一月十日、「元総理銃撃」の廉で山上徹也容疑者が起訴されました。この件については、これまでにも何度か触れた。事件の概要というか大筋は、大方の見方が一致しています。「犯行の動機は、宗教団体である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への積年の恨みだった。山上被告の母が入信し、総額約1億円を献金したとされる。自身は家庭崩壊の中で大学進学を果たせず、不安定な人生への強い不満もあったようだ」、このような解説・解釈が流布している。それが間違いだという確証がぼくにあるわけではありません。しかし、いささかの不信の念は拭いきれないのです。ほとんどの報道の根拠は「警察発表(容疑者の供述内容とされるもの)」で、いわば大本営発表です。それが間違いであるとぼくには言えませんし、「当たらずと言えども(雖も)、遠からず」でしょう。真相に付き当たっていないにも関わらず、事件の「筋書き」(因果関係)は明瞭に意図されて描かれていると思う。

もう一つ、報道の側面に見て取れるのは、一見するとまっとうな「勧善懲悪」主義です。「どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」という、堂々とした信賞必罰ともいえるものです。お説、ご尤もというほかありません。でも、本当にそうですかと、違和感を覚えることも事実です。「どんな理由があっても、殺人はいけない」と言うけれど、それには例外があると、明確にしないのはぼくには不可解で仕方がない。なぜならば、国家による「殺人」には一指も触れていないからです。「死刑」制度は例外であって、それとこれを混同するのはよろしくないと言うに等しい。「死刑」問題は不問に付すというのですか。ぼくは人の命を奪うことは許せない行為であるということを認める点では人後に落ちないつもりです。しかし、個人にせよ集団にせよ、国家以外の者の殺人行為は断じて許されないという主張が断定的であればあるほど、国家の「殺人」には妥当性も合理性もあるから問題にならぬと言う思考が根底に、無条件に存在しているのです。国家意思の発令としての「戦争容認(敵対する側の兵士(人間)の命は抹殺していいい)」が明らかに認められます。
この「元総理銃撃事件」については、さまざまな議論がありましたし、今後の裁判の過程でも同じような論調が飛び交うことでしょう。容疑者は、いわゆる「宗教二世」とされます。その母親の信仰の対象である「教団」は、宗教の仮面をかぶった「カルト集団」であることは明白であるにも関わらず、宗教法人としての認証を与えていたのが国です。その経過に深く関与していたのが「元総理」だったことも判明しています。本来、「宗教行政」の管理権からして、この団体を「宗教法人」に認定することは誤りだったと認めることが、なによりも先決だったのに、「宗教二世」の「思い込み」による、あるいは「逆恨み」による犠牲者になったのが「元総理だった」と、大方はその線で一致している。この凶行は「民主主義への挑戦)とまで言われた。だが、ぼくに言わせれば、民主主義を破壊(しようと)したのはだれだったか。決して容疑者を弁護するのではない。犠牲者を「祭り上げる」、その魂胆に、由々しき国家本位の教義が漂っていると言いただけです。この犠牲者と加害者の天秤のかけ方、それが、ぼくには十分に受け入れられないところです。(ここで、その理由を述べることはしません。いずれ、裁判の過程で明らかになるでしょうから、その段階で愚見を述べるつもりです)(文中の引用は(中國新聞「社説」(2023/01/14)から。末尾に掲示)

