【日報抄】シンデレラに対し、継母はどうしてあんなにきつく当たったのか、考えてみませんか。先日の本紙に掲載されたエッセーで、劇作家の鴻上尚史さんがこんなふうに呼びかけていた▼相手の立場、この場合は継母の身になって考えられる能力を「エンパシー」と呼ぶ。鴻上さんは、シンデレラに同情する心「シンパシー」と共に、人生を前向きに生きる上で必要なものだとする。とりわけエンパシーは、立場や考え方の違う人たちとやっていくために大切な知恵だと訴えた▼安倍晋三元首相銃撃事件の容疑者に、菓子や現金などの差し入れが相次いでいるという。インターネット上では刑の減軽を求める署名活動や英雄視する投稿まである。事件を契機に旧統一教会の問題が再び世間の注目を集めたことが背景にあるようだ▼問われている容疑は重大であり、宗教2世である容疑者への同情心ばかりが先走るのは危険だろう。一方、容疑者の立場でなぜあのような行動に出たのかを考えることは、宗教の名の下で引き起こされる悲劇を防ぐ上で重要なことだ▼鴻上さんは、人間関係は思いやりや優しさだけではなかなかうまくいかないとも書いていた。世界を見渡すと、隣国に攻め入ったりミサイルを撃ち続けたりという、私たちには理解しがたい動きがある。そんな中で生き抜くためにも、相手の胸の内を読んで対応することが求められるのだろう▼多様化し、複雑化する世を生きる上で、エンパシーは己の身を守るすべとなるのかもしれない。(新潟日報デジタルプラス・2023/01/13)

ここでシンデレラの「継母」や鴻上尚史氏の「お説」を出すのは、いかにも「コラム」らしいというべきでしょうか。しかし、本筋の問題とは十分に衝突していない、あるいは「的」を射損なっていると、生意気なことをいいたくなりました。「元総理銃撃事件」を事例に出したのは、この「エンパシー」とやらをもっと育てておけということのようです。でも狙撃犯と銃弾に斃れた元総理という構図において、だれがだれに対して「シンパシー」を持ち、だれがだれに対して「エンパシー」を持つ必要があると言っているのか、ぼくには判然とはしないのです。誤解を恐れずに言うなら、この「元総理銃撃事件」発生以来、さまざまな媒体に登場してきた、ほとんどの意見や批判の「枕詞」が共通しているように、ぼくには受け取れたのです。まるで「奥歯に物が挟まった」ような、歯痒い感覚が生まれたのでした。異口同音に「兇弾を放って、人命を奪うのは、いかなる場合でも許されないが」と行った後で、一呼吸も二呼吸も置くのです。「許されないが。しかし、権力の中枢がカルト集団とつながっていたとは」と驚いてみせる。さらに時間の経過とともに、「ここまでカルト集団とズブズブだったとは」という驚嘆の声が迸り出る。そうしているうちに、「二世信者の犯した殺人事件とカルト集団に加わっていた元総理」の2つの要素がものの見事に切断されているのでした。
● エンパシー【empathy】 の解説=感情移入。人の気持ちを思いやること。[補説]シンパシー(sympathy)は他人と感情を共有することをいい、エンパシーは、他人と自分を同一視することなく、他人の心情をくむことをさす。(デジタル大辞泉)
政権与党との深く長い癒着が表面化しようとした矢先に、関係の深い議員の実態調査と称して、通り一遍の「アンケート」を実施して、お茶を濁していたのが自民党でした。さらに現総理は「元総理に関しては、亡くなられていて調査ができないので、調べることはしません」と「巻引き宣言」をしていた。逆に言うと、詳細に調べれば、色々と不都合なことが出てくることが分かっていたので、早く関心を別の問題に移したいという「目論見」は透けて見えていた。銃撃事件から半年、なにが明らかになったか。何一つと言っていいほど、肝心要の問題が明かされては来なかった、闇に葬られてしまったのです。さらに、ぼくには実に奇妙に思われたのは「銃撃犯の鑑定留置」の期間の長さでした。ほぼ半歳近くつかって鑑定する必要があったのか、ぼくは不審を抱く。検察や警察の意図は何だったか、それを思うと、ここにも必要以上に「故人とカルト教団との癒着」を暴露されたくないという「忖度」が働いていたのではなかったか。たった一人の「宗教二世」の「筋違いの怨恨」による犯罪で、背景にはなにもなかったという筋書きが書かれようとしていたのでした。

