朝に死に夕に生まるるならひ、ただ水の…

 

 あの日から二十八年が経ったという実感は、もちろんぼくにもあります。しかし、実際に被害に遭遇した人たちとはまったく異なる、疑似体験がもたらす実感であり、それをも「実感」といっていいのかどうか、大いに疑われるでしょう。発生当日の早朝、ぼくは無数の火煙が柱となって空高く上っていくのを、テレビ画面で見ていた。どうしてだったか、改めて考えるのだが、曖昧なままであります。恐らく京都のおふくろが「大変なことが起こった、テレビで観てや」と電話をくれたと、ずっと想っていた。しかし、今、その記憶は怪しくなっている。偶然に起きていてテレビをつけたのか。画面から届けられる映像はありありと目に焼き付いている。その後におふくろから電話があったか、こちらがかけたか。この震災で、知人や後輩を亡くした。他人事ではなく、震災の恐怖が身に纏わりついてきた。

 何年か後に被災地を尋ねたが、ごくごく表面的には「後遺症」は微塵も感じられませんでした。その後を含め、「自然災害」というにはあまりにも酷い事態が間髪をいれずに、この島国では連続してきました。やはり、それは「自然災害」と呼ぶには、あまりにも人的作為が働いていたと痛感してきた。その十六年後の東日本大震災でも同じような感情がぼくには生じていた。都市化というのか、文明化というのか、あるいはそれを含めて「近代化」といってもかまわない。都市に集中して生活の基盤が整えられる。市民とか都市を表す「 CIVIC、CIVIL」 とは野蛮(野生)状態を脱して、都市(便利になった生活環境)に住むということを指していた。それは、事の是非。善悪の問題ではなく、「生活の利便」「快適さ」への飽くなき願いや欲求が生み出した生活の方法でもあったでしょう。

 ぼくは兼好や長明の残した記録書を、あるいは評論文を早くから読んできました。そこに明らかにされていたのは、一面では、人間存在の情欲の深さ、自尊心の拡張意識、それは時代の新旧や前後を問わない、人間であることの宿命でもあるでしょう。また、そんな人間たちが住んで作り出している「社会」「世間」の頼もしさと併存してある「過当な競争意識」「優劣競争」でした。そのような競争意識が生み出したものには、いろいろな値打ちのあるものが含まれていたことは事実です。しかし、そのために生み出されたのは、身分意識であり、貧富の差であり、権力闘争の繰り返しでもあった。その上に、とくに「方丈記」に見られるように「天変地異」の無情な摂理に翻弄される人心の惑乱とその悲劇でした。一面では「阿鼻叫喚」とも言えるし、「地獄変」ともいいたくなるような惨状でした。このような「盛衰」を幾度も繰り返しながら、人類は、今日に至るまで営々と、あるいは汲々としながら、目には見えないような歴史の轍(わだち)、つまりは先人の足跡に自らの足跡を重ねてきたのです。歴史に参加させられてきたという事実を想起しておきたい。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」

 

この大震災の直後に「地下鉄サリン事件」が発生しました。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし」です。このサリン事件に、ぼくも巻き込まれていたかもしれなかった。そうならなかったのは、一瞬の差であった。一本前の地下鉄に乗っていたという風でしたから。ことさらの事変や災害のことだけをいうのではないでしょう。人は、あるいは社会は、あるいは国家や地球人は「よどみに浮かぶうたかた」です。どんな栄耀栄華を遂げようと、哀れこの上ない悲惨を身にまとおうと、いずれも「久しくとどまるためしなし」といって、そこに諦念を認めたり、生きることの甲斐性のなさをいうのではないのです。その「うたかた(泡沫)」は「消える」運命にある、それゆえに、そこからまた「結ぶ」というのではないでしょうか。「望月の欠けたることなし」と強弁した平家の総大将もまた、「うたかた」でした。何に比べて大きい・小さいというのではなく、元来、「いのち」は卑小であり、儚(はかな)いものであるという前提(約束)で存在しているのであり、その事実をぼくは、このような悲しみの再確認されるべき都度、心に刻んできました。本日もまた、そうです。「よどみに浮かぶうたかた」それが、人に限らず「いのち」そのものの有り様です。

 「朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば、朝霧の露にことならず」(「方丈記」浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫版)

 いろいろな思いがこもる「今朝の線香」でした。(あらためて、合掌)

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 【正平調】締め切り間際の原稿が残っていた。いつもなら徹夜だが、その日、作家の田辺聖子さんは集まった身内と酒席を囲み、「まあいいや」と寝床についた。1995年1月16日の夜である◆翌朝、激震。伊丹市の自宅にある仕事部屋を見れば、重たい書架がいすの背もたれをねじ伏せながら机にのしかかっていた。もしも夜通し仕事をしていたら、どうなっていたか分からなかったと、田辺さんが随筆につづっている(「楽老抄」、集英社)◆同じ被災地で、生と死を分け隔てたものは何であったか。わずか秒単位の揺れで突然断ち切られた多くの命。その無念を思う時、いくら胸に問いかけても答えは出ない◆阪神・淡路大震災の発生から364日後の1月16日。本紙夕刊が「大震災 それぞれの前日」という特集を組んでいた。誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたことを聞き取った記事だった◆夕飯の唐揚げを「おいしい、おいしい」と何度も言ってくれた大学生の息子。昼は庭木の手入れ、夜は娘との晩酌を楽しんだ父。何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう◆記事には、大きな見出しがついていた。「あの日の前に戻りたい」。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる。(神戸新聞NEXT・2023/01/16)(⇧ 火がともされ、浮かび上がった紙灯籠の「むすぶ」の文字=17日午前4時51分、神戸市中央区加納町6、東遊園地)(神戸新聞NEXT・2023/01/17)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)