大寒の木々にうごかぬ月日あり (桂信子)

 二十四節気のうちの「大寒」です。次の節季は「立春」ですから、本日は、一年納めの「節季」というわけ。また、この「季」の七十二候の「初侯」(1月20日〜1月24日頃)は「 欵冬華(ふきのはなさく)」となっています。厳寒の砌(みぎり)、土中から蕗の薹(とう)が顔を出し、その上に花をつける頃。わが拙庭にも、幾つかの蕗の薹が出てきました。

● 大寒(だいかん)= 二十四節気の一つ。陰暦12月中、太陽の黄経300度に達したときで、太陽暦の1月20日ころにあたる。北半球の温帯地域では一年中でもっとも寒い季節で、極寒に抗して身体を鍛えようとする種々の寒稽古(かんげいこ)が行われるのもこのころである。大寒が明けると立春である。/ およそ1月20日に始まる15日間は暦のうえでは寒の後半にあたり、日本では各地で、1年間のうちの最低気温の観測される期間である。北国や本土の日本海側では、なお雪のシーズンでありスキーなどが盛んに行われているが、太平洋側ではフクジュソウ、スイセンなど寒中に花を開くものがあり、西日本では白梅、紅梅も咲く。南国ではヤナギが芽を吹き始める所もあり、ヒバリの初鳴きも聞かれるころとなる。(ニッポニカ)

 小さい頃から、ぼくは天気(天候)には関心を持ってきました。田舎に住んでいたので、農家の仕事には早くから接していたせいもあり、田植えや稲刈りにも駆り出された。その際に、もっとも大切なのは、「天気を読む」ということでした。農作業には「天日干し」が多く取り入れられていたので、おのずから、天候の良し悪しの判断は万全を期さなければならなかった。ぼくは今ではすっかり忘れましたが、「農業カレンダー」とでもいうものを知っていました。今日ほど気象や気候に科学的な知見が用いられることはなかっただけに、長い間の経験知から割り出された農作業の極意だったし、それを上首尾に成し遂げるためにも「天気を読む」ことはとても重要な意味を持っていたのです。

 農昨業や土壌から離れれば離れるほど、「暦」はある種の「生活のアクセサリー」のように見られるようになったのは事実だったでしょう。「二十四節季」や、それをさらに詳しくした「七十二候」などはほとんど必要性もなくなったのであり、わずかにその幾つかが、商売(儲け主義)上の必要から生活に華を添える、いわば「お飾り」になった感は否めないでしょう。それは当然のことであり、嘆いても始まらないことです。そうではあっても、「時代ですか」らという言い方はしたくないですね。必然というのか、成り行きとでもいうのか。

 結婚して気がついたことはたくさんありますが、かみさんが意外に「年中行事」というか季節の風習に関心を持っていたのに驚いたことがあります、表面上のことでしたけれど。とくに、大晦日と元日については、なかなか頑(かたく)なな姿勢を持っていました。今から考えてもおかしいというべきか「若水汲み」というしきたりにこだわっていた。子どもが成長したら尚更、元旦早々の一番目の「風俗・風習」を断行するのでした。取り立てて文句を言う筋合いもないのでしょうが、その「若水」を「水道水」から汲んでいた。それが小さな子どもの初仕事だった。また、これは今でも、さかんに宣伝されたり、自らの長命祈願、寿命信仰の実践として行われている「年越しそば」のことです。かみさんは、この習わしもかなり熱心に続けていました。多分、子どもたちが家を出てから、夫婦だけになったので取りやめたのだといえます。水道水や天然水(市販)の「若水」はぼくは好まないし、「年越しそば」も大半が原産地がわからない輸入物だったりしている現状から、それを食したから「長命」と言うのも解しかねるものですから、かみさんはよく作っていました。ぼくはあまりそれに賛成しなかった。そのうちに沙汰止みなった。いいことですね。「お節料理」もしかり。出来合いのものは便利だし、手もかかりませんから、大流行でしょう。しかし、天邪鬼の人間としては、そんなものに箸をつけるということができないんですね。

 もっとはっきり言えば、この時代、なんだって、普段どおりが何よりだ、といいたいだけで.宮参りも初詣も行ったことはない。某TV局の「歌合戦」など見たこともありません。(義母が健在だった頃は、毎年のように千葉の「笠森寺」(右上写真)には出かけた。かみさんの母親だったが、ぼくは健気にも運転手を勤めていたのです。真面目に「手を合わせる」ということはなかった)(左の写真は都内神田の有名な蕎麦屋の「年越しそば」の順番まち。ぼくは何よりも並ぶのがきらいだったから、こんなハレンチはしたことがなかった」

● 若水汲み= …元日の行事の使い水で,口をすすいで身を清めたり,神への供物や家族の食物の煮たきに用いたりする。若水汲みは〈若水迎え〉ともいわれ,儀礼的な色彩が濃く,若水手拭で鉢巻したり,井戸に餅や洗米を供え,祝いの唱え言をしてくむ土地が多かった。鹿児島県奄美群島には,若水といっしょに小石を3個取ってきて,火の神に供えた村もある。…(世界大百科事典)