コラムに戻ります。シンパシーは恐らく説明は要しないでしょう。いわば「同情心」ですね。それに対して、どれだけ憎い者に対しても、その立場に立つ必要がある。それが「エンパシー」だと。わざわざこんな言葉を使う必要はないでしょう。ぼくたちの社会には「罪を憎んで人を憎まず」という大変に示唆に富む「表現」があります。罪(悪いことをしようという気持ちでもある)は憎むべきだが、その人そのものを憎んではならないというのでしょう。罪を犯さざるを得なかった事情があったかもしれない、だから憎むべきはその状況であって、その人自身ではないのだといえば、どう受け取られるでしょうか。「情状酌量」とか「同情」ということが、裁判にも必ず出てきます。孔子の言では「罪を憎んで…」は、それは裁判官に求められる姿勢だった。このときに使うべきは、罪を犯した人間への「エンパシー」ではないでしょうか。もちろん、これが殺人事件のような場合、被害者に対する「シンパシー」は当然のこと、人間の情として、そこに生まれるのは言うまでもありません。「罪を憎んで…」は、あくまでも「裁判官」に求められる態度ではあるのです。
● 罪を憎んで人を憎まず= 罪は憎むべきだが、その罪を犯した人まで憎むべきではない、ということ。[使用例] この思想――すなわち罪を憎んで人を憎まざる底の大岡さばきが、後世捕物小説の基本概念になったかも知れない[野村胡堂*江戸の昔を偲ぶ|1955][由来] 「孔叢子―刑論」に出て来る、孔子のことばから。昔の裁判官は、「其の意を悪みて、其の人を悪まず(悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない)」という態度で裁判に臨み、どうしても避けられない場合だけ処刑していたのに対して、今の裁判官はその逆だ、と述べています。日本では、「意」が「罪」に変化した形で定着しています。(故事成語を知る辞典)

コラム氏の「シンパシー」「エンパシー」はどういう具合になっているのか、ぼくには理解できないんですね。シンデレラの、いじわるな継母の立場に立って(エンパシーを持って)、ものごとを判断しなさいというのかもしれない。どうして継子を虐めたのか、それには深いわけ(事情)があったに違いないとわかれば、その「陰湿ないじめ」も許せるだろうとでもいうのですか。ましてそのことを「元総理銃劇事件」に引き写して考えるとどうなるのか、コラム氏はどう判断しているのか、それが理解できないのです。
「問われている容疑は重大であり、宗教2世である容疑者への同情心ばかりが先走るのは危険だろう。一方、容疑者の立場でなぜあのような行動に出たのかを考えることは、宗教の名の下で引き起こされる悲劇を防ぐ上で重要なことだ」と展開されています。容疑者に対して「百万円を超える」寄付が集まっているし、刑の軽減を求める署名も集まっている、容疑者への、そんな同情心ばかりが先走るのは困りものである。どうしてこういう犯行に及んだのか、犯行の動機に対する「エンパシー」が働けば、「宗教上の悲劇の再発防止」に役立つだろうというのです。ここに「飛躍」がありそうですね。
繰り返して言いますが、これは「宗教問題」ではなく、「カルト集団」の呼び出した事件だったというべきではないでしょうか。さらに、このコラム氏に限らず、「元総理」がなぜ「銃撃の的」になったのか、ならなければいけなかったのか、それが不問に付されているのは、ぼくには不可解です。現総理でもなく、別の元総理でもなく、この「元総理」であった理由はあるはずです。それにどうして触れないのでしょうか。一人の銃撃犯に対して「シンパシー」を持つだけではよくない、同時に「どうしてこういう犯行に走ったか」という、「相手の立場に立つエンパシー」を持つことも、かかる悲劇を再び起こさないためには大事なのだ、とされる。それでなにが言いたいのですか、なにが言えたのですか。なにかいい足りない物がありそうです。それが「奥歯に挟まったもの」でしょう。理解力の足りないぼくのこと、的外れを言っているのかもしれない。

人を殺すことは断じて認めない。当たり前のことで、これに異論があるはずもないでしょう。殺人はいけないと人も我も思うし、殺人は法律でも処罰すると規定されている。でも「殺人」は起こる。その時、ぼくたちに生まれる感情は「罪を憎んで人を憎まず」という、孔子時代の裁判官の姿勢や態度(思想)ではないかと思うのです。つまりは、「情状酌量」です。今回の事案では、恐らく「情状酌量」は認められない可能性(蓋然性)が高いとぼくは判断しています。しかし、現段階ではなにも明らかにされていませんから、確定的なことは言えません。ぼくが考えるのは「単独犯で、思い込みから元総理を狙った」というものです。「思い込み」による犯行であって、被害者にはまったくの「濡れ衣」だったというのでしょう。自作の銃で「銃撃」するという行為は、まったくの「思い違い」であって、被害者には「一点の非」もない犯罪であったと。長期にわたる「鑑定留置」や「取り調べ」において、このような調書や鑑定結果が取られたに違いありません。
● 情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)= 裁判上の刑の減軽事由。酌量減軽ともいう。法定刑を減軽する事由として、法律上のものと裁判上のものとがある。法律上の減軽事由には、たとえば、従犯・心神耗弱など必要的なものと、過剰防衛・法律の不知など低意的なものとがあるが、いずれも、法律上明文で規定されているのに対して、裁判上の減軽事由につき、刑法第66条は、「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる」と一般的に規定している。/ 本条の趣旨は、法律上の減軽とは異なり、法定刑または処断刑の最下限でも、犯行時の客観的・主観的事情、さらには、犯行前や犯行後のあらゆる事情からみて、なお刑が重すぎる場合に、裁判官の裁量により犯罪の具体的情状に即して刑を言い渡しうることにある。(ニッポニカ)

