ネットの時代、如何にも世界は歓迎している風に見えます。それなしでは「世界は回らない」という具合に、です。まるで「電気」や「水道」などのように生活の基盤に据えられてしまっているのです。それでも、果たして、その装置は「いい事尽(ず)くめ」なのか。鉄道や自動車などが普及して世の中の動線・物流があっという間に激変しました。結果として、いろいろと既存のインフラなどとの軋轢はあったにせよ、社会生活の「進歩感」「利便性」が格段に上がったことは事実です。そのようなメリットが「ネット時代」に移行してしまった社会に生まれてきたのは否定できないが、同時に、いつも言うように、「道具」の持つ二面性がここにおいても明らかになってきます。スマホを使って日常生活をより楽しく便利にという(ささやかな)事態は歓迎されるべきでしょうが、この道具を使った悪事もまた、一瀉千里の激しさ、酷(むご)たらしさで駆け巡っている。文明の利器と言うより、文明の狂気・凶器の拡散ですね。

日々、ネット上に生まれては消えてゆく「悪事」は種々相をもっているのですが、中身は何時の時代にも見られる「陳腐なもの」です。スマホを使った分だけが今風であるといえる。ぼく自身もネットは大いに利用(悪用しているとは思いたくないが)している。その限りで言えば、何でもかんでもが「ネタ」「ニュース」になる時代の風潮を止めることは誰にもできないでしょう。詳細は省きますが、言いたいことは「悪事」のために最悪(悪事を犯す当事者には最良)の「道具」として、自らの渡世には不可欠になっているという、そんな人々は五万といるのが現状であるということです。
車の善用は当然であって、その「善用」の意図に反して「轢殺」「轢死」がいたるところで生まれている。そのために人生も破壊され、その人との関わりをもつ多くの被害者が生まれている。この時代、事件や事故は「孤立」「孤絶」していないということを、ぼくはしばし考え込んでしまうのです。被害の影響(悪影響)を受けざるを得ない人が、以前とは比較を絶して多くなっているということ。それだけ、「人生蹉跎たり」という人が生み出される、社会全体が被(こうむ)る不幸をいかにして阻止できるのか、構成員の「義務の一つ」として考えが抜く必要がありそうです。

「歌は世に連れ、世は歌に連れ」といいます。その用法にならうと、「悪事は世に連れ、世は悪事に連れ」でしょうね。悪事とは、犯さなくても、起こさなくてもよさそうな「事件」であり「事故」であるのはいうまでもありません。(*「歌は世に連れ…」とは「世間ではやる歌は時代の風潮を受けて変わっていき、世間の趨勢も歌の流行によって影響を受ける」ことです。ことわざを知る辞典」)
時代(時間)は前に向かって進んでいるのではない。ぼくたちには実感できないが、おそらく停滞している(不動の)状態、それが時間や時代というものの核心になるでしょう。如何にも、進んでいる、過ぎ去るという感覚を覚えるのは、記憶というものがもたらす、大いなる不思議なんですね。その証拠に、ぼくは三歳のままであるにも関わらず、八十に近い老人の意識(これも、記憶が生み出す感覚)に覆われるのです。「歌は世に連れ、世は歌につれ連れ」というのは、目まぐるしく変転してやまない、一種の目くらましに合っているに過ぎないのです。その転変(めまぐるしさ)から離れると、事態は過ぎもしないし、動いてもいないことに気が付きます。ぼくは「徒然草」を読むし、日蓮の「立正安国論」に思いを致すことができるのです。でも、それもまた「錯覚」かもしれない。人生は、一面では、二律背反を錯覚しながら生きることではないでしょうか。
「一攫(かく)千金」「濡れ手で粟」という世間の風潮が、こんなに浅ましいまでに行き渡った時代があったか。自らの欲望の種を断ち切らないどころか、それをさらに太らせることが生きることになっていないかどうか。「世に生きてある」とはどんなことを指すのか、あらためて自問自答してみる。
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徒然日乗(XCVI ~ XCVII)(この部分は2023/01/21 に追加)

