密かな囁き、小さな怒り(の如きもの)

 昨日は朝から動物病院通いでした。昨年8月に、家の隣の林で生まれた猫たち(八つ児)が五ヶ月を過ぎたので、まずはワクチン接種。その後に猫エイズ(HIV)や白血病の検査を経て、最後に「避妊・去勢」手術という段取り。その発端の手続き(ワクチン接種)を、昨日開始しました。午前中に猫(四つ)、午後に猫(2つ)(残りの2つは、本日の予定)。この界隈は雑木林や竹林ばかりで、ノラたちも結構いるようです。できれば、その「野生猫」も「保護(あまり好ましい用語とは思えない)」したいけれど、いまのところ、そこまで手が回らない。家にいるものだけで、もう手一杯です。なにか社会的に役に立つ活動をしているというつもりはない。家にきてしまった猫たちだし、誰も面倒を見ないなら、やれる範囲で引き受けよう、それだけです。

 「猫が好きですか」とよく訊かれる。でも答えはいつも同じ。好きでやっているのでない。もちろん、見るのも嫌だというわけでもないから、結局は「誰もやらないなら、やれる人間が世話をする」それだけの心積もりです。これが近所の人の目にも奇妙に映るのですかね、「よくやりますね」といわれている。きっと、ぼくはたくさんの罪を犯してきたから、勝手な言い分で「罪滅ぼし」というところなのかもしれない。その意識(自覚)はないが。

 昨日の病院、家から車で十分程の距離にある、その医者に「これらを、みんな飼うのですか」と尋ねられた。仕方がないというのでもなく、好き好んでというのでもなく、誰かが面倒を見なければ、と言ったら、半ば呆れたような表情で、「大変ですね」だって。この病院には数年前からずいぶんと世話になっている。その他に、二箇所の動物病院を利用中。

 この地に来て、初めての「野良くん」の診察を断られた病院もあった。野良の親が産んだ児で、生後2、3週間くらいで、ずいぶん衰弱していた。立てなくなってもいた。近くの病院を探して連れて行ったら、ひと目見ただけで、「これは駄目です、これ以上、持ちません」と言われた。「お前に言われなくとも、こっちでもわかるさ。でも、万が一…」と思って、「連れてきたのだ」といいたかったが、止めておいた。念のために、幾つかの猫の「(避妊・去勢)手術をお願いできるか」と訊いたら、即座に、「半年先まで予約がいっぱいで、とても引き受けられない」、そのように即座に断られた。この人は「嘘をついているな」、とぼくは直感した。待合所には、たくさんの愛犬家や愛猫家がいたし、連れの「ペット」たちは驚くばかりに「偉そう」、「高価そう」な「品物」に見えたし、駐車場には外車が並んでいた。ぼくは「ダンボール」に入れていたから、実に白い目で見られた。「あんたたち(死にかけの猫とぼく)の来るところじゃないよ」と、除け者扱いにされる雰囲気があった。嫌なところに来たなと後悔した。

 「この猫、もうだめだよ」と一言、触りもしなかったのに、初診料と診察代金と称して三千円ほど収奪された。やりきれない思いで帰宅、二時間ほど後でその子猫は亡くなった。二年前のことでした。今は裏庭で、他の仲間といっしょに「眠っている」。(この病院のHPには「飼い主さんとのコミュニケーションを大切にし、心を込めた一生懸命の獣医療を提供します」と謳ってある、いまも。死にかけの野良猫を連れてくる「飼い主」とはコミュニケーションは取らないし、心を込めた「獣医療は提供しない」と言われたんですな)(それでも、ぼくは営業妨害はしない・していないつもりの人間です)

 存(ながら)えぬ想いを残し猫の塚(無骨)

 人間の新生児(だけではない)が粗末にされ、捨てられる時代(世の中)です。熊本県の慈恵会病院の「赤ちゃんポスト」に関して、その経緯を調べたことがあるし、早くからその病院に関係していて、ぼくの担当クラス(ゼミ)で、「赤ちゃんポスト」問題に関する「卒業論文」を書いた学生(熊本出身)もいました。何十年も前、平安や鎌倉・室町時代の「子どものいのち」を、幾つかの文献などに当たりながら調べて、小さな本に載せたことがあります。子どものいのちは、何時だって「危機にさらされて(子殺し、子拐い、子売買など)」いたのでした。いまだって、いのち(生命・命)がとても大事にされる半面で、いとも簡単に葬られるという状況を考えれば、猫といえども、その生命(尊厳)を粗末にしないという気持ちで、ぼくは「面倒を見られる人、世話ができる人が、なんとかする」、そのような、ささやかな心がけのようなものが必要なのだと思うばかりです。大事(おおごと)ではなく、大したことなどでもない、ささやかな、わずかばかりの心遣い。それが欠けているのは、今の時代だけではないようにも思えます。田舎で暮らした少年時代を想ってみると、その当時の方が、もっと「生命の繋がり」があったようにも、感じられてくる。その反面で「野犬狩り」「犬捕り」などという仕事もあった。(中学時代の担任教師は「犬捕り」という渾名(あだな)がついていた。大変な暴力(体育)教師だった)

 犬や猫をペットにするのではなく、生命のつながりを実感するというのか、その「感受性」が、もし失われてきたとするなら、この先、なにかにつけ、明るい展望はないように悲観してしまう。街に出る街道筋に「柴犬専用ショップ」がある。「赤柴入荷」とか、「小柴、八十万円」、「大安売り」などという幟(のぼり)やチラシが堕してある。いずれ、このような動物売買店はなくなるだろうし、その一日も早い到来を願っている。高い金を払って買ったのに、飽きたからなどと、飼い主の都合で捨てられる犬や猫(だけではない)がたくさんいる。近所の女性と相談して、住んでいる地域を、「保護動物」の安住の場にしようと、行政に働きかけることを考えている。何ができるか、期待はしていないし、それだから「頭にくる」ということもない。やる気があり、やる必要があれば、とっくにやられている事柄(仕事)だから。

 ペットとしてではなく、愛玩物扱いでもなく、生命の尊厳(大袈裟ではなく)を感受しながら、ささやかな暮らしを、猫たちと送りたいと、ぼくは念じている。人間の弱さや愚かさを知るため、忘れないためにも、ぼくは猫といっしょに暮らそうとしているのだ。「生き物係」って、どんなことをする係なんですか。かけがえのない友人、それは猫や犬なのかもしれない。他の人には他の生き物が「無二の友人」となっているでしょう。生き物は、仲間だというと、変に誤解されそうですが、かけがえのない友たちですよ。

 「児童虐待防止法」「高齢者虐待防止法」動物愛護管理法」などという名称の法令が定められている社会は、どのような社会なんでしょうか。かかる法律が有名無実になるように、犯罪が起こり得ないような社会なのか、それとも、法令があっても、なきが如しという「犯罪社会」の実相を活写しているというのでしょうか。ぼくがいつも歩くコースにはリゾートホテルや、今流行りのグランピング場があり、森や林に恵まれている、そんなところに、左のような「ポスター」が至るところに貼られています。リゾート探訪後に「御用済みペット」を放棄しに来る輩がいるようです。「日帰り旅の恥もかきすて」社会んですかねえ。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)