
満を持してあるポストに就く人間と、棚から牡丹餅式に、時宜を得て「座を占める」者と、大方はこの二通り。割合からすれば、(時宜を得て派」がかなり多いように思う。いわば幸運に恵まれるというわけ。それだけ、争いが熾烈だから「漁夫の利を占める」という結果になるのだろう。「トンビに油揚げ」かもしれぬ。ことは、一国の総理大臣、大会社の社長を問わない。なぜだか、人は「高位・高官」に憧れるが、そこに達するのはたった一人。運不運が作用する。大願成就の暁に、なにをするかが不明なのが圧倒的に多いのは、「地位に就く」ことが何よりの目的だったから。結果、次なる願いは「一日でも長く」そこにいたい、あるいは誰にも譲りたくないとなる。その際に多くは「地位に恋々とはしない」と嘯(うそぶ)く。その地位にあるのは、自分しか、自分だけのもの、という「専守防衛」に走り、時には「敵基地攻撃」を試みる。これが「政争」、あるいは「跡目争い」、日々、「常在戦場」の激しいな闘いが、本業を脇(蔑ろ)にして繰り広げられる。政治や社業の内容は取り巻きに任せ切り。要するに「雛壇の飾り」で大満足というわけ。ぼくはこんな類の「攻防」をあちこちで見る機会に出くわした。誰彼のことを言うのではない。「豚もおだてりゃ木に登る」という好機に与(あずか)ることも稀にはあるが、大抵は組織や集団の劣化や壊滅を早めるだけのことが多い。「失われた☓☓年」と後悔の臍を噛むのは、国民であり、社員、その他だ。(近年は「木に登らない豚ばかり」ではないか)(s.yamano)

「きみなあ、部下の話を聞いてるか。社員のことを気にしてるか。この社員は、どうも元気がない。どうしたのか。病気かどうか。なにか困っているのではないか。会社におらんときも今頃社員は、苦労しとるんやないだろうかとかな。まあ、大将はつねに部下のことや社員のことを考えんといかんな。そういう大将の姿に、部下もこの人のためならば、頑張ろう自分の命を捨てようと。実際には、捨ててもらっては困るけどね。大将が、いつも部下のことを考えておらんといかんな」(江口克彦「松下幸之助は、『ヒラメ管理職』を嫌っていた」「会社は、誰によって、持っている(維持されている)かというとね、社長や指導者の力は、まあ、3割ぐらいや。7割は部下の力によるところが大きい。わしの経験から、そう言えるな。社員が、会社の命運を握っていると言っても言い過ぎではない。社員には、大いに感謝している。社員は、宝やで、ほんまに」:東洋経済ONLINE・https://toyokeizai.net/articles/-/67749)
引用した文は江口克彦氏の記事にある。江口氏は松下幸之助の秘書を務め、後には松下電器社長にもなった人。引用文は、江口さんが四十代のはじめに、彼の眼前で、松下幸之助の語ったもので、記憶にとどめていたという。ぼくは小学生のころ、大阪門真市の松下電器工場に遠足に行ったことがあります。「経営の神様」の本拠などということはつゆ知らず、電化生活の未来を切り開いた電気会社の輝きを目に焼き付けたと思う。今政界の大勢を占める「松下政経塾」出身政治家にも興味はない。この政経塾に入った知り合いはいますし、政治家になったものもいる。でも、「松下精神」というものの真髄は知らない人間です。それでも、幼心に「立身出世」した大人物だったという思いは抱いていた。それはともかく、規模や構成からいって、会社と国を同等に扱うことはできないとして、しかし社業を盛んにするためのには、ある種の哲学が求められていることは、政治にあっても変わらないといえよう。松下式経営は、政治の要諦でもあると考える人が少なくないから、「政経塾」が反映してきたのではなかったか。あるいは、そうであるから「政経塾」が開設されたのでしょう。

それをみるにつけ、現下の政界や実業界を改めて見渡すと、なにが見えるか、なにが見えなくなっているか。言わなくてもいいでしょう。成果は独り占め、失敗は他人の仕業と、まるで自分が天下を取った気になる能天気が多いということです。それにしても、「天下」がとても小さくなったという気がしてなりません。今から八十年以上も前に、その当時も世界の一大国と見られていた国を相手に「無謀な戦争」を仕掛け、「先制攻撃(闇討ち)」には戦果を上げたもの、それ以後は敗走、敗走、また敗走。ついに「無条件降伏」を飲まされた。その大国と敗戦後は誼(よしみ)を通じて、今やその属国、五十何番目かの州に加えられたという風評が流れている。この島国の「総理大臣」という名称は詐称で、正確には「州知事」ですな。ぼくに言わせれば、州などでもなく、大国の極東営業所の「所長」、あるいは「所長代理」でしかない。(所長は本国にいて、現地の代理所長は時には参勤交代のごとくに、本社まで営業報告に出向くのが仕事)(右写真は毎日新聞・2023/01/14)

参勤交代からの帰路にある「所長代理」は、本社のCEOのお覚えめでたく、至極ご満悦の「破顔」のままに、脂下がりっぱなし。改めて、この「所長代理」は誰のために、どこを見て仕事をしているのかと問うてみようとしたが、何を行っても詮方なし。所員は捨て置かれ、所屋は荒れ放題。しかし、所長代理ばかりは「CEOと接触」した写真をばらまかんばかりに、あらぬ方向を見続けている。極東営業所の業績は膨大な赤字なのに、長年の「粉飾決算」で世間の目を誤魔化してきたが、それももう先がない。にも関わらず、本社は「不当な業績」を強いてきた。誰一人責任を感じて、本社に抗弁も批判もしないまま、代理所長は、自分一個の手柄のごとくに「赤字ころがし」で、営業所が潰されるために最大の努力をしているのだ。所長代理は、ひょっとして「本社のスパイ」だと思うね。さて、所員およびその家族の運命やいかに。救世主よきたれ、と叫んでみたら、また例の「カルト集団」が乗っ取りに来ていた。このカルト集団は、はるか昔に、本社ともつるんでいたことはわかっている。
● 豚もおだてりゃ木に登る= 能力の低い者でも、おだてられて気をよくすると、能力以上のことをやり遂げてしまうことがあるというたとえ。(デジタル大辞泉)(ここに「豚」を出しますが、その印象が良くないので、「木に登る」という表現もいかがわしく見えて来る。要諦は「褒めて育てる」と、いい結果を得ることがあるという、「能力発揮」という教育論の核心を言い当てているのです。幸之助氏もそう言っています。(駄文著者、註)
何枚もの舌を持つことが政治家の条件ではないでしょう。よく「二枚舌」などとと言われます。あるいは「食言」とも。平気で辻褄の合わない、矛盾したこと、つまりは「嘘」をつくことであり、その人を指して使う。閻魔さんがどこかに行ってしまったのか、このところ、平気の平左で「嘘を吐く」ことが大物政治家の不可欠の条件・要素になった感があるのは、一体どこに理由があるのでしょう。学校教育、家庭環境、確かにそれもあるかもしれぬが、もっとも大きいのは「選挙民」の甘やかし、いい加減さだと、自分も含めて思い当たるのです。
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