徒然日乗・XCVII 猛烈な寒波が房総半島を襲うようなことはあるまいと高を括っている。大寒がはじまっても、依然として厳寒の気が漲らないのは、一面ではありがたいことだが、多面ではこれでは体がなまるなという勝手なことも考えてしまう。遠くに出かけることは先ず無いが、まいにち、何かと外出することは多い。以前のように「散歩」に出ることはなくなったが、それとなく体を動かすことには気をつけているのだ。それでどうしたと言われても答えられないが、心身の衰えを自覚すればこその、日常だと肝には銘じているのだ。テレビ屋根とには「身の毛も弥立(よだ)つ」事件ばかりが耳目につく。いともあっさりと「人を殺める」、多くの場合には「感情の箍(たが)」が外れてしまったというほかない蛮行だ。人を殺さないまでも、「人間(生命)の尊厳」を踏みにじるようなことが社会の上層に位する人間によってなされているのだから、始末に悪いのである。目を背けたくなる、耳を塞ぎたくなる状況の中で、それでもなお、屈指ないで、背を伸ばしながら歩いて行く、それがぼくの、いま取るべき振る舞いですな(2023/01/21・土)
徒然日乗・XCVI 褒められた明け暮れではないが、今のぼくには「無為徒食」という表現がとても当たっていると思う。まさか「暴飲暴食」であるとはだれもいうまい。でも何もしないで日を送っているという点では、生命を削りながらと言えども、くちになにかをいれているのであれば、やはり「無為徒食」というほかないようだ。本日は「大寒」だという。言われればそうかなという程度で、そのために身支度を改めるなどということは金輪際ない。朝、外に目をやると、庭の梅の花が幾つも開いている。この梅はかなりの老木で、幹の半分は虫食い状態で、ようやく生きているような姿が痛々しいのに、梅の実もつければ、花も咲かせる。とりたてて養生をしてやるのでもないのに、季節(時季)が来れば、開花も結実もさぼらない。この老梅は、今のところぼくの憧れにもなっている。人間から見れば、「健気」と想うが、果たして、梅の木からぼくはどのように見えているのか。(2023/01/20・金)
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徒然日乗(XCI ~ XCV
徒然日乗・XCV 長野から電話。昼過ぎだったか。O君は一人で在宅しており、両の手に酒に煙草、で「電話」しているという。いろいろと心身の動揺ぶりがありありでした。酒や煙草が健康に良いとは思わないけれど、うつ病(医者の診断)の理由や原因にはならない。あえて止められないで、自分を楽にしたい(誤魔化したい)、と落ち込んでしまう、その根っこにあるものが何であるか、それが肝心の「病巣」だと言いましたね。親との関係がもっとも大きいものの一つだとぼくは判断(邪推)している。明日、親同伴で駒ヶ根の病院に行くそうで、そこで「再入院」が判断される。もう一度入院したらいいと思う。10月半ばからの退院後の期間は「少し長めの外泊許可」だったとぼくには見えている。まだまだ治療の途中だということ、本人も両親もそれを受け入れるといいな。(2023/01/19・木)

