歩を踏み出して以来、多くの犯罪者と向き合った加賀さんが何度も耳にした言葉である▼恐ろしいのは、こうした自分ではないような意思が人をとんでもない犯罪へと走らせること。ストーカー対策ではカウンセリングも有効だろう。相談に乗ったり、注意したり、時には叱ったり。犯罪を防ぐのは悪魔につけ込ませない隣人の言葉である。(北海道新聞・2023/01/27)(写真は日経新聞・2023/01/17)

この社会では「衝動殺人」という言葉がよく使われた。予(あらかじ)め殺害を計画した上でのことではなく、そのつもり(意図)がなかったのに、「ついカッとなって、やってしまった」というのでしょう。しばしば、「殺意」や、その具体的な「計画性」が問われるのが裁判。「未必の故意」という語も多用されている。「殺すつもりはなかった」のに、起こってしまったということ。武器を持参して相手に接近するのは、「殺意」があるからだとも言えるし、脅すために持っていただけとも弁明(釈明)できる。実際のところはどうだったか、誰にもわからないことだと思う。「確信犯」と自他共に認めているなら、裁判はそれほど困難ではない、そこでは「量刑」のみが争われるのだから。作家の加賀乙彦さんが亡くなったというニューを聞いて、ぼくは、とっさに二つのことを感じた。
一つは、何度か加賀さんに会ったこと。本当はすれ違っただけだったが、たしかに挨拶をし、一言、二言の言葉を交わしたこともあった。当時、千九七十年台前後、学部生のぼくは文京区本郷に住んでおり、加賀さんも同地に居られた。夕食後のほぼ決まった時間に、東大前の古書店や地下鉄駅前のレコード店に顔をだすことが日課だった時代。加賀さんはもちろん、すでに小説を書いて居られた。ぼくは未読だったが、上智大学だかの教授としても、精神科医としても、あるいは小説家としても高名だった。(すでに半世紀以上も前になる)たったそれだけのことだったが、なにかあると、この小さな「邂逅」を思い出す。静かな佇まいを感じさせる「大人」が前に立っていると感じ入った。

もう一つは「冤罪」「死刑」「裁判」といった、実に深刻でもある問題群を小説の主題として真摯に書かれていたのだが、その「テーマ」とも言えるものが「メメント・モリ(memento mori)」だったということ。これはキリスト教の教えでもあったもので、加賀さんは「カトリック」の信仰者だったと記憶している。この言葉(格言・格律)は、人間の行動規範とも言えるし、基準ともなるものです。古代ギリシャ、ローマの早い段階から、人間社会では問題語として扱われていたことが知られている。多様な意味を含んでいたし、使われてもいた。
ぼくは、学生時代にカント哲学を学んだが、そのなかでも、彼は「メメント・モリ」を自らの生活規範としていたことを知った。生きているとは、何時でも死が伴っているということ、あるいは「何時死ぬことがあっても、それを後悔しない生き方をせよ」、そんな意味のことを彼は書いていた。たしか、ドストエフスキーもこの語を使っていたと思う。「メメント・モリ」は、邦訳では「死を想え」「死を忘れるな」と訳されています。セ氏でワンセット、人つづきの過程として捉えておけということだったように理解していた。ある面では、ぼくたちは日常的に、この表現に身近に接しているとも言えます。自分ではなく、誰であれ、他者の死は毎日のように耳目に届く、そのたびに、濃淡の違いはあれ、「メメント・モリ」と復唱しているのです。この表現をタイトルにした書作は幾つか公刊されています。「メメント・モリ」について、ある辞書による解説を以下に。
● みひつのこい【未必の故意】= 法律用語。犯罪の実現とくに結果の発生を意図した場合およびそれが確実だと思っていた場合は故意であり,それを全く考えていなかった場合は過失になることに問題はない。しかし,この中間的な場合,すなわち,もしかすると結果が発生するかもしれないとは思っていたが,それを意図したわけではないという場合に,これを故意・過失いずれとみるかは問題である。このような事例は,すべての犯罪について起こりうるが,実際に問題になるのは,通常の殺人(かっとなって刺した場合など),自動車事故(暴走して事故を起こした場合など)などが多く,公害事件などでも問題になる(被害が出るかもしれないと思いながら操業・販売を続けた場合など)。(世界大百科事典第2版)

● 【死】より=…孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ――〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。…