引用に及んだ「社説」は、事件の概要と、その問題点を巡って、実に意を尽くしたものだとぼくは読みました。その上で、でも、それはきれいごとに過ぎませんか、信教の自由といい、政教分離の問題といい、あまりにもきれいごとで片付けようとしているきらいがあると、ぼくには映るのです。事件の因果関係は、おそらく裁判においても争われましょうが、明確に判断は下せない代物だと思われます。容疑者の困窮や苦悩の原因は、母親に対して理不尽な献金を強制した教団の行為にあるが、その教団に深く関与し「政治的に便宜を図っていた」という、団体と権力の関与に関しては明確な一線が引かれていて、それに触れないのは不自然ではないでしょうか。仮にそうであるなら、事件の解明に必要な光が届くことはないように思われるからです。
単に、「教団と元総理」の関係だけでなく、この島の政治勢力に深く食い込んで「宗教活動」という名において「政治勢力」を伸ばそうとしていたのがこの集団でした。しかし、実際にはこの問題には殆ど触れられてこなかったし、当然のように、当該党派も通り一遍のアリバイ作りをしただけで、真相解明にはまったく消極的でした。もちろん、政権党ばかりではなく、他の政党にも便宜供与を介した関係は広がっていましたし、中央政界以上に各自治体の議員に深く浸透していたのも明らかになっています。単純率直に言うなら、この教団の「宗教行為」は国権の侵害であり、人権の抹殺ではなかったか。しかし、そこにまで問題の追求が及ぶという徴候はなさそうです。いわば、「認証取り消し」まがいの政治判断で、一件落着を図る意図が着々と進められています。
「人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」というのは「道徳の問題」です。誰の「いのち」に対しても、「汝、殺すなかれ」「汝、撃つなかれ」という道徳律は妥当する、いや妥当させたい。しかし、いかに厳しい罰則が伴うような犯罪であろうと、それを犯す者が絶えないのは、人間は理性的である以上に情動的な存在であるということの証明です。「理性」と「情動(剥き出しの感情)」との葛藤においてこそ、人間の根拠が認められるのです。間違いを犯してたまるか、そのような自制心があってこそ、ぼくたちは、かろうじて「人間である」ことが可能になるのでしょう。

繰り返し、ぼくは言ってきました。罪を憎んで、人を憎まず(hate sin, don’t hate people)」と。罪を犯した、その「情動(自制心を失わせるほどの憎む感情)」は責められるべきだが、その情動に突き動かされた人そのものは。いわば感情の「被害者」でもあるのだから、憎むものではないと、解きほぐせばそういうことです。もちろん、このような捉え方に異論や批判があることは百も承知している。それこそ「どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない」ということの理由です。
犯罪を犯した人間の行為は罰せられるべきであると。でも、「情状酌量」ということも、ぼくたちは否定できない。その葛藤(矛盾)を受け入れるために「裁判」があるのではないでしょうか。犯された犯罪を裁くのが裁判である、でもそれは、「罪は裁く」が「人は裁けない」ということでもあるのではないか。(この部分は、説明をさらに要するところです。稿を改めて述べてみたい)「悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない」という姿勢(思想)を持って、裁判官たる者は法廷に臨むべきであるというのが、この言葉を残したとされる孔子の姿勢(思想)だった。しかるに、彼の国でも、この国でも犯罪を犯した人間は、人間性そのものをこそ裁かれるべきであるという、実に強権的で非道徳的な「報復的教義・教条」を看板にして裁判が執行されるようになっている。
「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」というのでしょう。「その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが憎くなるというたとえ」(デジタル大辞泉)有徳であるべき僧侶が、その徳に反する行為をしたときには、直ちに人間性そのものまで否定されるという例えです。「罪を憎んで、人を憎まず」という表現には「人間存在」の複雑性(矛盾)というか二律背反的な側面を容認している一面があると思うし、「坊主憎けりゃ、…」は、「非」があると、そのすべてを否定しなければおかぬという、ある種の「勧善懲悪」「報復主義」の意図が剥き出しになっている。

