犯行は「的外れ」の「逆恨み」だったのか

<社説>安倍氏銃撃起訴 法廷外でも背景に迫れ 安倍晋三元首相を昨年七月、銃撃した山上徹也容疑者が起訴された。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に対する恨みが犯行の背景にあるとされる。被告が動機を肉声で語る裁判と並行して、教団と政治との不透明な関係については法廷外でも解明すべきだ。/ 現職衆院議員だった首相経験者が、参院選の応援演説中に手製の銃で撃たれ、死亡するという衝撃的な事件だった。/ 奈良地検は現行犯逮捕された山上被告を五カ月半、鑑定留置した後、殺人と銃刀法違反(発射、加重所持)の罪で起訴した。

 事件は裁判員裁判の対象で、争点は被告の刑事責任能力の有無と量刑判断を左右する動機に絞られそうだ。検察は心神喪失などの状態ではなかったと判断している。/ 動機については、被告が母親の入信で家庭や自らの人生を破綻させた教団に対する恨みを募らせ、教団トップを狙えないため、教団と深い関係のあった安倍氏を撃った、と伝えられている。/ ただ、これは伝聞にすぎない。裁判員らは予断を排し、法廷で被告の口から語られる動機と真意を聞き取ってほしい。/ 事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた。/ 近代刑法は個人の報復権を否定する、という前提がありながらも同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう。

 批判を受けて岸田文雄内閣は、教団の解散命令請求に向けて宗教法人法の質問権を行使し、不十分な内容ながらも被害者救済法を成立させた。宗教を背景にした児童虐待対策のために、自治体向けの対応指針も定めた。/ しかし、二〇一五年の教団の名称変更に当時の安倍政権が関与したのか否か、国政選挙で教団票を差配したと指摘される安倍氏の役割など、教団と自民党との親密な関係の核心部分には踏み込んでいない。その検証には今もなお、背を向けたままだ。/ 銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない。裁判では解明に限界がある。法廷に加え、国会でも事件の背景に迫らねばならない。(東京新聞TOKYO Web・2023/01/14)

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 この駄文集録では珍しいことです、「社説」を読んでみようという気になった。まだ新聞購読を続けていた頃(三十年ほども前か)から、「社説は盲腸」論などと失礼なことを言いふらしていました。あってもなくてもいいものの代表で、まるで「トイレの額縁」ではないか、と言う無礼千万を働いていた。でも、そんなでたらめは言うべきではないと、当時、直ちに反省したことも事実です。「社説」があるために、広報誌ではなく、これは「新聞」だとわかります。言ってみれば「看板」です。もちろん、看板倒れということは避けられないから、あえて言うなら「無用の用」、それが「社説」なのだとしておきます。「無用の用」はぼくの好きな言葉のベストテンに入ります。それはまるで「床の間」みたいなものではないですかね。「社説」に触れるのは、この駄文集では恐らく二回目だったか。どこかの看板コラム「正論」ではありませんが、何かと、無能・無知なぼくの脳細胞を刺激してくれたのです、お礼のために、感謝の意を込めて触れようという魂胆です。 

 昨日も触れましたが、もう一度考えてみたくなりました。容疑者の起訴に際して、幾つかの新聞報道の「論評」「社説」などを読み直しました。多くはほぼ同じような意見であり、解説でした。当然と言えば当然、突飛な論評が出る気遣いはないのです。極めて同情すべき背景や理由があったにせよ、断じて殺人は許されないという趣旨のものでした。それでいいのだろうか、「いかなる理由があれ」といって、動機や事情を考慮しないままで、「殺人は厳罰に」と主張しているようで、ぼくには「悍(おぞ)ましい」という感じしか持てませんでした。ここにおいて、一例として上げるのはふさわしいかどうか疑問が残りますが、同じ殺人行為でも、一市井人と総理大臣というような地位にある人間とでは、それを受け止める印象はまったく違うはずです。幼児の嘘と大臣の嘘が同じものとして論じていいと、ぼくは考えないのです。「法の下の平等」では割り切れないものがあるのでしょう。(蛇足を言うなら、このとき、殆どは「国家の犯罪」にも等しい「死刑」もは一切触れられていない。それは当たり前の国家の行為というのでしょうか。それなら、「いかなる理由があれ、人殺しは厳罰」と言うべきではなく、国家や国家から発する戦争における「殺人」は認めるというべきであるし、その根拠も示サなければ、不正確であり、不誠実だと、ぼくはいいたい)

 そういった視点で、東京新聞の「社説」には大いに刺激されました。まず、「事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた」 という部分に関しては、少しばかりの異論を。「理由は問わず、殺人は厳罰に」というのが「正論」であるとはぼくは思いません。単なる「報復論」、それも国家による「報復論」にすぎないと言えないでしょうか。このようにいって、ぼくは容疑者の蛮行を無条件で容認していないのは当然です。ぼくの立場は「罪を憎んで人を憎まず」ですから。どこかの記事に、「容疑者を死刑に問えるか」という内容が出ていました。「一人殺害」だから、死刑は無理だというのに対して、「状況判断次第で死刑はあり得る」という、これまた「無責任な憶説」だと想った。この「社説」が「容疑者への同情」を全的に否定しなかったのは、以下の理由によるでしょう。他の多くの「論評」には欠けている部分だといえます。