事件発生直後から、「(統一教会の)現総裁を狙ったが、コロナ禍で来日しなかった」ので、「元総理を狙った」と容疑者が語ったと言われています。そうでしょうかという疑問は、さらにぼくの中で大きくなってきました。「一点の非もない元総理」「まったくの思い込による事件」というのです。ぼくはそれを疑っている。早い段階から深く結ばれていた「兇弾と元総理」の関係を、容疑者は知っていました。単なる思い込みで、銃撃するならば、「自作で銃を作る」ところとから始めるでしょうか。「奥歯に物が挟まった」ような物言いばかりが生み出されていたのはどうしてか。「カルト集団」が頼みの綱と、元総理に依拠していた証拠が次々に明らかになっています。昨日今日始まったことではなく、戦後一貫して、権力に食い込んできたのが当カルト集団であり、それを十二分に利用してきたのが「(地方中央を問わない)自民党)だったことも明らかです。その癒着関係に一糸も触れないで、一人の宗教二世がおこした「凶行」だったと、事件の幕引きをするなら、さらにもっとひどい状況がさらに蓄積されていくことになります。
「鴻上さんは、人間関係は思いやりや優しさだけではなかなかうまくいかないとも書いていた。世界を見渡すと、隣国に攻め入ったりミサイルを撃ち続けたりという、私たちには理解しがたい動きがある。そんな中で生き抜くためにも、相手の胸の内を読んで対応することが求められるのだろう▼多様化し、複雑化する世を生きる上で、エンパシーは己の身を守るすべとなるのかもしれない」この部分、ぼくには意味不明というか、なんとも支離滅裂というか。この指摘と、「元総理銃撃事件」とは、どこでどう結びつくのでしょうか。人間が生きている世界は、いつだって「多様化し、複雑化する」ものだし、難しい横文字を使わなくても、「罪を憎んで人を憎まず」という世人の知恵があるのではないですか。

いかなる理由があろうとも「殺人」は認めてはならない。だから「罪を憎んで人を憎まず」というのです。罪を犯した「人」をぼくたちは、どれだけ知ろうとしているか、知ろうとしてきたか。場違いの諺(ことわざ)かも知れませんが「捨てる神あれば、拾う神あり」とも言います。〈 When one door shuts, another opens. 〉「罪を憎んで人を憎まず」といっておいて、「罪は償う」ことでしか、軽くなることはないのです。軽くなることはないかも知れませんが、「償う」という行為は、犯罪者にとって不可欠の義務となります。何度でもいいます。どんな理由があっても「殺人」は許されないから、侵された殺人行為に対して、人間にできることは償うことしかないのです。「国家の犯す殺人= 死刑」は、だれが、どういう形で償うのでしょうか。あるいはここでは「償い」は免除されているのですか。これ(国家の犯罪)は特例なんですか。
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追記 「筆洗」の本日分が掲載されましたので、以下に引用しておきます。コラムとして、「日報抄」とは趣が異なるのでしょうか。あるいは大同小異なのでしょうか。ぼく個人の卑見に過ぎませんが、もっと、この問題を深く掘り下げる必要がありそうに思われてきます。「人を殺(あや)めた者への過剰な肩入れはやはり間違いと思える」「時代は変われど過熱の危うさが変わらぬことは、心に留めたい」と書かれている。その通りですけれども、視点が一方向からだけではありませんか。誤解されそうですが、「肩入れ」も一つの立場であるなら、「カルト集団」やそれに肩入れした側(元総理)の問題にも注意を注ぐと、どんな「コラム」になるのか、それをぜひ書いてほしいし、読みたいですね。

【筆洗】犬養毅首相が凶弾に斃(たお)れた一九三二年の五・一五事件は新聞も世論も下手人の海軍青年将校らに同情し、減刑嘆願運動が広がった。事件後の記事差し止めが解除され、裁判が始まると報道は過熱した▼政党や財閥の腐敗を憎む被告たちの言い分が伝えられた。法廷の様子をつづる記事の見出しは「級友からの贈物純白の制服姿 ズラリと並んだ十被告」。服の白さで動機の純粋さを強調する記事である▼弁護側が赤穂浪士の「義挙」を例に、被告の思いを訴えた記事の見出しは「傾聴の裁判長も双頬(そうきょう)に溢(あふ)れる涙 山田弁護士、火の如(ごと)き熱弁」。減刑を願い切断した指も寄せられた。判決の量刑は重くなく、世は政党が没し軍が台頭する。歴史家筒井清忠氏の著書に詳しい▼安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件で山上徹也容疑者がきょう、殺人罪で起訴される▼事件で旧統一教会と政治家のつながりが注目された。インターネットでは減刑を求める署名活動が行われ、英雄視する投稿もある。容疑者のもとには現金やファンレターも。宗教の問題は考え続けねばなるまいが、人を殺(あや)めた者への過剰な肩入れはやはり間違いと思える▼安直な勧善懲悪劇として五・一五事件が伝えられた当時は、新聞の部数伸長期だった。その勢いは今世紀のネット空間並みだったろうか。時代は変われど過熱の危うさが変わらぬことは、心に留めたい。(東京新聞・2023/01/13)
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