裁判の成り行きに注目はしますが、ぼくにはその結論が、今から見えているようだといいたい。「罪をこそ憎む」立場か、「袈裟まで憎む」立場か。今はどちらになるかは言わないでおきます。しかし、現段階でもはっきりと言えることは、元総理の行為やこのカルト集団に便宜供与をしていた政治勢力は、おそらく裁かれないままで終わるという点です。裁判には限界があることを承知で言うなら、その限界という「自己規制」を打破して、真相を解明する姿勢が政党や政治家になければ、同種の事件や事案は繰り返されるでしょうし、このカルト集団の一件ですら、「事件の表面」をなぞるだけで、有耶無耶に終わらせてしまうでしょう。かくして「政治と宗教」ではなく、「政治と教条主義集団」との関係は、この後も切れない。そんな政治が、この国では伝統というか、しきたりになっているといいそうになります。
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(*参考資料)
元首相銃撃で起訴 背景の解明、まだ足りぬ 安倍晋三元首相の銃撃事件が半年前、日本社会に与えた衝撃は今も収まらない。奈良地検がきのう殺人と銃刀法違反の罪で山上徹也容疑者を起訴した。/ 参院選で演説中の背後を襲った衆人環視の事件であり、起訴事実は大筋で揺らぐまい。私たちが知りたいのは、なぜ事件が起きたか、にある。/ これまでの供述などによると山上被告は容疑を認めている。犯行の動機は、宗教団体である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への積年の恨みだった。山上被告の母が入信し、総額約1億円を献金したとされる。自身は家庭崩壊の中で大学進学を果たせず、不安定な人生への強い不満もあったようだ。/ 旧統一教会を恨んだ末の矛先がなぜ政治家に向かったのか。なぜ止めることができず、最悪の事態に至ったのか。裁判員裁判では、単に量刑を決めるだけではなく、社会的な背景に踏み込んだ解明を求めたい。/ 動機に関しては、安倍氏を狙った経緯が焦点だろう。旧統一教会のトップ襲撃を検討したが、断念したという。供述では祖父の岸信介元首相と旧統一教会との密着ぶりや、安倍氏が教団の友好団体の集会に寄せたビデオメッセージを知ったことで関係が深いと考えたようだ。/ 背景の掘り下げも重要だ。旧統一教会自体の問題点である。宗教法人としての解散命令を視野に国による調査が進んでいる。公判では家族や教団関係者の証言を求め、山上被告も自らの言葉で説明すべきだ。(⇘)

事件後、自民党を中心に国会議員や地方議員と、旧統一教会との密接な関係が明らかになった。政治家が人手や金、票を当てにし、宗教団体が社会的な信用を得る手段にした構図だ。悪質な霊感商法や献金の問題があるのに、対策は後手に回った。/ 密な関係がどれほど悪影響を与えたか分かっていない。世論の求めに反し、政権は安倍氏の件をはじめ本格的な調査を避けている。責任逃れをさせないためにも解明は不可欠である。/ 山上被告の置かれていた境遇にも注目したい。旧統一教会による高額献金に伴う生活困窮と、そうした信者を親に持つ子どもの深刻な状況は、もっと早く社会問題にすべきだった。山上被告のツイッター投稿や伯父の話からは、職を転々として貧困に陥り、孤立を深めた様子がうかがえる。こうした格差や生きづらさは、今の社会に広く横たわっているのではないか。/ 思い出されるのはオウム真理教事件の裁判である。当時の教祖に対し死刑判決を下した。しかし、教祖の不可解な沈黙で公判は打ち切られ、大勢の若者を巻き込み、宗教を盾に犯罪を起こした真の問題点は解明できなかった。あれほど重大な事案だったにもかかわらず、社会をよくする手掛かりを十分もたらした裁判だったとは言い難い。/ 今回の事件でも背景の解明をうやむやにすれば、似たような事件を防ぐことが困難になる。/ 気掛かりは、旧統一教会の問題を表沙汰にしたとして、山上被告を英雄扱いする一部の主張だ。どんなに深刻な問題や、理不尽さを抱えていたとしても、人の命を奪うことはもちろん、暴力も許されない。私たちの社会も問われている。問題に向き合ってこなかった足元を見つめ直す視点こそ必要である。(中國新聞デジタル・2023/01/14)
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