 この「社説」で特筆すべきだと、ぼくが判読したのは「近代刑法は個人の報復権を否定する、という前提がありながらも同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう」というくだりでした。このような「教団と政権党の癒着」は、半年過ぎても断罪されたり、猛省されたりしたとは思われません。とにかく、「銃撃事件」と、「カルト集団と自党の関係」を真っ先に切断し、容疑者の一方的な「思い込み」「逆恨み」のために生じた事件だと、検察も政権党も断定しているように思われるのです。罪を犯し、反社会的な暗躍を繰り返し、さらには民事・刑事の裁判でも有罪判決が出ている「カルト集団」に「宗教法人というお墨付き」を与え、さらに「名称変更」さえも認めた経緯も一切明らかにしてこなかった、その問題が放置されたままでいいはずがないでしょう。

 「銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない」という指摘こそ、多くの報道や記事には見られないもののようでした。もちろん、この点を裁判で裁くことは困難というよりは法廷には馴染まないものです。しかし、ことの順序として、この暴力的、反社会的な「カルト集団」の行為を見逃しただけではなく、自らの政権維持のために利用していたことは早くから分かっていたにも関わらず、いかなる解明にも乗り出さなかった、政治の不作為もまた、問われ、糺されるべきではないでしょうか。政治と似非宗教の癒着が明らかになった途端、如何にもそれは極めて淡白なもので、政策や行政にはまったく影響(関わり)がなかったという「背信行為」に走ってきました。この点は地方政治のレベルではさらに濃厚に関わりが深められていたのも事実です。多くの地方議員が選挙に際して、教団の「滅私応援」を受け入れていたことは明らかになっています。(教団は無性の応援をしていたという、ならば「ただより高いものはない」という社会常識に、ぼくたちは直面していたのですよ。

 事件の解明は法廷の場に移りました。そこに多くを求めるのは見当違いであることはわかります。しかし、一国の元総理が「特定の教団」と深いつながりがあったという事実は等閑に付されるべきものではないでしょう。政治と宗教の関係が、実に疎ましいつながりで結ばれていたことは、この島国の恥部であり、それを根底から質さなければならないのは言うまでもありません。それは、ひとえに政治の判断・実行によるところです。政治的に重要な課題や問題がことごとく独断専行で進められ、国会(国民)は放置されてきました。政治遂行のためには「民意」は余分なもの、できる限り権力者だけで、法網をかいくぐってでもなされるべきであるという風潮を根付かせてしまった、その責任は「選挙民」にも大いにあることを忘れるべきではないでしょう。現政権は、糸の切れたタコのようでもあり、それを腹の底から笑って(歓迎し)、タコの行方に目を奪われている隙きに、驚くような「強権・専断政治」が敢行されているのではないでしょうか。

 法廷は犯罪事実の有無、さらには量刑の軽重可否を問うところです。また国会は「言論の府」(だそうです)だとするなら、行政の妥当性や政策の是非を「探究」「探求」する場です。国権の最高機関というのは名ばかりで、何一つ「行政の独断」を阻止できないままで、この島国は落ちる所まで来てしまいました。立法・司法・行政という三権の権力行使に誤りなきを期するためにこそ、もう一つの言論の自由の源泉である「報道」が機能していたかどうか、いや、なぜ機能してこなかったのか、それこそが問われています。この島社会の現状に著しい退廃や堕落、挫折感が蔓延している、その理由や原因はどこにあるのか。それもまた、ぼくたちに問われているのではないでしょうか。ここでも「選挙」「投票」というものの正しい行使が、この社会の健全性を保つための命綱であるという、実に陳腐で迂遠なことしか言えないのです。「まず、隗より始めよ」という他ありません。

● かい【隗】 より 始(はじ)めよ= (中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕の昭王に賢者を用いる法を聞かれた時に、「今王誠欲士、先従隗始、隗且見事、況賢於隗者乎」と答えたという、「戦国策‐燕策」にみえる故事から) 「賢者を招きたいならば、まず自分のようなつまらない者をも優遇せよ、そうすればよりすぐれた人材が次々と集まってくるであろう」という意。転じて、遠大な計画も、まず手近なところから着手せよの意にいう。また、物事はまず言い出した者から、やり始めるべきだとの意でも用いられる。(精選版日本語大辞典)

● 無用の用(むようのよう)=『老子(ろうし)』や『荘子(そうじ)』にみえる中国の道家(どうか)思想の述語。役にたたない実用性のないようにみえるものに、実は真の有益な働きがある、ということ。車輪の実用が遂げられるのは中心の轂(こしき)によっており、人が大地に立つのは足で踏まない周囲の無用の土地があるからだ、といった比喩(ひゆ)で説かれる。逆にいえば、有用にみえるもの、知恵があり才能のあるものが、かえってその知能のために害を受けてその働きを遂げられなくなる、出すぎた釘(くぎ)は打たれるということになり、道家の無為(むい)の処世術とも通ずる。真実の価値は世俗の求める一時的、現象的な有効性にはなくて、俗人では気のつかない隠されたところにあることを警告して、現象にとらわれない真実世界への眼(め)を開かせることも重要である。さらに世俗的には、人や物の使い方に適材適所があること、無用と決めて棄(す)て去るような単純な態度をとるべきでないということにもなる。「聖人に棄物(きぶつ)なし」である。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)