砕けた瓦礫に そっと置かれた 花 のくやしさ

【正平調】夜明け前、追悼の集いに向かう人の列に連なる。帽子に防寒着、手袋。背中にリュックサック。白い息を吐きながら無言で足を進めるうちに、あの年の冬に引き戻されるのを感じる◆28年前の冬、どこへ行くのもほぼ徒歩だった。昨年、訃報が届いた俳人の友岡子郷(しきょう)さんが〈倒(とう)・裂(れつ)・破(は)・崩(ほう)・礫(れき)の街寒雀(かんすずめ)〉と詠んだ震災後の街を、とにかく歩いた。一歩、また一歩、足を踏み出す日々◆追悼の集いでは黙とうに続き、震災で娘を亡くした上野政志さんが遺族代表のあいさつを始める。「まだ28年前の出来事です」。もう、ではなく、まだ。人によって感じる時の流れは違う。流れることなく止まったままの時もある◆あいさつを聞きながら、友岡さんの少し前、昨年の夏に亡くなった詩人の安水稔和(としかず)さんの四行詩を唱えてみる。〈砕けた瓦礫(がれき)に/そっと置かれた/花の/くやしさ。〉。あの冬は供えられた花にも感情が宿っていた◆その一方で差し伸べられた手に「ありがとう」と素直に口から出たこともあった。被災した人、離れた場所で家族や知人の無事を祈った人、支援に駆けつけた人、後に地域や学校で学んだ人。時の流れと同じく阪神・淡路大震災への思いはそれぞれ◆ならば、語ろう。明日もあさっても、もっと語り合おう。(神戸新聞・2023/01/18)

【正平調】アニメの長編映画「リメンバー・ミー」は死者の世界を描く。この国で人々は、楽器を奏でたり、みんなで食事を楽しんだり、陽気に暮らしている◆だがある時、死者の体が煙のように消えていく。「忘れられたんだ。生者の国で覚えていてくれる人が一人もいなくなると、『二度目の死』を迎える」。生者と死者の深いつながりを優しい語り口で伝えている◆きょう17日、神戸・東遊園地で催される「追悼の集い」で遺族代表を務める上野政志さんは28年前、神戸大の学生だった長女志乃さんを亡くした。がれきの中から志乃さんが創作したパラパラ絵本が見つかった◆1匹の魚がこいのぼりになり家族3人で仲良く空を泳ぐ姿が描かれていた。「絵本が広がれば、志乃は生き続けられる」。そう考え、父が出版したのは5年前。県内各地の小学校などに寄贈した。10秒ほどの物語に、志乃さんの夢が詰まっている。パラパラすれば、その優しさにいつでも会える◆神戸市立西灘小には昨年「アッコちゃん文庫」ができた。在学中に亡くなった浅井亜希子さんを題材にした絵本が2冊ある。ページを開けばそこにアッコちゃんがいる◆記憶をリレーする。あの顔、この顔を思い浮かべる。そうすれば、みんな、天国で笑顔になっている。(神戸新聞・2023/01/17)

【正平調】締め切り間際の原稿が残っていた。いつもなら徹夜だが、その日、作家の田辺聖子さんは集まった身内と酒席を囲み、「まあいいや」と寝床についた。1995年1月16日の夜である◆翌朝、激震。伊丹市の自宅にある仕事部屋を見れば、重たい書架がいすの背もたれをねじ伏せながら机にのしかかっていた。もしも夜通し仕事をしていたら、どうなっていたか分からなかったと、田辺さんが随筆につづっている(「楽老抄」、集英社)◆同じ被災地で、生と死を分け隔てたものは何であったか。わずか秒単位の揺れで突然断ち切られた多くの命。その無念を思う時、いくら胸に問いかけても答えは出ない◆阪神・淡路大震災の発生から364日後の1月16日。本紙夕刊が「大震災 それぞれの前日」という特集を組んでいた。誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたことを聞き取った記事だった◆夕飯の唐揚げを「おいしい、おいしい」と何度も言ってくれた大学生の息子。昼は庭木の手入れ、夜は娘との晩酌を楽しんだ父。何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう◆記事には、大きな見出しがついていた。「あの日の前に戻りたい」。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる。(神戸新聞・2023/01/16)

 被災したという記憶は消えない。阪神淡路地域の人々だけが被災したのではなく、この状況に直接間接に直面したものはすべてが被災したのです。自然災害の猛威というなかれ。如何にも自然の摂理(メカニズム)が働いたことは事実です。しかし、この地に集住して住んできた人々は、この災厄を逃れられなかったという意味では、大なり小なり、これは人災でもあるのです。人跡未踏地に「大地震」が発生したとして、それを「自然災害」というでしょうか。人間の歴史に含まれない「自然現象」は、それは人間や生命を毀損しないという理由から言うなら、「災害」ではないでしょう。

 ブラジル生まれの一人の思想家が言いました。彼は「識字教育」と称されるような教育実践をブラジル北部の地で始めていた頃のこと、1960年前後のことでした。一丁字も識らない農民に対して、「はるか彼方に、一本の松の木が立っている。その場所(野原)を『世界』ということができるだろうか」と尋ねた。すると農民は「いや、それは言えない。なぜならば、『ここは世界だ』という人間がいないからだ」といった。松の木を「松」と言い、海をみて、それは「海だ」という、そのように「名前を付ける(命名する)」ことこそが人間である証しではないかと、思想家は言った。「世界を命名する」、それが人間の独自性なのだとも言っていた。世界を広げること、そのために「命名する」、二十八年前の「あの大震災」と、ぼくは一人で言ってみる。人間が住み、そこで暮らすということは、「生活の場」が破壊されたとしても、その生活を再開する限り、そこには厳然とした「人間の世界」は存在するのです。「あの震災から立ち上がった人がいる」事実を知ること、それがぼくのいう「世界に名前を付けること」だと思う。

 「誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたこと」「何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう」「『あの日の前に戻りたい』。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる」(コラムより)

 悲惨な、無情で無慈悲な出来事に遭遇しても、誰もが「日常」を断ち切ることはできない。「大震災」の当日も、いつも通り「おはよう」と挨拶が交わされたに違いない。「おやすみなさい」と不安をいっぱい抱えて眠ろうとした人もいたでしょう。当時のある「避難所」に数日間、家族ともども寝泊まりした知人がいました。とても心安く「生活」はできなかったという。でも、そこにも「人間の生活」がある・あったという事実を、ぼくは忘れたくない。「被災したのはぼくだった」という思いを断ち切ることができないままで、ここまで生きてきたのです。(三日連続の同一「コラム」の引用です。この記事を読めたことを感謝します)(左の新聞写真も神戸新聞より)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)