【髑髏】より=…一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。当時,〈死を想え(メメント・モリ)〉の思想と〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉の絵とが人々をとらえ,パリのイノサン墓地では,回廊の納骨棚にさらされた多数のどくろやその他の骨が人々に死が来るのは必定であること,したがっていたずらに生の歓びをむさぼることの空しいことを説いていた(ホイジンガ《中世の秋》)。デューラー,ホルバイン兄弟らが好んでどくろや骸骨を描いたのは15世紀末以降のことである。…(世界第百科事典における「説明・言及」)
人間は間違いを犯す存在です。大小を問わず、人は必ず、生きている間に過ちを繰り返すものです。間違わない、過ちを犯さない、それは人間ではありません、それほどに人間の「弱さ」は完璧です。問題はどんな間違いを犯すかではなく、犯した間違いをいかに改めるかということにあるのではないでしょうか。「過ちては改むるに憚ること勿れ」(「論語・学而」)と哲人は言う。他文明では「It is never too late to mend.」と言っています。人間の弱さが避けられないことの証明にもなるでしょう。ぼくは、この駄文集録で度々「罪を憎んで、人を憎まず」ということを指摘してきました。これもまた、孔子の言だとされています。それ程に、「過ち(誤ち)」「間違い」から解放されないのが人間の条件(制約・限界)なのでしょう。犬や猫には「誤ち」はない、失敗はあっても、それを間違い(過ち)であるという自覚と、さらに犬猫社会に「共通の認識(コンシャンス・良心)」があるようには見えないのですから、ないも同然。樹木がなにかの理由(原因)で倒れるのも「間違い」「誤ち」ではないでしょう。人間社会のみが「罪の意識(良心)」を認めるのです。(好み方は、人間の側からする偏見かもしれない)

なぜ、人間には「間違い」「誤ち(過ち)」が伴うのか、それが意識というものだと言えば簡単です。しかしこの「過ち」の自覚(意識)はもとから内在しているのではないことはいうまでもありません。裁判の核心部には「問責」というものがあります。犯罪の責任が問えるかどうか、それがまず確かめられることから裁判は始まります。罪の自覚や意識がなければ、その責任を問うことはできない。よくニュースになる「飼い犬が郵便配達さんを噛んだ」と、その際、犬に刑を課すことはできない。あるいは食餌を抜かされることはあっても、自分から反省して飯を食べないということはない。辛うじて、犬の飼い主が責任を問われるのです。
このことを、一人の人間に移し(置き)替えるとどうなるか。罪を犯す(犬)のは(情動・衝動・情念)です。その持ち(飼い)主はだれですか。倫理の筋からすれば、罪を犯した当人ですね。でも、当人を裁けない場合は、誰を裁くのか。心神耗弱状態で、適切な判断は不可能だったら、罪は問えないこととなっているのが、現行裁判制度の根底にある思想です。誤解を恐れずに言います。人間は弱い存在だという、その意味は「情動」「衝動」「情念」という本能に根ざす感情は、あるいは当の本人ですら制御できないことがある。制御不能だったから、事件(犯罪)になるのです。犬(情念)と飼い主(当人)という構図が成り立たないことが起こり得る。普段は冷静だったが、なにかのきっかけで、「カッとなって」ということは誰にも起こりうることです。「あんなことをする人だとは信じられない」のは、自分の情動を管理(自制)していて、鎖でつなぐことができていた「人間」を見ていたからです。しかし、「衝動にかられて」(自制心が失われて)、つまりは「主人」から自由になって暴力に走った。だから、「信じられない」となるのです。

「罪を憎んで、人を憎まず」としばしばぼくが言いたくなるのは、罪(情動と言い換えても構わない、これを加賀さんは「悪魔のささやき」と言われた)は確かに裁かれる必要はある、しかし、その「持ち主」とは言い難い、(当人ですら、どうすることもできなかったのですから)人間が裁かれるのは理にかなっていることか、問題はここにあるのではないでしょうか。幼児が銃を乱射して人を殺害したとして、誰が裁かれるのか。ぼくに言わせれば、第一には「銃」です。でも、銃に責任能力がないのは明らかですから、幼児に問責の矢は向かうでしょう。しかし、幼児も「銃並み」で「責任能力」はないとするなら、裁かれるのは誰かという問題が残ります。「保護者」ですか。
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米で4歳男児が銃振り回す 父親を逮捕、TVで生中継【ニューヨーク共同】米中西部インディアナ州インディアナポリス近郊のアパート廊下で、男児(4)が実弾入りの拳銃を振り回し、警察は17日までに保護責任者遺棄の疑いで父親(45)を逮捕した。米メディアが伝えた。警察に密着していたテレビ番組の生中継で男児の映像が放送され、衝撃が広がっている。 14日夕、銃を持った男児がいるとアパート住民から通報があった。引き金に指をかけて発砲するふりをする様子が防犯カメラに写っていた。駆け付けた警察官が男児の住居から銃を押収し、父親を逮捕。弾倉に15発入っていたが薬室に装填されておらず、すぐに発砲できる状態ではなかった。(KYODO・2023/01/18)

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「恐ろしいのは、こうした自分ではないような意思が人をとんでもない犯罪へと走らせること」というコラム氏の指摘は、もっと深く考えなければならない問題を含んでいるように思われます。自分ではないようなものが犯した「犯罪」の責任を問われるのは「自分」なのだとするのが近代裁判精神の姿(思想)でしょう。報復主義と言ってもいい。それで、しかし、一体何が解決したのか・されたのか。なんともいえない後味の悪さだけが残ります。(ここから、幾つかの問題を検討しなければならないのでしょう。しかし、天候が悪くなってきたのと、猫たちが寒がっているので、その世話・養生もしなければなりません。かみさんは外出中。ひとまず、ここで駄文を閉じます。稿を改めて、いずれ続きを)
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