
コロナの死者数が驚異的な水準を示しています。このところ連日、これまでの最高記録が更新されている。それに反比例するように、ほとんど、日常生活の一コマのごとく、心の深い部分では恐れを押し隠してしまって、報道もそれを知らされる民草も驚きも恐れもしていないように感じられるのはなぜでしょうか。この感染症が報告されてから四年目に入りました。ごく初期の頃は、必要以上に騒ぎ立て、死者数も感染者数も、今から見ると取り立てるほどでもなかったのに、「緊急事態宣言」「全国学校休業」、あるいは「外出自粛」「営業禁止」などの処置が立て続けに取られてきました。適正な防止策や感染症対策が実施された結果、ものの見事に感染症が就終焉に向かったというのならいざしらず、「先制攻撃」に全力を使った結果、その後の闘いには、作戦もなく、闇雲に応対しているという無様で、それゆえに、いたずらに「敗走」が続いて、なおそれが収束の兆しすら見えないどころか、これから又、大きな山場を迎えるのではという状況。一体、このような惨憺たる現状を招いたのはなんだったか。

加えて、コロナ感染症の法的分類の変更が進められているとされます。現状は右図(22/02/20)(左上・23/01/13、いずれも東京新聞より)のようですが、その内容もよくわからないままでの変更だといいたくなります。どこの誰が、どういう議論を重ねて、今あるような状況が生まれたのか、ことごとくと言っていいほどに、「国民の知る権利」は無視され、闇雲に物事が独断的に決められていく。まるで試合の途中で、ルールを替えられてしまった野球のようでもあり、見られたものではない。スリーアウトで攻守交代が、ファイブアウトに伸ばされたようなもの、ダラダラと「闘い」が続くばかりです。選手も観客も疲弊するしかないようです。本邦の「仮想敵国」であるという中国では「ゼロコロナ」政策が打破され、正反対の方向で感染症対策が、見たところでは、放棄され、そのために防波堤が切断されてしまった。その破壊された堤防から、世界の各地に「人口流入(インバウンド)」が始まっています。この感染症も、もう一度「再スタート」を切ったというのか。百年前の「スペイン風邪」を凌駕する被害状況を、ぼくたちはどのように見たらいいのでしょうか。
さらに深刻なのは、死者の圧倒的多数(約八割だとか)が高齢者だということ。持病を持つ人がほとんどだとするなら、その対策も細かく立てやすいにも関わらず、この状態を生み出しているのはなぜなのか。この感染症に限らず、この島社会では「年寄」「老人」「高齢者」などとたくさんの「呼び名」が付けられていますが、そのいずれにおいても決して「大事」「尊重」という観点では、疎かにされたままであり、それが、一層ひどくなっていると感じるのは小生が後期高齢者だからだという人があるなら、それは間違っていると言いたいね。僻(ひが)みでも何でもなく、この社会で「生命」は軽んじられているのです。中でも「年寄のいのち」が軽視されているといいたい。だから、それこそ、僻(ひが)んでいる証拠と言われるのでしょうが、年寄りに限らず、いのちが粗末にされている。政治のありようを見れば納得されるでしょ。有体(ありてい)に言うなら、いのちを殺戮する武器の方が、いのちを守る(心)よりも、遥かに遥かに過大評価されているのではないです。莫大な軍備への投資そのものが、この島社会の「いのちの粗末化」に拍車をかけていると思いませんか。
最下段にピートシガーの「花はどこへ行った?」を出しておきました。ぼくが十歳頃・、1955年だったかに作られ、大流行した反戦歌。たくさんのミュージシャンがカバーしながら、歌い継がれてきました。「花はどこへ行ったの?」「娘たちが摘んでしまった」「娘たちはどこへ行ったの?」「夫を探しに」「夫たちはどこへ行ったの?」「みんな兵隊になって」「兵隊たちはどこへ行ったの?」「みんな墓場に行った」「墓場はどこに行ったの?」「みんな花になってしまった」「花はどこへ行ったの?」「ああ いつになったら分かるだろう?」「ああ いつになったら分かるだろう?」「Where have all the flowers gone Long time passing? Where have all the flowers gone Long time ago?」
初めて聴いたとき、ぼくは何もわからなかった。でも聴いているうちに、涙が出てきた。いつもそうだった。六十年以上も「花はどこへ行った?」と尋ねてきたようなものだ。難しいことはわからなかったが、そして「ああ いつになったらわかるだろう?」と自問自答して生きてきた。今聴いても、目頭が熱くなる。シガーは八年前に亡くなった。「ピートはどこへ行ったの」 何十年、何百年、何千年経っても、ぼくたちは、「花はどこへ行ったの?」と尋ね続けるのだ。個人であれ、集団であれ、人類であれ、「ホモ・サピエンスが、少しでも賢くなる」というのはどういうことでしょうか。
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