 というわけで、まるで「小言幸兵衛」みたいな雲行きになっています。人間がすることには、どんなことにも「意味」がありました。しかしその意味も歴史も無視したままで、「惰性」でやるのは進歩もなければ工夫でもないということです。「年中行事」のほとんどは形骸化どころか、解体してしまいました。「お祭り」につきものの「神輿」を軽自動車に乗せて町内を回るというのは「児戯」そのものですね。生活に潤いがあるかないか、それは「行事の意味」が失われたままに、それを「模倣」したところで、なにか「ご利益」があるのですかと、訊きたいぐらいです。時も所も弁えずに「花火大会」をするようなもの。それを楽しめばいいのですから、「年中行事」もすでにそうなっているのでしょう。如何にも「コンビニエンスの時代」がもたらしている、さまざまな「歴史のまがい物」です。(恵方巻き」ってあれが始めたんですか。多分、セブンイレブンだと思いますね。商売が過ぎてやしませんか。

 例によって、駄文に結論なし。世情を嘆いているのではありません。また社会の健全化を求めるのでもありません。いかに力を注いでも、壊れるときは壊れるし、その方向を逆流させることはできないという、その見極めをぼくはしたいというだけです。よく使う表現に「物情騒然」というのがあります。世間が先殺気立っているというか、騒々しいままに「人心」が浮足立っているさまをいうのでしょう。要するに「余裕」を失っている状態です。右に左に「物情騒然」の実際を見ない日はありません。親が子を殺し、親が子を殺す。夫が妻を、妻が夫を殺(あや)める事件が続きます。大好きだった浪曲の「壺坂霊験記」の出だしは「妻は夫を労(いたわ)りつ、夫は妻に慕いつつ」でした。幼少の頃、ポケットに手を入れたままで、これを口ずさんでいたことを思い出します。元は浄瑠璃の一演目。それを浪曲にしたものを、恐らく、浪花亭紋太郎師匠でぼくは聴いたと覚えています。この噺は驚くべき展開を示すので、ぼくは記憶にとどめていたのです。別名「お里澤市物語」、盲目の夫とその夫を支える妻のもだし難いという夫婦愛が本筋です。

 (内容は、とんでもない展開になっています)(落語も好きでしたが、あるいは当時(小学校卒業ころまで)は、浪曲の方をもっと好んでいたかもしれません。今でも、その出し物の幾つかを諳んじています)

 今月の十六日でしたか、福岡県の博多駅前で「凄惨な刃傷事件」が起こりました、いわゆるストーカー行為による殺人事件でした。この女性はなぜ殺されねばならなかったのか、その詳細はわかりませんが、とっさにぼくは「壷坂霊験記」を想起したのです。いつの時代でも「人間関係」は複雑怪奇であり、また単純明快です。要は、自分自身の「育ち」「成長」の問題に尽きますね。加えて言うなら、この時代に、刻々と失われていくのは「尊敬心」「誠意」「思いやり」という、他者への心持ちのあり方、あるいは「親しき中にも礼儀あり」という惻隠の情です。

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 「物情騒然」とか「人心惑乱」は、けっして孤立しているものではなく、世間という大きな集団社会の歯車が変調をきたしている、その現れが、個別の人間関係の歪みに波及しているのでしょう。打つ手があるのか、あるいは手遅れなのか。再現したいのは、いつでもどこでも誰でも「やり直し」はできる、ということ。それを改めて念じてみたい。

 「夫子之道、忠恕而已無」と言うのは孔子さんでした。「夫子(孔子)」を「人間存在」と、ぼくは言い換えておくものです。冬晴れの「大寒の日に」、一筆啓上とか何とか、そんな気分でしたね。

 この「忠恕のみ」といったのは孔子だと、すでに何回か触れています。ぼくの愛読する辞書「字通」には「【忠恕】(ちゆうじよ)まことと、思いやり。〔論語、里仁〕「子曰く、~吾が道、一以て之れを貫くと。~門人問ふ~曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕のみと」孔子という人が終生、たった一つの姿勢(態度、つまりは思想です)を貫いた、それはただただ、忠恕だけだったと。この態度や思想は学歴や地位にはまったく関係しないというより、むしろそれらは「忠恕」を曲げてしまう虞(おそれ)が大いにあると思う。孔子がこのよう述べたという意味は、それだけ、誰に対しても深い思いやりや誠意をもって対することは、どんなに難しいことだったかと教えているのではないでしょうか。ぼくは、聖人でも君子でも大人(うし)でもないから、なおさらに、そのように思うのです。だからこそ、といいたい。孔子が生涯をかけて、貫き通そうとした姿勢や態度は、実は人の人に対する「最良」の応接の礼儀だということです。教育や道徳の問題の初発、出発点をここに置こうとする教師が一人でも生み出されることを懇望(こんぼう・こんもう)するのです。もちろん「忠」も「恕」も、どちらも真心(まごころ)といい、誠実というばかりです。人とのつながりにおいて、裏も表もない、利害打算も混入しない、そんな心持があるのだろうか、ぼくはつねに胸に手を置き、その想いに耽ることがある。(大寒にも「泰然自若」たる木々があるように、困難に遭遇してなお、一を以って貫く「忠恕」に、ぼくは渾身の願いをかけるのだ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)