
*六百字の囁き 公立学校の教員が不足しているという。さもありなん。今時、好き好んで教員になろうというのはよほど「酔狂な人」だといえます。少子化がさらに進行し、学校数が急減しているにも関わらず、教員不足の傾向を止められないのは、なぜか。採用試験受けてまで教員になろうという「酔狂人」が少なくなったこと。それでは民間に喜んで就職を希望する青年がたくさんいるかというと、そうでもない。要するに、少子化が進もうが、高齢化が顕著になろうが、この小国には「若者を吸収し」「老人を歓迎する」、それだけの余力が早くに失われてしまったのです。▼ 教員になるには、「教職・学校」そのものがあまりにも殺伐としている現実を看過することはできない。「教師は労働者だ」と言って、その職場がブラックすぎては敬遠され、毛嫌いされるのが落ち。採用試験の競争倍率がほとんど「全員合格」の域にある自治体があっても、行政も文科省も適切な手を打たない。つまりは「学校の荒廃化」を放置している。「学校教育の空洞化(受験教育の弊害)」が叫ばれた時代は、今は昔になりました。今日では、学校や教育は「空虚化(教育の不毛地域化)」に苛まれているのではないですか。教育の要諦は「自己教育」です。先ず、そこから始める以外に手はないと思う。学校に通いながら、なお「自己教育」の道を探求する、さしあたりは、このことが大事だと考えられる「酔狂な教師」や「酔狂な親」や「酔狂な子ども」の出現を俟ち、その奮起を心から願うものだ。(yamano)
● すい‐きょう〔‐キヤウ〕【酔狂/粋狂】 の解説[名・形動]1 好奇心から人と異なる行動をとること。物好きなこと。また、そのさま。酔興。「真冬に水泳とは―なことだ」「だてや―で言うのではない」(デジタル大辞泉)

アホくさくて、言葉にするのも胸糞悪いが、教育は「点数競争」でもなければ「優劣争い」などでもないということ、それでもこの悪弊が一向に改まらない背景には、明らかな理由があります。教師の「教育力の梃子(てこ))になっているのが、「人より優れていたい」「他人に負けたくない」という、子どもや親の足元を見ている下品な根性です。その根性の中にすでに「自分を偽る感情」が、当人たちの心中に蔓延っているのです。当たり前すぎて、いうのも恥ずかしい。でも、そのことを半世紀もいい続けなければならないのは、つまるところ、「人より優れていたい」「他者の評価を求める」そんな衝動を満タンにして生きていくことが人生の幸福だと錯覚する、いや正答を求めている御仁が腐るほどいるというのでしょう。これは親や子どもと教師たちの「馴れ合い(collusion)」にほかならないね。

「教育は他者との競争(コンテスト・コンクール)ではない」と力説する、その御本人が一センチでも他人より高い地位や職階を求めるのが現実です。心にもないことをいいつつ、心、教育にあらずという「教育者」もどこにでもいる。教師に期待するところはありますが、どんな場所で教育(実践)を営んでいるかを熟慮しなければ、一言も発し得ないのも当然です。「教育はこうだ、ああだ」といってみたり、「本物の教師はかくあるべきだ」と空論を垂れても、現場を離れ、現場の外から言うなら、まるで糸の切れた風船玉。一瞬は高く飛ぶでしょうが、やがて地面に落着(萎む)するばかり。とするなら現場に立つ教師自身が、足元を掘り返さなければ、何事も始まらないともいえます。まず「隗より始めよ」といいたい。つまりは立っている足元を掘り起こすこと、それを続けていくと「根っこ」に、きっと行き着く。それを発見することが「ラディカリズム」(根本主義)というものです。自分の今いる、その地点から「現実」を見つめ直し、自らの方向を求める、そこから「オリジナルな道」が見えるはずです。これが「オリジナリティ」であり、「独創(クリエイティブ)」というものではないでしょうか。


「教師は労働者である」というのは、そのとおりです。しかし、その労働現場の実態は、言語に絶するというのはいいすぎかもしれないが、とにかく劣悪の一言に付きます。長時間勤務は朝飯前、時間外労働は昼飯前、土日勤務は「晩飯抜き」とでもいうしかないでたらめさ。どうしてこの状況を放置しているのか。第一に、この島の学校(教育)に不可避に随伴している「非人間性」側面であり、多面では、今風の効率性や合理性を追求することから生み出される非人間性の昂進です。しっかりした組織や集団であるとして、存在するなら「労働組合」に物申したいところですが、その組合幹部連が政権ににじり寄っている、この惨状から抜け出すのが、まず第一です。組合の組織率は二十数%だという。どうしにかして、少しばかりの力と時間を、それに組合費も、出し合っていくという基盤すら壊されてしまったのでしょう。ここでも「先ず隗より始めよ」ですね。世のため、他人のためである以上に、自分自身の力を発揮するために、です。なによりも中本して交われる他者を認めることではないでしょうか。
_______________