徒然日乗・XCIV お昼すぎに買い物にでかけた。いつも使っていたマグカップが割れたのだ。それを置いていたテーブルに猫が飛び乗った瞬間に床に落とした。見事に真っ二つに割れた。一度は「取手」が取れたので、接着剤で継ぎ当てをしていたが、その部分も壊れた。これで3つ目。同じものを使っていたので、それを求めて、茂原駅まで出かけた。買って帰宅すると、電話があったという。長野のO君からだった。当方からかけた。昨日、駒ヶ根の病院へ行き、医者と相談してくるということだったので、結果を知らせてくれたのだ。予想通りに、再入院を進められたという。当然で、退院が10月半ば、約三ヶ月の「外泊体験」だと、ぼくは話した。七月に入院を勧めた、その段階に戻ったのだ。すごろくで言うと、はじめに戻る、という賽の目が出たのである。簡単には、というよりは、先ず完治の可能性は低いと、素人のぼくは考えている。両親は「再入院」に否定的だという。二日後に親同伴で、話を聞きに来てほしいと医者が言ったそうだ。親が反対してどうすると、ぼくはいう。どうしても反対なら、「ぼくが保証人になるよ」とも。多分、親は口では行かないとか、反対だなどと言うけれど、医者のところに行くと思う。入院したとなれば、今度は長いという気もする。会社も休職ではなく、辞職することも考えておくといいねと話して、電話を切った。「鬱(うつ)病」というのは、複雑な重なりがある、ストレスに圧倒されているのではないかと考えている。積み重なるストレスの重圧が心身に及んでいるのですな。その重なりのどれが、致命的なのか、おおよその見当は付けているのだが、それはまた別の機会に。(2023/01/18・水)
徒然日乗・XCIII 霧雨のような小雨が降ったり止んだり。このところ、風の吹く日が続くので、庭中が枯れ枝や枯れ葉で埋められている。こういうところに住んでいると、頻繁に強い風が吹くのだから、いま掃除をしても無駄、そう考えてしまい、見るに見られない荒涼とした風景になるのだ。屋根にも樋にも、枯れ葉などが堆積しているのを見ると、天気が回復したら、きれいに取り除こうなどと思う。それもまた先送りしてしまう。庭や屋根どの清掃にかかると、恐らく半日では終わらない作業量で、それを考えると億劫になる。この次に晴れたら、この次、と伸ばし伸ばしで、結局は樋から雨水が溢れ出すなどの「故障」がないかぎりは、放置している。困った態度だなあと、自分でも呆れる。要するに、何事においても、ぼくは愚図なのである。(2023/01/17・火)

徒然日乗・XCII 毎日、ほとんど変わりのない生活を続けています。早朝に起き、まずは猫の世話。買い物があると、できるだけ午前中に出かけ、用事が済んだら、即刻帰宅。どんなに長くても、一時間以内。その後は駄文・雑文を書くか、ネットでニュースなどを見る。駄文に関しては、なにかいうことはない。すべての文章は「書き殴り」で、ドラフト(草稿)そのままを掲載しているので、思いも及ばない誤字脱字などが出てくる。気がつけば直すのは当たり前で、この「校正」作業が、今となれば結構面白いのだ。今までになかったことで、文章に気を取られないで、勝手にキーボードを叩いている自分に驚いている。「手書き原稿」時代の「校正」は苦手だった。他人に必要以上に迷惑をかけることもそうだったが、いつも締め切りギリギリの提出だったから、草稿が「完成稿」という情けないことの繰り返しだったから。構成の段階で新たに原稿を書くという無様な次第が恥ずかしかったのだが、それを最後まで修正できなかった。今では取り返しもつかないものの、その経験を思い出しながら、毎日無駄にキーボードを叩いている。(2023/01/16・月)
徒然日乗・XCI 終日、降ったり止んだり。その割には温かい一日でした。今月の二十日が「大寒(だいかん)」だということですので、これからまた「寒さ」が募ってくるとされています。当地では雪はほとんど降らない、まして積雪を見ることは年に一度あるかないか。しかし、降れば、坂道が多いので車の運転は要注意だ。日没になると、凍結すること請け合い。各坂道の方々に「融雪剤」が置かれている。ぼくのところでは、それを使ったことはないが、いずれ、必要になるかもしれないと予想はしている。積雪で倒木や電線の絶縁・断線などで停電も想定される。これからが本格的な寒さが来ると、コロナはもちろん、インフルエンザにも油断なく過ごさねばと考えている。それにしてもコロナ禍が終わりを見せないのが気がかりで、一日の死者数が連日記録を更新している。日に五百人もが亡くなるのにもかかわらず、政府や行政の警戒感が薄れているのはどうしたことか。それに煽られて、多くの人が感染を物ともせずに外出を謳歌しているようだ。いや、これまでの逼塞感を打ち破りたいだけなのだ。(2023/01/15・日)
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