徒然日乗・XCI 終日、降ったり止んだり。その割には温かい一日でした。今月の二十日が「大寒」だということですので、これからまた「寒さ」が募ってくるのです。当地では雪はほとんど降らない、まして積雪を見ることは年に一度あるかないか。しかし、降れば、坂道が多いので車の運転は要注意だ。日没になると、凍結すること請け合い。各坂道の方々に「融雪剤」が置かれている。ぼくのところでは、それを使ったことはないが、いずれ、必要になるかもしれないと予想はしている。積雪で倒木や電線の断線などで停電も想定される。これからが本格的な寒さが来ると、新型コロナはもちろん、インフルエンザにも油断なく過ごさねばと、改めて思う。それにしてもコロナ禍が終わりを見せないのが気がかりで、一日の死者数が連日記録を更新している。日に五百人もが亡くなるにもかかわらず、政府や行政の警戒感が薄れているのはどうしたことか。それにす唆(そそのか)されて、多くの人が感染をものともせず(という風を装って)に外出を謳歌しているよう。この小島国で、感染者数が世界一だというのに、誰も喜ばないのも奇妙だ。「一番病」に取り憑かれているのにさ。(2023/01/15・日)
徒然日乗・XC 明け方から小雨が降っていました。しかし、とても暖かい日になりそうで、室内は二十度近くあります。ヨーロッパの幾つかの国では、まるで夏日で、海水浴を楽しんでいる。一昔前なら、「暖冬異変」とか言ったのでしょうが、今日では、あれもこれも「地球温暖化」で済まされてしまう。その異変の怖さには、ぼくたちは極めて鈍感であるようです。冬が寒く、夏が暑いのは、この劣島では日常のことでした。季節感が豊かであるとか、四季の佇(たたず)まいがゆかしいとか、いろいろなことをそれに付け加えてきました。中でも「季語」です。どれくらいあるのか数えられないほどです。しかし、その秩序も次第に、あるいは急激に崩されているのも事実です。「小春日和」がいつのことだか、もはや理解も感受もできなくなりかけている。人々の感覚が狂いだしている以上に、季節の先駆けとなる自然界の生物が、異常な成長や発育を示しています。この先の予測・予感すらできないような、そのような事態が深く静かに進行しているのでしょう。(2023/01/14・土)

徒然日乗・LXXXIX 夕方、長野から電話があった。昨日も昼頃に呼び出し音が鳴ったが、受け損なって切れてしまった。あるいは彼女から、と想った。本日の電話で、そうだったことが判明。拙宅は「固定電話」だから、少し離れていると、間に合わないことがある。電話の声を聴いて、相当に「落ち込んでいる」のがわかった。「死にたい」という。昨年10月の退院以来、会社へは午前中のみの出勤で、ここに来て、「とてもつらい」と、音を上げていた。「酒もタバコも、やってるよね」と尋ねた、煙草は退院時以来だが、「酒は数日前から。退院後、初めて」といった。つまりは禁断症状が続いているということで、それに耐えかねて「ちょいといっぱい」という次第だった。何のことはない、昨年の十月以前に戻ったのである。この繰り返しで、まるで打ち寄せる波のように、大きくなったり、小康を保ったり。彼女の状況が厄介なのが、酒や煙草の依存症を断つための薬を飲み、さらに抗うつ剤を服用していること。大量の薬だという。もちろん睡眠導入剤も。恐らく、素人見ですが、もし薬それぞれに効能があるとしても、お互いに相殺しあっているのではないか。もっとも肝心な「死にたい」という落ち込みのよってくるところがなにかということ。幾つか考えられるが、それは医者や家族と彼女との関係の中から見いだせるものであろう。来週の火曜日に病院にいくと言うので、その際には、少し時間を使って、医者と話してくることと、念を押して、電話を切った。(2023/01/13・金)
徒然日乗・LXXXVIII 昨日の続きで、ワクチン接種のために残りの2猫を連れて行こうとしていたのに、朝、かみさんが猫を外に出してしまった。ために、九時からの診療に間に合わなくなった。午前中にはと目論んでいたが、それまでには戻ってこなかった。一つはケージに入れたのだが、もう一つは捕まえられませんでした。夕方は四時から診療開始でしたが、うまく時間が合わないままで、暗くなった。ぼくはよほどのことでもない限り、日が落ちてから。あるいは大雨の日は車に乗らないことにしていますので。残りの2猫は明日に連れていくことにしました。それにしても、医者代もまた、人間並み、高いですよ。はやく手術にまでたどり着きたいものです。(2023/01/12・木)

徒然日乗・LXXXVII ピートシガー(1914~2014)という、アメリカ発カントリーミュージックの草創期を画した人がいました。例によって、「ラジオ深夜便」の午前二時台のコーナーで、彼の手になる数々の作品がみずから、あるいは他の歌手によって唱われていた。ぼくは詳しくないけれど、若い頃から、それなりには聴いていた。歌の方面でも、アメリカ音楽の後塵を拝したことは確かで、まるで政治の歩き方とよく似ている。もちろん、音楽の方は、早くから、自前のフォークを手探りしていたようにも見えますのに、政治は時代とともに、さらに深くアメリカの「後塵を拝する」と言えば間違いだろうか、ともかく「あなたのリードで島田も揺れる」と芸者ワルツのように、「主」にいいように弄ばれてきた。「花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone?)」)」「天使のハンマー(If I Had a Hammer)」、さらには「We shall overcome」を戦闘的な歌に蘇らせたのも、彼の功績である。いずれも今なお唱われているし、それはまた「反戦歌」のバイブルともなったのです。彼は筋金入りの「反権力」だったと思う。まだ高校生のころ、佐賀在住の高田渡さんがシーガー宛に手紙を書き、その後に直接逢ったことはよく知られている。ぼくは高田渡さんも真面目には聴いてこなかったが、二人の出会いとその後を考えると、フォークソングというものの持つ力をもう一度見出したいという思いが募る。(2023/01/11・水)(Pete Seeger: Where Have All the Flowers Gone?:https://www.youtube.com/watch?v=1y2SIIeqy34&ab_channel=Spadecaller)
_______________________________