はるばるとうす桃色の雪の鱈

 【日報抄】真っ先に箸を伸ばすのか、それとも後に残しておくか。好きな食べ物に手を付けるタイミングには、それぞれの流儀がある。今が時季の鱈(たら)はどうだろうか▼「鱈汁と雪道は後が良い」という。身やあらをじっくりと煮込むほどにうまみが増していく。雪が降り積もった道にしても大勢の人が通って踏み固められた後は格段に歩きやすい。言い得て妙と膝を打つ▼青森辺りに行くと「じゃっぱ汁」、山形では「どんがら汁」「寒鱈汁」という鍋物もある。山形県鶴岡市出身の作家、藤沢周平も自らのエッセーで地元で珍重される冬の食べ物に挙げていた▼本県も鱈とは縁が深い。佐渡金山の労働者の食料として重用され、1610年代に入ると、はえ縄漁の漁場が全島に広がった。佐を「すけ」、渡を「と」とも読めることからスケトウダラの語源となったとの説もある(赤羽正春「鱈」)。佐渡鱈は俳句の季語でもある▼ロシア政府は北方領土周辺でのスケトウダラ漁などの操業条件について、日本と協議に応じない方針を示した。今の状況が続けば、漁や店頭価格への影響も気になってくる。燃料代をはじめとした物価高も続いている。財布を気にせずたらふく、とはいかなくなるかもしれない▼そうは言っても旬の味覚は堪能したい。「鱈は馬の鼻息でも煮える」という言葉もある。それほどに火の通りがよい魚である。燃料代を多少節約しても食べ頃になるだろうか。捨てるところがないという厳冬の海の幸を食す頃合いを探ってみたい。(新潟日報デジタルプラス・2023/01/25)

 今日、鱈(たら)という魚が高級なのか低級なのか、ぼくにはわかりませんが、この魚との因縁は、かれこれ七十年を超えています。まだ、学校に入る前から、田舎の家の近所では、年中行事のように真冬になると、「タラ」の頭や内臓などもとりまぜて、それこそ大量の「鱈商い」がにわかに店開きをしていました。おそらく、季節の魚であり、ほとんど捨てるところのない食材として、冬場の栄養源の代表格となっていたのでしょう。この「鱈売の店開き」が始まると、如何にも「厳冬」という気分に小さいながらになったものです。七十年以上も前の能登半島の農村では、それこそ雪で閉じ込められ、今日のように懇切丁寧に「十年に一度クラスの大豪雪」「降雪や凍結にご注意」などとはどこからも聞こえてこなかった。冬は「雪に閉じ込められるのが当たり前」、そんな暮らしぶりだった。それでも、なに不自由はなかったのです。それと比べて、現代の人々は弱くなったのか、上品になったのか。

 又、今でも時々見かけますが、「干鱈(ほしだら)」または「乾鱈」ともいう、それを最後に口にしたのは何時のことだったか。塩をたっぷりふりかけ、乾燥させたもので、上品な食べ物ではなかったが、冬になると、今でも思い出します。この魚は、かなり取れたものと見えて、だから市場価格は決して高くはなかったと思われる。その証拠になるかどうか、見当がつきませんが、この魚の名称を使った表現には、まともというか、「いいですね」というものがない。だから、かえって「名前だけは美しい」のかもしれない。「滅多矢鱈」「出鱈目」など、どう考えてもこの魚と関係があるとは思えませんし、いい加減な、無秩序なという意味合いで使われますから、鯛や鮃ではなく、鱈なのはなぜかと訝(いぶか)る。「出鯛目」、「滅多矢鮃」とはいわないでしょう。出鱈目という時の「鱈目」とはどんな目かと聞いても誰も答えてくれません。博打の賽の目をいうらしく、それこそ、出鱈目に振った時に出る目のこと。いい加減、無茶苦茶ということのようですから、「鱈」にとっては迷惑な話でしょう。また、各地に見られる漬物に「矢鱈漬け」「やたら」なるものがあります。いろいろな野菜を混ぜ合わせて漬物にした、主に夏の食材とされています。どうして「野菜の漬物」が「やたら漬け」なのか。(左上写真のお店は、最近閉店しました)

 白子や明太子もなかなか乙(おつ)(甲ではないけれど、丙でもないから「乙」)な食材で、酒飲みに限らず好まれているのではないでしょうか。もう何十年も前のこと、女性の友人(英語学の権威だった)と飲み屋に行った。主人に「いいものが入ってますよ」と勧められて食べたのが「白子」でした。ポン酢か何かで戴くと、彼女は「美味しい、美味しい」とお代わりをしたほどでした。食べた後で、ところで、「今のはなんですか」と訊かれた。英語学や情報学の権威も「白子」が何ものだか知らなかった。ちなみに、彼女は愛知県は豊橋の産。白子ぐらい知っているだろうと思ったのが間違いだった。言うべきかどうか、迷ったが。「実はこれは鱈の『精巣』なのよ」と言ったら、途端にハラ具合がおかしくなった。以来、「白子」は彼女のもっとも嫌うべき「肴(さかな)になったことは言うまでもありません。それまでは、かなり仲が良かったのですが、その良好な関係も奇妙なものになってしまいました。同年生まれの人でしたね。「白子、怖いや」

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH 

 口直しに、「鱈」にちなんだ句を幾つか。かなりある中から、順不同に。ここでも「鱈は高級」ではない、「乙ですね」ということが明かされているようで、ぼくには実に親しみが湧くものばかりです。

・塩鱈や旅はるばるのよごれ面(太祇)  ・わが血筋処世にうとく干鱈噛む(小倉英男)  ・一尾の鱈の料理の何や彼や(高木晴子)  

・年守る乾鮭の太刀鱈の棒(蕪村)  ・鱈鍋に百目蝋燭ゆらぎ立て(長谷川かな女)  ・品書の鱈といふ字のうつくしや(片山由美子)  

・はるばるとうす桃色の雪の鱈(細見綾子)  ・鱈汁や人のこゝろのくどからず(凉菟)*百目とは「百匁)のこと。それくらいの重さの蠟燭 

 今でも、ぼくは鱈はよく食べますね。殆どは「鍋物」です。産地というものは、このような魚類にはあってなきが如しで、世界中の海で穫れると言えば取れます。だからこれでなければ、という面倒は言わないで、良さそうなものがあると、いろいろなものといっしょに「鍋物」にします。文字通り、「やたら」に具材を入れます。酒を飲まないで、鍋物をという、そんな人の気が知れないと、以前はいい気なものでしたが、いまは鍋だけを肴にして(飯は口に入れないで)。それこそ素面で、味気ない気もしますが、飲みたくないのですから、無理に飲むこともなかろうと思うばかり。鱈は「さっぱり」「あっさり」した肴で、まさしく、「鱈汁や人のこゝろのくどからず」ですね。しかし困るのは、鋭い骨がありすぎること。骨はある方がいいけれど、ありすぎるのも厄介だ。寒い夜、かみさんと猫たちに囲まれて、酒のない鍋を囲んでいるという、アンバランスな睦月中頃の夜半です。

 こんな瞬間、あるいは往時の生活の達人は、「我が人生、隠居楽道たり」と、小声で言ったのかもしれない。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)